はじまりの刀と審神者

月が綺麗な夜、だった。

誰かに呼び起こされるような感覚を覚えたかと思った直後、目の前には己の手が。
視界にひらりと舞ったのは、淡い色彩の何か。掴んでみよう、と思うと同時にその手は動き、ひょいと小さな何かを拾う。
まじまじとそれを見つめてみれば、ああ、これはいつだったかあの人に見せて貰った花の一部だ、と思い出した。

かさ、と微かな衣擦れの音と、ちりん、小さな鈴の音。
顔を上げると、己の視線よりは少し低い位置にある顔が、ふにゃりと綻んだ。

「初めまして――山姥切国広」

霊布に隠されていない口許は俺よりも随分と幼く、中性的な声の相手は、柔らかな笑みを保ったまま、そう言った。

「本日から、当本丸――この、拠点とする場所の事ですが――はあなた達のものになります。案内は後程いたしますね」
「広いですね」
「今はまだ、審神者と山姥切国広様しかいらっしゃいませんからね。そう感じるのも、仕方ないかもしれません」

管狐が良く喋る。
そんな事を思いながら、前を歩く者達を視線で追った。

刀を呼び出し、人の身を持たせ、歴史の秩序を荒らす者達を狩る。
長々とされた説明のほとんどを聞き流した俺は、要約した上で、つまり戦う為にこのような事態になっているのだ、と判断した。
戦をやらされるのは、刀の本分が斬る事である以上、納得出来る。だが、と目の前の人間を注視した。

自分を審神者だと名乗った者は、管狐の案内に逐一頷きながら、時に疑問を口にしているようだった。
勤勉な事だ、と感心しかけ、それならば俺の境遇も知っているかもしれないという可能性に思い至り、眉根を寄せる。
いや、万が一知っているのならば、何故写しなどを呼んだのか……という疑問が浮かぶのだが。

「それで、私達はどうすれば良いのでしょうか」

俺を思考の海から引きずり出すかのような、強い響きを持った声に顔を上げる。『達』、と言う事は、俺にも関わる事だ。
管狐ははい、と一拍置き、続ける。

「これからの戦いに向けて、審神者様には他にも刀剣を呼んで頂いたり、山姥切様や他の刀剣達にも、戦場へと赴いて貰わねばなりません。私達の相手は時間遡行軍、その数は計り知れませんから」
「戦場に……」
「勿論、ひたすら戦場に出るだけをやれとは言いません。時には休み、時にはのんびりするのも、必要ですから。ですが、忘れないで頂きたいのです。時間遡行軍は、私達の思惑を幾度とも掻い潜る、という事を」
「……別に、その時間遡行軍とやらの相手をしたまま朽ち果てても、俺は構わないんだがな」

審神者の顔が、管狐から明らかに俺の方へと向けられる。目が見れないので定かではないが、何だか不機嫌な様子なのは分かった。

「先程行った鍛刀や手入れは、審神者様の霊力が起点と言う条件はありますが、いつでも行う事が出来ます」

若干の険悪な雰囲気には気が付かなかったのか、管狐はふぅ、と息を吐き、くるりと俺達から体の向きを変えた。

「説明は以上です。――それでは、私はこれで一度失礼致します。どうも、歓迎されていないようですから……」

歓迎されていないとは、どういう意味だろうか。
軽く首を傾げるが、こんのすけは動きを止める事なく、姿を消す。残された審神者と俺は、暫く沈黙を保っていたが、やがてさて、と相手が呟やいた。

「山姥切」
「?」
「少し、話をしましょう?」

ゆったりとした衣服を身に纏った審神者は、肩までの長さの黒髪を揺らしながら振り向き、言った。

「山姥切。私は、実のところ現世に存在しているのか、分かりません」

表情に浮かぶ笑顔とは、まるで逆の重みを持つ発言。
自分を呼び出した審神者の突然の告白に、山姥切は思わず、呆けた顔で問い返した。

「何を言っているんだ、アンタは現世の住人なんだろう」
「私の記憶は、ある一定の期間――そして、最後しかありません。何処か遠い場所で、大勢の人が人を相手に争いを繰り返し……その中で私は、確かに誰かの手により、命を落としました」
「!?」

