第92話 覚悟と喪失

「良い事思い付いちゃった。あん時のアーリィみたく、この嬢ちゃんを目の前でラルウァ化させたら……さてお前らは、どんな顔をするかな?」

捕らえたリルを見下しながら、ヴォスの口元が半月状に歪む。これが悪意で無いと言うのなら、普通の人間はなんと恐ろしい生き物なのだろうか。
ちらりとセイノアを盗み見る。やはり、こちらも身内が捕らえられたとなれば簡単には動けないようだった。今奴の中では、ここでセクウィの姿に戻るべきか、それとも戻らずに方法がないか、必死で考えているところだろう。

「嬢ちゃん、ほんとはあの時逃げない方がマシだったんだぜ。嬢ちゃんとあのうさぎちゃんだけは、ラルウァにする予定はなかったんだからな」
「何……?」
「当初、《パーツ》のガキ共は全員ラルウァにする予定だったんだよ。《月の力 フォルノ》持ち程、ラルウァにすれば強大な力になるからな」

うさぎ、とは恐らくルナサスの事だろう。今までの情報からして、彼女は特別な存在として扱われていたようだから。

ヴォスは良く回る口で、ペラペラと内部情報であろう台詞を喋る。『予定』だった、という事は既に実行するつもりはなく、知られても痛くも痒くもないと思われているのだと思う。

「だが、まずスウォア管轄の下っ端共がしくじって野郎二人と嬢ちゃんに逃げられた。そのうち囮になってまた捕まえられた奴は本体じゃなかったろ? 結局、代わりにソーレが見せしめだと言って連れて来させた奴しかラルウァに出来てないんだぜぇ? 精霊にラルウァ化させるのは、簡単ではあるけどリスクがあるからなぁ」

つまり、ミカニスはリルと逃げたことでラルウァにされるのを逃れ、オブシディアンは洗脳されるに留まったということか。二人が逃げなければ、ジェダイドの幼馴染はラルウァにされることもなかった。だが代わりに、ミカニスは……。

止めよう、と頭を振る。
命と命の天秤。そんなもの、どちらかを選べるはずがない。

「で、嬢ちゃんはうさぎちゃんと同じように、逃げなければ安全を約束されてた。何故なら、嬢ちゃんは水神共を従わせる為に必要な存在なんだからなぁ?」
「……成程。リルを手中に収めれば、俺達を脅迫して無理矢理従わせる事が出来るから、か」

セイノアはそう言ったが、恐らくそれだけではない。
ヴォス達は、例えるなら《ギレルノ=ノウル》[俺]ではなく《リツレント》[彼女]、そしてリヴァイアサンを従わせる為の手段として、彼女を捕らえることが確実だと判断したのだろう。ジングとセイノアと共にいたリルを一番始めに連れ去っていたのは、そのためだったのか。

「そんだけじゃねぇよ。なぁ、スィールちゃん?」

未だ前髪を掴まれ、地面に届くか届かないかの高さまで持ち上げられているリルに視線を投げるヴォス。その口から飛び出した言葉に、セイノアの表情が更に険しくなる。

「先に彼女を連れてこいと命令したのは、ソーレだ。その様子だと、何か意図があっての指示だったみたいだな?」
「全て知っている、と言いたいのか」
「ま、早いとこそんな感じ。でもぶっちゃけ、あいつのやり方は回りくどくてスゲェ面倒臭ェし、従うのにも飽きてきたところではあるんだよなぁ」

お世辞にも優しいとは言えない持ち方でドッペルゲンガーからリルを受け取ると、ヴォスは薄ら笑いを張り付かせたまま続ける。両腕を片手で封じ、恐怖で動けない彼女の顔に、もう片方の手で触れた。

「嬢ちゃんはさぁ、お前ら[三水神]の言わばコントローラーなんだろ? そこで思った訳よ。手っ取り早くラルウァにして、暴れ回らせた方が早くねぇ?ってさぁ」
「し、知らないよ!リル知らないもん!!」
『は、そんなガキが俺らを操れる訳ねぇだろ。お前阿呆か?』
「ものは試しって言うだろー」

ジング――いやヴィエントはそうは言うが、セイノアを見る限り、どうもヤバい事であるらしい。
確かに、スィールは非力な精霊だ。
だが彼女は、三水神と同じ海から生まれ、懐いていたリツレントと共に彼らの抑止力となっていたと、記述すら少ない伝承の中でも綴られていた。
ヴォスの言う通り――そして先程述べた通り、彼女の存在が俺達の行動を抑制すると言うのなら、今この状況は相当マズい。

