第90話 覚悟を犠牲に

「くそっ……」

廃屋と化した、崩れた建物の影に身を隠し、クーザンは悪態を吐いた。

頬は切れて血が滴り落ち、鮮やかな緑の上着を染める。上着も既にボロボロで、袖から覗く両腕も細かい傷が増えていた。致命傷を受けていないのが、せめてもの救いか。

やはり、片手剣一本で父親に勝つには無理があった。軽さによるフットワークが仇になり、満足のいくダメージを与えられない。

じゃり、と瓦礫を踏み付ける音が響く。

引き受けた以上、逃げはしない。父親の傀儡の標的を自分に定めさせ続ける事が、今己がやるべき事だ。
姉の運命を全て託した、信頼する『兄』の為に。

「セーレ兄さん、早く……!」

   ■   ■   ■

「は?」

戦闘中にも関わらず、シルフィ――いや、レムレスが気の抜けた声を上げた。
その場にいる誰もが、こちらを見ている。ザルクダは頭を抱えるというアクションまで。
だが、オレは本気だった。ふざけてなどいなかった。

「何か知らないけど、お前、やたらオレに仲間になれだの協力しろだの言ってただろ。オレはお前の仲間にはなれないけど、お前がオレの仲間になれば一石二鳥だろ」

真剣にレムレスを見る。彼女はしばらく黙り込み、やがてはぁ、と溜息を吐く。

「……キミ、馬鹿なの?」
「あ!?」
「僕がキミと契約したら、手に入れたキミの身体で彼らを殺すかもとか、仲間が危なくなるとか、考えないの?」
「それは――」
「そのまま殺されるつもりだから、考える必要はないんだよ。セーレは」

やれやれ仕方ない、と心底呆れた表情を微塵も隠そうとせず、ザルクダが口を開く。初耳であろうユキナは大仰に声を上げているが、レムレスであるシルフィは黙ったまま。

召喚師が契約した精霊達は、契約者が命を落とした場合、強制的に召喚される前にいた場所に戻される。その際、一切の繋がりが断たれるのだ。
つまり、ザナリアと契約しているシルフィ(レムレス)がオレと契約を紡ぎ直し、ザルクダが殺してくれれば、精霊である存在は消えずに繋がりを失い、強制送還される。
ザナリアが、レムレスの支配から解放される――かもしれない、と思ったのだった。

それを、何も言わずとも完璧に理解した上での発言を彼はやった。失われたはずの右手の能力は健在なのではないかと疑うレベルの正確さに、自分は苦笑いを浮かべるしかない。

「全く、それを任される身にもなって欲しいよね。後味悪過ぎて、向こう一ヶ月
位は寝込みそうなのに。僕らワールドガーディアンはね、ひとつの約束を交わしている。万が一、己らが敵の手にかかりそうになった時は――」

背後で、何らかの気配が近付く。
恐らくは、ザルクダがサーベルを掲げ自分の背中に当てている。

「仲間の誰かが、始末する」

敵の手に落ちる可能性がある者を、放っておけるはずがない。
ワールドガーディアンの仲間達は、信頼と疑惑を抱きながら、共に戦っていた。いつか、もしその時が来れば、仲間を手にかけなければならない、と己に言い聞かせ。
セレウグは、僅かながら眼を泳がせた。

(いつだったか、ユーサがオレに疑いをかけ、監視していたみたいに――)

大切な人が敵の手にかかり取り戻そうとする人間程、危うい味方はいないのだから。

「ま、ザナリアはそんな暇がなかったせいで、今の今まで放置になっちゃってたんだけど」

一瞬でいつもの表情に戻ったザルクダは、大袈裟に肩を竦めながら付け加える。背中から、気配が消えた。

「でもね、レムレス。セーレはそれを実行されてでもザナリアを助けたいと思ってるし、周りを巻き込んで構わないと思ってる。そんな面倒な奴なんだよ」

酷い言われようだな、と己の評価に対して自嘲する。
しかし面倒な、と言う割には、ひとつとして負の感情が感じられない。顔を見ればまた違うのだろうが、聞こえて来たのは仕方ない、と小さく笑う音だけだ。

