第95話 罪すら愛す

特筆すべきことが何もない程に普通な日常が砕かれたのは、本当に突然だった。

キセラはテトサント大学の学生であり、熱心に勉学に励んでいた。必修は魔術学と医学。将来は医者になり、故郷の町で病院を営む事が夢だった。
そのために必死に勉強して、医者になるための資格取得を目指している最中の、思い出したくもない事件。

大学で、秘密裏に魔法の研究が進められていたのは知っている。同級生の一人がそれに関わっていて、事あるごとに愚痴を零していたのを聞いていたからだ。
また、キセラは当時、一人の先輩に憧れており、彼がその栄誉ある開発事業に携わっていたのを知っていた。
出自は不明だが突如として現れ、あらゆる魔術の解析に携わり、元の魔法から新たなそれを生み出し、学生達はおろか他の教授達すらも凌駕する知識と才能を持った人物。同学年なのに教授の位を持っているのは、その博識さ故に大学の講義を全て高学歴でパスしたからだ、とまことしやかに囁かれていた。後に、魔術の第一人者とすら称されるようになった者――それこそが、今目の前にいる男だった。

男、イオス=ラザニアルは、自分の姿を見るなり動きを止めた。キセラ、と声には出さず名前を呼ばれたが、無視を決め続きを口にする。

「だって、あの空間を打ち破る手段を知っているのは、御伽話を真似しようとして失敗して、大勢の犠牲が出たにも関わらず助かったアンタだけだものね」
「な……!?」
「……………」

大学で密に行われていた実験。それは、『本当に人間だけで、あの月のようなものが生成出来るか』というものだった。
どこから月が魔力の――本当は《月の力 フォルノ》という、人間には害になる要因にしかならないものだが――塊だという情報を得たかは知らないが、そんな馬鹿げた話を信じた者の頭を疑う。
その実験自体は学生達の耳には入れられていなかったが、結果、地下実験場の地上に存在していた大学の特別棟は、消滅した。爆破でも何でもなく、本当の『消滅』だ。
特別棟に居合わせた者の末路は――。

次に目を醒ました時にはもう、キセラは背後にある時計塔の一室で、人間とは違う別の存在になっていた。
事のあらましを知り、三年かけて蓋をされていた情報を集め、導き出した結果は『大学の研究室の指示により行った実験の結果は失敗、大学生は数人巻き込まれて消された。そして、生きていたのは直前で逃げた教授数名と、実験の中心に立っていたイオス=ラザニアルのみ』という答えだった。
実験自体が秘密裏にされていたため、大学の特別棟の消失や数十人の行方不明者は、それこそ『神隠し』として迷宮入りにされている。

「何で助かったのかは知らないし、別に興味はないわよ。サンは、精霊の力が干渉してるって言ってたけど。アタシはそんなことよりも――多くの人間を殺しておきながら、のうのうと生き永らえているアンタに物申したいの」
「ディアナが行ったことを、人間の身で真似しようなど……酔狂な者もいたものだな」
「本当ね。アタシも信じがたいわ」

クロスの呟きに、キセラが同意する。見てみれば、クーザンも同じように苦い表情をしていた。ディアナが人智を超えた存在だと知っているから、その行為がいかに無謀な事なのか、はっきり分かってしまうのだろう。

「つまり――お前は、イオス教授が憎くて亡霊と化したようなものか」
「そうね。あと、何も知らされずただ『良い人』だと思い込んでしまってる、後ろの子達が哀れでね。本当はそいつが、何人もの屍を踏み付けて生きている殺人鬼だ、って教えてあげようと思って」

キセラはクナイを右手で弄びながら、どこか狂気さえ感じさせる笑みを浮かべる。
イオス自身と、彼を父として慕っているであろうリレス達すら、精神的に攻撃しているのだ。

「ああ、そういう事……」

唯一、ユーサだけが納得したように頷いた。何か思う節があったのか。
キセラは動揺の声にニヤリと嗤い、

「で、だから何?」

予想外の返しに、それが崩される事となる。

「……え?」
「イオスさんが研究に携わっていて、それが危険なもので、でも上に命令されて拒む事も出来ず、それが失敗して人が亡くなりました。そういう話でしょ? そのどこに、イオスさんが真の悪者だという要素がある訳? 一番悪いのは、その研究を命令した上だと思うんだけど。ああでも確かに、一番上が見付からない以上、生き残った上にイオスさんに怒りの矛先が向かうのが常か」
「他人の命令に従っただけだから、ソイツは悪くないとでも言うつもり? アタシは許さないわよ」
「言わないよ。言わないけど、納得は出来ないなぁ。イオスさんが直接手を下した訳でもなければ、望んだ訳でもないんでしょ?」
「ユーサ、よせ。……私は、命令とはいえ人の命を奪った。自分がやった事に変わりはないんだ」

