第97話 待ち受ける者

クーザン達を無事先に、塔に送り出した後。
まぁいいわ、とすぐに思考を切り替えたキセラとゼルフィルの猛攻を捌きながら、塔の外に残った彼らは応戦を続けていた。

まるで自身の操り人形であるかのように、ラルウァを操り殴ってくるキセラの攻撃を避け、そこに飛んでくるゼルフィルの炎魔法。
イオスは口早に反射バリアを生成する魔法を使う。的確なタイミングで現れたそれに、無理な体勢で避けようとしていたレッドンがそのまま地面に倒れ込む。直後には目の前で炎の矢が力を失ったかのように消え、彼は素早く立ち上がっていた。

主な戦場は時計塔の前から広範囲に及び、側にある海浜公園の遊歩道を駆ける音が響く。

「幻影には気を付けなさい! 油断すると、呑まれて迷い込むわよ!」

サエリの指示が飛ぶ。
海浜公園、と称したものの、周囲は信じられないような光景である。

まず、本来ダラトスクという国は海の側にあるものの、そのど真ん中に建てられている時計塔の近くに海岸はない。
これはゼルフィルが行った幻影魔法である。サン――いや、ソーレの真似をし、足場が不安定だという精神的余裕をなくすためだろう。もっとも、彼のように空間を捻じ曲げて、幻影の中に閉じ込めるまでは出来ないようだったが。
あるいは、単にユーサに向けての嫌がらせの可能性もある。自身も同じように水は苦手なはずだが、彼には偽りの羽根があり行動を制限される事はない。
問題は、これを解除させる手段がこちらにはないという事だ。いや、出来ない事はないのだろうが、それには途方もない魔力と戦力が必要になる。そこに割く余裕は、ない。

僅かな音が耳に届き、咄嗟に身体を捻り避けた。前衛が後衛に攻撃が飛ばないよう頑張ってくれているが、この攻撃回数だとどうしても数回はこちらへ通ってしまうのだ。

キセラに視線を向ける。彼女は憤怒に囚われ、イオスの声など届きそうにもない。
怒り狂っているとは言え、手厚い下地造りが専売特許であるキセラと、得意武器も相俟って攻撃力が高いゼルフィルを同時に相手するのは、どう考えても非効率だ。
ここはどちらか片方だけでも行動不能にさせなければ、こちらの被害は増える一方である。

では、どちらを狙うか。
ユーサとスウォア、ホルセル以外だと、意外と火力を持つ駒はこちらにはいない。
ダメージを与える度にその分超回復される可能性のあるキセラは、倒すのが難しい。ならばゼルフィルを、と思うが、彼女の補助魔法のお陰でこちらもやや骨が折れる事は、火を見るより明らか。それでも、鎌を扱っていることにより生じる防御力の低さで考えれば、少しはマシだと思われる。
幸い、指示を出す前にゼルフィルにはユーサ達が向かってくれている。あちらはあちらで心配だが、スウォアもいる。彼らに託すしかない。

実質数秒間の思考から抜け出すと、状況が飲み込めず蚊帳の外になっていたジャスティフォーカス構成員にゴーレムの相手を頼み、自分は前衛へ向かう。
後衛に攻撃を通すまいと奮迅してくれているレッドンとホルセルの隣に辿り着くと、彼らが驚いたかのように口を開いた。

「うわ、イオスさん!?」
「教授。あなたが前に出ると、危険」
「分かっている、すまない。だが、私は彼女とどうしても向かい合わなければいけないんだ。危険なのは承知の上だ」

彼らは、後衛の自分が前衛で戦えないから、心配して声をかけてくれているのだ。その気遣いを無駄にしてしまう謝罪を口にし、頼み込む。
二人は顔を見合わせ、少し困った表情で仕方ないとばかりに頭を振る。

「あまり無茶しちゃ駄目だぜ」
「……出来る限り、援護はします」

納得してくれたのだろう、彼はそれ以上何も言わなかった。
彼女の怒りが自分のせいであるなら、自分が動かなければ、例え倒せたとしても根本的な解決にはならない。それをきっと、分かってくれたのだろう。
二人にもう一度すまない、と謝罪を口にする。