「そして、現状打つ手が思いつかない以上、ボクらはそれに乗るしかない。例えそれが、悪手であってもね。……どうする? キミがセーレと契約を結んだ瞬間、ボクは彼ごとキミを斬るよ」

聞く方が青ざめそうなこんな台詞でも、ザルクダは笑顔を浮かべているのだろう。
笑顔だからこそ、その言葉にはある種の凄みがあった。これが、最終的にザルクダには誰も逆らえなくなる理由である。
ぐ、と掴んだ先のレムレスは息を詰まらせた。

「――ふふ」

唐突な、吐く息に音を乗せただけの声。
それは一瞬誰が発したのか、そこにいる誰もが分からなかった。いや、把握出来なかった。
シルフィが目を見開いて、声のした方を見る。それで気のせいではなかった事と、彼女ではなかった事を知った。自身が漏らした笑みなら、そんな反応はしないはずだ。
では誰が――そんなもの、分かっていた。

「そんな事、させる訳ないじゃない。レムレス、貴方の負けよ。認めましょう?」

レムレスがシルフィに憑いていると気が付いてから、殆どの者が気にしてはいながらも視界から外していた者。彼女さえどうにかすればと必死になっていたせいで、気にかけきれなかった者。

「――ザナリア……?」

オレは、その名を呼んだ。
彼女はそれに応えるように、いつもの優しい笑顔を浮かべる。

「何で!? キミの意識は確かに潰して捨てたはずなのに!!」
「悪いけど、そう舐められて貰っても困るのよ。ワールドガーディアンの一員として」

はっきり答えた彼女の側に、オレの左眼は陽炎を映した。それは、そこに何かがいる証で。

「ずうっと待ってたの。貴方が私の身体からシルフィちゃんに移るのを、ね」
「何だって……?」
「お陰で時間がかかっちゃったわ。貴方が私の意識を殺したと思い込ませておけば、直ぐに移るんじゃないかと思ってたんだけど。――ユキナちゃん!」
「はっ、はいっ!」

ザナリアが声を上げるのと同時に、ユキナの慌てたような返事と周囲の雰囲気が変わる。足元に浮かんだ、時計のような魔法陣から漂う魔力が、シルフィにまといつく。

「っな、しまっ……!」

ユキナが放った魔法は彼女の動きを止め、同時に溜め込み過ぎた《月の力 フォルノ》を払って行く。
そうしてシルフィに留まれなくなったレムレス――ドッペルゲンガーに似た、闇を具現化させた魔物の姿の奴が、オレ達の前に姿を現した。
左眼が、痛い位に反応を示す。尋常じゃない量の《月の力》を溜め込んでいるのだ――或いは。
言葉では形容し難い慟哭が、こだまする。

「ユキナ」
「う、うん。多分コイツを倒せば、大丈夫!」
「だな」

オレの眼だけでは、『それ』が悪しきものだとは分かっても、《月の力》なのかは判別がつかない。自分の推測が正しいかどうかを問いかけると、ユキナはコクコクと肯定を返した。

「ザナリア、後ろに下がってても良いよ。セーレに無茶して貰うから」
「ありがとう。大丈夫よ」
「ユキナちゃん、僕らのサポートをお願いしても良いかな? セーレはそのまま壁になっててね」

手短に皆に、近衛兵に指示を出し、サーベルを構え直すザルクダが前に出た。

「さっさと終わらせないと、クーザン君に迷惑がかかるからね。短期決戦で行くよ!」
「了解!!」

異口同音に声が重なる。
それを合図に、それぞれが散らばった。前衛がほとんどなので、固まると不要なダメージを受けやすいからだ。

ラルウァと変わらない姿を現したレムレスは、獣のような低音を唸らせながら攻撃を繰り出して来た。
狙われたのはオレで、軌道を先読みし跳躍して避ける。着地の衝撃でフェンリルに噛まれた腕に痛みが走ったが、構っている場合ではない。

