第88話 誰が為に

「おいで、フェンリル!!」

ビシィ、としなやかな鞭が乾いた音を鳴らす。
リスカの呼びかけに応え、雄々しい一匹の獣が現れた。狼に近いが、牙は象のように口に収まり切らず、より恐ろしさを感じさせる。遺跡で見た時よりも、より凶暴さを増していた。

獣が、跳躍する。
彼女はタイミングを合わせて飛び乗り、街灯から地面へと降り立った。

その気になれば、他に契約していたシルフィや召喚獣も同時に喚べると思ったのだが、彼女はフェンリル以外を召喚する気配がない。それはそれで、好都合だ。

――もしかして、グローリーさんの傀儡を操っているからか……?

セレウグには知る由もないが、実はその推測は当たっていた。

リスカのゴーレム達は彼女自身の魔力を消費する為、基本的に量産型の兵しか召喚しない。質より量、である。
しかし今回は、通常のゴーレムに加えグローリーの傀儡を召喚している。よって、フェンリルのみに召喚を制限していたのだ。

「セーレ、レムレスをどうやって攻略するかだけど――」

ふと、隣にいるザルクダが声をかけてきた。
左手でサーベルを振るい、向かってくるゴーレムの顔を両断する。人形だと分かっているからこその、攻撃。
次々と向かってくる魔物やゴーレムを捌きながら、彼は言葉を続けた。

「キミの目は、まだ生きてる?」
「どういう意味だ?」
「その目で見て、ザナリアを蝕んでいるレムレスを捜し出すんだ。ボクや近衛兵達じゃ、彼女の肉体を傷付けかねない」
「そんな事、出来るのかよ?」
「やってみなくちゃ分からないよ、何事もね。それに、キミなら出来るさ」

言外に何か含みのあるような言い方だが、異論はない。藁程の可能性にも縋りたい今、提示された方法なのだ。
一刻も早くザナリアを取り戻し、グローリーを押さえてくれているクーザンに加勢しなければ。
セレウグは、頷いた。

「分かった、やってみる」

パン、と両のグローブを打ち鳴らし、体の重心を低くする。
出来るだけ空気抵抗を受けない体勢で、まずはリスカを押さえるべく駆け出した。

しかし、その道を邪魔するのはフェンリルだ。ぐるるる、と唸りを上げながら、行く手を妨害する。
内心、うげぇと思わなくもなかった。相手は狼型の魔物だが、その姿は凶暴化した犬に似ていなくもないのだから。
そんな泣き言を言っていられないのも分かってはいるが、体は僅かに拒否反応を示してしまう。

飛びついてきたフェンリルに拳を振り上げようとし、叩き込むその一瞬先に、辻斬りの如く速さで何かが横切った。
右目を一閃された獣は呻く。
くるくるっと器用にサーベルを回転させたザルクダは、逆手に持っていたそれを順手に持ち替えながら、ついでだとばかりに顔に蹴りを叩き込んだ。

助かったサンキュー!と言う暇も惜しいセレウグは、蹲るように丸まったフェンリルを飛び越え進む。

「ザナリア!」
「だから、ボクはリスカだってば。呼びかけた位で、どうにかなると思ってるの?」
「うるせぇ! お前こそ、ザナリアを解放しろ!」

彼女の身体を乗っ取っているレムレスは、レイス族の魔物の一種だ。
レイス族は、影を好む。だが、同じ種族でもレムレスはドッペルゲンガーと少し異なる。
影を、喰らうのだ。だから、影に弱点ないし攻略の糸口があるとしても、攻めるに攻められない。

リスカは影を喰われているから、そこから飛び出してきた奴に追撃を喰らう事はないだろうが――警戒は緩めない。

と、鼓膜が空気の揺らぎを拾う。

「うわっ!?」

灼熱の焔。
悪意が込められたそれは、セレウグの皮膚を焦がす。リスカ側のゴーレムで、魔法を使える者が呼び出したものだ。
四方八方を焔に囲まれ、逃げ道は見当たらない。どうやらこれは、対象を焔に閉じ込める魔法らしい。

