不可解だ。
何が不可解かと言うと、今自分のこの両目に映している世界が、だ。
青い空や白い雲が何処にも存在せず、ただただ下手くそに塗りたくっただけの絵画のような闇が広がっている。しかも、もう随分長い時間。
常夜の国、なんてものが日本にも他の国にもあるなんて話は聞いた事があるような気がしなくもないが、少なくとも星辰学園の廊下を歩いていて迷い込むような場所ではない。
そして、何処までも広がる大地。
荒野と表現するべきか、草の一本も生えておらず生き物が生息している気配すらない。例えるならエジプトや中国辺りの砂漠かもしれないが、それも違う。
ゴツゴツした岩に寄りかかるように地面に突き刺された、大量の刃物――いや、これは剣と呼ぶべきか。
ゲームに出てくるような煌びやかな装飾がなされた剣は、だがその姿を醜く変えてしまっている。元の姿が想像しにくい位には朽ち果て、最早武器としての機能を持たないだろう。
さて、一体ここは何処なのか。
額に右手を当てながら、俺は頭を悩ませた。
日本でないなら、ここはもう俺の理解の範囲外――つまり異世界、という事になる。
ゲーム好きの腐れ縁が「異世界はあるんだ!」とのたまった時にはんな訳あるか、と一蹴したものだが、いざこうなるともう信じるしか選択肢はない。というかまさか、あいつもいたりしないだろうな。九十八パーセントの確率でいそうな予感はしている。
「ハァ……とりあえず、誰かに遭遇しない事には話が進まないな」
俺はそう結論付け、この荒廃した大地に足を踏み出す。
辺りを見回しながら、幾つもある剣の成れの果てに目を向ける。数えるのは三十過ぎた頃にはもう諦めた。
刀身は風雨に晒されたせいで朽ちていると思っていたが、良く見てみると僅かに黒いものがこびりついている。刀身に黒いもの、と連想しかけ、やめた。
ますます理解出来ない己の状況に苛立ちが募り始め、いっその事誰かいないのか叫んでやろうかと思い始めたその時。
空だと思っていた黒が、陽炎のように揺らめいた。
「何だ……?」
目を凝らして見ようとすれば、それは益々揺らめきを激しくさせ、やがて何かに形を変える。
その何かもまた、俺の持ち得る知識とは全く当てはまらない異形の存在。この世のものなのかと思える程に醜く、畏怖を覚える怪物だった。
「――っ……!?」
怪物は紫色の輝きを秘めた頭部から無機質な足を生やし、宙に光輪を抱いている。蜘蛛のような形だが、少なくとも俺の知っている蜘蛛はこんな馬鹿デカくない。
背筋に冷や汗が流れる。
頭の中で警鐘が喧しくなっているが、それにさえも従えない程に俺は恐怖を感じていた。
『キュイイイイイイイイイィィィィ!!!』
怪物は機械のような音を放ち、俺に向かってくる。巨体が動く度に地面が揺れ、焦りが全身を支配する。
――逃げられない。
あの巨体のスピードに対し、自分の歩幅など足元にも及ばない。逃げるという選択肢は、ない。
とうとう眼前に迫った怪物に、俺は咄嗟に傍にあった朽ちた剣を手に取った。真剣を使った事もなく、また剣道の経験も少ないが、やれない事はないだろう。
「あっさりやられてたまるかよ……!!」
身体から吹き出る冷や汗は止まらない。だが、やるしかない。
怪物の腕が俺を捉え、剣と衝突しようとした――。
「伏せて!!」
「!?」
突如として耳に届いた指示。
それに俺は一瞬戸惑い、ぱっと腰を下ろす。
直後に銃声が轟き、俺を屠ろうとしていた怪物が後方に吹っ飛んだ。
何が起きたのかさっぱり理解出来ない俺に、三つの足音が近寄ってくる。
「蒼井? 蒼井じゃないか!?」
「し、紫上先生!?」
驚くべき事にそのひとつは自分が良く知っている人物で、俺は目を丸くする。
「なになに、センセーのお友達?」
脇からひょいっと現れた男が、俺と紫上先生を見比べながら問う。先生の友人にはいそうにないタイプの、やけにノリの良さそうな金髪の男だ。
先ず、身に纏う衣服からしておかしい。この異世界の住人だと言われれば、多分頷いてしまうだろう。
「生徒だ。学園のな」
「へぇー、ホントにいろんな奴が迷い込んじゃってんのな」
「……あの、話が見えません」
先生と金髪の男が話しているのを遮るのは躊躇われたが、そろそろ状況についていけなくて頭がオーバーヒートしそうだ。
すると、二人ではないもう一人が口を開く。
「うん、話してあげたいのは山々なんだけど、先ずはあちらさんどうにか相手してあげないとね」
彼は怪物を指差し、にこりと笑う。先程の指示の声は、この人物だったらしい。
確かに、怪物は吹っ飛ばされてから態勢を整えそこにいるのだが――コイツをどうするんだ?
