第98話 強き意志の脆さ

振り下ろされた刃は、しっかりラルウァの拳を貫いたはずだった。
少なくともリレスはそのつもりだったし、タイミング的に誰も妨げる事は出来ない。

そのはずだった、のだ。

「……え」

しかし、ならば今目の前に広がる予想と異なる光景は、一体何なのだろうか。
穿てと念じた通りに動いたはずの光の刃は、ターゲットの目前にぽっかり空いた黒い穴――まるでブラックホールのようだ――にその半分を埋め、肝心のラルウァ自身にはダメージを与えていない。
空間移動を行う魔法の類いなのか――誰がこんな魔法を、と何時もより回転の遅い頭で状況を理解した瞬間、リレス、と名前を呼ばれた。

「駄目だよ、リレス。君は、殺しては駄目だ」

帽子の鍔の影に潜む双眸が真っ直ぐにこちらを見据え、責めるような――或いは彼自身さえも困っているかのような表情が向けられた。
リレスが刃を振り下ろす直前、レッドンが同タイミングで詠唱を破棄した上で魔法を使い、ブラックホールを生成しその刃を止めたのだ。
ざり、と破壊された瓦礫を踏む音が、いやに鼓膜に響く。

「その役目は、俺のものだ」
「――ガアアアアアアァ!!!」

直後、ラルウァの拳の中の《月の力フォルノ》が爆発的に膨らみ、ヴィエントが生み出した氷の檻が破壊される。耳を塞ぎたくなるような断末魔が響く。
檻から飛び出したキセラは、もう人ではなかった。皮膚が黒く染められ、手足が異質化している。中途半端に変質しているのは、直前まで《月の力》を奪い取っていたせいか。
ウィンタの時を思い出し、ひ、と声が漏れた。

だがレッドンは冷静だった。
キセラは一番近くにいた彼を狙ったが、彼はリレスが生成した剣を、魔力を与える事でコントロールを得る。
避ける、などという思考は既に消え去っているのだろう、彼女はただ標的だけを見据え、がむしゃらに突っ込んで来た。
ザシュ、と嫌な音が響くが、レッドンは僅かに息を洩らすだけで。
逆に、動きが止まった一瞬を狙い、リレスの剣を今度こそ彼女に突き立てた。
後を追うように放たれたラルウァの拳も、ホルセルがスティレット、サエリが弓を放って逸らし、出来た隙を狙い目を穿つ。

光の剣が、粒になって霧散する。
それによって支えられていたキセラの身体は、重力に従い地面に倒れ伏す。

「キセラ!!」

周囲を気にする事なく駆け寄ったイオスが、キセラの上半身を起こした。光の剣は彼女を貫いたが、身体にそのような外傷はない。歌姫の滝で見たあの過去の映像のように、悪しき力だけを斬ったのだろう。
姿が戻ったキセラは薄っすらと目を開け、いおす、と掠れた声で応えた。

「すまない……君に、ここまでの憎悪を抱かせてしまって」
「……ようやく、しねて、うれ、しいくら、いよ……。アタシは、じゆう、に、なりたかった……」

続くはずだった輝かしい未来を奪われ、生死すらも《輝陽 シャイン》に握られ、何もかもが変わってしまった彼女の人生。
謝罪をしても、贖罪を乞うても意味がないのは、明朗なイオスの事だから分かっているはずだ。今ここで彼女は消えてしまい、それが届く事は二度とないのだから。
だが、イオスは言わずにはおれないのだろう。強要された実験の末生み出され、情報漏えいを恐れた人々が消え去った、悲しい存在に向けて。

キセラは視線を僅かに動かし、イオスでなく、虚空へと向けた。

「ほんっと、ばかなこたち……。まもって、あげなさい、よ……」

言葉とは裏腹に歪められた口元。
それがキセラ本来の、慈しむような笑顔だと気が付いた時には、彼女の身体はイオスの手元から消え去っていた。肉体すら残さず――イオスの肩が、震えたのが見える。

ぺたん、と地面に座り込む。終わったのだ、と呆然とした頭で把握した。

「――リレス」

彼女の旅立ちを見送り、生まれた沈黙。
そこに呼ばれた己の名に、リレスは顔を上げる。

レッドンは、いつも通りの感情が希薄な表情を浮かべていた。だがそこから感じるのは、怒り、悲しみ、いやそれらとは違う、別の何か。
これは何だろう、とぼんやり疑問を抱きながら、彼の腕を見る。ああ、先程斬られた腕から血が流れている。ち、が。
そこに触れようとするが、レッドンはこちらの動きを察し腕を遠ざける。そして、静かに言った。

