オンライン・ワールド02s

「おきて!」
 目を開くと、たくさんの星が瞬く空の端から、妙に丸い生き物が生えてきていた。ふかふかした、うっすらと青みががったねずみ色の体毛と、目を凝らさなければ見えにくいヒゲが頬に触れるたび、くすぐったい、と頬が緩む。微睡みの夢かと思い、眠気に抗えず再びそこへ戻ろうと目を閉じようとする。が、それは許されなかった。
「おきるの! おーきーてー!!」
 ぺちぺち、と謎の生き物の小さな脚が頬を突く。いやこれは、叩いているのだろうか? 
 寝かせてくれないのなら、無理に寝ようとするのも意味はない。大人しく体を起こし「うーん」と伸びをしてから、改めて謎の生き物に目を向ける。うん、やはり人にしては丸い。
「だれ?」
「ソウはソウ! 『なびげーたー?』とかいうやくめをまかされているのだ!」
 丸い物体に耳をちょこんと付けたような生き物――ソウは、言いながらえっへん、と体を反らせる。だが、その単語の意味が分からないオレは、「ナビゲーター?」と疑問符を浮かべていた。声にも出ていたようで、ソウは体を横にこてっと揺らす。何故そんな動きをしたのかも分からなかった。
「しらないの? なびげーたーはねぇ、えっと。……えーっと? ……とにかく、みんなをみちびくやくめなのだ!」
「そうなんだ」
 改めて体勢を立て直したソウを右手に載せ、自分の目線の高さまで持ち上げている間に説明してくれたが、残念ながらさっぱり分からない。立ち上がって、周囲を見渡す。
 自分が今いるのは、寝転がった状態でも空が見えるくらいに、視界が開けた場所。人間の手が入っていると思われる、舗装された小さな広場には、木で組まれたベンチがいくつか存在していた。
「ソウ。ここは?」
「んーとね、『いしがみやま』ってところ」
「……いしがみやま」
 地名に聞き覚えはない。それより、地名を知っているか考えた事によって、オレはもうひとつの問題に気が付いた。
 『自分はどこの誰?』。地名を聞けば何かしらの手がかりになると思って軽く聞いたのだが、まさか自分の事を思い出そうとしても、何も思い出せないとは。記憶はどこまでもどこまでも、ただの暗闇が続いている。
 ソウが、オレの声音から何かを察したのか、「これもしらない?」と不安そうに聞いてきた。思考の海から意識を引き戻し、うん、と笑って答える。
「それに、オレは『オレ自身のこと』も分からないみたいだ」
「えっ?」
「今、『いしがみやま』について知っているかを考えたけど、そもそも『自分はどこにいたのか』、――いや、『自分の名前』すら、思い出せないんだ」
 努めて明るく口にしてしまったところで、ほろり、と頬に温かい何かが伝う感覚を覚える。不思議に思って触ってみると液体で、出処は自分自身の両目からのようだ。そんな事を考えている間にも、それはぽろぽろと零れ落ちてくる。
「……え?」
「え!? どど、どうしたの? どこかいたいの??」
「分からない……勝手に、涙が」
 分からないが、何故かとても悲しい。こころがいたい、と思うのは何故なのか。何か、大切なものを忘れているような。それがぽっかりと抜けているような気がして、悲しくて涙が出てくるのだろうか。何も、分からなかった。
 あわあわと狼狽えるソウがぼやける視界の向こう側に見えたので、慌てて涙を収めるよう努力する。お陰で暫くしてからようやく止まったものの、自分の中にある虚ろは、変わらずそこにあるようだった。
「……取り敢えず、誰かいないか探してみよう?」
 こんなところで蹲っていても、何も変わらない。オレはもう一度涙を拭うと、広場の端にある階段を見付けて指し示した。恐らく下に降りていくほうだろう、ならばどこかに人がいるかもしれない――そう思って足を踏み出した、その直後。
 ゴゴゴゴゴ……と空、いや地面から地響きが聞こえたかと思うと、ソウが全身の毛を逆立たせた。
「はしって! にげるの!」
「え? どうしたの」
「にげるのー!! あれからにげるの!! はやく!!」
「あれ?」
 ぺちぺちぺち、と叩かれながら、進行方向だった階段のある方を見る。そこには、先程まではなかった山が聳え、紫色の石が怪しげな光を放っていた。
「……なに、あれ」
 紫色の石の向こうからないはずの視線を感じ、山から生えた細い脚がうごめく。まるで予告するように、ゆっくりとこちらへ向かってくる。自分が狙われている、と気が付いた時には、広場の地面に脚がかけられようとする瞬間で。
 ――風が、ごう、と一際大きく吹いた。無意識で閉じていた両の目を再び開けた時、オレの視界は真っ黒なコートに覆われていた。