ユーサが本当に分からないと言う風に首を傾げたタイミングで、イオスが止める。暗に殺されても仕方がない、と言っている台詞に、自身は気が付いているのだろうか。
だが、そこで口を開く者がいた。

「確かに、イオスさんが何をしたのか私達は知りません! 孤児院を開いて身寄りのない子供達を集めたのが、善意からではないのかもしれません!! でも、その時何があったのか、イオスさんがどうしたのかなんて――私達には、関係ないんです!!!」

いつもののんびりさはどこに行ったのか、と皆が驚きの表情を浮かべる中、彼女は集まる視線を物ともせず叫ぶ。

「私達にとってのイオスさんは、身寄りのない私達を引き取って優しくしてくれて、たまに出稼ぎとして大学の授業をしてきたり、たまに知識欲が空回っておかしくなったり、私達が間違っても優しく諭してくれる人なんですから!!」
「アンタ、そいつが本当に優しい人間だと思ってるの? 犯罪者を許せるって言うの?」

理解出来ない、と言いたげに、キセラが反論する。『犯罪者』ときっぱり断言された事にイオスが肩を震わせるが、リレスは全く動じない。それどころか一歩足を踏み出し、問われた事に一言、答えた。

「許します!!」

流石に予想外だったのだろう、リレスの答えにキセラは今度こそ目を丸くし、動きを止める。

「貴女が何を知っているかは分かりませんが、私はイオスさんに命を助けられ、今ここに立っているんです! 例え大罪人であろうと、例え凶悪な犯罪者であろうと、私達にとってのイオスさんはイオスさんでしかないんです!! 私だけじゃない、孤児院にいるみんなを私財を投げ打ってまで引き取ってくれた人が、たかが愉悦に浸るとか、そんな目的で軽々しく人を殺す人でないのは、貴女より私達の方が何十倍も知っています!!! 貴女の恨む気持ちも分かりますが、ある事ない事を貴女の想像だけで語るのは止めて下さい!!」
「なっ……!? 想像じゃないわ、本当の事」
「じゃあ貴女は、イオスさんが貴女の目の前で人をいたぶる様な事をしているのを見た事があるんですか!? ないでしょう!? 見てもいないのにそうと語るなんて、逆恨みも良い所です!!」

正に一息で言い切ったリレスに、その場にいた誰もがぽかんと呆けた表情を向けていた。これが、いつもほんわかとした雰囲気を纏っていた少女だとは、少し思い出すのが難しかった。怒らせると怖い人の部類だと知っている人間が、この場に何人いるやら。
彼女はその剣幕のまま、キッと自身の叔父の方へと視線を向ける。

「イオスさん!!」
「は、はい!?」

あの教授ですら、思わず敬語で返事をする勢い。
スタスタと彼の前に歩み寄ると、形の良い眉を吊り上げながら問いかける。嘘を吐くのは許されない、と思わせる意志の強い瞳が、教授を捉えた。

「イオスさんは、望んで、実験に参加したのですか?」
「いや、違う。それだけは、誓って言える。……弱みを握られていたんだ。従わなければ、私の秘密をバラすとね」
「秘密? 私達も知らない事ですか?」
「ああ。出来る事なら誰にも言わずに、墓まで持って行きたい事だ。それをどこから入手したのか私に突き付けて、実験に協力しろと脅されたよ……」
「分かりました」