「君は、手を染めてはならないひとだ。いかなる理由があろうとも」
「……私は、ただ助けたかった。あの人を、苦しみから救ってあげたかった」

そうだ。
あんな、延々と終わる事のない地獄を見せ付けられて、平気な人なんていない。一瞬の事だったと言うのに、自分はここまで恐れ、戦慄したのだから。
治癒魔法ですらそれを叶えられないのであれば、それから逃れられる手段が相手を倒す事しかないのならばと、思った。殺すのではない、救うのだと、自分に言い聞かせた。

「あの人の記憶が見えたんです。これ以上、苦しませたくないって、思って。そう考えたら、もう手遅れなんだって思ったら、早く、助けてあげ、なきゃって」

感情をそのままに口にしていると、今ようやく、自分が何をしようとしていたのか実感が湧いてきて、体が震えてきた。

だって仕方がないじゃないか。助けたいのに、自分の力では何をする事も出来ない。苦しむ彼女に治癒魔法を施しても効かないし、仮に効いたとしても、それはラルウァとなってしまった彼女にとって毒薬になる。ラルウァのままで生きろ、と言っているものではないのか。助ける方法はただひとつ。殺すしかないのだと、この旅で何度も耳にしたし、クーザン達もそれに苦しんできたし、何故か自身にもインプットされていたかのようにそれに疑問を抱こうともしなかった。そして、クーザンは答えを出した。ラルウァになってしまった親友を、殺す事で救うという答えを。スウォアに、彼が生きる可能性を示されたにも関わらず。いつ爆発するかも、しないかもしれない大きな爆弾を抱えたまま生きろなどと、クーザンには言えなかっただろうから。だから彼を殺す事を選択したし、ウィンタもそれを望んでいた。自分ならどうしただろうと、考えない訳ではなかった。その問いに答えを出す前に、今が来てしまった。考える暇も、他の方法を探す暇もなく、彼女はただ泣き叫ぶように唸り、その体を化物に変質させていた。どうしたら良かった? どうすれば、自分は納得出来た? そもそも、納得のいくような手段なんてあったのだろうか? 目の前で苦しんでいた相手を助ける手段すらなく、ただ震えている事しか出来ない、力のない私に出来る事なんて、あったのだろうか?

――いや。私はただ、

「……こわかった……!!」

彼女が見てきた記憶も、先程まで自分達と同じように話していた人が化物になっていくのも。
何より――殺すしかないと思った、自分自身が。

「あの人を助けたくて、でもこわくて、足も震えて、やらなきゃって気持ちだけが先走りして、私は、わたしは……!!」
「リレス!!」

子供のように叫ぶ事しか出来なくなったリレスは、だがレッドンの声で体を震わせるとぴたりと動きを止める。
レッドンが、ゆっくり傍に近寄ってくる。左足を引き彼女と同じ目線になると、肩に手を置きながら僅かに口角を上げ、優しい声音で言った。

「君は、そのままで良いんだ。それが、正常だから」

そのままで良い。
人を助けられなくて悔しいと叫んだリレスに、それで良いんだと。苦しんでいる人を助ける為に、一度でも殺そうと思った自分を怖いと言った、その感情こそが正しいのだと。

頭が理解した瞬間、視界が滲んだ。悲しいのか嬉しいのか、自分でも良く分からない。

「……う」

敵地の中だとか、まだ戦っている仲間もいるのだとか、呑気にしている場合ではないのだとか、そんな事を頭の中では分かっていても、涙腺が切れてしまったかのように溢れてくる涙は止まらない。
結局、リレスはそのままうわああぁん、と声を上げて泣き出した。

すっかり役目を取られちゃったわね、とリレスをあやすように傍にいるレッドンを見ながら、溜息を零す。
旅を始めてから気丈に振舞ってきたリレスが、ああして泣くのを見た事はない。
責任感も強く、どこか頑固な彼女の事だ。遺跡でクーザンが倒れた時も、アブコットで自分が動ける以上にいた怪我人相手にも、自身の実力不足に嘆いていたはず。
それなのに、弱音は吐いても泣かずにやれる事を全うしてきたリレスの強さは、賞賛を覚えると同時に懸念もあった。
無理をし過ぎると、人は時として思いもよらない事で崩壊する。そうなって欲しくはないからこそ、サエリは思う。