グオオオオォ、と低く響く音。
直後、ヴォスの背後で地面がひび割れ、黒く蠢く魔物――ラルウァが現れた。土竜のようなシルエットだが、例に漏れず目は流れる血のように濁っている。

「あーらら、本物が来ちゃったよ。丁度良いか」
「や、やだ、やだ――っ!!!!兄貴――っ!!!!」

大きな瞳から涙を零しながら、リルが叫ぶ。本能的に逃げるべきだと分かっているのに、ヴォスに捕らえられているせいで逃げられず、恐怖で錯乱状態に陥っているのかもしれない。
一瞬でも隙があればユニコーンを呼んで突進でもさせるのだが、ドッペルゲンガーが側に控え、隙だらけに見えるヴォスも実は一瞬たりとも気を抜いていない。どうする、何が出来る、と自問自答を繰り返す。

風が、凪いだ。

「放せ」

こう着状態を崩したのは、ジングだった。今までに聞いたことのない低さの声音で呟き、ヴォスを睨みつけ大剣を振り下ろす。
完全に不意打ちであったはずだが、それはガキィと音を立てて防がれた。

「リルを放せ」

言葉を繰り返す。静かだが、そこには隠し様もない怒りが篭っている。

だがヴォスにはそれさえも効いてないようで、へ、と鼻で笑うと、斧槍を振るい大剣を押し返した。バランスを崩す前に後退したジングは再び斬りかかろうと構え、

「ドッペルゲンガー、そいつ適当に相手してやれ」
「ちっ」
「退け!! テメェの相手をしている暇なんざねぇんだよ!!!」

間に乱入されたドッペルゲンガーの腕の刃に、振り下ろしを止められる。相手が精神的外傷の対象であろうと、お構い無しにがむしゃらな攻撃を続けているのを見るに、ジングの精神は今正常ではないはずだ。怒りと、怖れと、怯え。それらがせめぎ合い、だがどれも抑えることが出来ず、結果感情が爆発している――といった感じだろうか。
止めなければ。そんな状態で、倒せる相手ではないのだ。

『我を呼べ』

ふと頭に響いた、聞き慣れない声。
誰だ、と思う暇もなく、それは言葉を紡ぐ。

『あやつの《月の力》への依存と、精神へのダメージが、バハームトの干渉を許してしまっている。このままでは器の意志は死に絶え、バハームトが覚醒してしまう』
「バハームトの覚醒?」
『そうだ。あやつを覚醒させてはならん。気が済むまで、暴れ回ることになるぞ』

止めろ、と俺を促す声。
言葉の端々から、常人ではおおよそ得られないような単語が見受けられ、そして気が付いた。
この声の主は、己に巣食う魔物――リヴァイアサンなのだと。
しかし、気が付いたからと言ってはいそうですか、とすぐに言われたままに実行する気にはならなかった。
《月の力》が充満するこの空間だ、恐れる事態がひとつある。

「暴走するのは、お前ではないのか。過去にお前は――」
『それなら心配ないわ』

懸念を口にすれば、再び声が響く。
だが今度の声は、リヴァイアサンではなかった。

ふわ、と目の前が明るくなったと思うと、そこに女性が現れたのだ。
フレアスカートを翻し、地面よりも高い場所に足を下ろす。色をまとってはいなかったが、双眸に宿る意志ははっきりと見て取れた。

『貴方がその《遺産 エレンシア》を持っている限り、リヴァイアサンは《月の力》を過剰摂取することはないわ。あたしが保証する。それに、心配なら――』

こわい。
目の前に真っ黒な生き物がいて、リルは逃げたいのに逃げられない。大人の人は多分リルをつかまえて、この真っ黒い生き物と同じにして兄貴達を苦しめようとしてる。
あの、クーザンお兄ちゃんのお友達の、ふしぎなお兄ちゃんのように。

そんなのぜったいいやなのに、リルの体はガタガタふるえて抵抗する力も出てこない。兄貴達の、じゃまになってる。
泣いて、いやだという気持ちを叫ぶことしか出来ない。
いやだ、たすけて。
たすけて兄貴、クロス、ギレルノお兄ちゃん……!!

