第89話 義理の愛情

「まぁ、テメェにゃつまらねぇ話だろうが、ちょっと聞いていけ」

自身を包む殺気はそのままに、ハヤトは戦斧を肩に乗せた。一見隙だらけに思えるが、警戒は一切緩めておらず、その証拠にヴォスは心底面倒臭そうな表情を浮かべただけで、動こうともしていない。

「アーリィが死ぬ数日前にな、俺はあいつに聞いたんだ。ガキ共が重荷だと感じた事はないのかってな。そしたら、あいつ何て答えたと思う?」
「はぁ? 知るかよ」
「だろうな。教えてやるよ、何も知らねぇ狐の為にな」

「重荷だよ」

問いかけた内容を聞き取り、吟味し、何て言葉にしようか。
そういったプロセスを辿っているであろう沈黙の後、アーリィは意志を秘めた瞳を向けて答えた。

「でもね、人間荷物なしに生きて行く事なんて出来ないと思うの。ホルセル達を預かってから、あたしそれが良く分かった」

眉尻を下げ、困ったように微笑む。

「あたしさ、こんな体だし。なのに、あたしが好きだって言ってくれる人はたくさんいる。それって、すっごく幸せな事だと思うんだ」

こんな体、と彼女が言う理由を、ハヤトは知っていた。
アーリィは元々病弱であり、また、新たな生命を宿す事が難しい体である。
彼女からしてみればそれはコンプレックスたりえる事で、故に時折、情緒不安定に陥る事もある。
だからこそ、いつ死ぬか分からないこの状況に身を置きながらも、任務で助けられた幼い命を放っておけない、と言うのだ。

生きる為に、荷物を背負う。
それが、死に直面した時、最後の手になるから。

「あたしにとって、クレイも、子供達も、イオスも、マーモンも、もちろんハヤトも。重荷ではあるけれど、絶対に手放したくない荷物だよ。あたしが死ぬとしたら、それはその誰かを助ける時かな」
「……クラティアスもなのか?」

ハヤトは眉間に皺を寄せる。
まさか彼女の庇護の対象に、あまり友好的ではない男の名があるとは思わなかったからだ。

そんな心の裡を読み取ったのか、アーリィはくすりと微笑む。

「そうだよ? あれでも一応、昔馴染みなんだもの」

そう言い切った彼女の笑顔が、淡い霧となって消えていく。

「あたしは、欲張りだから」

「その昔馴染みを、お前は殺したんだ。守りたいと言っていた相手に、アーリィは殺された」

彼女だけではない。
クレイも、あの時任務に参加していた仲間も。
仲間だと信じていた者に殺され、命を弄ばれた。

大切な者を失う辛さは、嫌という程味わったはずだった。だからこそ、守る力を手に入れる為に、この道を敢えて進み続けて来たのだ。
残された者の、出来る事だと信じて。

「くだらねぇー。そんなもん、本心かどうか分かったもんじゃねーだろうが」

だがヴォスは、そんなハヤトの想いを一蹴する。嘲笑い、知った事ではない、と唾を吐くのだ。

「例えそうだとしても、俺は満足出来なかったぜ!? 俺が欲しいのは信頼じゃねぇ。あいつの全てだ。だから俺は、例えやり直せるとしてもあいつを殺す」
「……そうか」

ならば、もう言う事はない。
マーモンを――いや、ヴォスと呼ばれるこの男を相手にする覚悟は決まった。

瞼を下ろし、一瞬だけ見えた光景に目を背けると、ハヤトは顔を上げた。
その男は、ただ鬼と化す。

合図もなしにヴォスとの距離を詰め、手斧を大きく振り回す。そのまま立っていれば胴体が真っ二つだが、相手は半歩下がってそれを回避する。

リーチの有利を察したヴォスが、仕掛けてきた。斧槍の怖さは、突きを避けただけでは安心出来ない事。
予想通り、突き出した体勢のまま右から左へと走らせるのを、手斧の柄で遮った。ち、と舌打ちが聞こえる。
力比べには持ち込まれなかった。すぐに斧槍を手元に引き戻し、時計回りに回し持ち手の位置を変える。それと同時に、今度はハヤトが手斧を振りかぶっていた。

再び、金属の衝突。
先程と異なるのは、リーチの読みを誤ったのか手斧の刃の先はヴォスの腕を掠り、制服を切り裂いた。

「なろっ……!」

小さく声を上げ、ヴォスが右斜め上からの袈裟斬りを繰り出す。
下段から振り上げられる手斧。
ガキィ!と音を鳴らすと、続けて歯と歯がかち合う時に似たそれが耳に届いてきた。