「レッドンが止めてくれて助かったわ。相手がラルウァでも、あの子が人を殺すのを見たくなかったから」
「……だな」

二人を見ながら呟いた言葉に、ホルセルも同意を示す。

「リレスにはオレ達みたいに非情な感情は似合わねぇよ、ほんと」
「あら、アンタはいつ非情な感情を持ったのかしら? 情に流されてばっかりじゃない?」
「……くそ、否定出来ねぇ」

ツーハンデッドソードを肩にかけながら、不貞腐れた表情でホルセルが拗ねる。アンタこそそういう非情なのは似合わないと思うのだけど、と思っている事は言わないでおいた。

そろそろ頃合いかと思い始めた頃、イオスがふらりとこちらに戻ってきた。顔は酷いものだが、リレスと同じ紅い瞳からは強い意志が消えてはいなかった。キセラとの戦いは終わったが、まだまだ休めそうにない。
ホルセルが心配そうに口を開く。

「イオスさん、もう大丈夫なんですか?」
「ああ。すまない、私のわがままに付き合ってくれて」
「助けたいのは、一緒だったからね。アタシじゃなくて、あの子が」

落ち着きかけているとはいえまだ泣いているリレスを視線だけで指し示すと、イオスは苦笑を零し、ありがとう、とだけ呟いた。
サエリは返事を返す代わりに、あ、と声を上げ服のポケットに手を突っ込むと、何かを取り出す。

「あとこれ。町の崩壊に巻き込まれて飛んでたんだと思うんだけど、多分イオス教授宛だと思うから」
「……え?」

飛行機の形に折られた紙――羊皮紙のようだ――を渡されたイオスは、呆けた表情でこちらと自分の手元で視線を往復させる。
何か聞きたい事もあるだろうが、今はまだ敵地の真っ只中で、向こうではゼルフィルとやり合っている。すぐにでも応援に行くべきだろう。いいから受け取ってと言わんばかりに押し付けると、彼自身もそう判断したのか、何も聞かずにそれをコートのポケットにねじ込み、周囲を見渡した。

「さて、こうしてはいれない。早くユーサ達の援護に行かねばな」

イオスが残っているジャスティフォーカスの構成員に、引き続き魔物掃討の指示を出す。同時に、常に動き回っているのかもう一方で戦っている者達の姿を求め、周囲を見渡した。

随分と離れた場所で、まだ剣戟の音が響いているのが聞こえる。派手にやっているようだ。
そちらを見やると、随分と遠くはあるが捜していた人物の姿を見付け、あそこ、と指し示す。

だがイオスがそれに反応し、そちらを振り向いた直後。
彼の身体はぐらりと傾き、直ぐ側にあった幻影の海へと、ゆっくり落ちていった。

   ■   ■   ■

「スウォア、君いつから記憶が戻ってたの?」

時は少し戻る。
塔に向かった彼らが把握しているかは分からないが、スウォアは当時の人間でないと知らない事を知っていた。
『今度は、最後まで』。それは、激化する戦いの最初にソーレに殺された、ミシェルの想いのように聞こえたのだ。
だが、それはスウォアには知り得ない事のはず。ならば記憶が戻ったのか問うと、彼ははぁ?と訝しげな声を上げる。

「何だよそれ。つーかさ、めんどくせーんだよそういうの。過去に自分が何者だったのかなんて、俺には関係ねぇ。俺はアーク=ミカニス……いや、スウォア=ルキファーなんだからよ」

いや、何だよそれってこっちが言いたいんだけど。
と開きかける口を閉じ、代わりに呆れを乗せた溜息を吐く。本当に唯我独尊的な性格をした奴だ、と心の中で呟いた。

「良く言いますね。本当に――貴方からして見れば、私達が過去の自分に縛られて争っている光景なぞ、馬鹿らしくて仕方ないことでしょうね」
「いや別に? そんだけじゃねぇだろ。元がひとつだったからこそ戦ってるんだろ」

ゼルフィルが少しだけ落ち着いた声音で、だが怒りを隠そうともせず言う。一方スウォアはいつも通り、飄々とした調子でそれに応えた。
余程意外だったのだろう、目を丸くしたかと思うと、そのまま目を細める。視線の先には誰もいない、ただ虚空を見つめていた。

