うちのマスターがただ駄弁ってるだけ

「お前なー」

白鳥家の一室、宛がわれた客室に据え付けられた応接セット。そのソファに腰を下ろし、疲れたような表情でヒスイが口を開く。
この部屋に来るまでにも、コウはソウを制しながらも自身の好奇心に抗う事が出来ず、何度も足を止めては目の前の物に関して問いかけていたのだ。それは廊下に飾られた絵画だったり、窓から見えた木々の種類だったり、通りかかった従者が持ち歩いていた掃除道具に対してだったり。
律儀にも答えていたのは白鳥だったが、その度に足止めを喰らっていたのはヒスイとカナリアの二人で、この部屋にようやくたどり着いたのはつい先程。堪え性ではないと聞かずとも分かる彼は、少々ご立腹のようだった。
ソウははしゃぎ過ぎて疲れたのか、コウの足に頭を載せて、すよすよ寝入ってしまっている。

不満げに口にされた言葉に、コウも申し訳ないと思い眉尻を下げ、答えた。

「ごめん。見るのが初めてなものばかりだったから、つい気になってしまって」
「元が俺って言うんなら、もーちょい知ってるだろうがよ? 流石の俺でも、桜の木とか掃除道具くらいなら分かるぞ」
「……最初にも言ったけど、目が覚めた時に、俺には記憶という記憶がなかった。目が覚めたら夜の世界で、見渡しても何処なのか……そもそも、自分が誰なのかすら覚えていなかったから。俺の中に、『アンタ』の記憶は全くと言って良い程残っていないよ」
「だから、ヒスイが知っているような現実世界の些細な事も、貴方には分からないって事ね。まぁ、ヒスイの記憶があったとしても、五十年は前の事だろうから、どちらにせよ差異はあったでしょうけど」

廊下の絵画について相槌を打ちながらも補足説明をしていたカナリアが、ふむ、と口元に手を添えながら応じる。

「悪かったな、一昔前の人間で」
「そこまでは言っていないじゃない」
「つまり、お前の現実世界の知識は赤ん坊レベルと」
「コウがその程度なら、貴方は学童レベルでしょう。ここ五十年で、現実世界も大分発展しているわよ」
「はは、否定出来ないや……」

容赦のない二人の評価に、ただただ乾いた笑みしか浮かべられないコウ。
余計な流れ弾がヒスイにも飛んでいるが、そこはあまり気にしないのか。

「でもまぁ……完全に同一人物じゃなくて良かったんじゃないかしら? 記憶まで一緒だったら、逆に気持ちが悪いわ。それはただのクローンになってしまうもの」
「「クローン?」」

これはコウとヒスイの二人。カナリアが首を捻り、続ける。

「人間をコピー……ああ、横文字も駄目だったわね。そうね、自分と完全に同じ存在がいる状況を、想像してごらんなさい?」
「……うわ、気持ち悪い」
「俺にはどの程度気持ちが悪いのか、さっぱりなんだけど……」
「……オーブに聞くべき事が増えたわね」

眉間に皺を寄せ呟くカナリアが、何を聞くべきだと判断したのかは、コウには見当もつかない。が、自分の事ではあるだろう。二人にとって、自分がどんなに異質に思われているか、それくらいは何となく分かるから。
――せめてこの世界に誘われたのが、自分以外のこの二人だけだったなら、ここまで話が拗れる事はなかっただろうに。
それはそれで、別の意味で混乱が起きる可能性がある事に気が付かないまま、コウは一つ息を吐いた。

「とにかく、この世界に顕現してしまった以上私も腹を括るわ。いつまでこの事態が続くのか、その終わりに私がどうなるのか――予想が付かない訳ではないけど、多分何かしら意味があって誘われたと思うから」
「そうだね……。俺も、あの時失われたはずだった『俺』がここにいる意味は分からないけど」

自身の膝で眠るソウの髪をひと撫でし、彼女の胸元で輝く、石がはめ込まれた飾りを一瞥する。

「じゃ、とりあえず仲良くしようや。これから長い付き合いになるかもしれんしな」
「そうね。ひとまず、よろしく」
「……うん。よろしくね」

白鳥家に残ったマスターの夜は、こうして更けていった。