自分を閉じ込める事で、相手はどう攻撃してくる?この焔は、例え術者でも近寄る事は困難なはずだ。
セレウグが動けない、となれば――

「ザルクダ……!」

クーザンはグローリーの相手。
ユキナはそもそも、一体一の戦闘には向かない。
となれば、リスカの狙いはセレウグと共に対峙しているザルクダの可能性が高い。一度対峙した事があるとはいえ、片腕一本で立ち回る彼がリスカとフェンリル、ゴーレムを相手にするのは不可能だ。

どうにかして抜け出さないと――そう考える彼の腕を、何かが引っ張った。

否。
噛み付いていた。

「――っ!!」

焔の壁から顔を生やしたフェンリルの牙が、皮膚の内部まで浸食する。このまま、食い千切るつもりなのだ。

ヤバい。

頭でそう判断したセレウグは、咄嗟にフェンリルの脳天目掛け、全体重を載せた一撃を繰り出した。人間で言う平衡感覚がコイツにも備わっているなら、脳を揺らせば隙が出来るはず!

狙い通り、フェンリルは呻き声を上げ口を開けた。解放された右腕は、既に夥しい血で染まっている。
神経が絶えず伝えてくる痛みに顔を顰め、追撃に備えた。

同時に焔の壁が消え、敵と対峙するザルクダの姿を確認する。どうやら、これを発動した魔導師を撃破したらしい。

「セーレ! 大丈夫かい?」
「ああ、何とかな」

嘘だ。

元々、バトルトーナメントでの戦闘の傷も癒し切れていない。そこに先のフェンリルの攻撃とくれば、幾ら戦えるまでに回復していても、身体の方が先にガタが来る。本来ならば、まだ安静にしていなければならないのだ。

数日前に負った傷が、痛む。
それでも。
それでも、オレは。

「――によって、リスカ=キャロラインが命じます――」

聞こえてきた声。
リスカが、新たな獣を召喚しようとしているのか。
バッと振り向くと、彼女は胸元に手を当て精神を研ぎ澄ませている。そして、オレ達の視線に気が付き、ニヤリと艶やかに笑った。
詠唱を止めたくとも、ここからでは距離があるし、フェンリルもいる。阻止は、不可能だ。

「猛き森の番人、大地の脈動の化身、空駆ける女神よ――総てを、真っさらにしちゃって」

リスカが契約している最後の一体、シルフィが風の中から現れる。
フェンリルは高く吼え、周囲のゴーレム達が蠢いた。
三位一体の魔法――間違いなく、最上位の召喚魔法だ。

「もう用はないよ。消えて」

美しい音に残酷な響きを乗せられた言葉を命令と取り、召喚獣が力を奮った。
シルフィの風の刃、フェンリルの牙と俊敏な連続攻撃、ゴーレム共の行動制限。
まともに相手をすれば、ここで倒れている事だろう――だが。

「来い、ドッペル!」

耐えて、同時にザルクダがドッペルを呼ぶ。彼の影がユラリと揺れ目が光ったと思うと、群青色が飛び出した。

ユーサと行動するようになってすっかり繋がりはなくなっていたと思っていたので、セレウグは驚いた。驚いただけで、今は問いかけはしない。

「久し振りだな、お前に呼ばれたの!」
「全くだね!」

ゴーレムとすれ違いざまに蹴りを叩き込みながら、群青色――ドッペルが言う。

「状況は?」
「知ってらぁ。影から聞いてた」
「頼んでも?」
「その為に喚んだんだろうがよ!」

ぐ、とドッペルは屈み込み、直後足のばねを使って高く跳躍した。魔物だからこそ出来る芸当だ。

それより、リスカの――レムレスの本体は、どこだ?
左眼の忌まわしき力が映すのは、魂の揺らぎ。そして、感情。
レムレスのような負の感情が相手なら、それは不穏な雲行きの空のように妖しい色をしている。陽炎のように揺らぐ魂は、人ならざる者の証。

――あれ?