そこまで聞き出すと、彼女は『秘密』の内容を聞き出す事はなく、くるりとキセラに視線を戻した。

「という訳です。ご理解頂けましたか?」
「ちょっと。その秘密ってのが、人の命と天秤にかけるような重要な事だって言う確証は?」
「墓にまで持って行きたくて、やりたくない実験に仕方なく加担する程隠したい秘密が、重くもない秘密だと思いますか? それに、人命を脅かすような実験の内容を、その人達が最初からイオスさんに話していると思いますか? 大方、その魔法の力を有効に使えないかどうかっていう実験内容だったのでしょう。内容が内容だけに、人を傷付ける可能性を捨てきれはしませんが」
「人に想像を語るなとか言っておいて、アンタこそ想像じゃない!」
「少なくとも、私のは本人の人柄と証言を元にした上での推測ですよ。貴女のありもしない事実を元にでっち上げた、妄想ではないです。何がどう違うかは、分かって頂けますよね?」

キセラがうぐ、と言葉を飲み込む。
彼女よりも教授を信頼し、長く付き合って来たリレスだからこそ、キセラの言う『妄想』に耐えかねたのだろう。
ふとリレスの姉を見やれば、彼女も妹と同じように表情に怒りを浮かべている。ユーサだけが普段通りだが、纏う殺気は先程よりも強い。

実は彼女が何と答えるか予想がついていたレッドンは、はぁ、と一度息を吐き、キセラに――いや、この場で固まっている皆に向けて口を開いた。

「……念のため言っておくと、彼女に何を説いても無駄だ」

彼らが思う以上に、リレスは頑固者なのだ。
つい、と視線をキセラから、呆けたような表情で振り向いたイオスに変え、続ける。

「イオス教授。俺も、同じ。故郷で親に売られ、言われるがまま人を殺めた」
「――!?」
「彼女はそれを聞いてもなお、俺を受け入れてくれた。今みたいに」

レッドンは、故郷が嫌いだ。
生まれた家では何もかもが束縛され、優秀な兄達がいたせいで自身は目もかけられず、窮屈だった記憶しかない。
家に居場所はなく、財産目的で連れ攫われた時には誰一人助けてくれる事もなかった。犯人グループと敵対する奴等に捕まり、もう自分には自由などないのだと絶望し、言われるがままになっていた時期を思い出す。多分、イオスと同じか、それ以上の人間を手に掛けた。

そんな時に出会ったのが、旅行でブラトナサを訪れていた彼女――リレスだったのだ。
追われていたレッドンに、まだ十分に操りきれていないながら治癒を施し、『大丈夫ですよ』と微笑みかけてくれた。あの時感じた暖かさは、治癒力が活発化した体の温度だけじゃない。

「あなたが罪人と言うのなら、俺も同じ罪人。俺は罪を重ねる事を止め、贖罪を選んだ。命を奪う事を止め、命を助ける彼女を守る。同じでしょう」

少なくとも、彼は自分の意志で人の命を奪ってなどいない。キセラの怒りももっともだが、レッドンは先程ユーサが言った『生き残ったイオスにキセラの怒りが向いている』という意見に同意だった。そこに悪意があろうとなかろうと、居合わせただけで恨みを買われているというなら、リレスは全て許してしまうだろう、と。
彼女の隣に、シアンが鉄扇を構えたまま並び、肩越しにイオスに視線を投げると、にっと勝ち気な笑みを浮かべた。

「アタシも同意見ね。イオスさん」
「この子、アンタと一緒で懐がデカ過ぎるのよ。本人達は分からないだろうけどね」
「ほんと、こっちが心配になっちゃうよ」
「つーか、今更罪を背負ってる人間が一人増えたくらいで、ガタガタ言わねーよな」
「全くだな」

シアンを革切りに、サエリ、アーク、スウォア、ギレルノが前に出た。
子供達の行動に目を白黒させていたイオスは、そのまましばらく前に並んだ彼らの背を見つめると、やがて呆れたかのように溜息を吐く。全くお前達は、と唇が動いていた。

そして立ち上がり、バリケードでも組んでいるかのように立っていた彼らの前に出る。
毅然とした表情で、迷いが断ち切られたらしくはっきりと答えた。

「私は、命令だったとは言え自分がしたことを認める。認めた上で、君を倒す。自然の摂理に反し生きている君は、生きてすらいない。君を安らかに寝かせる事が、私の贖罪のひとつになり、これからの第一歩となる」
「自分のせいで生まれた哀れな人間を、また殺そうって言うの? 本当に自分の都合しか考えない男ね」
「そうだな、最低だ。だが、私はもう決めた。子供達のためにも、自分のためにも、ここで死ぬ訳にはいかない」
「じゃあ、思い知りなさい! 自分がいかに愚かな行為を行って、どれだけの人間が巻き込まれたのかを!!」

