藍馬過去

「お兄様!」

ああ、喧しい。

俺を呼び止めたのは、実の妹である蘭。
快活などとはほど遠い大人しい性格をしている妹が、俺は正直疎ましかった。

そんな夏の、とある日の事だ。

「お兄様、今日はどこ行くの?」

下校途中でばったり出会した蘭は、小首を傾げそう問うてきた。

純粋な問い。好奇心旺盛な子供であれば、兄がどこへ行くのか興味が沸けば聞かないはずはなかった。
俺がどう返そうか考えている隙に、蘭は俺が持つ書類ケースに目をやる。中には、俺の学校の課題プリントと――今日会う相手の、ペットへの手土産が入っている。

「紅夜お兄様の所へ行くなら、私も……」
「付いて来るな!」

蘭が、息を呑む気配を感じた。
顔は見えない。いや、見ていないだけなのだが、恐らく酷く怯えたような表情を浮かべているだろう。

「……お前は来るな。さっさと家に帰れ。良いな」
「お兄様……っ!」

今度は、足を止めない。
走って走って走って走って、がむしゃらに走った。
胸中に蠢き始めた、言いようもない何かを振り払うかのように。

「清秋、どうした?」
「何がだ?」

住宅街の界隈、ひっそりと佇んでいる公園。
藤棚が屋根の役目を果たしているテーブル有りのベンチを陣取り、俺と、飼い猫を頭に乗せた神崎は話をしていた。飼い猫は、俺の手土産である猫じゃらしを口にくわえて遊んでいる。
そこそこ重要な話をしている合間の、この問い。お前が人の目をはばからず自宅のようにくつろいでいるから呆れている、と正直に言ってやろうかと思ったが、別に、と返した。

しかし、神崎は納得していないようで、訝しげにこちらを見ている。

「……何だ」
「何かヘンだぜ? さっきから俺の話聞いてねーだろ」
「……お前の目が衰えているだけだ」
「お前と同い年だっての!!」

バァン!と勢いに任せテーブルに拳を下ろし、周囲の者の視線が集まる。「ママー、あのお兄ちゃんこわーい」「しっ見ちゃダメ!」などと言った会話が聞こえた気がするが、空耳だろう。
神崎は慌てて笑顔を取り繕い、恨みがましそうにこちらに視線を寄越した。飼い猫が、馬鹿だなぁ、とでも言うようにニャアと鳴く。

ふと、今まで聞こえてこなかった音が周囲と混ざる。

先程まで明るかった空が、ねずみ色に浸食され面積を減少させていた。これは降るかな、と思った矢先に滴が頬を打った。

やがて――バケツの底が抜けたような勢いで降り始める、雨。雷鳴が轟く。
書類を早急に片づけ、公園の端にぽつんとある電話ボックスに駆け込む。

「降ってきたなー。親父に迎え来て貰おう。清秋、お前も送ってやるよ」
「…………」

神崎と会ってからも消えなかった、漠然とした感情。
それは徐々に不安という形になっていき、何故そう思うのか俺には分からなかった。神崎が財布を取り出し、硬貨を投入する音が嫌に公衆電話ボックス内に響く。

「雷も鳴ってるし、早く帰って蘭ちゃんの傍にいてやれ」

――『お兄様』

鼓膜を走り抜けたのは、道で別れた妹の、震えた声。
あいつは、家に、

「ちょ、おい、清秋!?」

雨のカーテンは以前分厚いまま。
だが、俺は神崎の制止を聞かぬままに公衆電話ボックスを飛び出した。

病院の集中治療室の手前に設置された照明が、切れかかっているのか不規則に明滅を繰り返す。

蘭は、自宅に帰っていなかった。
全速力で帰宅した俺は、父親と母親に蘭が帰ってきていない事を聞き捜しに行こうとした。
その瞬間電話が鳴り、蘭が病院に運ばれた事を知ったのだった。

何故か自宅から離れた住宅街の路地裏で倒れていた蘭は衰弱し、意識もまだ戻っていないそうだ。
母親は不思議がっていたが、俺は気が付いていた。その路地裏が、俺が今日使った公園への近道から続く道だという事に。

「蘭……」
「清秋、大丈夫。お前と一緒にいれば、蘭も安心出来るから。大丈夫」
「母さん……」

肩を抱き寄せられ紡がれる言葉に、俺はだが
救われるはずがなかった。

俺には言えなかったのだ。
蘭がこうなったのは、自分のせいだと――。

こんてぃにゅー?