人は記憶を喪失し、そこに新たな記憶を詰めていくものだと思っていた。
だが、自分がいた立場とその出来事以外は何も覚えていないのだと言う。最も恐れるであろう『自身の死の瞬間』のみが頭に残り、それだけが自分が現世に存在していた、という証明である、と。
それは、つまり――。

相手はしかし明言を避け、小さく首を傾けながら続ける。

「なので、厳密に言うと『存在している』ではなく、『存在していた』、はずなのです。人の死さえ無かった事にし、どうやって、今この場所で審神者として存在しているのか。いえ……そもそも、ここは現世ではないのですから、何らかの特異な力が働いている可能性も、なくはないのでしょう」
「……アンタから、並の霊力ではない『何か』を感じるが、そいつの可能性は?」

本当に些細な、だが明らかに人とは異なる気配。それはただひたすらに、山姥切へとひとつの感情を、『警戒心』を向けていた。
審神者は、そいつ?と首を傾げたが、すぐに何かに思い至ったのかああ、と呟く。

「それは、この仔の事でしょうか?」

言うなり揺らぐ、空間。
現れた『それ』は審神者の肩に降り立ち、紅い双眸をこちらに向けた。宿る感情は間違いなく、警戒。
白い小さな体に、細く長い尾。ぴくぴくと敏感に動かされる髭。
俺は人間とは異なるその生物を、過去――恐らくは、打たれた直後の鍛冶場でか――で見た覚えがあった。
あの人はこの生物を何と呼んでいたか、と思い返し、出てきた言葉を口にする。

「鼠?」
「はい。少ない記憶から読み取ったのですが、私が生前お仕えしていた家では、鼠は守護神の使いと崇められていたようです。そのひとかけらの願いが、私についてきてしまったのでしょうね」

小さな体を撫でつけると、鼠は気持ち良さそうに目を細める。ちちち、と鳴く声が耳に微かに届いた。
成程、確かに先程から感じていた『何か』の気配はその鼠から感じる。俺と同じような、だが何処かが明確に異なる、神聖なそれ。
審神者は、ひとつ咳をしてからでも、と声のトーンを落とし、続ける。

「この仔の力でそれを成すのは、到底無理です。正直、ここにこうして留まっているだけでも、霊力はかなり使ってしまっていますから……」
「……どうすれば良いんだ?」
「恐らく、この空間を純なる霊力で満たせば大丈夫ではないかと思いますが、その方法が……。鍛刀も手入れも、この仔の霊力を起点とすれば可能ではあるのですが、それを私が行うのは厳しいですね……」

本当に申し訳なさそうな顔と声音で言われるものだから、俺は仕方ないな、と尋ねる。
後は任せると言われているようなものだとは思うが、こうして話をしている間にも、審神者の顔色は徐々に悪くなっているのに気が付いていた。呼び出されて早々、主が力尽きるのでは後味が悪過ぎる。

鍛刀も手入れも、審神者が立ち会って行わなければならないというのは、先の管狐の説明から分かっている。だが本人が出来なくとも、霊力を共有している鼠さえいれば、俺のような刀剣が行っても可能ではないだろうか。試してみないと分からないが。

「分かった。なら、俺がアンタの代わりにやってみよう。後で教えてくれ」
「え? え、ええ。ですが、流石に貴方一人だけで全て賄うには負担が大き過ぎますし……今後、共に戦ってくださる刀剣が増えてきて……余裕が出てくるようになったら。この本丸に、賑やかな声が響くようになったら。貴方が信頼出来る方を、私に教えてください。貴方だけで本丸が回る事が出来てしまわないよう、私も出来る限りで尽力させてください」
「分かった、覚えておこう。……だが俺は、ただの写しだ。アンタが何を考えているかは知らないが、目的の片棒を担がせるには、役不足だと思うぞ」
「そんな事はありません。だって貴方は、私と似ています。だから貴方を選んだのです」
「……え?」

