第91話 徹底抗戦

時計塔の周りの広場は、しんと静まり返っている。
一個師団クラスの人数の人間がいれば直ぐに気が付くと思うが、今周囲には魔物一匹見当たらない。
日は既に落ち、明かりは被害を免れた僅かな街灯で、ようやく地面を目視出来る程度だ。

それにしても、酷い有様である。
以前来た時には、綺麗に整理されていた街道。多くの人々の憩いの場と有名だった広場。綺麗に飾り付けられ、季節の変わり目を知らせてくれた花壇。
その全てが破壊され、踏みにじられ、重々しい雰囲気を纏っていた。
元の美しい姿を取り戻すには、かなりの時間が必要だろう。見た目だけではない。ラルウァ共の毒素までが漂っているとなれば、浄化にも時間がかかる。

廃墟と化した街に、ずっと昔まで住んでいた神殿の成れの果てである遺跡を重ねる。
神官以外にも下兵が常駐していたあの場所も、今のこの街のようにラルウァの攻撃を受けたのだろう。最後の姿を見る事はついぞ叶わなかったが、あの光景を見れば直ぐに分かった。堕ちた神族の下僕、それがあいつらなのだから。
感傷がないと言えば嘘ではない。だが、己にとって神殿は職場であり、本当に守りたかったものでは――。

「予定じゃ、もう既に合流してなきゃなんねぇ頃合いだよな?」

顔を顰めながらかけられた言葉に、ユーサは思考を切って応える。

「敵もゆっくり待ってられないんじゃないかな? 足止めされているのかも」
「そうだな、その可能性が高い」
「だよなぁ。ヴォスなんか、早々に出撃してっかな。リスカも多分出てるかも、暇なのは嫌いな面子ってあいつらだから」

正にその二人がそれぞれのグループを襲っているとは知る由もなく、スウォアも同意する。
ユーサとイオスは、さてどうするか、と息を吐いた。
予定ではここで皆と落ち合い、時計塔に突撃するつもりだった。足止めで到着しないグループが出るのも予測はしていたのだが、まさか到着出来たのがひとつだけとは思っていなかった。

待つか、先を急ぐか。
前者ならば、待っている間に身体を休められるならば良いのだが、ラルウァやら魔物に強襲される可能性も孕んでいる。
また後者なら、不慮の事態に陥った時に取れる手が少なくなる。
デメリットしかない選択肢の中で、どちらが最善か。
ユーサは一考し、答えを導き出す。

「進もう」
「待たなくていいのか?」

イオスが問う。
別勢力に身を投じているハヤトに代わり、こちらの指揮権は実質彼に託されている。いくら敵と相対しているとはいえ、指揮能力も実権もない人間が、人を動かせるものではないからだ。

(それでなくても、隠し事ばかりの僕より、表向きイオスさんの方が信用されてるだろうし)

不信感を持たれる人間は、指揮には不向きだ。とは、渋っていた彼に指揮権を押し付けたスウォアの談。実際、その通りだろう。例えそう言い出した理由が、自分が全意識を戦いに向けたいから嫌だ、という事だとしても。

「うん、ここにいても魔物やラルウァの標的になるだけだと思う。何処に行ったか分からないドッペルが戻ってきたら、伝言させれば良いし」

自身の影を一瞥し、そこに気配がないのを確認する。強制的に呼び戻す事も出来るが、ユーサはそこまではしなかった。行き先が本当に分からない訳ではなかったが、説明が面倒だったのでそう答える。

「ここからは、君しか道が分からないからね。頼んだよ」
「へいよー。でも、俺じゃアテになんねぇんじゃねーの? 元敵だし」
「その時は蜂の巣にしてあげるだけだから、問題ないよ」
「うへぇ、勘弁しろ」

寝返った人間の案内ほど、危険なものもないだろう。己らを危険に導く可能性だってある、と言いたいのだ、恐らく。
少し付き合ってから分かったのだが、スウォアは呑気なようでいて意外と思慮深い。先の指揮権の話もそうだが、妙に人を納得させるのが上手いのだ。その聡明さを戦闘時にも保ってくれれば良いのだが、流石にそれは無理だろう。性格から考えて。

ともかく――言う相手が悪い。
ユーサは、ユーサとしても、トキワとしても、幼少の頃から常に周りを敵だと思い、生きてきた。騙されるのが悪い、それより優先すべきは己の意思だ。
イオスに拾われるまで、そしてそれから先も。
騙されて窮地に陥れられても、従うと決めた自身のせいだから構わない。