彼女は己が呼び寄せたラルウァの肩に腰掛けている。スウォア以外は翼を持たないノウィング族しかおらず、また彼を呼び寄せる訳にもいかないこちらの陣営では、直接攻撃は難しい。しかし魔法での攻撃なら、届かない事もない高さだ。
だが、イオスは魔法を使う気はない。彼女と話したいだけなのに、戦意を示すような事はあってはならないのだ。

「キセラ!! もう止めてくれ。君は、そんな酷い事が出来るような女(ひと)ではなかったはずだ!!」
「何寝言言ってんのよ。だから、昔のアタシはアンタが殺したって何度も言ってるじゃない!!」
「本当に?」

静かに問うた声は妙に周囲の空気を震わせ、キセラから気迫が一瞬消える。

「本当に、君は優しさを忘れてしまったのか? 人は、そう簡単に変わる事は出来ない。私がいつまでも、君の言う腑抜けなままなのと同じように。君にはまだ、君の優しさが残っているはずだ。それを、私が起こしてしまったあの出来事のせいで、忘れてしまっているだけなんだよ」

イオスは、当時の光景を思い返す。

魔法科学の発展に貢献出来る、と自分は例の実験について説明されていた。
正直、初めて話を持って来られた時には嫌な予感を感じていたのだ。それを包み隠し、だが自分は実験に参加するつもりはないと返すつもりであった。

だが代わりに提示された、実験に加担しない為のひとつの条件。
それが、自身の出生に関わる秘密を暴露させて貰うという、条件というより脅しと言えるものであった。

イオスは幼い頃に両親を亡くし、天涯孤独の身で必死に生きる為の術を身に付け、恩師と慕っていた人物――もう大分前に亡くなってしまっているが――からの援助を受けながら学校に通い、優等生だと呼ばれるまでになったという経歴を持っている。
それは恩師からの、自己を守る為に提示された経歴だ。出自も家族も覚えていないと言えば、殆どの者は「ああそうなのか」でそれ以上の追求を止めてくれる。
それが事実ではないにしても、この大陸では似たような境遇の子供達が悲しい程に多い事実に基づき、その一人としてしか思わずにいてくれていたのだ。

暴露すると言ったその人物は、周囲にいた人間の耳には入らないよう、その秘密を告げた。そんなまさかと思っていたイオスは、自身が闇に葬ったはずのそれを知られている事実に恐怖を覚え、そして頷いてしまったのだ。
やがて、大学の同志達を間接的に生け贄にする事になった、その実験の一柱になれという誘いに。

実験が進むにつれ、イオスは段々とその後悔の念を強めていった。
自身の出生の秘密は、果たしてこの禁忌とも言える実験と天秤にかける程重たいものなのだろうかと。いっそ研究結果と共に行方を晦ませ、一生を終える事が最善なのではないのかと、何度頭を過ぎった事か。

そう思いながらも無情に時は過ぎ、そして起こってしまった。
数十人の大学生を『殺した』、あの消失事件が。

脅されていたとはいえ、イオスはキセラに謝る資格はないと思っている。理由はどうあれ、自身が実験に加担した事で彼女は命を失ったのだから。

「(そう、これは業だ。私がしでかしてしまった過ちが、キセラという形で返ってきたんだ)」

自身の秘密が周囲にばら撒かれるのを恐れるあまり、犯罪とも呼べる出来事に加担してしまった己の弱さ。
それを止める事も出来たのに、それをしなかった己の怠惰。
それが、イオス=ラザニアルが犯した過ちである。

だから、イオスは受け入れると言った。
認めると言った。
そして、自分のせいで歪んでしまったキセラを、少しでも救いたいと思ったのだ。

「思い出してくれ。思い出すんだよ、あの頃の君を」
「ア、アタシは……っ」

必死の呼びかけに、キセラは少し怯んだようだった。頭に右手を当て、顔を顰める。
彼女の中で、理性と悪意がせめぎ合っているのだ――イオスはそう確信し、足を一歩踏み出す。

