第99話 分かたれた魂の末路

そもそもこの世に生み出された時から、私という存在は不要であり、邪魔だったのだ。
世界を混沌に陥れる化物であるラルウァと同じ肉体を持つくせに、姿形は人間と何ら変わりがない。記憶すらも中途半端で、ただ世界に嫌われる道化者になりきれと。いや、道化ならまだ良い。それならまだ、世界に許されているのだから。
私はそれですらなく、ただの傀儡なのだと、心のどこかで理解していた。

心を曇らせる事すら許されない。
使えると思った人間は同じ穴の狢にしてやろうと、本人の意思を無視して仲間に引き入れてきた。
粛清によりほとんど死にかけていた金髪の少年に同情し、半ラルウァにするという形で助けてやったりもした。自分と同じように世界に絶望し、その悪意をぶつけてくれれば良いと思った。世界から除け者にされた、その復讐をと。

だが――そいつは今、自分達と袂を分かち、武器を交えている。
同じ半ラルウァでありながら。
同じように、世界に捨てられようとしていたと言うのに。

何故、そちらにいる。
何故、そちらに行く事が出来る。

「何故、私ではないんですか」
「――へ?」

思考していた事柄が無意識に口をついていたのに、返ってくるはずがない声が聞こえた事で気が付く。聞かれたと判断すると同時に、全身の力を使ってセレウグの拘束を振り払い、再び宙に戻った。

跳ね飛ばした彼を気遣う、或いは叱咤する声が上がる。それらに曖昧な返事を返しながらも、セレウグは呆然とした表情でこちらを仰ぎ見ていた。
何処から声になっていたのか、さっぱり分からない。ならば、最初に殺すべきはセレウグ=サイナルドか。余計な事を口にされないうちに。

でなければ、私の願いは叶う事がなくなってしまうのだから――。

   ■   ■   ■

「――あんさん、ほんま難儀な性格してはるよな」

そう言って悲しそうに笑った顔が、印象的だった。

場所は地下の牢獄、明かりも心許ないランプがひとつだけだというのに、それがまるで輝きを放っているかのように眩しく感じる。
場にそぐわない穏やかさを纏い、何故こんな状況で笑えているのか、ゼルフィルとしてはとても疑問だった。最初は、偽物である自分への当て付けだと思っていたが、何度か言葉を交わすうちに、それが彼の本質なのだと気が付いた。
自分も、恐らくは彼さえも得る事が出来なかった、穏やかな感情。

自分の性格が歪んでいるのは、自覚している。それでも敢えて言われると、やはり他人から見てもそうなのか、と言う感想しか湧いてこない。恐らく、自分の事にすら無頓着で、知りもしようとしてこなかったからだろう。

「双子三つ子は、元はひとつの魂が分かれたもん、って言われとるらしい。俺らはそないゆーもんで、やて決定的に異なるもんがある」

見た目も性格も、立場も全く異なる三人。
一人は記憶の全てを持ち、周りを巻き込むまいと排他的な思考を持ち。
一人はその身に強大な力を宿し、使わず使わせまいと温厚になり。
一人は生まれながら化物であり、偽物でしかない事に悲観した。

二人とは違い、何故自分という存在が生まれてしまったのか、その理由すら分からない。望まぬ生を受け、全うせよと負った役目すらも、ゼルフィルに生きる事を許さなかった。偽物だから、ソーレの企みによって生まれたから。

「そやよなぁ、そないな事、考えれば分かるよなぁ。そないなる事は目に見えとったよなぁ。かてお前も《俺》やもんなぁ」

困ったように、何処か泣きそうな表情でタスクが言う。ユーサに語ったような事をほとんど同じように彼に聞かせた後の、言葉だった。

「ゼルフィル、あんさんはどないしたい? ソーレの言わはった事を、信じたい?」
「――私は、」

私は答えた。即答と言っても良い早さで、本心からの答えを。
タスクを巻き込むしかない自分に腹を立てた事もあるが、それはどうしようもない心からの願いだった。私一人では、叶える事が不可能な類の。