ひらひら手を振るスウォアを横目に、ユーサはそれに、と言葉を続けた。

「君、弟に対してもそんなこと出来るの?」
「…………それが目的で、こっちに連れてきたのか?」
「まさか。偶然だよ」

くすり、と口の端を持ち上げる。

「……お前さぁ」
「ん?」
「……やっぱ、何でもねぇ」

物凄い渋面を浮かべたスウォアだが、言いかけた言葉は結局飲み込んだようだ。

「――?」

と、鼓膜が妙な音――いや、聞き覚えのある音を拾った気がして、ユーサは顔を上げる。

その直後、冷気の刃と化した風が一同の間を吹き抜けた。怪我はないものの、体力を少しずつ奪う風。

同時に、周囲の風景が一変する。
破壊された無惨な街並から、四方八方どこを見渡してもただの闇と、暗い湖が続く世界。
飲み込まれたのは、ユーサ達と共に行動していた構成員も含めた全員のようで、各々驚きの声を上げている。
そして、その超常現象を起こした正体は、一瞬にして眼前に現れた。

「ひ……!?」
「ち、ちょっと!? あ、あれ何なのよ!?」
「幻覚みたいなものだよ。歌姫の滝の洞窟で見たでしょう。少なくとも、召喚されたものじゃない」

サエリとアークが短く悲鳴を上げ、目の前に現れたそれを指差す。冷静に説明しながら、ユーサは眉を顰めた。普段通りの調子を装ってはいるが、内心では冷や汗を流している。

「リヴァイアサン、バハームト……」

先程の悩んでいた自分を殴ってやりたい。他を気にせずに進んでいれば、こいつらに遭遇しなかったかもしれない。可能性は、低くなっていたはず。

ぎろり。
バハームトの蒼い眼が、ユーサを映す。
やっぱり駄目かぁ、駄目だよねあいつら神だもんねぇ。
のんびりと脳内で溜息を吐き、頭を抱える。

「おい、あいつらこっちに殺気向けてるけど、大丈夫なのか?」
「……ごめん。多分、いや確実に僕のせい」

暗に大丈夫ではないと告げ、己を恨む。
邪悪に染まった太陽神の呪いは、隠せるものではない。太陽を忌み嫌う獣神は、闇夜に響かせるように啼いた。
一見、ただの咆哮に見えるそれ。だがユーサは右手を上げ、叫んだ。

「ブレスが来る、避けて!!」

言うが早いか、バハームトは咥内に溜めた吐息を吐き出した。
球状になって飛んできたそれは、軌道上の水滴や水蒸気をも巻き込み、僅かながら勢いを増して向かってくる。
ユーサの叫びに反応した仲間は勿論、構成員達も慌てて移動したので、何とか被害はないようだ。

相手の狙いは自分のみだろう。
太陽神であるソーレの攻撃を受け倒れたのは、僕と……。

そこまで考えたところで、不意に思い出した。何故忘れていたのか、と自問自答する暇も惜しく、慌てて振り向く。

「っ!」
「レッドン!」

現れた神の、もう一体の攻撃の矛先。
巨大な尾の叩きが、レッドンとリレスに向かっていた。
予想通りの事態に舌打ちをし、同時に打つ手が少ないことも理解していた。相手が神でなくとも、初見の敵に完璧に立ち回れる人間などいるはずがないからだ。
あの二人の近くには、他にアークとサエリくらいしかいない。スウォアを向かわせて――駄目だ、こちらの前衛の要がいなくなる。

「仕方ない、なぁ!」

相性が不利な怪物にどこまで有効か分からないが、ユーサは立ち止まり銃を掲げる。イフリートを召喚する為だ。何とか片方だけでも仕留め、一方に戦力を集中出来る布陣を組めるように。
しかし、思わぬ邪魔が詠唱しようとする自分を止めた。

「ユーサ、ちょい待ち!」
「何!?」

スウォアが、レイピアで器用にもブレスの衝撃波を打ち消す。何のことはないようにやっているが、おおよそ人間技でないのは言わずもがな、だ。

「時間稼ぎ代われ! お前より俺の方が、あいつらにしてみりゃ相性良いだろ!」

前衛であるスウォアの代わりに、中~遠距離専門の自分がバハームト相手に何処まで止められるかは想像に難くない――が、スウォアの言うように、得意属性の相性は彼の方が有利だ。どうせ撃つなら、よりダメージを与えられる方が良いに決まっている。
思考は一瞬。袖に忍ばせていた短剣の柄を掌に滑らせ、握り締めた。