ユーサは――『トキワ』であった自分達はクーザン達と異なり、全ての記憶を持ったままこの世界に存在している。

先程ゼルフィルが語った事は、半分正解で半分外れていた。
ソーレにはラルウァを生み出す力があり、トキワはそれを知っていた。死してなお体を利用され、仕える者達に危害を与える為の傀儡にされるくらいならと、殺される瞬間、彼は消えゆく命と引き換えに自分の体と魂を分離させた。ラルウァに必要なのは《月の力》と、それに汚染された魂。その片方さえなければ、作り出すことは出来ないと考えたのだ。
だが、ソーレが使っていた魔法は彼の魂にすら引き裂かれるような痛みを与え、二度と消えることは無い烙印を刻み付けた。偉大なる太陽神に逆らった咎人、という烙印を。
今なら分かる。あれは引き裂かれるような痛みなどではなく、本当に引き裂かれたのだと。もちろん体ではない。魂を。
それを利用して、自身の手駒になるよう生み出された存在――だから《偽物》ではあるが、《トキワの一部》ではあるのだ、ゼルフィルも。
それらを奴が知らないのは、不完全に分かたれてしまったが故か。

気が付けば、幼い姿で今の時代に立っていた。温かい家庭にいたという記憶も、自分が何故そこにいるのかという記憶すらなく、自分は『トキワ』であって『トキワ』ではないのだと言う確証のみを記憶は教えてくれた。
それは最早、身体が若返ったのを除けば「生まれ変わった」のではなく、時間転移をしただけ、と言えよう。
一瞬前まで隣にいた彼らが、今や生まれ変わり別人となっている。自分だけが記憶を持ち、皆を覚えている。
――生き地獄とは、よく言ったものだ。
タスクがいなければ、あるいは自分にのしかかる全てに押し潰され、ここに立っていなかったかもしれない。

「ありがちな話ですが、自分が欠陥品だと分かっていて満足する人はいません。当然私も、自分の欠陥を埋められる何かを探し、またそれを求めました。――そんな時です、ソーレに会ったのは」

先程とは違う、落ち着いた声音で語られ始めた言葉。

「当時まだ、ソーレはあの子供の体を持たず、意識のみの状態でした。にも関わらず、私に語りかけて来たのです。私も『トキワ』でしたので、最初は彼に警戒心を抱きました。ですが、奴は私の魂の状態を見て嘲り、言ったのです。『お前は俺が作った。憎き神官の魂を写し取り、またこの世界にやってくるであろうディアナとカイルを殺す為に。人間として生まれるであろう片割れを取り込めば、お前は普通の人間になれる。その手伝いをしてやろう』と」

――とんだ戯れ言だ。
ユーサが聞いたなら、そう一蹴出来る話。だがゼルフィルには違ったのだろう。奴の考えなど分からないし知りたくもないが、こうして立場を違っている以上、容易に予想がついた。

「それから私はソーレと手を組み、スラム街で死にかけていたあの子供の体に宿る事を勧め、貴方達二人を見つけ出し――後は、貴方達も知っての通りですよ」
「お前、そんな話信じてたのかよ。いやまぁ、俺らとはそもそものスタート地点も違うし、こうして俺らの前にタスクの姿でいる以上、嘘とも取り切れねぇけど。俺、それ最初っから信じてなかったぞ」
「……貴方が私達を裏切るのは、予定調和だったようですね」

悉く異端な発言をするスウォアに、ゼルフィルは侮蔑の表情を浮かべた。

「それで? タスクを取り込んだからその姿になっているのか、そもそも幻影なのか、どっちだよ?」
「それを私が教えるとでも?」
「思わねぇな、流石に。ユーサ、お前的にはどっちだ?」

話を振られ、ユーサは今一度黙考する。
どうしてゼルフィルがタスクになっているのか。タスク自身はどうなっているのか、ゼルフィルの身体はどうしたのか。
あらゆる可能性を考え、一番高い可能性を導き出す。

実のところ、直ぐに浮かんだ可能性はあるにはある。
ゼルフィルが身体を捨て意識体になり、タスクの意識を押さえ込んでいる、といった場合。普通なら「それはない」と否定するところなのだが、それを可能にする魔法がある事を、よりによって自分に使っていたのを知っているのだ。
ユーサ自身はそれを使えないし、使い方も覚えていないので、恐らくタスクの方にその記憶は持って行かれていると思われる。ゼルフィルが知っている可能性は、先程の話を聞く限り、ない。
しかしそうすると、その使い方を知っているであろうタスクが、ゼルフィルに教えた事になる。
――何の為に? 自分の存在が消えるかもしれないのに、何故タスクはそれを了承したのか?