「――ほうか」

ええよ、と答えた彼は、鎖に繋がれた右手を上げる。じゃらり、擦れた鎖が重々しい音を立てた。

「ユーサがどない思うかは分からへん。やて俺は別に構へんし、アイツを説得出来はるんやったらほんでもええ」
「……断ると、思っていたんですが」
「ほんまは、な。まだ色々やりたい事はある。やけど、寿命もそやし、あくまで模造品であるあんさんと力ん塊である俺じゃ、世界にとっては毒に過ぎへん」

元々、得るはずのない時間を過ごしていた。詳しい事は覚えていないけど、自爆した後、あのまま輪廻の輪に戻るはずだった。ソーレの邪魔さえなければ。
そう言いたいのであろう事は、聞かずとも知っている。偽物とはいえ、思考そのものは彼も私も一緒なのだ。

「それに、さ。ユーサには悪いけど、俺はあんさんが苦しんでるんもどうにかしてやりたいと思ってるんよ。これが」

本当に、この男はどこまでも。
自分を殺した者の許に付いた私に、怒る事もせず。私の発言に腹を立てた事もあっただろう。ユーサの、私に対する反応こそが、正常なのだと思う。
それなのに、何故こうして敵である私にまで心を痛める事が出来るのか。やはりこの男も何処かがおかしく、異質なのだ。

「ごめんな。――俺があんさんだったら良かったんになぁ」

差し出された手を取り、視界が光に覆われていく中、聞こえた謝罪。
それは貴方のせいではない、という言葉を、発する事は出来なかった。

   ■   ■   ■

最初に動いたのはゼルフィルだった。
まるで獲物を狙った鳥のように、空気抵抗を最小限にした翼で滑空し、鎌をぶん回す。
スウォアが対応の為前に出た隙に、ユーサはセレウグが戻ってきたのなら、と召喚を試みる。

「詠唱略! ドッペル、いる!?」
『どんどん雑になってねぇか!?』

自身の影が揺らめき、何かが飛び出す。影は形を変え色を宿し、ユーサの姿を得る。
ドッペルゲンガーが現れた事で不安要素が増えたと判断したのだろう、ゼルフィルが加速し、振り回される鎌の刃が目の前の空気を切り裂く。避け切れなかった前髪が斬られ、宙を舞う。
集中して狙われているのは、この中で一番手負いであるセレウグ。だと言うのに、当の本人は未だ呆然としたままで。
咄嗟に銃を構え、発砲する。照準は明後日の方向だったが、ゼルフィルは回避の為、一歩下がる。

「ゼルフィル、お前――」
「黙って殺されてください、セレウグ=サイナルド。邪魔です」
「セレウグ、戦えないならどっか行って!邪魔!」

ユーサは銃を構え、カシャ、と音を鳴らす。黒光りしていた銃身が色味を変え、輝きを放つ真っ白な姿を現す。《月の力 フォルノ》を纏い、ラルウァと対峙出来る武器の姿だ。
タスクの体にダメージはないはずだが、半ラルウァであるゼルフィルになら有効なはずだ。
ゼルフィルも臨戦態勢になり、彼の周囲に紫色の光体が現れる。このまま飛び出せば、お互いぶつかり合うのみだっただろう。

だがそれは、またしても憚られた。
止めろ、と静かに聞こえた声に。

我慢の限界はとうに切れた。
ユーサはキッと対岸のセレウグを睨み付け、怒鳴る。

「何なんだよキミは!! また止めるの!? 僕はアイツを殺さなきゃいけないんだ! キミだって何度もアイツに嫌な思いをしたんでしょ!? アイツの指示で、ザルクダもザナリアも、クーザン君もユキナちゃんも大変な目に遭った!! 僕はアイツを殺さなきゃ、満足して死ぬ事すら望めないんだよ!! 僕に未練を抱えたまま死ねって言ってんの!?」

まるで癇癪を起こした子供のようだ、と思いつつも、自分を止める事は叶わなかった。
ゼイルシティで対峙した時も、今も。この男が奴を殺すなと言える理由が、ユーサには全く分からなかった。理解の範疇を越えたが故の、叫びなのかもしれない。