「任せた!」
「任せられてやんよ!」

バハームトの叩きつけをレイピアに帯びた電撃で弾き返し、生じた一瞬で入れ替わる。
短剣の上、スウォアよりも非力な自分ではあの極太の尾は受けられない。ならば、と銃の引金を引いた。
肉厚な身体は銃弾を弾き返し、大したダメージは与えられないようだ。だがそれにより、バハームトはよりこちらをつけ狙うようになる。後は、どこまで避けられるか。

背後で魔力が動き、スウォアが詠唱を開始した気配がした。ここから魔法が発動するまで、絶対に攻撃を通す訳にはいかない。
尾が、勢いを殺すことなく薙いで来る。ユーサは、更に連続で銃弾を撃ち出す。向かってきた尾に一発目が命中し、後続の銃弾の勢いにより動きが止まった。
ダメージは与えられないとはいえ、衝撃が殺されているのでないなら、隙を作ったりすることは出来るのではないか、と考えたのだ――賭けではあったが。

一瞬の小康、すぐにまた攻撃が来る。再び銃声を鳴らそうとしたその刹那に、目の前に薄い膜が張られ、炎の息吹が跳ね返された。

(ありがとうシアン!)

シビアなタイミングであったはずだが、流石は魔法の第一人者と称される人物を叔父と慕う魔法使い。楽団の移動で戦うことがあるとは聞いていたが、援護のタイミングなどは完璧である。
と一瞬で賞賛を贈りつつ脳内で礼を告げていると、背後で感じていた魔力が気配を変えた。

「特大のお見舞いしてやんよ、貰っとけ!!」

それが合図だと判断し、攻撃の合間を縫って一歩後退する。追撃をしようとバハームトが牙を見せた――その時、魔法は放たれた。

「あの世で後悔しな! 《イミタシオン・ラグナロク》!!」

まるで反発する静電気のように、青白い光が宙を舞う。
それは巨大なバハームトをも包み込むように浮遊し、光と光がそれぞれと繋がると、まるで光の牢獄のように動きを抑制させる。
そして、雷鳴鳴り響く暗雲から、周囲一帯を真っ白に照らす程の雷が、バハームトに落下した。
鼓膜が破れるかもしれないと思うレベルの悲鳴を上げる敵に、だがユーサは怯みもせず地面を蹴った。ダメージはかなり入ったはずだが、元々が頑丈なだけにすぐには倒れない。

「イオスさん、前衛は前に出して!!」
「チッ……これでブッ倒れねェとか、どんな身体してんだよ!」

悪態を吐くスウォアも前線に復帰し、追撃を加える。終わりが見えるのは、まだまだ先のようだった。

   ■   ■   ■

「!」

レッドンはリヴァイアサンの初撃を避け、腰から槍を抜いた。
相手の双眸が、じっと自分を睨みつけている。レッドン=オブシディアンという人間の、中身までも見通すような暗い海の色。

俺か、リレスか。
恐らくだが、リヴァイアサンとバハームトは焔の烙印を押された魂を狙って攻撃している。記憶通りなら、ソーレが殺したのはトキワとアストラルだから。
どこまで感じ取れるのか――それとも、自身が貰ったのはあくまで『記憶』か。
もしそうなら、狙われるのはリレスだという事になる。
リヴァイアサンの初撃は噛み付き。彼女の近くに自分もいた為判断がしにくいが、少なくとも奴の攻撃範囲にリレスを立たせるのは危ないのは分かる。

「リレス、下がって」
「わ、私もレッドンのサポートくらい出来ます!」
「下がって。邪魔だから」
「!」

引き下がらないだろう、恐らく。
分かっていたからもう一度、敢えて酷い言い方をした。説明をしている暇もない以上、少しでも早く彼女を安全圏まで下がらせたい。
俺の思惑通り、リレスは目を見開き息を詰まらせるのを感じた。これで、下がってくれる――はず、だった。

「嫌です!」

それはもう気持ち良い程に、彼女はきっぱりと拒否の言葉を吐き出した。
頭を殴られたかのような衝撃に、思わず俺は振り向いてリレスを見る。

「分かってますよ、私を怪我させないようにそう言ってるのくらい。分かりますよ、だって……」

杖を握り締め、俯かせた顔を上げる。いつもより真っ白で、リヴァイアサンから感じられる威圧感に、ここに立っていることすらきついはずだ。
だが――その両眼に宿る意志は、はっきりと彼女の強さを現していた。