知りたい。その為には、タスクからゼルフィルを引き剥がし、問わなければならない。

スウォアに問われてからたっぷり十秒かけ、ユーサは答える。

「……性格を考えると、あれはタスクの体、だと思う」
「俺もそう思うわ。さて、どうするかな」

ゼルフィルが体を捨て、タスクの体に宿ったとする。となると、つなぎとなる何かがあるはずだ。一番高い可能性は《月の力》――。

しかし、相手が考える時間を与えてくれるはずもなかった。
再び鎌を構え、体勢を低くすると、

「話は終わりです。私の為に、死んでください」

そう言ってこちらに突っ込んで来たのだ。
咄嗟に左に避け、第一撃をやり過ごす。スウォアも応戦の構えを取った。

「考える時間くらいは――稼いでやるよ!」

地を蹴り、マントを翻しながらスウォアが動く。大振りになる鎌の振り下ろしの隙に、迷い一つないレイピアの、高速の刺突。
だが難なく避けられ、ゼルフィルが一歩下がる。
スウォアも大人しく逃しはしないらしく、それを追い立てるように距離を詰めながら、刺突の雨を繰り出した。
これには流石に対応せざるを得ないのか、ゼルフィルは鎌で数回あしらうものの、すり抜けた刃が皮膚に掠る。

考える時間くらいは、と言う事は、その短時間で結論を出せと言う事。無茶言うなと怒鳴りたいところだが、確かに時間はあまり残っていない。
どうすれば最良なのかさっぱり思い付かない自分の頭を呪いながら、ユーサは仕舞っていたホルスターから銃を引き抜いた。

ちっ、舌打ちの音が聞こえたかと思うと、レイピアを引き戻す。今度はゼルフィルが鎌を振り抜く動作を見せ、スウォアは距離を開けようと背後を一瞥した。
それを邪魔されないよう、牽制の弾丸を放つ。

ユーサは状況の精査とは別のどこかで、不思議に思っていた。
今まで、ゼルフィルと対峙すれば我を忘れる勢いで怒りに囚われる事がほとんどだった。
だが今はどうだ。怒りを覚えてはいるが、過去に対峙した時と比べるとずっと冷静になれているのだ。良い意味でも悪い意味でも、スウォアが潤滑油になっているらしい。
自分達と比べ、もっと分かりやすい意味で化物である彼がその役割を担っているのは冗談か何かかな、と誰にも向ける事のない愚痴を心の中で零す。

「どうすればいい?」
「とりあえず、このまま応戦かな。アイツの様子を観察しながら」
「了解!」

体力を削れば、何かしらの動きはあるはず。推測ではなく願望であるのは気付かない振りをして、正面のゼルフィルを見据えた――その視界に、ふわりと光のベールが映り込む。

「アンタ達、平然と喋ってるなんて余裕あるじゃない」
「シアン!?」

聞こえた声に振り向けば、水辺を挟んだ向こう側――破壊された建物の瓦礫から飛び出して来たシアンの姿を見付け驚愕する。となると、今のは彼女が使った魔法か。いやそんな事はどうでも良い、何故こんな最前線に。そこらに湧き出る魔物や、ゴーレムの相手をするジャスティフォーカス構成員の治療をしていたはず。
案の定、相手の視線も彼女に向く。赤い眼が人を射抜くように細くなるが、シアンは全く怯まず、ゼルフィルに右手の人差し指を向けた。

「魔物と戦いながら聞いていれば、アンタは自分が可哀想とばかりに同情を強要して! アンタだけが辛い思いしてた訳じゃないのよ!! ユーサもタスクも、アタシ達とちょっと違うからってめちゃくちゃ嫌な事されてきてるんだからね!!」
「……ああ、ユーサがいた孤児院の」
「あら、覚えてくれていたなんて光栄ね。何様なのか知らないけど、自分だけが不幸だと思ってんじゃないわよ! 何なら教えてあげましょうか、アンタが知らないとこで二人がどんな扱い受けていたか!!」

彼女がルミエール院の子供だという認識を相手が持っていた事に僅かばかり驚きつつも、あろう事かゼルフィル相手に啖呵を切るシアンに、ユーサは驚きよりも止めなければ、という気持ちの方が勝る。
ユーサ自身は、彼女の言う『嫌な事』を記憶に留めるまでもない事柄として処理しているのでロクに覚えてすらいないが、今そんな事を相手に話しても逆効果だ。