「ああ、本当にな。オレだってアイツがやってきた事全てを許す事は出来ねぇ……けど、」
「まさかと思いますが、私に説得が通じると思っていますか? 無理ですよ。ユーサを殺し、私が本物になるのだという目的は揺るぎません」

二人に無理矢理口を挟むゼルフィルも、顔には出さないものの相当苛ついているようだ。
一連のやり取りを口を挟まずに聞いているスウォアが首を傾げ、とても不思議そうな表情でゼルフィルとユーサを見比べているが、彼らがそれに気が付く事はない。

顔をユーサからゼルフィルに向け、セレウグは更に声を上げる。

「じゃあ、今になるまで待ってたのは何でだよ。ユーサやタスクを見付けた時点で捕まえて、一方的に事を進める事だって出来たじゃねぇか? それに、タスクを捕まえた時にユーサだって一緒にいたんだし、その時だってやれた。やらなかったのは、その時じゃ目的を達する事が出来なかったからだ。お前、本当は何が目的――」
「喋り過ぎましたね」
「セーレ!」

ゼルフィルの周囲に浮いていた紫色の光体が、流れるように宙を舞いセレウグに纏わりつく。反応が遅れた彼はまともにそれを受けてしまう。
が、ダメージはそこまでないのか、表面的には大して変わらない。……はずだが、セレウグは自分の喉に手を当て、口をパクパクさせる。その動作だけで、ユーサだけでなく他の二人と一体も気が付く。声が出ないのだと。

「貴方の声を封じました。これ以上、余計な事を言われるのは困ります」

先程までゼルフィルの周りで浮遊していた光体は、《呪い》の力だったのか。あれを魔法使いが喰らったら、とてもではないが厳しい戦いに――そうなってからようやく、ユーサは違和感に気が付いた。
シアンやスウォアならともかく、ロクにどころか全く魔法を使えないセレウグの口を封じたところで、こちらの戦力を大して削る事は出来ない。それは、ゼルフィルだって分かっているはず。
それでもセレウグの口を封じたかった?でも何故?

ゼルフィルの目的は論ずる必要もない、自分とタスクを取り込んで《本物》になる事。本物になって、――。

(あれ?)

偽物であるが故に、本物になりたいと願った。
だからソーレに唆され自分を狙い、タスクを取り込んで、今こうして自分の目の前に立ち塞がっている。

でも、その後は?
本物になるだけが、奴の目的?
本物の人間になったところで、ソーレに協力している以上は、住む世界すらなくなるかもしれないのに?
下手すればそのまま利用され、殺されるかもしれない。あの子供が、純粋なまま狂ってしまったアイツが、ゼルフィルの望む自由を与える事は絶対にないと思えるのだ。

いやそんなまさか。どこまでも嫌らしい性格をしている奴の事だ、他に企みがあるはず。考えろ、何か裏があるはずだ。

タスクの力、イコール本来の《トキワ》が操る力が既に使えるようになっているのは、セレウグへの口封じの呪いで明確だ。
そこに新たに僕を取り込んだ所で、得られるのは遠い昔の記憶だけ。そこには何も――いや、その中にもしかしたら、何かしらの決定打があるのかもしれない。ゼルフィルにとっては有利になり、自分達にとっては不利になる何か。それが何なのか、分からない。

「ユーサ、私と一つになりましょう。そうすれば、もう化物と罵られる事もなく生きていけるのですよ。貴方も、その辺りの何も知らない人間達に迫害されて、さぞ悲しかったでしょう」

ゼルフィルが、こちらに向けて手を差し出す。きっと手を取れと言いたいのだろうが、生憎その表情からは狂気しか感じられず、とてもそれに応じようと言う気は起きなかった。
代わりにあのねぇ、と口を開く。