立ち位置の関係でリスカとシルフィを視界に入れたセレウグは、首を傾げた。

「逃がすか……よっ!」
「!? このっ……!」

ドッペルがリスカの立つ場所まで辿り着き、彼女の動きを封じる。いつかも見せた、魔力封じの呪い。

彼女の魔力が制限された事によって、ゴーレムやフェンリルの動きが止まる。まるで電撃を喰らったかのように、動く事が出来ないのだ。供給源が使用出来なくなれば当然の事だろう。

そうなっているはず、だ。

なのに、その魔力によって具現化しているはずのシルフィだけは、その場にふよふよ浮いたまま。

「まさか――」

セレウグは、得られた情報と今しがた手に入れた情報を取捨選択し、どれが偽りなのかを見極める。

ザナリアが身体を乗っ取られているのは正。
リスカ、イコール、レムレスは正。
ザナリアが契約していたのは、フェンリルとシルフィ。
魔力を封じられ行動制限されるはずの、シルフィはまだ動けている。
リスカより負の感情が濃いのは、シルフィ以外にいない。彼女にはまだ、それより強い「何か」がある。

それらから導き出せる答えは――

「ザルクダ、ドッペル! シルフィだ!」
「了解!」
「逃げんな、チビ!!」

セレウグの言葉を待っていましたとばかりに、ザルクダが飛び出す。
名指しされたシルフィは身体を震わせ、直後飛び上がった。ドッペルがリスカを押さえたまま、影の帯を放ったからだ。
しかし、その先には行かせない。
先回りしたセレウグが、そこに立ち塞がる。

召喚された者と言えど、元は精霊。
攻撃すれば、力がなくなって元いた場所に送還される。それでは、何の解決にもならない。
だがセレウグの狙いは、また別にあった。

「ザナリアを、返せ!!!」

正面に迫るシルフィ目掛け、拳を握る。
風の精霊と同時に魔物でもある彼女だ、物理攻撃も有効であるはず。

しかし、シルフィもただ黙ってやられるはずはない。ひらりと拳を躱し、一目散にリスカの元へ逃げようと宙を駆ける。

その動きが、突然止まった。

「!?」
「セーレ兄! 今のうち!!」

声のする方を見上げれば、ユキナが魔法を発動させていた。対象の時を止める、自然の摂理をねじ曲げる魔法。

出発する前、ユキナはこれを使いたがらなかった。出来れば使わずにいたい、使いたくないと願っていた。
彼女の気持ちは、無駄にしてはならない。セレウグは頷き、動けないシルフィに接近する。

「捕まえた……!」

そこでユキナの時間拘束が切れたのだろう。動けるようになったシルフィが、見た目通りにおろおろするかと思いきや――彼女は、リスカが浮かべる類の笑みを形作った。

「正解だよ、《異眼の拳王》」

まるで、リスカが二人になったようだ。

シルフィが、それまでの振る舞いを一切感じさせない、ある意味冷酷な言葉を口にした。

正解、の意味。
ザナリアが契約している精霊を乗っ取り、そちらを経由して操っているのかもしれない――そう推測したセレウグの思考を、シルフィは正解だと言った。
ならばそれは、この精霊をどうにかして引き離さない限り、ザナリアを完全に解放する術などないと言う事ではないか。

セレウグは苦虫を噛み潰し、覚悟を決める。

「でも、分かったところでどうするつもりだい? 契約した精霊を真の意味で消す事なんて、出来ないよ?」
「分かってる」

ここからは、一か八かだ。
セレウグは慎重に言葉を選びながら、決意を口にした。

「だから――お前、オレと契約しろ」

   ■   ■   ■

地下通路の薄暗さを利用し、壁を駆ける。

「ち……思ったよりも、しつこい性格してんな」

壁を蹴る。一瞬後、そこに弾が着弾する音がした。
タン、と着地をすれば、そこに向かってくるのは大男。ナックルを構える動作は大振りだが、避けるにはシビアなタイミングと誘導が要求された。