「シアン、君は良いから後ろに――」
「不幸自慢してる訳じゃないわよ。アンタが自分の事ばかりでユーサの事情を聞きもしないから、頭に来ただけ。そんな事うだうだ話してる暇があるなら、さっさとタスクを返しなさい!!」
「……煩い人ですね」

ゼルフィルの堪忍袋の緒が切れたのか、細い瞳を更に細め鎌を持ち直すと、悪魔の羽根を広げ、一気にシアンとの距離を詰めた。制止は間に合わない。

鎌の刃先が彼女に届くか否かの刹那、半壊した建物の影から何かが飛び出した。
何かは丁度地上に接近していたゼルフィルのシャツの胸倉を掴み、鎌を持つ手を捻り上げながら、飛んで来た勢いそのままに地面に叩き付ける。いつの間にか鉄扇を携えたシアンが、嬉しそうに口角を吊り上げ笑った。

建物の影から飛び出した何か――今の今まで何処にいるかも分からなかったセレウグが、ゼルフィルの背中に掴んだ腕を回し、うつ伏せで動きを封じた体勢のまま苦笑いを浮かべている。

「ナイスタイミング、セーレ!」
「シアン、囮やってくれて助かったけど、怖いもの知らず過ぎるだろ……」
「なーに言ってんの。家族をめちゃくちゃ貶されてるってのに、黙ってられないわよ。すっきりしたわ」

二人の会話から読み取れた本当の目的に、ユーサは頭を抱える。
ゼルフィルを捕まえる為にシアンが囮になり、飛びかかって来た所をセレウグが、という段取りだったらしい。彼女に何て危険な事を、と怒鳴ってやろうかと思ったが、とても満足そうな本人を見ていると、言い出したのはセレウグではなくこちらなのだろう。
ぱちぱちぱち、と乾いた音に視線をやれば、スウォアが口笛を吹きながら拍手をしていた。

「ひゅー。やるじゃん、あの姉ちゃん」
「こっちは寿命縮んだんだけど……」

流れるように行われた一連の出来事に、何故タスクの姿でゼルフィルの持つ悪魔の羽根を出せるのか、という疑問を吟味する暇もない。無茶をしないで欲しいと言っても聞かないのは分かっているから、尚の事。

セレウグはシアンからゼルフィルに視線を移し、些か戸惑いの表情で悪いな、と口にする。

「ユーサがゼルフィルと戦ってるって聞いて来たのにタスクと戦ってるし、正直さっぱり状況を飲み込めねぇんだけど。お前、ゼルフィルだよな」
「……来るとは思っていましたよ。セレウグ=サイナルド。大層手酷くやられているようですが、私ごときを捕まえていて大丈夫なのですか?」
「いや、何でお前がオレの心配してるんだよ」
「セレウグ、そのまま捕まえとけよー」

呑気なスウォアの声。いや、確かにまた飛ばれればこちらとしては厄介な事この上ないので、同意ではあるのだが。

しかし、ゼルフィルが何事かを口にし――何て言ったのかは、こちらには聞こえなかった――、セレウグが目を見開いた直後、押し退けるようにして彼の拘束から抜け出し、再び宙に飛び上がった。
跳ね飛ばされたセレウグは受け身を取ったが、傷が痛むのだろう、腕にもう片方のそれを添える。

「あ、おい! セレウグお前、何力緩めてんだよ」
「悪ぃ、……」

すまなそうにスウォアに返し、セレウグが宙のゼルフィルを仰ぎ見る。その表情から何故か戸惑いの感情が読み取れ、ユーサは怪訝に思った。だがどうしたの、と問いかける暇はない。

「分かりました。ユーサ、貴方の仲間を皆殺しにして、貴方を手に入れる事にします。ついでにスウォア、貴方は最も惨たらしい殺し方で息の根を止めてあげます。感謝してください」

銀髪の向こう側から、赤い瞳がこちらを睨め付ける。一切の感情を排除し、殺戮だけを目的とする機械のように。
叩きつけられた時に手放した鎌を手元に手繰り寄せたゼルフィルが、静かに言う。

「誰が殺されるって?」
「ついでで惨たらしく殺されてたまるかよ」

むしろ自分より応戦態勢に入っているシアンとスウォアに気圧されながら、ユーサもゼルフィルに向き直った。
ここで奴との因縁も断ち切るのだと、決意を新たにしながら――。