少しでも力を抜けば顔を両断されかねないからか、ヴォスも薄ら笑いを浮かべながら、僅かに冷や汗を流している。

武器が弾かれた。
体勢を整える為、一旦距離を取る。数瞬の攻防とはいえ、読み合う為の集中力はそう続くものではない。

ヴォスが構える。来るか、と手斧を掲げた。

「大体なぁ、テメェの弱点なんざ、とっくに知ってるっての!」
「何?」

苦し紛れの挑発なら乗らない。
普段のハヤトなら、出来る自信があった。今までも出来ていたのだから、出来ないはずがないのだ。

しかしそれは、死刑宣告にも似ていた。

「放っておいて良いの、キミが守ってきたガキ共は」

先程までとは打って変わった口調に、ハヤトは一瞬虚を突かれ判断が遅れる。
そして、弾かれたようにして子供達がいるはずの方を向いた。

黒い化物を相手に、構成員や子供達が奮闘しているのが見える。
かなり苦戦しているのだろう、中には怒号も聞こえてきた。

その光景を、一際高い建物から見物している影。
目の前に立つ男が、そこにいた。

ハヤトはようやくそこで、セレウグが言っていた事を思い出す。ヴォスと対峙した際、ドッペルゲンガーがいたという証言を。
まんまと乗せられた事に憤る前に、方向転換しそちらに駆ける。その脇をすり抜けるように、何かが――恐らくカナイ辺りの援護射撃か――通り過ぎた。

こちらの動きをずっと見ていたのだろう。軽く百メートル以上の距離があるというのに、ヴォスが嗤ったのがやけに鮮明に見えた。

直後、その隣にある三階建ての建物に、誰かに吹っ飛ばされたであろう黒い化物が突っ込んだ。
一体どんな構造をしているのかと疑う程の体を持つそれは、建物を破壊しながらも勢いが止まらず。土台を失った建物が、音を立てて崩れ始めた。

破壊された煉瓦の瓦礫は、四方八方に散らばる。人の頭の大きさから、人を遥かに越してしまう大きさのものまで、まるで石ころのように。
一番近くにいたヴォスは跳躍し欠片を避けると、まだ宙に浮いているそれ数個に斧槍を叩き込み、軌道を逸らす。
その先には、リルがいた。

「ヴォス、テメェ――!!!」

だから言ったろ。
耳元で空耳が聞こえたと思った後、ハヤトは全ての感覚を消した。

   ■   ■   ■

体にのしかかる何かは、自身と妹を狙っていた瓦礫なのだと思った。それにしては軽い事も、肌に感じる感触が異なる事も分かっていた。
ただ、見えなかっただけなのだ。倒れた状態では。

頭の中が、真っ白になる。
目の前に広がる光景が、本当に現実なのか分からなくなる。
悪い夢であってくれ。
そうだ、これは夢だ。夢なのだ。
ゆめ――。

「は、やと、さ」

体を起こして一番に視界に飛び込んできたのは、誰よりも尊敬し、誰よりも強いと思っていた相手が、己と妹を庇うように覆い被さって倒れている姿。
信じられない程の量の赤が、彼の体から流れ出ているのだと理解し、拒否し、否定した。

後退しようと腕を動かし、ズキンと痛みが走る。瓦礫が当たったのか、自身の左肩からも同じような色の液体が流れている事に、今更気が付いた。
気が付いただけで、構わずハヤトの肌に触れる。揺らすのは良くないと思い、それだけに留める。