「何か勘違いしてない? 僕は、今のままで十分満足してるんだよ」

この際だからはっきり言っておこうと、普段なら絶対に一蹴してやるゼルフィルの言葉に、ユーサは答える。

確かにこの時代で意識を得てから、得体の知れない少年に手を差し伸べるどころか、何か穢らわしいものを見るかのような目で見る人間の方が多かった。これも、太陽神――或いは世界の摂理に背いた罰かと、当然の事なのだろうと思っていた。

だが仲間の許を離れ、同じように迫害されてきた魔物は言った。

『ユーサ、お前は一人じゃない。イオスやシアン、孤児院の餓鬼共、それに楽団の奴らだっている。人間の仲間は信じられないって言うんなら、オレだっている!』

幼い頃、不吉だと自身の容姿を恐れられていた少年は言った。

『オレは、オメーらの助けになりたいんだよ。それだけじゃない、たくさんの苦しんでる人達の。ただ、背中を守りたいだけなんだ』

迫害とは全く縁のないはずの女性は、迷いのない瞳を向け言った。

『家族をめちゃくちゃ貶されてるってのに、黙ってられないわよ』

排他的に生きてきた自分にとって彼らの言葉は衝撃以外の何物でもなく、それらは巻き込むまいと閉じていた自身の中枢に、ずかずかと無遠慮に上がり込んできた。いつからだっただろうか、それが当たり前だと認識したのは。それが、嬉しいと思ってしまったのは。

「お前の言うように化物同然だよ、僕なんて。でも、そんなこと関係ないって言ってるみんながいる。種族とか、特別な立場にいても、それでも普通に接してくれる人もいる。だから、人間として普通になる必要を感じない。それで大切な何かを犠牲にするなら、僕は化物でいい」

全ての人に好かれたいとは思わない。そんな事、望んでも不可能であるし。
だが、自分を家族だと、仲間だと言ってくれる一握りの人々の為にも、自分はお前に殺される訳にはいかない、と。

下ろしていた銃を持った手を上げ、真っ直ぐに正面にいるゼルフィルに向ける。

「僕にとっての幸せは、今のまま、みんなと一緒にいれること。だから、ゼルフィル――貴様は倒して、タスクも助ける」
「強欲ですね、貴方って人は。ですが、それでは駄目です。私の願いが叶わない――タスクの願いすらも」
「タスクはそんな事言わないよ」

少なくとも自分はゼルフィルより近くに、タスクといた。たまに彼の思考を読み取れない事こそあるものの、これに関しては自信を持って言える。
それに、元は同じ人間なのだ。恐らく奴も、ユーサがこう答えるであろう事は思い至っていたに違いない。

ゼルフィルへの返しを最後に、ユーサは地を蹴った。未だ羽根で宙を疾走る奴に攻撃を当てるには、不可能ではないとはいえ厳しい。
それに他の三人と一体も続く。シアンの身体強化魔法は体を軽くし、戦う為の活力を増進させる。

銃の射程に入ったところで、一発。意識を逸らさせる事が目的であり、目論見通りその隙を突いた刺突がゼルフィルに向かう。
間一髪鎌の柄を使い方向を逸らされたが、スウォアが素早くレイピアを引くと同時にセレウグが追い付いた。
がら空きだった腹に一発叩き込むと、完全にノーマークだったゼルフィルは腹を押さえて咳き込む。
地に足を付き動きを止めたその瞬間、ドッペルの影が帯状に広がり奴の足を絡め取った。これで宙には逃げられまい。
そこに素早く照準を合わせ撃とうと引き金を引く直前、思いがけないものを見る。

「イフリート!!」
「えっ……!?」

ゼルフィルの側から現れた炎の化身が、腕の炎を揺らめかせ周囲にばら撒く。
思いもよらぬ不意の一撃は前にいた二人を襲い、焼き尽くす。
――炎が弱まり、イフリートが光の中に戻って行く。
二人は所々焼け焦げた跡があるものの、思ったよりダメージはないようだ。スウォアがけほけほと咳き込みながら、こちらに顔を向け叫んだ。