その時だ。
苦しみに顔を歪めていた彼女の口元が、吊り上げたかのように弧を描いたのは。

「とか、言ってくれると期待してる訳?」

その言葉に、かつての彼女の面影など微塵も感じられなかった。
キセラの乗るラルウァの腕が棍棒のように巨大化し、横薙ぎを繰り出した。完全に不意を、いや、直前の言葉を聞いたせいで判断が遅れたイオスは避ける事も出来ず、モロにその一撃を受けて吹っ飛ばされる。叫ぶ暇など、皆無だった。

「――――!!!!」

悲鳴に近い声音で、何事かを叫ぶ誰かの声が遠い。
一瞬深い闇に落ちていた意識が回復したのだろう、全身を走る激痛とともに視界に光が戻る。
一番酷いのは右腕だろうか。これは、直に見なくても良い状態でない事は確かだろう。変な方向に折れているなど、ショッキングな事になっていなければ良いが。

自身が置かれている状況すら忘れ、そんな事を思ったイオスは、体を起こそうとするが、自身の体がぴくりとも動こうとしないのに眉根を寄せた。
重さを感じる。つまり、激突した衝撃で建物が破壊し、瓦礫に埋もれているという事か。その割に即死を免れているのは、反射的に魔法を使って衝撃を軽減させたお陰かもしれない。

「(まずいな……これではどうしようもない)」

彼女との対話を試みたが、もう彼女の中に『彼女』は残っていないように感じた。どれだけ足掻いたとしても、こちらの話を聞く耳すら持ってくれなかったのだ。

治癒魔法を使おうとして、詠唱しようとしふと止める。
ここで自分が生き残れば、キセラは更に憎悪を増幅させるのではないか?
いっそこのまま力尽きた方が、キセラにとっては望んだ形となるのではないか?

すぐそこまで這い寄ってきた死期に、イオスは考える事を放棄し目を閉じようとした。
彼女の、望む通りにしよう。それで、彼女の気が済むのなら。

「馬鹿かオメーは」

そこに降ってきた声が、それを阻む。

目を開けると、光っていると錯覚する程に、美しい毛並みを持った獣がいた。
久しくその姿を見た事はなかったが、見違う事なく記憶にあるその姿。

「じ……ゃっ、く……?」
「『他人の死で真に幸福になれる人間なんていない』、だろ。ガキの頃アンタが俺に言ったの忘れてんのか。死で償おうなんざ、生きて罪を償おうとしている奴らに失礼だと思わねーのかよ。つーか、言った本人がそれ出来ないとかカッコ悪ぃ」

獣――ジャックは吐き捨てるように言うと、周囲の瓦礫が落ちないよう、器用にイオスの側まで歩いてきた。
獣の体を使い、イオスの上に鎮座している岩を退けようと押し始めながら、ぽつりと呟く。

「アンタにはまだ役目がある。お嬢の為にも、しぶとく生きてろ」

くっそこれクソ重てーぞ!!よく生きてんな!!と直後に悪態を吐くジャックに、イオスは状況も忘れ苦笑する。見た目的には大型犬が自身よりも大きな岩に体を擦りつけているようにしか見えないが、何とかしようとしてくれているのがよく分かった。

「……すまない、ジャック。私は、絶望に取り憑かれていたようだ」
「んなもんどうでもいいっつーか、早くこの岩どうにかしねぇと真面目にやべぇの分かってんのかアンタ!? 全然動かねぇんだけど!?」

腕は尚も千切れるような痛みを脳に伝達していて、体もロクに動かせそうにない。だが、このまま力尽きてしまうのだけは嫌だと思えた。
そう思わせてくれた彼に感謝しながら、イオスは短めに詠唱し魔法を使った。

イオスが吹き飛ばされた直後、前線はキセラの攻撃が激化し救出すらままならない状況下にあった。
ホルセルとレッドンのいる前線には、ジャスティフォーカス構成員が数名残っている。とはいえ無傷な者は皆無で、重傷を負った者はリレスがいる後方へと駆けて行った。

「残念ながら、アタシに慈悲なんてもうこれっぽっちも残ってないのよ。残ってるのは、アンタへの憎悪のみ!! そろそろ認めて歯向かって来なさいよ!!!」

聞かせるべき相手は自らが吹き飛ばしたと言うのに、彼女は醜く顔を歪めながら哄笑する。
まるで自身の手足のようにラルウァを操る彼女の様子を一瞥し、レッドンは槍を構えたまま隣のホルセルの名を呼ぶ。