「でも! 私もレッドンを守りたいんです! 足手まといでも邪魔でも結構です!」

リヴァイアサンの尾が、払われる。
いち早く気が付いたであろうリレスが杖の先を尾に向けると、光の輝きが飛びそこに命中する。結果、攻撃は中断されこちらまで飛んでこない。

「私だって、アストラルの名を持つ末裔なんですから!」

――ああ、本当に。
何て気高い、眩しいまでの強さを持っているのだろうか。

幼い頃実の両親に売られ、両手を血で染めてしまった自分という闇が掻き消されてしまいそうな、儚くも力強い輝き。
その輝きに憧れ、羨望し、嫉妬すら抱いた。自分がどんなに望んでも手に入らない輝きを、彼女は持っているのだ。
それを失いたくなくて、壊されたくなくて、何人たりとも渡してたまるかと思った。
(彼女の身代わりになれるのならと、《月の力 フォルノ》の依り代になるのも望んだ。全て、彼女のために)

あの、昼夜が逆転したのかと見違う程の星の降る夜。

『彼女は、悪しき力に苦しめられる。今も、これから先も、ずっと』

ぼんやりと現れた黒衣の男。
彼に告げられた言葉は、俺に今までにない絶望を与えた。両親に捨てられたのだと理解した時以上の、衝撃だった。

『だが、彼女はこの先の未来になくてはならない人物だ。死なせる訳には、いかない』
「! 何か、方法がある、のか」
『悪しき力を引き寄せるのは、俺という仮初めの存在のせいでもある。《月の力 フォルノ》が彼女に必要以上に触れられないようにするには、俺をどうにかする必要があるんだろうな。だが、生憎俺は自分の意思で、彼女から離れることが出来ない』
「…………出来る」

黒衣の男が、俺の呟きに怪訝そうな表情を浮かべる。

「あれなら、出来るかもしれない」

オブシディアンの家に代々伝わっていた魔法は、元来身体と精神に大きく干渉するものが多い。故にブラトナサではあまり良くない噂が絶えず、それが俺が家を嫌う理由であり、思い出したくもない記憶だった。
だが、今はあえて思い出す。
家に、禁呪として保管されていた魔法。確かあれはいわゆる『痛み分け』のようなものだったが、あれを応用して――。

と、考え込んだ俺に『彼』が声をかけた。

『……仮に出来たとして、君はそれで良いのか? 近い未来、それが君を苦しめるかもしれないんだぞ?』
「構わない」

その一言は、考えるまでもなく口から出てきた。

ひゅ、と風を切り、リヴァイアサンの尾が飛んで来る。
運動神経がお世辞にも良いとは言えないリレスが狼狽えた。ひ、と怯えた声が洩れ、そこで俺は、ようやく我に返る。
防御か退避か、いや攻撃の威力的に退避しかない。そう判断し、彼女の膝と背中に手を添え瞬時に抱え上げ、攻撃範囲外に後退した。誰もいない地面に尾が激突し、ひび割れる。

しっかりと着地しリヴァイアサンを見上げたところで、焔の槍が飛来するのが見えた。サエリが追撃出来ないよう、魔法で援護してくれたのだろう。

「レッドン!」

己の名を呼ぶ声。
リレスが、怒ったような表情で見上げてくる。

「……分かった」

彼女を降ろし、参ったと言わんばかりに両手を上げる。

「やろう。一緒に」
「はい!」

   ■   ■   ■

「……リル」

「やれやれ、ご乱心といった所かな。守備範囲が広い俺としては、少女相手でも怒らせたくなかったんだけど」

大仰に両手を広げ、いけしゃあしゃあとそんな事を言うヴォスの台詞は、だがホルセルの耳には入らなかった。
リルは一瞬目を細めながらも、真っ直ぐに視線を向けてくる。
どうしたんだ?その一言が、言いたいのに何故か出てこない。

『どういうことだよ、セクウィ』

出てこないはずだったのに、それはホルセルの口をついて出た。

『オレは、あの時だって別に何かをやった覚えもねぇよ』

気が付いた時には、隣に一人の男が立っていた。
逆立てた短い白髪にターバンを巻き、耳にはピアスが数個。身長は自分よりだいぶ高く、なのにがっしりし過ぎない程度には筋肉がついているのもわかった。
服装は何処かの民族衣装なのか、布を巻いたり特徴的な飾りがたくさんついている。
見に覚えのない人物だが、ホルセルは何故か知っている気がした。少し考えて、納得する。この声は、ジャスティフォーカス本部より帰還した位から、脳内に聞こえてきた声だ。