「くっそ驚いたじゃねーか! あれお前のだろ!?」
「そうだけど、契約をしたのは僕じゃない……トキワだよ」

イフリートの契約主は『ユーサ=サハサ』ではなく『トキワ=アエーシュマ』。どうやらタスク自身にも、恐らくはゼルフィルにも――その契約は有効に働いているらしい。
とはいえ、それ以外の二匹――ドッペルゲンガーとファナリィは『ユーサ=サハサ』の契約だ。ゼルフィルに使われる心配はないはず。

「マジかよ。姉ちゃんが守ってくれなかったらヤバかったぞ、あれ」

思ったよりダメージが少ない理由に気が付いていたのか、スウォアはシアンの方に親指を立て感謝の意を示す。彼女のダメージ軽減魔法が辛うじて間に合ったのだ。

「とにかく気を付けて、アイツは僕だと思った方が良い。他にも何か、しでかしてくるかもしれない」
「オーケーオーケー」

ぱんぱんと服を叩き、再びレイピアを携えスウォアが駆ける。追従するかのように援護射撃を数発行うと、セレウグもまた立ち上がりゼルフィルに向かっていく。
声が出せないというのはなんとも不便なもので、今何処にいるか認識しにくく、攻撃に巻き込みかねない。二人が前に出ている間は射撃を止め、少し離れた距離で、相手が怪しい動作をしないか注意深く見定める。

だが、ユーサは気が付いていなかった。
彼らが激しい剣戟を繰り広げている最中、言葉を交わしているのを。
何度目かの衝突からスウォアとセレウグが距離を取った時、ゼルフィルは何故かあからさまに動揺しており、周囲に炎を呼び出した。

「貴方に……貴様に、私達の何が分かると言うのですか!!!」

先程のイフリートの炎とはまた異なる、静かに燃え盛るそれは、ゼルフィルの鎌に宿り刃を覆い尽くす。
明らかに今までで一番ヤバいと察したドッペルがシアンを抱えて後退し、セレウグとスウォアが巻き込まれ覚悟で防御態勢を取る。

「――っ!!」
「ぐっ……!!」

軽く吹っ飛ばされる二人を、だがユーサは見向きもせずゼルフィルに向かって突っ込んだ。白い銃の引き金に指をかけたまま、灼熱の鎌の軌道を先読みし、最適なルートを導き出す。
カイルがディアナを刺した時のように、《月の力》を帯びたこの銃の弾なら、タスクにダメージは与えず撃てるはず。ゼルフィルは半ラルウァで、タスクは人間だから。
ほとんど自殺行為であるこの行動が功を奏し、大技を使った事で隙が生まれた奴の懐に飛び込めた。心臓に銃口を向ける。

『ユーサ!!!』

脳裏にちらついた、金色。
自分を呼んだ気がして、引き金を引く指に込めた力が緩んだのが分かった。

「――良いんです、これで」

え、と声が漏れる。

自らの銃の銃身を、ゼルフィルが掴む。奪われる、と察したユーサは、咄嗟に引き金に力を込め――

ぱぁん、と銃声が響き渡る。

それまでの抗争が全て幻だったかのように、その一瞬は静まり返っていた。

硝煙が立ち上る銃口は、ユーサが狙い定めた場所、ゼルフィルの心臓部を向いていた。
では、そこから放たれた銃弾はと言うと。

ユーサにのしかかるようにして立っていたゼルフィル――いやタスクの体は、ぐらりと力をなくしたかのように地に崩れ落ちる。
次の瞬間にはタスクと、本来の姿に戻ったゼルフィルに分かれていた。融合化が解けたのだ、と判断するが、それよりも。

「お前、何で」

撃つ前に合わせていた照準は、ゼルフィルが銃身を鷲掴みにした時点で外れていたはず。なのにそれは、逸れる事なく当人の心臓部を直撃していて。
避ける事は出来たはずだし、掴んだ銃身を強引に明後日の方向に逸らす事も出来たはずだ。
外れていたはずの照準が、狙っていた場所に弾を放っている――その事実が示すのは、一つしかない。
だからユーサは問うた。『何で』、と。