キセラが片手を挙げるとどこからともなく物音が発生し、ゴーレムやラルウァの間からひょこひょこと人影が現れる。
ぬいぐるみを抱いた幼い少女、杖を持った老人、見覚えのある制服を纏った男。いずれも生気はなく、濁った瞳が揃ってこちらに向いていた。
今まで奴らが引き連れてきた者達と言えば、工場で量産したかのように同じ顔、同じ格好の兵士で、それらはほぼ確実にゴーレムだった。
だが、今現れた者達はそれぞれが異なる衣服を纏い、背格好もまちまち。それが意味する事は――。

イオスも気が付いたらしく、表情を歪める。

「キセラ……住人達を洗脳したのか」
「ご名答。何でアンタ達に剣を向けてるかは……分かるわよねぇ?」

大変だったのよ、この国の奴ら全員取り込むの。

くすくすと嗤うキセラの言外の台詞に、一気に緊張が走る。
ゴーレムであれば、人型であるとはいえまだ応戦する意識が芽生えた。だがこれが、この国の住人達そのものと聞いてしまえば、こちらは誰もが思うように動けなくなるだろう。殺す訳にはいかない、だが相手はこちらを殺すつもりで向かってくる。
ダラトスクの住人達を、人質に取られたのだ。

「さぁ、コイツらの攻撃をどうにかしてアタシのとこに来て見なさいよ!! 殺人鬼!!」

鶴の一声で、ラルウァとゴーレム、そして操られた住人達は一斉に各々の武器を構え向かってきた。
く、と槍を持つ手に力が入る。

「イオスさん」

何かを問うような声。
リレスが、再びイオスに視線を向けていた。

「洗脳魔法だ。《月の力》を利用し魔力を増大させ、恐らくは彼女自身を発信源として発動させているんだろう。あれは全員、この国の住人――殺す事が、出来ない」
「解除方法は?」
「前は魔法の反発で無理矢理解除出来たが、それをやるには数が多過ぎる。元を断つしかない」
「元って……つまり」
「彼女を倒す」

見上げると、キセラは住人達が築いたバリケードの向こうで、楽しそうに観戦している。あそこまで到達しなければならないが、それには傷付けられない、洗脳状態の彼らをどうにかするのが不可欠だ。
ホルセルがあ、と声を上げ、ギレルノを指し示しながら続ける。

「そうだ、ギレルノがさっきの奴やれば、少しは住人の人達の動きが止まるんじゃね?」
「……そう安々と出来るものなら、先に提案している。あれはあくまで、リヴァイアサンや狂った魔物達のみ有効だ」

若干嫌そうなギレルノの答えにそうか、とホルセルは首をひねる。
ならばと次に手を上げるのは、ある意味予想を裏切らないリレス。

「じゃあ私が!」
「アンタはさっき無茶したばかりでしょーが!!」

だが、こちらもサエリによって一蹴され、じゃあどうするんですか……と勢いを削がれた、弱々しい声が聞こえてきた。先程まで啖呵を切った彼女と同一人物とは思えない。が、正直な所サエリが止めなかったら自分が言っていたので、助かった。
どうするか、と眼前を見る。既に住人達のバリケードは、目と鼻の先だ。

「強行突破するなら、俺とクロスで抜けられない事もないと思います。ただ、住人は怪我させるかも」
「それに万が一の為に、洗脳の明確な解除方法を知っている教授にもご同行願いたいところだが、それだとこれを抜けるには俺達だけでは厳しいな。かと言ってホルセルを連れて行けば、こちらが中衛ばかりになる」
「ていうか、ディ……ユキナちゃんは? 彼女に《月の力》を変換してもらえば一発じゃないの? リレスの時みたいに、変換先がない訳じゃないし」