恐怖の余り混乱するリルの耳に、ふとラルウァの唸りとは違う声が届いた気がして、目を開ける。

それは――いつだったかあの家で聴いた旋律に載せられた、優しい子守唄。

リルが、囚われた。
ハッタリとして発言には気をつけているものの、これは相当危険な状態だ。
ヴォスが語った言葉は真実であり、海神達は一人の幼い精霊によって行動を抑制させられる。
彼女は普通の精霊とは違い、神と同じように生み出された存在だからだ。

加えて、唯一の肉親に伸びる魔の手を振り払おうと、冷静さを失ったホルセルもいる。
まだ周りにはラルウァも暴れており、ハヤトを守っているであろうエネラ達にも危険が付き纏う。ヴォスに構っている暇はないというのに、状況は悪くなるばかりだ。

(やはり、戻るしかないのか)

だが、戻ったとしてもリルを無事助け出せるとは思えない。考えれば考える程に時間は過ぎ、焦りだけが募る。

「邪魔すんな!!」
「そうは言われても、命令だし」
「ホルセル、落ち着け!お前が退くんだ!」

呼び掛けにも応えず、ホルセルは立ちはだかるドッペルゲンガーの刃と鍔迫り合いに持ち込む。完全に我を忘れている。
駄目だ、このままでは手遅れになってしまう。何とかして状況を打破しないと――。
思わず舌打ちをしかけ、そこに感じた新たな魔力に動きを止める。

直後、ずずん、と大地が揺れた。
振り向いた先に現れたのは巨大な竜。
怒りに打ち震える、哭き声。
樹木でさえも簡単に薙ぎ払える巨大な尾を振り回し、それは無差別に――ではなく、ヴォスとリルを付け狙うラルウァに向けて放った。
現れた竜の姿に、クロスは珍しく動揺した。リヴァイアサンを召喚する人物など、一人しかいない。

「……歌……?」

紡がれる言葉は遥か昔から使っていた言語であり、今この時代の者が知っているとは思えないものだ。彼女がよく精霊の少女に歌って聴かせていたのを覚えている。
だがその声質は、女性のそれではなく男性のもの。

リヴァイアサンの許にいるギレルノは、本を開いて読み聞かせるように歌を紡いでいた。
彼が歌っている姿に『彼女』の姿が重なり、かつて交わした会話を思い出す。

『あたしはリヴァイアサンを使役するんじゃない。あたしの歌で、彼は安らぎを得ているのよ』
『あたしの歌は、精霊達だけでなく神様も魅了してくれるみたいね?』

そう意地悪く笑って言った彼女と同じ意志を宿した双眸と、視線が交わる。
ギレルノは視線だけでホルセルを示す。何が言いたいのかなど、一目瞭然だ。
喚び出すだけでかなりの体力を持って行かれるリヴァイアサンを召喚し、ラルウァに向けて攻撃したと言うことは、奴らを引き受けるつもりなのだろう。

数瞬の迷いの後、クロスはギレルノに背を向け駆け出した。
奴は、今己がやれることを全うしようとしている。ならばそれに応えなければ、全てが無駄になってしまう。

対峙しているホルセルとドッペルゲンガーに割って入り、氷を放って両者の武器を弾き飛ばす。
続け様に、いち早く態勢を立て直したドッペルゲンガーの身体を双剣で交差するように切り捨てた。レイス族である奴らの心臓部である魔力の動脈を断ち切られ、ぐぁ、と唸り声を上げながら相手は黒い霧となって消える。

「ホルセル!」

衝撃に態勢を崩したホルセルの胸倉を掴み上げ、無理やり起こす。彼の瞳は深海と空が明滅しており、感情が不自然に揺れ動いているのが顕著に見て取れた。
クロスは声を荒げて言い放つ。自身にも言い聞かせるように、一語一句、聞き逃させないようはっきりと。

「思い出せ! お前はホルセル=ジングだろう!!!」

   ■   ■   ■

蘇る幼き頃の恐怖。
死ぬかもしれない恐怖。
大切なものを失うかもしれない恐怖。
それらに体を縛られ、身動きが取れないホルセルは、それら全てから吹っ切れたつもりだった。次に直面した時には迷わないと、思っていた。
だが精神的外傷はそんな自分を嘲笑うかのようにホルセルを縛り、身動きさせないようにする。恐怖がヴィエントを強くし、『ホルセル』という存在を脅かす。最早、自分が『ホルセル』なのか『ヴィエント』だったのかすら、分からなくなってくる。