ゼルフィルは、撃たれた胸を押さえて辛うじて立っていた。
ぼたぼたと流れ、地面に落ちていくそれは紛れもなくこの体にも流れている血液で、だが傍で倒れているタスクには何の外傷もないように思われる。
心臓を撃たれておいて何処まで頑丈なんですかこの体は、と忌々しそうにそれを眺めながら、ゼルフィルは片膝を付き。
その表情には、最早敵意も何もない。

「……私は、戻りたかった。貴方と言う、自分の本来の居場所に……」

それだけを言い残すと、ゼルフィルは光の粒子と変化し、ユーサの体に吸収されていった。
彼の記憶が、脳裏に思い浮かぶ。暗い牢で行われたタスクとの会話が、全ての理由を語ってくれていた。
自分に殺される為だけに動いていた事、ユーサがゼルフィルを殺したいと思うようにわざと神経を逆撫でしていた事、そして彼の本心を。

「……馬鹿じゃないの」

全て理解し、出た言葉。
最初から、本物の人間にしてやると言ったソーレの言葉を信用してはいなかったし、彼の望みではなかったのだ。分かたれた魂の回帰を真に望んでいたが故にソーレの許に付き、自分と相対していた。道化を演じ切っていたのだと。

ふら、と体中から力が抜け、支えを失う。奇妙な浮遊感が感覚を狂わせ、やばいと思っても力が入らない。
誰かが叫ぶ声が聞こえるが、それは直ぐにやかましいばかりの水の音に取って代わった。

――あ。僕、泳げないのに。

太陽を敵に回したどこかの神様が、蝋で出来た翼を溶かしながら落ちて行くように。
ソーレに呪われた体を嫌うように、水は己の体をどんどん深く沈めて行く。水面は、既に遥か彼方。

ああ、ようやく死ねるみたいだな。

思えば長かった。
意識が宿り、イオスに拾われて、タスクに会って、ゼルフィルと戦って。
最期にタスクと言葉を交わせなかったのは心残りだけど、それもまた罰なのかもしれない。人間として存在出来なかった、哀れな人間の。

それなら、ここで死んでも良いかな。

足掻く事を止めたユーサは、全てを諦め水に従う事にした。
あれだけ痛かった怪我も、致死量に近い流血も、全て感じなくなった。せめてもの情けか、と自嘲する。

――だが、ぼやけ始めた視界に、妙なものを映し、そして、見開く。

水中を走る光を受け、輝く紅。
ともすれば同化してしまいそうな、闇色。
そして、強い意志を宿す栗色。

水中で見るその色達は、今まで――この世で意識を宿した時から、この瞬間までで、一番綺麗だと思った。

■  ■  ■

「スウォア!」
「あ、教授。とサエリか」

慌てた様子で、サエリを連れて駆けてきたイオスが、タスクの側にいるスウォアの名を呼ぶ。
彼はそれに気が付くと、片手を上げ応じた。

「三人は!?」
「まだだ。ゼルフィルの野郎――いやこれはソーレか? くそ深ぇ海の幻影なんぞ作りやがって」
「ていうか、幻影ってこれ落ちて大丈夫なもんなの?」
「さぁな……」

イオスの問いかけに、ユーサが海に落ちた事は認知していると分かったのだろう。苦虫を噛み潰したような表情で、落ちた場所を睨みつける。
三人が飛び込んでから、体感的には随分と時間が経ったように思えた。早く戻ってこいと、ここまで願ったのは初めてではないだろうか。

ようやく冷静に状況を把握出来た時には、既に遅かった。ユーサが力尽き、この偽りである広大な海原に沈んだと知り、何故気が付けなかったのかと悔やむ。
彼の事だ、ゼルフィルが相手となれば確実に全身全霊で戦い、勝ち負けに限らず倒れてしまう事など容易に想像がついた。
後悔しても、仕方がないのは分かっている。