「覚えがないか」
「覚えって……」
「彼女の荒れよう、ソーレに見える」
「ソーレ? ……今じゃなくて昔、か?」

問うと、彼は静かに頷いた。
ホルセルを始め他の者達も、ソーレ――いや、サンという人物を良くは知らない。その上で「覚えているか」と問われるならば、答えは『ソーレがサンと呼ばれていなかった頃の事』であり、イコール『御伽噺が現実にあった時代』の事以外にありえない。ホルセルがその考えに至れたのは、ある意味偶然ではあるが。

うーん、と頭を捻る。
正直なところ、自身にヴィエントの記憶はない。本人に聞いてみようかと思ったところで、その本人が『確かにな』と頭の中で答えた。

『アイツ、ガキなもんだから昔っから癇癪起こすとうるせぇのなんの。あのアマも似たようなもんだな』
「子供の癇癪とあれはレベルが違ぇと思うんだけど……」
「共にいた時間が、長かった。精神を侵食されて、『彼女だが彼女ではない』状態になっている……かもしれない」
「それって、オレとは違うのか?」

話によれば、自分は三年も前からヴィエントに意識を乗っ取られ、問題を起こしていたそうだ。彼女とは少し違うが、似たような状態ではないのかと疑問を持つ。
だが、レッドンはちらりとホルセルを見やると、「違うな」と答えた。

「『ホルセル』と『ヴィエント』は別だろ。はっきりと境がある。彼女は自我が侵食されて、教授への憎悪と殺意だけが表面に現れているように見える。躊躇いもなく教授を吹き飛ばしたのが良い証拠だ」
「……えーとつまり?」
「つまり――、ホルセル、右!」
「うおっ」

飛来してきた光の刃を確認した瞬間、誰かに身体を押され間一髪で避け切る。バランスは崩したものの、当たっていた時よりもダメージは軽い。
誰か分からぬ恩人に軽く礼を告げようとし、ホルセルは目を丸くした。

「ホルセルは、戦闘中に話に集中しちまうの止めような。まぁ、今回はレッドンもだけど」
「セーレさん!?」
「わーるい、遅れちまった」

へらりと笑みを浮かべながら、左腕をひらひら振る。無事だったのかと安堵するが、自分以上に重傷なのではと思える程に赤く染まった右腕が見えた。治癒魔法を施してもらったかどうかは分からないが、多分、拳を振るのすら辛いだろう。

ホルセルがセーレさん腕、と口を開く前に、横から声がかかる。

「全くだよ、セーレ」
「イオスさん!! ……と、その隣の犬何?」

吹き飛ばされたまま救助にも向かえなかった当人が、犬のような大きな獣に支えられ現れたのだ。つい反射的に問いかけると、獣はギロリと視線をホルセルに向ける。

「ホルセル、テメェ後でシメる」
「えっ!? 喋ったっつぅかジャック!?」
「教授、怪我が酷い。リレスに治癒を」
「何とか大丈夫だ、後で行く。――セレウグ。鞭を打つようで悪いが、お前はリレスにそれを治して貰ってから、ユーサを助けてやってくれ。ゼルフィルと戦っている」
「ああ、これだったら今の所大丈夫。了解、終わったら戻ってくるよ」
「それまでに終わらせておきたいところだな」
「俺も行くわ」

レッドンが後退を促すものの大丈夫だと言うイオスは、ホルセルとジャックのやり取りを聞きつつ、丁度塔を挟んだ向こう側を視線で示しながら言った。
必要最低限の言葉だったが、セレウグにはそれで十分伝わったのか頷き、駆け出す。追うようにジャックも後に続いた。
今もゼルフィルの相手をしているユーサとスウォアに、手負いであるとはいえセレウグとジャックが加わるなら、何とかなる可能性は高い。

後退する気配のないイオスに、ホルセルは意を決して口を開く。

「イオスさん」
「君達が言いたい事は、分かっている。手遅れなんだろう」

先程レッドンと話していた事を伝えようとしたのだが、流石は大学の教授を務めるだけの頭脳の持ち主である。ホルセルがレッドンに言われないと思い付きもしなかったであろう状況に、彼は自分で思い至っていたらしかった。
ぎこちない笑み――恐らくは自嘲の意味がこもる――を浮かべ、イオスは応える。

