【稲妻】君思ふ恋唄2

フィディオと別れてからも、ボクはずっと悩んでいた。

知りたいと思いつつも、果たしてそれは聞くべき事なのか、と。そして、それを知った後も尚ボクは彼と仲良く出来るのかと。

宿舎に帰ってきてから、ジャージのままベッドに寝転がり天井を見上げる。白……いや、ベージュがかった天井が、視界いっぱいに広がった。

『相変わらずだな、兄貴は』

「……だって」

『だってじゃねーよ。大人しく聞けばいーだろ、どういう事か』

誰もいないはずの部屋で、自分以外の声が響く。だが士郎は当然のように、首だけ横を向き言い返した。

彼には見えていた。ベッドサイドに腰掛ける、白いマフラーを首に巻いた自分にそっくりな人物――アツヤの姿が。

「……アツヤは聞けるの? あんなに、辛そうな顔してたフィディオに」

『聞けるも何も、聞かなきゃ進まねーからな。聞くさ』

「アツヤは強いね」

『兄貴が弱いだけだ』

「……そうだね」

士郎は、アツヤが座っているのとは逆の方に寝返りを打つ。物事に対して、興味より何より不安が先に出るボクは、アツヤの無鉄砲さが羨ましかった。

『別に、オレはフィディオの奴がどういう秘密を持っていようと関係ないしな。フィディオはフィディオだろ』

「うん……」

『聞かないってのも優しさだけど、知らないうちにそれが傷付ける事になるかもしれねぇ。そうなってからじゃ、遅いぜ』

「……うん」

似たような返事しか返さないボクに呆れたのだろう、アツヤが息を洩らす音が聞こえた。

自分だって分かっている。フィディオが、何かを隠しているのは。

でも、彼がそういった話をしてくれないのは、多分――いや確実に、自分には聞かれたくない事だからだと思う。ボクが聞くのを躊躇うのは、それが理由だ。

『何かあってからじゃ遅いぜ、兄貴』

繰り返されたアツヤの台詞が、妙に頭の中に残った。



それから何回もフィディオとは会ったが、結局何も聞けないまま数日が過ぎた。

彼はいつも通り笑顔で接してくれ、下手したらボクはあの時の辛そうな表情を忘れていたかもしれない。それほどまでに、普通の日々が続いていた。

けれど、突然その『普通』は砕かれる事になる。



フットボールフロンティアインターナショナルの閉会式が行われ、ボクはフィディオに挨拶をしようとオルフェウスが集まっている場所に向かった。

携帯のメールアドレスも電話番号も知ってる。でもちゃんと会えるのは次何時になるか分からないから、と。

「――あ、ジャンルカ君!」

「! 吹雪君」

見慣れたフィディオのチームメイトを発見し、声をかける。ジャンルカ君の隣にはマルコ君もいて、二人して大荷物を抱えていた。

「帰るんだね」

「あぁ。今度は世界一になれるよう、またイタリアで特訓だよ」

「次に会った時は手加減しないぜ? 何時か試合しような」

「うん、是非! 所で、フィディオは何処にいるかな?」

何気なく質問したそれに、今まで笑顔を浮かべていた二人は顔を見合わせる。そして、聞いてないの?と言いたげに眉を潜めてきた。

いよいよ焦れったくなったボクは、首を傾げ尋ねる。

「どうかしたの?」

「フィディオなら、一足先にイタリアに帰ったよ。てっきり君は知ってるものだと……」

「オレもそう思ってた」

「え……?」

イタリアに……帰った?

そんな事、一言も聞いていない。

確かにフットボールフロンティアインターナショナルが終われば、参加していたチームが帰国するのは当然だが、帰るタイミングはまちまちだ。

という事は、フィディオにはしばらく会えない。あの笑顔をもう一度見る機会も、次にお預けになってしまった。

「フィディオ、何か言ってた?」

「いや、何も……」

「そっか」

何も言わずに去って行ったフィディオ。少なからずボクは好意でさえ抱いていたと言うのに、彼はそうでもなかったのだろうか?