クーザンとクロスが住人をすり抜け、キセラに辿り着くという選択肢を本人達が提案するが、確かに住人自身に怪我をさせる確率が高い。後衛が主であるイオスを抱えるなら尚更。
そこに、ねぇ、とユーサが口を出す。その手があったとその人物の姿を捜すが、クーザンと一緒に行動していたはずのユキナの姿はない。
セレウグも見当たらないので、負傷して小休止を取っているのだろうか――レッドンはそう思ったが、ユーサはえ、と顔を引き攣らせる。

「……あのさぁ。すごぉく嫌な予感がするんだけど。まさかだよねー?」
「それについては取り敢えず後だ。来るぞ!!」

振りかぶる斧、薙刀。瓶を持っている者もいる。
極力ダメージを与えないようにするには、手や腕に衝撃を与えて武器を手放させるのが一番か――だが、洗脳を解かない限りまたそれを取られるか。やりにくい上に、ループする可能性も高いとは。

「……致し方ない」

考えるだけ時間の無駄だ。レッドンは頭を振り、槍を構えた。
四方八方に広がる住人達。照準は彼らの体にではなく、持っている武器にのみ。脳裏に浮かぶ数、およそ百。
それらを慎重に狙い澄まし、魔力を貯めていく。ふわ、と身にまとう外套が浮かび上がった。

「絶望を抱きし暗黒よ、彼の者達に縛なる裁きを――《重縛陣》」

魔法は無事発動し、空間が一瞬揺らぐのが見えた。
直後、住人達は武器を持ったまま、ガクンと地面に突っ伏す。すぐに起き上がるが、突然通常の何十倍の重さになった武器を必死に持ち上げようとし、洗脳された住人達が断末魔の叫びを上げながら狼狽える。
見ていて平気でいれるものではないが、取り敢えずこれで飛びかかってくる者はいなくなった。

何の前触れも無しに起きた住人達の異変に、クーザン達がえっ、と困惑の表情で眺めている。

「何? どうしたの?」
「彼らの持っている武器にのみ、重力が倍加する魔法を使った。飛び込むなら今」
「彼らって、何人いると」
「長くは持たない。急げ」

答えればサエリが呆れたように問いかけてきたが、まさかこれがどういう理屈でどのようにして行ったのかなど、詳しく説明する暇はない。
聞きたそうな視線を跳ね退け、行動を急かす。

これが、正念場であれば良いのだが――。

■   ■   ■

「ぐぅっ……!!」

胸を押さえ、痛みに耐え忍ぶ。力を分け与えていた偶像が多大なダメージを喰らい、その分がフィードバックしてきたのだ。胸部だけじゃない、頭も割れそうな程に鳴っている。噎せ返る程に鉄臭い何かが喉を這い上がり、だが必死で堪えた。
一瞬だけ戻った意識。きっとすぐ、『アイツ』にまた支配される。

「チッ……偽物ごときじゃ、足止めにすらなれへんのか……っ」

靄を《月の力 フォルノ》で、まるで自身のように操る術は、別に特別なものではない。
ヒントはリスカの灰人形――ゴーレム共だが、サンのそれはより凶悪で、頑丈になる。ラルウァを形成する力が多大に使われるのだ。定着さえすれば、それ自体がラルウァの模造品として使う事も出来る。
だがその代償も大きく、撃破された場合は術者自身にもダメージが来る。神の力を分け与えているせいも少なからずあるが、こればかりは行き過ぎた罰と受け入れるしかない。
が、それはあくまで自分の意志で行動した場合の話。意識が混濁し、気が付いたらフィードバックのダメージを受けていた、など腹が立つ以外の何物でもない。

「ちょ、あんた大丈夫なの? 汗だくじゃ……」

頭の隅から存在すら忘れかけていた、先程拉致してきた女が声をかけてくる。同時に手を伸ばしてくる気配を感じて、

そこでまた、『オレ』は意識を失った。

ユキナは、光が見えた時に目を開けた。
黒い靄に捕まった彼女は、一瞬にして屋外から屋内へと移動していた。見覚えのある壁、アンティーク調の室内。間違いない、いつか見たダラトスクの時計塔の上階にある、管理者の人達が休憩に使う部屋だ。
ただ、当の管理者達の姿は見えない。単に今いないだけか、それとも――。