審神者の口許に、緩やかな弧が描かれる。霊布で顔が隠されていなければ、随分と穏やかな笑顔が見れた事だろう。

「私もまた、《本物》を写した存在ですから」

   ■   ■   ■

「…………難しいな、これは」

鍛刀部屋で、地べたに胡座をかき座った姿勢で、俺は首を捻る。両手を組み、どこが問題なのかを考えた。

鍛刀。『刀を鍛える』。
文字通りだが、俺達刀剣には鍛冶の技術があるはずもなく。
審神者の霊力で、祭壇に置かれた資材――玉鋼やら冷却材やら、刀の材料となる物質――を媒介にして新たな刀を『降ろす』、というものらしいが、正直なところ何を言っているのか良く分からない。
分からないが、つまりはその『降ろす』作業で不足する審神者の霊力を、俺のそれで補えば良いのだろう、とあたりをつけ、先程から何度か実験を繰り返しているところだった。

「アンタの霊力と俺の霊力を馴染ませる感覚が難しい。もう一度良いか」
「構いませんが、少し休みませんか? 山姥切の霊力の方が、枯渇してしまいかねません」
「大丈夫だ。……アンタの方がきつければ言ってくれ」

具合が悪そうにしているのは相変わらずだというのに、審神者は俺の方ばかり心配している。せめて今のうちに、鍛刀と手入れの方法だけは教わっておかなければ。
そう思いながら、もう一度霊力を媒介に注ぎ込む。審神者の静かな、それでいて力強いそれを包み込むかのように、ゆっくりと――。

キィン、と澄んだ、鋼が叩かれる音が響いた。

「あ」

次の瞬間には、目の前の資材は一本の短刀へと変化していた。
懐に忍ばせるには手頃な大きさの、刃文に乱れ刃のあるそれ。恐る恐る手を伸ばしかけ、ふと隣に審神者とはまた別の気配が現れたのに気が付く。だが俺が振り返る前に、相手は祭壇の短刀を手に取ると、にこりと笑顔を浮かべた。

「初めまして、乱藤四郎だよ! よろしくね」

可愛らしい姿をした少年だった。
桃色の、背中までの長さの髪を揺らし、大きな瞳は澄んだ青色。背は、審神者より少し低い。
審神者や俺とは別の存在が現れたという事は――鍛刀に、成功したのだ。

「やりましたね、山姥切!」
「ああ、コツは掴んだ。次からは上手くやれるだろう」

成程、先程のように行えば良いのか。忘れないようにしなければ、と思い返した所で、少年――乱が、不思議そうな表情で首を傾げていた。そうだ、まだ自己紹介も何もしていない。

「申し遅れました、私はこの本丸の審神者です。乱藤四郎、私達の呼び掛けに応えて頂き、感謝致します」
「山姥切国広だ。写しだが、この本丸の近侍を任されている。といっても、まだ俺しかいないが」
「そっかぁー、じゃあボクが二番目なんだね? 呼んでくれてありがとう、主さんにまんばちゃん!」

審神者が口を開き、続けて俺も名乗る。一瞬俺の方に審神者の視線が移った気がしたが、気のせいだろうと思い尋ねなかった。

乱はふむふむ、と頬に右手の人差し指を当てながら頷き、また笑顔で言う。が、自分に対しての呼称が大分おかしな事になっているので、俺は怪訝な表情で「まんば……?」と呟いた。

「いや、写し相手になら相応しい呼び名か……?」
「んん? 違うよまんばちゃん、ボクがキミと仲良くしたいから、別の呼び方で呼ばせて貰うんだよ?」

ダメかな?と再び首を傾げる乱だが、俺は相手の意図が良く分からず返事を躊躇った。写しなんかと仲良くしたいなんて、とんだ物好きだな、とすら思い始めていた。
と、そこでくすくすと小さく笑う声を耳が拾い、出所を見る。審神者が、口許に手を当てて笑っている。