「セーレ!」
「セーレ兄!!」

二人がオレを呼ぶ。
肩越しに視線をやると、ザルクダがユキナに目配せをし、動く。
それを見送ったユキナが、すうと大きく息を吐き顔を上げた。いつになく、真剣な光がそこにあった。

「ザルクダがわざわざ声をかけたって事は……」

ただ前に出るだけなら、声をかける必要はない。その必要があったから、声をかけたのだろう。
何らかの魔法を使おうと動くユキナは、恐らくラルウァに酷似しているレムレス相手に有効であろうそれを使う為。
ただ、割と素早い相手を前に闇雲に放っても外す確率の方が高い訳で。
ザルクダの壁になっててね、の台詞が蘇る。

――ああ、そうか。

「こっちだ、レムレス!!」

声を張り上げ呼んだ相手は、暗く濁った目をオレに向ける。
くおおおおぉ、と慟哭する。

突き出された黒い爪の切り裂きをガードすると、噛まれた腕に圧力がかかり血飛沫が飛んだ。じくじくと嫌な痛みが走る。
出来るだけその腕を庇うようにし、もう片方で黒い身体を殴り付けた。が、ダメージは小さいようで、まるで寄って来た虫を払うかのような動作の反撃。
バックステップで間一髪避ける。オレが退がった隙を埋めるように、態勢を立て直したザルクダの乱舞が浴びせられた。

――せめてこの戦いが終わるまでは、持ってくれ……!

血の流し過ぎで朦朧とする意識に願う。
ユキナは別の魔法を使う為の動作に入っているし、期待は出来ない。ザルクダはそもそも魔法が使えない。耐えるしか――と自身に鞭を打つように地面を蹴る。

ザルクダの乱舞が当たったものの、やはりレムレスの身体には大したダメージがないようだ。反撃を紙一重で避け、着地した直後に跳躍。ついでにサーベルを振るうと、衝撃波が相手に当たる。片腕がなくなっていると言うのに、追撃を与えながらあっさり避ける芸当を成し遂げるのは相変わらずというか、何と言うか。
その間に割り込むようにして体を滑り込ませると、力を乗せた掌低を叩き込んだ。ダメージは与えられずとも、一瞬怯んでくれるだけで良い。
そうすれば――。

「今、楽にしてあげるから……!  ごめんね……!」

狙い通り、怯んで動きを止めたレムレスは格好の的である。ザルクダは奴の位置を誘導し、オレが動きを制限させる。数年前に彼らと旅をしていた時、ライの強力な魔法を確実に当てる為の連携だ。
そのタイミングで、泣きそうな表情で叫びながら、ユキナの魔法が発動した。

眩い光の矢がレムレスに突き刺さり、一際高い悲鳴が轟く。
トドメとなった巨大な光の剣が起こす波に耐え、視界が回復するのを待って閉じていた目を開けた。

残っていたのは、立ち尽くしたシルフィ。だが彼女も、ふらりと体を揺らすと風に包まれて消えてしまった。
同時に、近衛兵が片付けていたゴーレム達が次々に灰へと還っていく。それもまた、風に乗って何処かへと流されていく――。

「……終わった、かな?」

カチン、と乾いた音を鳴らしてサーベルを鞘に収めながら、ザルクダが呟いた。

「いや、まだクーザン……が……」
「セーレ兄っ!!」

うっかり緊張が解けてしまい、オレは慌てて体に力を込めるも、眩暈に襲われたまま倒れてしまう。ユキナの声も微妙に遠い。
体が言う事を聞かない、と思ったが、考えてみれば瀕死の重傷を負って直ぐにこの怪我なのだ。自分の丈夫さには自信があるものの、これでは仕方ないか。
物凄く眠い。少しなら、休んでも大丈夫だろうか――そう思いながら、オレは意識を手放した。