「ハヤトさん! ハヤトさん!!!」

と、僅かに反応があった。
非常にゆっくりとした動作で、よぉ、といつものように口にするが、その顔色は凄まじく白い。

「悪ぃ……な、しくじった……」
「ハヤトさ、」
「呑ま、れんな……敵だけ、見てろ……」

誰かが駆け寄ってくる、気配がする。
それでも、オレはハヤトさんの言葉を聞き逃すまいと、少しも身動きをしなかった。
足元に、光が展開されたのが目に入る。

「任せたぞ、クロス……ホル、セル……」

赤だらけになった、自分より大きくて無骨な手が、ホルセルの白髪を撫でる。
記憶の中からも薄れていた、父親と同じように。

そして――その手は、糸が切れたかのように、地面に落ちた。

「――っ!! ハヤトさん、ハヤトさんっ!!!!」

悪魔の笑み――哄笑が響く。
まるで、面白くて可笑しくて、笑いを堪えきれないと言いたげに大きくなって行くそれは、聞いていて気持ちの良いものではない。

建物の屋上に立つ悪魔は一頻り笑うと、肩を震わせながらこちらを見下ろす。
斧槍を肩にかけ、随分と余裕のある態度をそのままに。

「鬼も、弱点握られちゃどうしようもねぇよなぁ? 放っておきゃ良いのによぉ。それに、男持ちの死んだ女なんかいつまでも気にして。何だお前、アーリィの事好きだったのか? ハッ、笑える話だよなぁ、女かってーの!」

ゲラゲラと下品な笑いがこだまし、周囲に分散していく。
尊敬し慕う者を貶され、普通でいられる人間など居やしない。だが、ジャスティフォーカスNo.2とまで言わしめたハヤトを陥れた人物相手に、皆恐怖を抱かずにはいられないのだろう。

腕も、足も、痛みを伝えてくる。

「だから殺したに決まってんだろ。俺、手に入らないなら壊す主義だからよ」

カナイが、制帽の鍔の下からかつての上司を見上げる。カシャン、と何かが音を立てた。

「次は、誰を壊してやろうか? ちらほら見えるカワイコちゃんが良いけど」

くるくる器用に回した斧槍の先を、正常なまま壊れた欲望と共にジャスティフォーカスの者達に向ける。矛先を向けられた女性数名の中には、恐怖で足を竦ませている者もいるだろう。

「――ふざけんな」

こんな奴に。
こんな男に、アーリィさんとクレイさんは。
こんな奴に、ハヤトさんは。

好き放題に言うヴォスの言葉に、もう限界だった。

横に転がっていた大剣の柄をしっかり掴むと、杖代わりにして立ち上がる。守られた体は左肩以外は問題なく、庇いながらなら戦える。

「オマエに、アーリィさんやハヤトさんを貶す資格はねぇよ。オレが、許さない」
「あぁ? 何だって? 聞こえなかったぜぇー、もっぺんほざいてみろよ」
「テメェみてぇな下衆野郎は、生きる価値もねぇって言ってんだよ!!!」

駆け出す。
屋上にいる敵に向けて、懐から取り出したスティレットを放つ。
それは真っ直ぐに奴の元に飛んで行ったが、斧槍で弾かれた。やはり、下から上に投げるには無理がある。
ち、と舌打ちし建物の壁でも駆け上がってやろうか――そんな事を考えた、直後。

余裕ぶるヴォスの背後に降り立つ、ひとつの影。
そいつは横凪ぎを繰り出すが、かわされる。

影の正体は、クロスだった。
羽根であそこまで登ったのだろうと容易に予想がつき、ならばその隙に建物の階段を駆け登ろうと思考し、ホルセルはだが動かなかった。

目が合ったのはその時で、クロスは小さく言ったのだ。
そこにいろ、と。

「――悪いが俺達は、ハヤトさんのように法の許で、という考えは既に捨てている。貴様は、ここで殺す」
「やってみろよォ、クソガキ共!!」

斧槍の刃が、降り下ろされる。

だが動じる事もなく、クロスは双剣を交差させそれを受け止めた。
続けて、その斧槍に勢いを乗せ弾き返し。他方から与えられた抵抗力に、ヴォスが意図せず体勢を崩す。

「馬鹿と煙は高所を好む。ならば、引き摺り落としてやろうじゃないか」

クロスの指先に宿る、零下の魔力。
躊躇いもなく放たれた魔法、天からの水流がヴォスの足元を掬い上げる。

「チッ……」

ヴォスが小さく悪態を吐くのが聞こえ、落下予測地点に駆けた。

既に応戦を続けているクロスの攻撃の合間を縫って、スティレットを放る。あっさりと避けられるが、目的はまた別だ。

ホルセルの横槍に気を取られている隙を突いて、クロスが連続で袈裟を繰り出した。懐に飛び込まれているヴォスは、中距離のリーチを持つ斧槍では防御しか出来ない。

クロスの連続攻撃が止んだ瞬間を見計らい、ホルセルが待機していた大剣の攻撃を開始する。
人間相手である以上、迫り来る攻撃が自身のポテンシャルを上回れば、捌き切れないはず。狙い通りまともに斬戟を与えたのか、相手の眉間にシワが寄る。