がしり、と胸倉を掴まれる感触。
嫌にはっきりと感じられる他者に気持ち悪さを感じ、目を閉じる。

――大好きよ、ホルセル。私も、クレイも、リルちゃんも、もちろんクロスも。みーんな、あなただから好きなのよ。
――ほら、聞こえるでしょう?
あなたを呼ぶ声が。

「――ホルセル!!」

海の底を歩いているかのような倦怠感から急激に解放され、はっと意識を取り戻す。
目の前には、かつてない程に焦った表情を浮かべた、クロスがいた。

「……クロス」
「……本当に手のかかる弟だな、お前は」

はぁ、と心底呆れた表情で微笑を浮かべる彼の視線が真っ直ぐにホルセルに向かっているのに気が付いて、手を握り込み、直ぐに広げる。身体が動く。今この身体は、『ヴィエント』ではなく『ホルセル』が動かすことが出来ているようだった。

「ごめん」
「謝るなら後にしろ。ラルウァをギレルノが押さえてくれている。……リルを、助けるぞ」
「ああ!」

大剣を構え直し、ホルセルは応える。
リルを助ける――だがその決意を、ヴォスは嘲笑うかのように高笑いを発した。

「お前らやっぱ最高だろぉ!! こーんなところで茶番繰り広げてくれてよぉ、俺は今腹が捩れておかしくなりそうだぜ」
「テメェ……!」
「あー笑った笑った。そのカッコイイ決意をよぉ、俺は潰してやりたくて仕方ねぇの。だから――」

ヴォスはリルを掴んだまま、建物の上を飛び移る。向かう先は誰が見ても明らかであるし、だからこそホルセルとクロスはその場を駆け出していた。

ギレルノが操るリヴァイアサンと相対するラルウァが、ゆっくりと向かってくる新たな敵へと向きを変える。

一番そいつに近い建物の屋上に辿り着いたヴォスが、リルを降ろした。
そして、

「じゃあな、お嬢ちゃん」
「え……」
「リル!!!」

とん、押し出されたリルの小さな身体は、ラルウァに向かって嫌にゆっくりと落下して行く。彼女が覚悟を決め、目をぎゅっと閉じたのが見えた。ラルウァが落ちてくる標的に向かって、手を伸ばす。

だがそこに、ラルウァとリルの間に光が現れた。ウェーブがかったセミロングの髪と、質素なワンピースの裾をはためかせた少女が、リルを庇うかのように両手を広げる。
ラルウァの刃は彼女を切り裂き、二人は吹き飛ばされた。

「何だと!? チィッ!!」

流石のヴォスも予想外だったのか、目を見開いてラルウァの方へ駆け出そうとする。が、二人はそれを許さなかった。

「うおおおおおおおおおおおあああああああああああぁ!!!!!」

叫びながら突き出した大剣の切っ先が、ヴォスの身体を吹き飛ばし、嫌な音が鼓膜を鳴らす。
その先にいたクロスは、淡く明滅する双剣を振り払い斬撃を放った。
肉を割く音が響く。

致命傷を負ったヴォスは、血を吐きながら仰向けに倒れた。頑丈な半ラルウァ体である彼だが、クロスの《遺産》の一撃では、体の性質など役に立たなかった。

「あ――……くそ、面倒臭ェ……」
「《遺産》でトドメを刺してやるだけでも、感謝して欲しいものだな。……痛みはないはずだ」
「は……そりゃどうも。やれよ」

もう抵抗する気も力もねぇよ、と掠れた声で、ヴォスは言った。
クロスは応えるように、双剣を仕舞い代わりに長刀を出現させる。双剣よりも多くの《月の力》を纏った、《遺産》だ。

「羨ましかったんだよ、あいつらがな」
「……来世でなら、仲良くしてやらんこともない」
「お断りだね。俺は強欲で、独占欲が強ぇもん」
「だろうな」

クロスがそのまま、ずとん、と長刀を振り下ろした。
彼の言葉通り、ヴォスが苦しむことはなかった。胸には長刀の切っ先が突き刺さっているというのに、本人は何の反応も返さず疲れたように笑っている。
《遺産》が破壊したのは人間の身体ではなく、ラルウァがラルウァとして在る原因の、異常な量の《月の力》を溜め込む器。
ただ、これを破壊すれば、既に人間として生きていけない彼はラルウァとしても生きられず――結果、死ぬことになる。