落ち込んでいるボクに気が付いた二人は、口々に落ち込まないで、フィディオに言っとくからさ、と慰めの言葉をかけてくれた。申し訳なくなってしまったので、目元に浮かびかけた水分を袖で拭い笑顔を作る。

「大丈夫、ありがとう。ジャンルカ君とマルコ君も元気でね」

その一言を口にするので、精一杯だった。

■   ■    ■

それから時は目まぐるしい速さで通り過ぎて行き、ボクは何時の間にか二十四歳になっていた。

もちろんその間にフィディオにメールを送ったりもしたんだけど、どれも返事が返ってきた試しがなく――仕舞いにはそれさえも届かなくなった。

携帯にかけても、何時も留守電。避けられているのだろうか、と何度も不安になったりもした。

もう一つ、不安に思う事がある。

フィディオの姿を、フットボールフロンティアインターナショナル以降のサッカー業界で目にする事が全くなかった。当然のように彼もプロを目指すと思っていたボクは、正直落胆したものだ。

表世界からも消え、連絡も途絶えた愛しい人。

ボクは、彼の存在が自分の中から消えていくのが一番不安だった。

そんな折、ボクの所属するプロチームがイタリアで試合をする事になった。

期間もそれなりに長く、自由時間ももちろんある。前にも一度来た事があったが、あの時は新入りというのもあって、まだそんなに動けなかったのだ。ボクはこれが最初で最後のチャンスだと思い、フィディオを捜す決心をした。

イタリア入りするなり聞いていた住所を訪れたけど、そこはもう空き家になっていた。十年の間に引っ越してしまったのだろうか――一番確実な情報は、空振りに終わる。これは思ったよりもダメージが大きく、途方に暮れてしまう。

「何処にいるんだろ、フィディオ……」

『諦めんなよ、まだイタリアにいるかもしんねーだろ』

アツヤは今でもボクの中にいる。あの時のように喧嘩をする事も、人格のバランスを崩す事もなかった。

でも、車道に沿って作られたガードレールの上を器用に歩くアツヤの少し低い背を見ると、寂しくなる。彼はもう、ボクの中でしか生きていられないんだよね、と。

不意にアツヤがこちらを向いて、見ていたボクの視線とぶつかると『何だよ?』と聞いてきた。何でもないと返し、話を戻す。

「でも、家も分からなくなっちゃったし。これでどうやって捜したら……」

途方に暮れつつ歩みを進めていたボクは、ふと足を止めた。それに合わせてアツヤも止まり、怪訝そうに視線を向けてくる。

一匹の猫だった。

茶色一色の毛皮を纏った猫は路地裏から現れ、にゃあ、と鳴く。野良なのだろう、毛並みはボサボサで不格好だ。

立ち止まっているボクの足元にそれは近寄って来て、擦り寄ったかと思うと、履いているズボンの裾をグイグイ引っ張ってくる。

まるで、ボクを何処かに連れて行きたいと言っているかのように。

「……ついて行けば良いの?」

話し掛けてみると、それに応じたのかはたまた偶然か再び鳴く猫。

「アツヤ」

『……ま、行ってみるだけ良いんじゃねーの?』

「ごめんね、ありがと」

今日はもう練習もないし、予定もない。なら、この猫について行っても大丈夫だろう。

頭の後ろで手を組みつつ返す彼に礼を告げ、ボクは立ち上がる。付いていくと分かったのか、猫はボクから離れ路地裏へと歩き出した。

明るい大通りとは真逆の、とても静かな路地裏。建物に日は遮られ、足元は暗い。そんな道を、案内役の猫は迷う事なく歩いている。

「まるで別世界だね……」

『だな。コケるなよ? 兄貴』

「わ、分かってる、よっ」

たまに転がっている石やゴミを避けつつ、猫の後を追う。身軽な猫は少し歩くペースが早いように思えるが、人間の足が追い付けない速さではない。

そうして歩いて行った先は、水路に架かった橋の下。更に暗くなる場所に、猫は躊躇う事なく入り込んでいった。

「…………」

『…………』

ますますもってどういう事なのか理解出来ないボク。隣を見ればアツヤも同じようで、だけど思い切って中に入ってみる。漂ってくる異臭が鼻を突くが、何とか耐え切れる程度だ。

思ったよりも広い空間があった橋の下の、丁度上から死角になる位置で猫は座っていた。その目の前に、壁に背を預けた何か。人間なのは間違いない。

身に纏う黒いスーツと締めたネクタイは何とか見えるものの、俯かれた顔は焦げ茶色の髪に隠れて見えない。今まで明るい場所にいたから、という理由もあるが。

ピクリとも動かない相手にボクは少し焦りを覚え、側に屈み込んだ。脈を確認すれば、一応は生きているみたいで規則正しいリズムを感じる。

すると、アツヤがはっとしたように目を見開いた。

『っおい兄貴、コイツ……フィディオじゃねぇ!?』

「え、……あ!」

ようやく暗闇に慣れてきた目で改めて彼を見れば、幼さは消えているものの確かにボクが捜していた人物だ。

ボクは揺さ振ってみようと肩に手を置き、そこから感じた違和感に眉をしかめる。

生温かい。触れた手を見れば、具合が悪そうになる位の鮮やかな赤があった。

「フィディオ、怪我してる……!」

『マジかよ……』

「フィディオ、フィディオっ」

ぺちぺち彼の頬を叩きながら、ボクは呼びかける。と、フィディオが閉じていた目を僅かに開いた。焦点の合わない群青色の瞳を、ボク――恐らくは声がした方に向けて口を開く。