「これは私の我儘であり、罪だ。手遅れだったとしても、せめて『本来の彼女』に戻してやりたい。自己満足だ、私のエゴだと罵ってくれても良い。ただ、私のせいで歪んでしまった彼女だけは、助けてやりたいんだ」
「でも……」
「心配してくれてありがとう。私なら、大丈夫だ」

覚悟を決めた瞳が、自身を見詰める。
すまない、ありがとう、とその瞳は言っていた。

その会話を聞いていたレッドンが何事かを思案し、やがて顔を上げホルセル、と声をかけてきた。

「囮を頼めるか」

■ ■ ■

分断させようと動くキセラに、レッドンとホルセルが目配せして左右に分かれる。
一足先に彼女自身に近付けたホルセルはツーハンディッドソードを振り上げ、斬り下ろす。が、背後に立ち塞がったラルウァの太い腕がのそりと動き、彼女を守るかのように動き出した。
やむなく一歩後退し、同時にスティレットを放る。刃先はぐさりとラルウァの体に刺さり、それを確認すると直ぐ様集中した。

『――凍りやがれ!!』
「!? アンタ……!」

ニヤリと口の端を吊り上げ、ホルセル――いやヴィエントは素早く詠唱した氷魔法を発動させる。
スティレットを中心に、ラルウァの腕と体を縫い付けるように氷を展開。拘束されたラルウァは、低く唸った。
巨大な腕に囲われる位置に立っていたキセラは閉じ込められるような形になり、こちらからは姿が見えなくなる。

《月の力 フォルノ》を使って魔法を展開させられるのを利用して、ヴィエントの氷魔法を思う存分張る事を提案したのはホルセルだった。
大振りな攻撃を仕掛けてくるラルウァの動きを制限する事が出来、更に力を使うことにより《月の力》の枯渇を狙える。キセラの暴走が力による汚染ならば、この手段は最適と言えよう。

凍りついた腕に周囲を囲まれ、こちらの動きが読めないであろうキセラの背後に回ったレッドンは、槍を水平に構え魔力を練る。攻撃用ではない――空間を限定して、そこにある魔力と《月の力》を他人に譲渡する魔法だ。譲渡先は、勿論。

「(昔と違い、彼女には月の草もある……大丈夫なはず)」

ただ、この魔法はかつて禁忌と言われただけあって、発動条件も発動中の隙も大きい。
ラルウァが無事な方の腕を、器用に体を曲げて叩きつけようと振り被る。予想通りの動きだが、生憎対策も立ててあった。
まさに振り下ろそうとした直前、火を纏った弓矢がその手に直撃する。羽根を広げたサエリが放ったものだ。

手早く立てた作戦としては、こうだ。
《月の力》に冒された相手を『消す』のではなく『浄化』する事が出来るのは、このメンバーにいない――どころか、そんな事が出来るのはユキナしかいない。
いないが、似たような事なら出来るはず、と推測を立てた。
それは偶然にも、遺跡で同じように暴走したクーザンを元に戻した手段と同じだった。あの場にいなかったレッドン達には、知る由もないが。

「ホルセルと俺が、あのヒトに纏わりつく《月の力》を吸収し、リレスはそれを治癒魔法に還元する」
「治癒魔法に、ですか? それで前衛の人達を癒やせば良いんでしょうか?」
「癒やすのは、あのヒトだ」
「どういう事よ? 敵を元気にさせてどうすんのよ」
「そうか、《月の力》を枯渇させて、キセラを正気に戻そうという事か」
『ほーん。なら俺も暴れて良い訳だな。氷魔法を使えば、消費にも一役買えるぜ』
「……正直なところ、頼りたくないんだけどな」

一瞬でも《月の力》から彼女を切り離し、平常時の状態に戻す事が出来れば、和解は出来ずともまともに話をする事くらいは出来るはず。
手短にしたやり取りを思い返し、最後に成功してくれ、と祈るように願う。