「私達の時代で言う、『渾名』ですね」
「……?」
「渾名は、仲が良い人達でかけあう、本名とは異なる名前の事です」
「そうそれ! ボクは主さんやまんばちゃんと、すえながーく仲良くしたいからねっ。その為のプレゼントだよ!」

軽やかなステップを踏みながら、乱藤四郎が傍に駆け寄り、俺の腕を抱き込むようにして取った。彼や審神者からは悪意のようなものは感じられず、俺は戸惑いながらも言葉を返す。

「……よ、宜しく頼む……?」
「うん! ふふ、この本丸にどんな刀達が来るか、楽しみだねー」

審神者にも、無邪気な笑顔を向ける乱。
だが、その時だった。

「――あ」
「主!?」
「主さんっ!?」

ぐらり、と俺よりも華奢な体が不自然に揺れた。間一髪といったところで俺が隣に駆け寄り支えたので、床に倒れ込む事がなかったのは救いだ。
審神者の顔色はかなり白く、病人のそれに見えなくもない。額には冷や汗らしきものが流れているわ、目が若干虚ろだわ、と決して平気には見えない状態。

「あ、あはは……ちょっと頑張り過ぎてしまいましたか……」
「アンタ、俺には無茶をするなと言っておいて……」

審神者から感じられる霊力が、枯渇しようとしている。このまま消費するような環境にいれば、危ういどころの騒ぎではないだろう。
それは本人も分かっているようで、乱に向き直ると、申し訳なさそうに笑う。

「乱さん、すみません。会ったばかりで恐縮なのですが……ちょっと、お休みさせて貰いますね」
「う、うん……! ゆっくり休んでね!」

乱がすごく心配そうに審神者の顔を覗き込みながら、絶対だよ、と念を押す。
彼女ははい、とどこか嬉しそうに笑った。

審神者自身が指示した部屋へと彼女を運び、乱の元に戻った後、俺は引き続き鍛刀の練習を続ける事にした。
歴史修正者との戦いがこれから続くのであれば、流石に仲間を増やさなければ手に負えない。自分に出来るとは到底思えないが、せめて任された事くらいはしっかり成し遂げよう――そんな考えだった。

そうしたら、乱もそれを見学したい、と手を上げ、二人揃って鍛刀の作業を行う部屋に戻った。
作業をしながら、来たばかりで審神者とろくに話せやしなかった乱には、彼女が話していた事をそっくりそのまま伝える。

「そっか……じゃあ、あまり顔は出せなさそうなんだね」
「ああ。だから、俺と主の式神で、何とか新たな刀を呼び出せないか、と教わっていた所だったんだ」
「式神? このネズミさんの事? ボクも教われれば良かったなぁー」

このネズミさん?と首を傾げると、ぽふ、と柔らかなものが耳に当たった。と同時にちゅ、と小さな悲鳴を上げた鼠――先程審神者の傍にいた奴と同じだ――が、俺の膝の上へと移動する。

「……お前、主の傍にいなくて良いのか」

真っ先に疑問に思った事を問いかけると、鼠は安心しろ、と言わんばかりに膝の上を走り回り、やがて俺が持つ刀の前で、動きを止めた。

「まんばちゃん、懐かれたみたいだね」

「……まぁ、大丈夫なら良いんだが」

写しに懐くとは物好きな鼠だな、と溜息を吐く。このネズミが普通でない事は、とりあえず忘れる事にした。

「で、これが終わったらどうするの? ボクとまんばちゃんだけで出陣?」
「あと一人か二人くらいはなんとか出来れば良いんだが……成功するだろうか」
「だいじょうぶだいじょうぶ、ボクもいるよ。じゃあ、あと二回だけやってみようか」