自分の視線が、勝手にリルへと移される。ここでようやく、オレの体の主導権は自分ではないと気が付いた。隣に立っている男が、動かしているのだ。

『半端ねぇ魔力の持ち主だとは思ってたが、まさかお前だったとはな。まぁ、そんな事はどうでもいいんだ』

ふわり、空気が揺らめき冷気を帯びる。
すると手品のように、右手に四つの氷の欠片が現れた。自分には出来ない芸当だ。

『オレはただ、殺せれば文句はねぇからなぁ?』
「貴様、この後に及んでまだそんなことを」
『良いじゃねぇか、コイツだって望んでるんだぜ? ――なぁ』

そこで、ホルセルはオレに視線を投げる。
暗い海の底がそこにあるような深い水色は、はっきりとこちらを視界に捉えていた。その威圧に、恐怖に、背筋が凍り付く。

ぴく、と体を震わせた。生成した氷の欠片を持った手を軽く振り、今まさに襲いかかろうとしていたヴォスの頬に赤い線を刻む。

「おうおう、良い反応速度じゃん。あのガキより全然良いね」
『そりゃどーも』

ゆらり、と構えた氷の欠片。ホルセルの視線は、真っ直ぐにヴォスに向いていた。
だが、それが放たれることはなかった。
氷の欠片を持った腕を下げた隙に、リルががしっと捕まえたからだ。
ゆっくりと視線が下りる。自分の腕の先に、顔を俯かせたまま放すまいと力を込めている、妹の姿が映った。

『おい』
「…………」
『離れないと、力づくで突き飛ばすぞ』

リルは喋らない。
すると、何故かオレは苛立ちを覚えた。多分これは、隣の男の感情。危険な予感しかしない男から離れてくれと、届きもしない願いを送る。
願いも虚しく、ち、と舌打ちをしたホルセルは、リルを突き飛ばすために腕を動かそうとした。

「……メ」

か細い声。
だがホルセルの耳には届いたのだろう、ぴたりと動きを止める。

「殺しちゃ、ダメ」
『ああ?』
「あの子が泣いてる。ダメ」

顔を上げ、眉を吊り上げながらリルが言う。そう、今の言葉は彼女のものだ。
あの子、という呼称が誰を指しているのかは分からない。ただ漠然と、さっきまでリルとしてそこにいた誰かではないかと思った。

「おうおう嬢ちゃん、俺の味方してくれんの~? じゃあお兄さん、張り切って期待に応えちゃおうかなぁ!」
『!』
「きゃあ!」
「コール、《ライトアンドダーク》!!」

咄嗟にリルを抱えて、ヴォスの攻撃を避けるホルセル。追撃に応じる為彼女をすぐに降ろし、大剣を掲げる。
奴の攻撃範囲外に出る援護に、ギレルノが召喚術を放つ。光属性の、正しきものと悪しきものに公平に分け与えるそれは、だが相手にダメージを与える事はなかった。

「効いていない!?」
「そりゃそうだろ。俺は半ラルウァなだけで、サンみたいなどす黒い奴は持ってねぇよ」

それはつまり、奴にあるのは人間として純粋な欲望。殺意や憎悪ではなく、誰にでもありうるものだという事になる。
殺意を覚えずとも容易く人を殺せる、むしろそれが生活の一部になっているとでも言うのか。そんな人間がいると言っているのか。
最早人間ですらないと公言した男は、口調にそぐわぬ下卑た笑みを浮かべる。狂気がそのまま具現化したようにすら感じる、それ。

「まぁお陰でやりやすかったけどなー? ワールドガーディアンにも気付かれなかったし」
「貴様!!」
「野郎の視線を集めるのは趣味じゃねーんだ。ほぉら、俺ばっか見てて良いのかー?」
「あうっ……!!」

突然上がった、背後からの悲鳴。
それは庇ったはずの、リルのものだった。
影を使って移動したのだろう、彼女の影から身体を生やしたドッペルゲンガーが、自分と同じ真っ白な髪を乱暴に掴んでいた。リルは痛みに声を上げ、ひたすら耐えている。
声が出せないのを忘れて叫んだ彼女の名は、やはり音にすらならなかった。

「良い事思い付いちゃった。あん時のアーリィみたく、この嬢ちゃんをラルウァ化させたら……さてお前らは、どんな顔をするかな?」

ある意味では――いや、オレにとって死刑宣告にも似た奴の言葉に、目の前が真っ白になった気がした。