「嬢ちゃんに謝っといてくれや。利用して悪かった、ってな」
「気が向いたらな」
「ホントいけすかねぇガキだなテメェ。……俺の後ろにいる奴らに殺されるのを、願っといてやるよ」

負け犬の遠吠えと言うよりは悪態にも聞こえたその言葉を最期に、ヴォスの身体は光の粒となって霧散した。
一部始終を見守っていたホルセルは、なんだか軽い剣を背中の鞘に収め、慌てて二人の近くへと走る。
ラルウァに攻撃されて吹き飛ばされたリルは、ギレルノが受け止めていたのを見ていたので、無事なのは把握していた。

だが――。

「スィール」

ホルセルは、ギレルノの腕に支えられ上半身だけ起こした状態の、半透明の体の少女の名を呼んだ。
庇われたリルは彼女の隣で涙を流し、ひたすらごめんね、と謝っていた。

「うええ、だめ、死んじゃやだぁ……! せっかく、やっと、会えたのに」
「……リル」

そんな姿をずっと見ていた、傷だらけの少女――スィールが、ふと深い青色の瞳を細める。乏しい表情だが、下げられた眉尻は困惑を表していた。
やがて、彼女が何かを訴えかけるように身じろぎをすると同時にリルは目を見開き、視線を交わらせる。

「しんぱいしないで、うみにかえれば、へいきだから……?」

確認するかのように呟かれた台詞に、こくり、と肯定の意が返ってくる。リルの、生命あるものと話す力で語りかけてくれたのだろうか。
それを聞いたギレルノが、そうか、と微笑みかけ、優しい手つきで彼女の頭を撫でた。
スィールはくすぐったそうに、一度目を閉じる。そして身体が消える直前、リルに再び視線を向けると、何かを口にし――ふわりと消えてしまった。

「リル。スィール、何を言ってたんだ?」

ホルセルは、最期の彼女の言葉が気になって問いかけた。感覚で何かを言っているとは分かっても、クロスのように口の動きを読んで確実に把握することなんて出来ないのだ。
胸の前で両手を組み、祈りにも似た姿勢でいたリルが、その答えを与えてくれた。

「おねえちゃんを、まもって……って」
「お姉ちゃん?」
「恐らく、ディアナのことだ。あいつはよく、ディアナのいる神殿にひとりで遊びに来ていた」

いつの間にか近くまで戻ってきたクロスが、空を仰ぎ見ながら言った。
ディアナ――つまり、ユキナを守って欲しい。それがスィールの最期の願いなら、叶えない訳にはいかないだろう。
でも、とホルセルは自身の唇を噛んだ。

「行くぞ。まだ終わっていない」
「悪い、クロス。オレはここまでっぽい」
「何を言って……」

相手の言葉が言下する前に、ホルセルは背中の鞘から大剣の柄を抜き、正面に構えた。その先には鈍色の刃がなく、中程でひび割れるかのように折れてしまっている。
クロスも、リルも、ギレルノですら驚愕に目を見開いた。

「ヴォスを吹き飛ばした時。ここまで無茶ばっかりさせちゃったしな、仕方ないよ」

一度はヒビが入り、ウィンタに直して貰った父親の形見。作られてからきっとそう短くない時間が経っていたのだ、限界が来ていたに違いない。クーザンのグラディウスのように。
ヴィエントのスティレットではホルセル自身は本領が発揮出来ず、足を引っ張る可能性もある。瀕死のハヤトを懸命に治療しているエネラ達の元に残った方が良い、とホルセルは思っていたし、クロスならそう言うとすら考えていた。
だから、

「……だからと言って、諦めるのか?」

と彼が言った時には、ホルセルは目を丸くしたのだ。え、と耳を疑った。

「武器ならそこかしこにあるはずだ。この結末を見るんだろう? 這ってでも付いて来い」
「お前を残して行く方が不安だ。未だに狙われる立場にいるのを分かっていないのか」

渋面でクロスが、呆れたようにギレルノが言う。それは厳しい言葉だったが、二人とも自分の思考を読んだ上で言っているであろうことは、明白だった。

そしてリルも、赤く腫れた目元を軽く拭うと、ホルセルの右腕を掴んで行こう、と促した。

「厳しいなぁー、三人とも……」

言いながら、時計塔を見やる。
ヴィエントには出来なかったことが、自分になら出来るかもしれない。なら、武器がなくなっても諦めることだけはしたくない――と、ホルセルは前を行く二人を追いかけた。