「……シロウ……?」

「フィディ、オ?」

「……おかしいな、何で君が、ここにいるんだ……?」

息の荒い彼は、僅かに笑みを浮かべそれだけを喋ったところで、咳込む。下手したら忘れられているんじゃないかと思ったが、それは杞憂だったようだ。

口の端から流れ出す血が、唾と混じって吐き出される。

「とにかく、お医者さんに連絡を……」

携帯を懐から取り出し、119のボタンを押しかけた。それを出来なかったのは、フィディオがボクの腕を掴んだからだ。

「……大、丈夫だから……救急車は……駄……」

「フィディオ!?」

途切れ途切れの台詞に呼応し、掴まれた腕からも力が抜けていく。そのまま、フィディオは気を失ったのかずるりとボクに向かって倒れ込んだ。十年前よりも大分変わってしまった彼の体をボクが支えるには、ちょっとキツいかもしれない。

アツヤが彼を怪訝そうな表情で見詰めながら、首を捻る。

『救急車は駄目って……どういう事だ?』

「……とりあえず、それならホテルに運ぼう。ここじゃ、何をするにも不衛生だよ。治療道具もないし」

『だな……』

上着を脱ぎ、フィディオにかけながらボクは歩いてきた道の途中にあったホテルを思い出し、そこで治療をしようと考えた。知識はあまりないけど、応急処置程度なら出来るだろう。

よいしょ、と勢いをつけて血が出ていないフィディオの右肩をボクの肩に載せる。

と、不意に機械的な音楽が耳に届いた。

『兄貴、電話』

「もう、こんな時に……!」

慌ててズボンのポケットに手を突っ込み、携帯を開いて相手を確認する。

『「あ」』

ホテルの一室。

代金もそんなに高額ではないのにやたら部屋が広かったりする親切仕様だが、ボク達はその居間にあるソファに腰を下ろしていた。

フィディオは今、別室で治療中だ。どんな状態なのか、本当に大丈夫なのか気が気じゃなくて、ボクはしょっちゅうその部屋に繋がる扉に視線を向けている。

「……大丈夫、かな……」

『兄貴、それ何回目だよ。フィディオがくたばる訳ねーだろ?』

「でも……あんなに血が出てたし、出血多量とか」

『そうならないよう、アイツがやってくれてるだろ。心配性なんだから、兄貴は』

はぁ、とあからさまに呆れたような溜息を吐きアツヤが言うので、ボクは頬を膨らませる。

だって、人があんなに酷い怪我をしていたのを見たのも、自分の手があんなに真っ赤に染まったのも、初めての事だった。何より――弱り切ったフィディオの姿が、ボクの不安を駆り立てる一因かもしれない。

と、閉じられていた部屋の扉がカチャリと音を立てた。反射的にそちらを見れば、立っていたのは白衣を身に纏った知り合いの姿。

「終わったぞ、吹雪」

「豪炎寺君!」

そう、フィディオの治療をしていたのは、イナズマジャパンのチームメイトだった豪炎寺君だ。

彼はお父さんの跡を継ぎ医者を勤めながら、サッカー協会の役員としても活躍している。

今回はたまたまボクが所属するプロチームの担当に選ばれ、彼もイタリア入りしていた。

額に浮かぶ汗を拭う豪炎寺君に、ボクは尋ねる。

「どう? フィディオの様子」

「あぁ、止血作業と消毒は終わっている。浅い傷だが、動脈に当たっていたから流血が激しかったんだと思う。気絶したのも貧血だろうな、命に別状はない」

「良かった……」

その言葉に胸を撫で下ろし、一息吐いた。ようやく心から安心出来たかもしれない。

それにしても、と豪炎寺君は眉根を寄せた。視線は、今しがた己が出て来た扉に向けられている。

「一体何をしていたんだろうな、フィディオの奴は。あの傷は、切り傷と言うより……」

「え?」

■ ■ ■

メモはここで途切れている……。