まずひとつ。
ここは地下通路。同じ場所をボカスカやらせていたら、壁が崩れて生き埋めにされる可能性すら孕んでいる。
ふたつ。
単に、位置取りが上手い。
先に潰したいラニティや、その周りにいる奴らに向かおうとすると、ライラックへの攻撃を許してしまう。数が悪過ぎる、でも間違いはない。
みっつ。
場所が悪い。
本来ならば、俺は広いフィールドを利用して相手をかく乱し、攻撃するスピード重視のスタイルを好む。こんな狭い場所での戦闘は、俺には厳しい。

以上の理由により、とても認めたくないのだが俺は苦戦を強いられていた。
ひとつだけ、策はあるのだが――それをライラックに伝える暇がない。

その上、あまり好き勝手に動けば、いくらメイス使いであるとはいえライラック一人で捌けないレベルの敵が奴を襲う。前衛がジャック一人では、まともな魔法を紡ぐ暇さえないだろう。
どうしろってんだよ!と言わんばかりに戦爪を振るう。

「ジャック!」

そのライラックから、名を呼ばれたジャックは肩越しに振り返る。

「こちらは気にするな、番犬は番犬らしく暴れろ。俺は馬鹿犬に守られる程、柔ではないぞ」

詠唱の合間を縫って聞こえてきたその台詞の意図を、ジャックはすぐに理解出来なかった。
その隙にライラックは、飛び付いてくるゴーレムと反国家勢力目掛け、割と上級の魔法をぶっ放す。援護など必要ない、とでも言わんばかりの威力と詠唱スピードだ。

「手を隠すな。何かあるなら、構わず動け」

魔導師である自分を放置して構わない、と宣言したも同然な相手に、だがジャックは内心感謝する。

ライラックも、外見に似合わずユーサ並に物知りであり、切れ者でもある。恐らくはこの攻防の中、自分の表情なり動作なりから、思うように動けないもどかしさ、なんてのを読み取ったのだろう。
前衛[俺]が動けない理由、思考、その他諸々。全てを読み取り、その上での発言。

だが、大人しく礼を言うのは癪だ。

「――テメェはいい加減、犬呼びを止めろ!」

その言葉を礼の代わりに言い放つと、ジャックは討つべき敵を見据える。
パワータイプの敵は、総じて俊敏さに弱い。
覚悟を、決めた。

「俺の庭で、好き勝手暴れ回るんじゃねぇよ。全員、この先十日以上まともに飯を喰えなくしてやる」

ニヤリ、と犬歯を剥き出しにして笑うと、ジャックは己に課していた楔を解放した。

楔とは言っても、形として存在しない曖昧なものだ。
人狼族はその特殊性の為、人間には存在しない器官が存在する。だが、楔はそのどれとも違う、敢えて言うなら超感覚に似たもの。
故に、本来ならば幼少の頃から親に教わり、大抵の子供は物心ついた頃にはその感覚を制御出来るようになっている。

だがしかし、ジャックはこれが苦手だ。十九年と、普通のヒトよりも長い時間を生きてきてなお、その感覚を上手く習得する事が出来なかったのだ。
そうなると結局、奇跡的に変化に成功してから数年間――ジャックは一度も狼の姿に戻っていないし、戻ろうとも思わなくなっていたのだった。

だからこそあの時は、もう二度と狼の姿に戻らない覚悟をしていたのだが。

頭部に、懐かしい感覚が戻ってくる。
腕と戦爪が、同一のものになったかのように馴染んで行く。

「リニタが――ディアナが守ってきた大陸を、テメェらみたいな下賤な奴らに渡せるかよ」

言うが早いか、ジャックは飛び出した。
主人の願いを、想いを護り切る為に。