大将が狙われていると感じたゴーレムとラルウァがこちらに向かおうとしているのが、横目で見えた。
しかし、奴らがここまで到達する事はない。そう、自信があった。

ザン、と誰かの影を踏み付け、重心を移動する。新たに攻撃を繰り出そうとし、それを阻まれる。息が詰まる。

己の影から生える黒い手が、ホルセルの足を掴んでいた。手はみるみるうちに色を纏い、人間の肌と同じ色に。そして、その全てが具現された。

「――っ!?」

記憶の中に残る姿見、寒気を感じるようなおぞましさ。
まさしく墓場から這い出てきたかのように、顔に血を流し、肌を焼け爛れさせた人間。それが、にやぁ、と笑みを浮かべるのだ。

「う、うわあああぁ!!!」
「ホルセル!」

精神的外傷を呼び起こされ、恐怖のあまり飛び退く。斧槍を受け止めながら名を呼ぶクロスに、返事をする余裕すらない。喉の奥から、何かが込み上げてくる感覚がした。

屍はずるり、と音を立て影から這い出る。

「おら、ドッペルゲンガー! サボってねぇで、拾ってやった恩を返しやがれ!!」
「うるさい、ボクに命令するなっ!」
「……どこかで感じた気配だな。森に住んでいた奴か」
「そうだよ。あの時、彼にはとてもお世話になったからね」
「住処を追い出されて泣きベソかいてたとこを、拾ってやったんだよ。俺様ってばやーさしい」
「誰が泣きベソかいてただって?」

冷静に応対するクロスと、ヴォス、屍が会話をしているのが聞こえる。

「さぁさぁ、一対二となりましたがぁー世界の監視者様。そろそろ本気出したらどーよぉ?」
「何の事だかな」
「あくまで人間のフリを貫くのね。だがなぁ……テメェらの弱点なんざ、こっちは把握済なんだよォ!!」
「っ!?」

短剣を弾かれ、クロスが体勢を崩す。
絶好の追撃チャンス――しかしヴォスは彼に目を向ける事はなく、またホルセルの脇をもすり抜けた。ドッペルゲンガーも、その動きに追従する。

「しまった――! ゼノン!! エネラ!!!」

クロスらしからぬ、焦りを含んだ叫び。
気が付いたゼノンが対峙するものの、止められたのはドッペルゲンガーだけ。
ヴォスは構わず、エネラが治癒を施していたハヤトとリルに向かっていた。

「やめろおおおおおおぉ!!!!!!」

脳が状況を把握し、絶叫。その瞬間、光が溢れ出した。

それはその場にいた者の視界を一瞬奪い、直ぐに消え行く。
サングラスをかけていたにも関わらず行動を止めざるを得なかったヴォスも、追撃の構えを取っていたクロスも、恐怖で動かない体を押して立ち上がろうとしていたホルセルも。
皆が、同じものを――同じ者を凝視していた。

「リル……?」

呆然としているエネラの肩を借り、ふらふら立ち上がったのは、瀕死のハヤトと一緒に治癒を施されていたリル。
上げられた顔には一切の感情が篭っておらず、だが、その瞳に浮かんでいるのは怯え。
火事の後、しばらく人を拒んでいた時期の彼女を彷彿とさせる。あの頃のリルは、魂が抜け落ちてしまったかのように何も動じず、何も見ず、何も話さなかった。後に、あれは喋れなかったのだと分かったが。
決して浅くはない傷を、この十年足らずの間にゆっくりと癒し、ようやく昔の――火事の前の彼女を取り戻せたと思っていたのに。

「り、リル……?」

駆け寄ってきた彼女に、ぐい、と服を引っ張られる。

何だと怪訝に思い名を呼ぶが、リルは微笑みさえしない。
代わりに顔を上げ、正面を、クロスを見上げた。

「……お前は」

クロスは、動揺すらしていなかった。
まるで知っていたかのように――いや、実際知っていたのだろう。
リルに問いかけても分からないであろう質問を投げるのが、その証明である。

「お前は、ホルセルが――ヴィエントが、全てを握っていると言うのか?」

こくり。

明確な返事こそなかったが、リルは確かに縦に頷いた。もっともクロスにとっては、それだけで満足のいく答えだったようで、彼も応えるように頷き返した。

「――そうか、お前は無事だったんだな……」

そんなやり取りを見ながら、ギレルノが呟く。その声音に、優しい響きさえ纏わせながら。