「チャンスは一回しかない。失敗すれば」
「分かっている。……その時は」

その時は、殺す。彼女を、楽にしてやるために。

■ ■ ■

「先輩は、何故学者になろうと?」
「君は、御伽噺に興味はあるかな?」
「御伽噺、ですか? 《月の姫》なら、かなり昔に読んだきりなんで、知ってはいるけど内容は覚えてないですね」
「そうか。あの噺には、絵本では全く分からないが、数々の知らない魔法が出て来ていてな。私は、幼心ながらそれらに深く興味を抱いた」
「ああ、確か色んな世代向けに書籍が出てましたね。先輩、ああいう夢物語が好きだったんですか?」
「はっきり言うね」
「まぁ、アタシはそういう現実的ではないこと、あまり興味が沸かないので」
「夢物語とはいえ、現実の私達が出来ないと思えるような魔法はあれには出てこないよ。だから私は魔法を研究しようと思ったし、あれを夢物語とは思っていないんだ」

「知ってるか? 今日、ここの地下で内密にされている大掛かりな実験が行われるらしいぜ」
「実験?」
「何でも、成功すれば世界を震撼させるような魔法を開発しているみたい。見てみたかったなぁ」
「一端の学生じゃ簡単に拝めないもんなんだろうけど。ラザニアルは天才だわ、あいつレベルじゃなきゃ大学も戦力としては数えねぇだろ」

「え、何今の……」
「地震じゃないわよね? 地下から聞こえたみたいだけど――」
「きゃあああああああああぁ!!!」
「う、うわああああぁ!!!」
「何!? どうし――あああああぁ!!!」
「え……?」
「な、何これ……何なのよこれ!!」
「いやあああああああああぁ!!!」

「……ここは……?」
「目が覚めましたか。ここは、ダラトスクの時計塔です」
「時計塔……? アタシ、どうして」
「どうして生きているのか、不思議ですか? 当然です、人間ではないのですから」
「……………………え?」
「大学で行われた極秘実験の影響により犠牲者は多数。貴女がラルウァに変質し自我を失う直前に、ソーレの力によって自己を保ったまま、ラルウァ――殺しても死なない体になりました」
「う、嘘よね……? そんな非科学的な事……」
「信じられませんか? ですが、事実です。何ならここで証明してあげましょうか?」

――一瞬で駆け抜けていった、誰かの記憶。
いや、誰なのかは分かっている。
今あそこで苦しんでいる、キセラの記憶だ。

リレスは胸元のブローチに両手を重ね、今しがた感じた恐怖、絶望、そして悲しみに必死に耐えた。
日常が突然崩れ去った、戸惑い。
自身が知らぬ内に、異質な存在に変わってしまった事。
今ユーサ達が戦っているであろう相手、ゼルフィルの底知れなさ。
彼女が体験した全てが、何故かリレスの脳裏に浮かんで消えていったのだ。

どれだけ怖かっただろうか。
どれだけ悲しかっただろうか。

キセラが、自身の境遇を受け入れる事は遂に出来ず、やがて自分を殺し狂っていく事を選択した気持ちが、痛い程分かってしまった。自分が同じ立場であっても、そうしただろう。逃げたくても、死にたくても、死ぬ事すら許されないのだから。

そしてそれが何を意味しているのかも、悟ってしまった。
たった今、彼女は、

「……イオスさん」
「どうした?」
「ごめんなさい」
「え?」
「リレス!」

レッドンの呼ぶ声と同時に、彼が吸収した《月の力》が自身に流れ込んでくる。
手筈通りなら、これを使って治癒魔法を使えば良い。だがリレスは、それとは全く違う形へと構成していく。

白く淡く輝く剣を顕現させ、切っ先をラルウァ――と未だ捕まっているキセラに向ける。

「頑張って保たれていた彼女の心は、たった今砕け散りました。――だから、せめて」

無意識に俯きかける顔を、気丈に前に向かせる。頬に、何かが流れる感触を自分でも感じた。

「祈りましょう。彼女の、安らかな死を」

誰かが制止の声を上げる前に。
穿て、と下された命に従い、生成された剣は、ラルウァの拳――中にいるキセラごと――と胴体を貫いた。