「タスクは?」
「脈を確認したが、生きてる。多分寝てるだけじゃねぇかな」
「そうか……」
「ったく、何も考えず飛び込みやがって。俺は留守番要員じゃねぇっつーの」
「じゃあアンタも飛び込めば良かったじゃない」
「あれは何ていうか……俺は飛び込むべきじゃねぇよ。それにコイツ放置になるじゃねぇか」

飛び込んでいった二人と一匹に向けて放たれた言葉に、思わず苦笑を溢す。彼には知る由もないが、長い付き合いのイオスとしては、それが彼らの当たり前の行動なのだと分かるからだ。
サエリはそれに気が付かず、スウォアと話を続けている。

と、水面が揺らめいた。
波とは明らかに異なるそれは、どんどん大きくなっていき――そして、待ち焦がれた色が顔を出した。

「――ぷはぁ!」

一番初めに水面に出てきたのは、シアンだった。

「な、何だよこの深さ、流石に俺も厳しかったぜ……」
「シアン、セーレ、ドッペル! ユーサは!?」

その後に、残りの一人と一匹も続いて出て来る。だと言うのに待ち焦がれた残り一人は一向に顔を出さず、イオスは彼らに問うた。
ドッペルがぐい、と水中で肩を揺らしながら、それに返す。

「こっちー。ったく、冷や冷やしたぜ」
「げほっ、ごほっ」

腕を引っ張られるようにしてようやく顔を出したユーサが、飲んでしまった水で噎せた。
取り敢えず引き上げよう、とサエリとイオスが三人と一匹を地上に引き上げる。冷えた体を震わせるシアンに、一瞬の判断で脱ぎ捨てたであろう上着を拾い、彼女に渡す。

「君達、馬鹿だろ!? 何で、わざわざ危険を犯してまで僕を助けたんだよ!!」

粗方水を吐き終わったのか、ユーサが声を上げる。その言葉は、暗に助けなくても良かったと言われているようで。

「当たり前だろ!」

もちろん、それに彼らが黙っているはずもなく。セレウグが怒りを顕にした声音で、ユーサの台詞に反論した。スウォアがお、声出てる、と呟いたが、イオスには何の事か分からない。

「助けたいと思ったから、助けた。ただ、それだけだ。オレも、シアンも、ドッペルも」

セレウグの言葉に、シアンは頷いてからにしし、と笑顔を浮かべ、ドッペルはまぁなー、と明後日の方向を向く。各々の反応を視界に収めたユーサは、ただ黙って――いや呆然としてそれを受け止めた。
多分、そう返されるとは思ってもいなかったのだろう。排他的な思考で自身を守り、常に死と隣合わせで生きていた彼にとって、そこまで人に思われていた経験などないであろうから。

お前が思っている以上に、お前を『ユーサ』として思ってくれている人はいるんだぞ。
――そして、自分もその一人なのだという事を知って貰う為に、イオスは彼の目の前に跪き、水に濡れてもなお癖のある紺の髪を、くしゃりと撫でた。

「ユーサ、無事か?」
「イオスさ、」
「良かった……本当に、良かった」

込み上げて来る何かを堪えながら、笑顔を浮かべる。失う事がなくて良かったと思っている事を、彼に届くように願いながら。
尚も戸惑っているらしいユーサの反応に、シアンがにこにこ笑いながら声をかける。

「ユーサ、こういう時は何て言うか知ってるでしょ?」

まるで孤児院の幼い子供に語りかけるように、その声は優しかった。
ユーサは彼女を見、イオスを見、セレウグやドッペルを見ると、とても小さい声であったが――ありがと、と呟いた。

「よし、残りはソーレだな」

イオスが治癒魔法を手早く施すと、ドッペルが塔の上を見上げ言った。
リレスとレッドン、ホルセルは先に行かせたらしい事、この周囲に残るゴーレムや魔物達はイオス達が残り請け負う事を軽く打ち合わせると、時間が惜しい事もありすぐに出発する。

「ちゃんといんじゃねぇか」
「え? ――あ、」

道中、スウォアからかけられた言葉が一瞬理解出来なかったが、ここに来たばかりの時の会話を思い出し、うるさい、と返しておくのは忘れなかった。