嫌な事を想像し、それを行ったであろう少年を一瞥する。敵なのだから、一瞬たりとも気は抜いてはいけない。

だが、あろう事か自分をここまで連れて来た当の本人は、足元をフラつかせ上体をゆらゆら揺らしている。その明らかに普通ではない様子に、ついいつもの調子で大丈夫かと声をかけ、手を伸ばした。
伸ばしたその手は、直ぐに反応した少年自身によって跳ね退けられたが。

『触るな』
「っ!」
『貴様のような小娘如きが、彼女の力を持っていると思うと反吐が出る。大人しく付いて来い』

纏う雰囲気ががらりと変わり、拒絶の意志を突き付けられる。

談話室を抜け、言われた通りにサンの背中を追いかける。もうフラつきはなくなっていて、まるで別人のようにしっかりとした足取りで歩いて行く。
拘束はされていないのだから逃げるチャンスはあるが、それを実行する前に、彼が何をしようとしているのかを突き止めなければならない。きっと追いかけてきてくれるであろう、クーザンやみんなの為にも。
ユキナは震えそうになる体を気丈に奮い立たせ、足を動かした。

   ■   ■   ■

レッドンの魔法のお陰で相手をする敵が限定されたものの、クーザン達は時計塔の入り口を陣取っているキセラと距離が詰められないでいる。
ラルウァが思ったよりも過激な攻撃を繰り出して来て、洗脳されているとは言え住人達を守らない訳にはいかず、ひとつひとつ攻撃を潰すのに手間取っているのだ。

「っ……!!」

ヒュン、と風を斬る刃を間一髪で避けられず、頬に痛みが走った。
追撃を恐れ一歩後ろに退がり、代わりに前に出たクロスの斬撃が飛ぶ。斬り付けた本人であるラルウァの腕が斬り落とされるが、断面から一瞬にして新しい腕が生え、俺だけではなく彼も眉根を寄せた。

「《月の力》が過剰にあるせいで、再生能力まで習得してしまったようだな」
「それは……何とも悪い知らせだ」
「もう直接目を狙えって事か……よっ!!」

クーザンは素早く体勢を立て直し、お返しだとばかりにそのラルウァの赤い目に剣を突き刺した。
断末魔を上げながら倒れたそれは、黒い血を流しながら消えていく。
周囲にいた操られた住人達もその範囲から逃れ、やがて自身の武器の元へ戻っていく。
イオスが言うには、キセラが使った洗脳魔法は命令自体が『武器を持って襲え』という類のものであれば、順に忠実に実行するように働きかけられているらしい。そのため、彼ら自身が武器を持たない限りは、こちらに向かってくる事は無いのだそうだ。どういったカラクリなのかは分からないが、レッドンの魔法は的確に彼らに有効だった訳だ。

「まぁ、そう簡単には行かせませんけどね」
「!?」

突然耳に入った第三者の台詞に、クーザンは目を見開く。
声は上からだった。ばっと見上げれば、誰かが翼をはためかせながら落下してくる所で。
すたんっ、と快い音を響かせ着地した彼は、四枚の翼をそのままに、クーザン達に向け腕を伸ばすと、

「《焔の協奏 フェルドコンチェルト》」

呟くように言い放った。
直後ぼぼぼぼぼと、彼の周りに火球が生成され、魔法が飛んでくる。この広い空間を縫うように突き刺さるそれに、周囲の構成員や仲間達も口々に声を上げた。
クーザンも慌てて避け事なきを得たが、以前聞いた事はあっても彼からではないその言葉に、戸惑いを隠し切れない。

「タスクさん……いや、お前まさか――ゼルフィル!?」

特徴的な帽子の端から伸びる茶髪と、正に彼を捜していたユーサとは逆の明るい色調の衣服を身に纏った青年――タスク=シトリン。
《ワールドガーディアン》[彼ら]の中でもずば抜けて謎めいていた、でも誰よりも穏和で優しい性格をしていたその人。
だが、今目の前にいる彼はそんなイメージとは全く別物で、口元に浮かぶ弧には人を蔑むかのようだ。
何より、背中に生やした蝙蝠の羽根。彼はノウィング族だった。

彼から感じる異質な気配に、クーザンはその正体を口にする。旅の始まりとなるあの日に対峙した、銀髪の悪魔。その名を聞いたタスクの口元の弧は、より深く。
そうだと認知すれば、彼の姿が一瞬だけゼルフィルの姿と重なった。