「日明、頼める? 先生は出来る範囲でサポートしてくれれば大丈夫です」
「あいよっとぉ。このAKIRA様に任せろ~」
「大丈夫だ。蒼井、詳しい話は後で」
「あ、は、はい……」
先生達は俺に退がっているよう言い残すと、何とあの怪物に向かって行ったではないか。
思わず何してるんですか!と叫びながら手を伸ばしかけるが、左肩に手を置かれてそれを制される。
振り向くと、こんな非常事態にも関わらず笑みを浮かべている男の姿があった。
「大丈夫だから、じっとしててね」
有無を言わせない、妙な威圧。
それを感じた俺は、疑問こそあれどただ頷いて引き下がる事しか出来なかった。
気が付けばもう戦闘は始まっていて、金髪の男が構える銃が火を吹く。
無差別に撃っているように見えるが、その弾は怪物の動きを読み先回りするように放たれている。
狩りで獲物を追い込むように、怪物は金髪の男の誘導に惑わされ、俺達のいる絶壁の袋小路に追いやられた。
「マスターさーん、行ったぜー」
「オーライ!」
今度は何をしでかすのだろうか、と俺は彼の行動を注視した。金髪の男の声に彼は片手を挙げ応え、「やりますかー」と言いながら上着の袖を捲り上げる。
そして――
「は!?」
飛び降りた。断崖絶壁から。
慌てて崖下を覗き込むと、彼は怪物の頭であろう紫色の石の上に着地しており、その体勢のまま動かない。
怪物が、自身の上にいる彼の存在に気が付き啼き叫びながら身体を揺らす。あのままでは、振り落とされてしまうだろう。
「大人しくしてろよ。直ぐに終わるからさ」
言うと、彼の翳した両手に光が帯びる。もう既に考える事を放棄した俺は、ただただその光と彼を見続けた。
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「……で」
数分後、怪物を討伐した彼らが戻って来ると同時に事情説明を要求した俺は、心の底から溜息を吐いた。どう聞いても、俺には理解出来そうにないからだ。
「ここは俺達の住む世界とは別の世界で、先生達は元の世界に帰る為にこの人の『浄化』作業を手伝っている。そういう事ですか」
簡潔に纏めた内容の確認を求めると、彼――マスターは一つ頷いて続けた。
「突拍子過ぎて信じられないよね。でも、これは事実で現実だ。俺がこの世界を浄化しないとアンタ達は帰れないし、下手をすればアンタ達の世界をも危険に晒してしまう」
「……先生や貴方も、それを信じて手伝っていると?」
二人に視線を向ける。
金髪の男――山吹日明と名乗った彼は、何と俺達の住む街の繁華街で経営しているホストクラブのホストだと言う。この世界の住人でなかった事に、何故か胸をなで下ろす。
「流石にこの状況では、信じざるを得まい。自分の目を信じられないと思ったよ」
「俺も俺も。ま、帰れる手掛かりがそれしかないんなら、手伝った方が役得っしょ?」
彼とはまた違ったヘラヘラ笑いを浮かべ、山吹さんは先生の肩に腕を載せた。馴れ馴れしいと言うか、この人からはあいつのような阿呆らしさが感じられる。
いい加減に聞こえる回答に頭を抱え、発言したいと右手を挙げる。
「……最後に一つだけ。貴方は、この世界を浄化して世界を救おうと思っているんですか?」
とてつもなく変な質問だとは思う。だが、これだけは聞きたかった。
自身に利益が得られないと言うのに、こんな命懸けの事をやるのは――正直酔狂だとしか思えない。俺は、その理由を知りたかった。
彼は、そこで初めて眉尻を下げ自嘲気味に笑みを零す。そんな表情をするのかと、内心驚いた。
「俺は、……ただ、これしか知らないだけだよ」
それだけを言うと、彼は黙り込んだ。まるで、それ以上聞いてくれるなと言われているようだ。
はぁ、と再び溜息を吐く。本当に分からない事ばかりだな、と呟き顔を上げた。
「分かりました。……同行はしますけど、手伝うと約束した訳じゃないですからね!」
助けて貰った借りもある。この見知らぬ世界で一人動くよりも、彼らとともに行った方が安全ではあるし、この世界の事を調べやすいだろう。
何より――彼の事を、彼がやり遂げようとしていることを見届けたい。
俺は、こうしてマスターを守るセイバーになる事を決めた。