   ■   ■   ■

「セーレ兄っ!!」

ふらつく足元をもつらせ倒れた仲間に、ユキナは悲鳴に近い声を上げた。慌てて駆け寄ろうとし、自分よりも早く動いた姿を見て足を止める。

彼女はセレウグの傍に腰を下ろし、何事か呟く。すると、隣に新たな姿が現れた。
シルフィに似た姿だが、高貴な雰囲気と身に付けた装飾品が違う。それに、彼女ではない――彼は、ゆったりとした法衣の袖から伸びる腕を翳した。
すると周囲が温かな光に包まれ、重傷だったはずのセレウグの怪我を修復していく。

「セーレ、お疲れ様。……ありがとう」

こちらから顔こそ見えないものの、ザナリアはそう口にして微笑んでいるのだろうと思った。それ位に、穏やかな声だった。

ユキナちゃん、と自身を呼ぶ声が耳に入り、二人を見ていたユキナの隣にザルクダが駆け寄って来る。彼はやれやれ、と呆れを浮かべながらも、邪魔をする気はないようだった。

「ザルクダさん、ザナ姉の精霊……シルフィは、どうなったの?」
「シルフィは、多分契約が強制破棄になって、在るべき場所に還ったんじゃないかな。ザナリアの意思ではなく、彼女の意思で」

つまり、契約をどうこうする前に暴走したレムレスと契約主であるザナリアを切り離す為に、シルフィ自身が契約を破棄したという事か。繋がりを失う代わりに、契約主を乗っ取った邪悪な意志から守る選択を取った。
言うのは簡単だが、それはかなり苦渋の決断であったに違いない。

「じゃあ、向こうも無事……?」
「だと、思う。それより、クーザン君の方に行かないとね。ゴーレムを見るにグローリーさんも消えてると思うけど、心配だ。――ザナリア! セーレ頼むよ!」

治癒を施している最中のセレウグを動かすのは悪手だ。かといって、敵陣の真っ只中に残して行くのも怖い。
念の為護衛に数名の構成員と共に二人を残し、ユキナとザルクダはクーザンの捜索に向かった。

   ■   ■   ■

「!」

あれ程重いと感じていた剣の重みに違和感を感じた直後、クーザンはせめぎ合っていたそれを弾き返す。
グローリーがバランスを崩した隙を逃さず、全体重を乗せて渾身の突きを放った。

「はああああぁっ!!」

ドスッ、と嫌な音を立てながら、剣先はグローリーの左胸に突き刺さる。偽物だ、これは父さんではない偽物なんだ、と必死に自分に言い聞かせ、歯を食いしばった。でなければ、また大切な人間を手にかけてしまった罪に押し潰されてしまいそうで。

グローリーの体は血こそ流れなかったが、懐に潜り込んでいたクーザンの体に覆い被さるようにして倒れ、そのまま灰となって崩れ去る。
肩に、巨大な剣の柄が寄り掛かる。それは見違う事なく父の剣であり、柄から吊るされた鎖が小さく音を立てた。

「父さんの剣を媒体にして、父さんを作ってたのか……」

どっしりとした重みと、使い込まれた証が残る刀身。恐らくゼルフィル達の元で倒れた父のこれをあいつらが保管していて、リスカが偽物の父を作る為の媒体として持ち出したのだろう。
残念ながらクーザンが使う事は叶わないが、せめて剣だけでも母の元へ返そう――そう思い、背中にそれを背負った。

「……我が父親ながら、化物だったなぁ。本当に」

自分を呼ぶ声がする。向こうも終わったのだろう、クーザンは声を上げて自身の無事を叫び返した。