第55話 彼女の話

 クーザン達が、ジャスティフォーカス本部へと出発してから二日が経った。シアン達の楽団が使っている車両に乗せて貰っての移動とは言え、帰ってくるにはまだまだ時間がかかるだろう。
 ホワイトタウンに残った者達は、穏やかながらも落ち着けない時間を過ごしていた。相変わらずリレスは目を覚まさず、サエリとシアンが交代で傍についている。
 孤児院に滞在させて貰うお礼として建物の掃除の手伝いを終えたユキナは、そう思い耽りながら未だ拭えない不安と戦っていた。

「(一体、どうしちゃったんだろう)」

 突然倒れてしまった彼女。医療技術は最低限習得しているイオスやシアンが診ても体には何の異常もなく、ただ目を覚まさずに、静かに眠っている。医療に精通している訳でもないユキナには、こんな時どうしたら良いのかも分からなかった。分からないのに、何かしたい、と思う。
 ――でも。この、胸を抉るような焼け付く感覚。一見何もないようなリレスの姿を見る度に、言い表しようのない恐怖に駆られている。何かが、危ない気がする。
 陰鬱とした気分を振り払うように、頭をぶんぶん横に振る。自分まで暗くなってはダメだと思い直し、バケツの取っ手に手をかけようとすると、横からそれを奪い取られた。

「あ、レッドン君」
「こっちも終わり。持つ」

 顔を上げると、そこにはレッドンが立っていた。帽子と外套は部屋に置いてきているのか、黒いジャケット姿。バケツを持ったのと反対の手には、彼が掃除に使っていた箒。

「ありがとう。でも、大丈夫だよ? 早くリレスのとこに行ってあげて?」
「……気を遣わなくて良い。俺は、彼女の傍にはいない方が良いから」
「そんな事――」
「うだうだ言わずに、早く行ったらどうなの?」

 背後から聞こえた棘のある声は、聞き覚えはあっても聞いた事がない程に、冷たく廊下に響いた。
 振り向けば、予想通りの人物が壁にもたれ掛かり、いつも以上に細めた両目でこちら――否、レッドンを睨みつけている。

「サエリ?」
「リレスに会わないの? アンタにとって一番大事なんでしょ? 何で傍にいてやらないの!?」

 壁から背中を離し、つかつかとレッドンの正面に歩み寄ると、彼の胸ぐらを右手で掴み上げた。されている方は抵抗する素振りも見せないので、ユキナが止めるべきか否か迷っているうちに、サエリは詰問し始める。

「アンタがいない間、あの娘がどれだけ心配してたか、必死に捜してたか! 分からない訳ないでしょ……! それとも、そんな想い踏みにじるつもり!?」

 堰を切ったように叫ぶ声。そうでもしなければ、不安で押し潰されてしまうのか。
 だがその言葉は、レッドンが自ら望んで姿を消した訳でもなく、ゼルフィルの仲間に捕まって洗脳までされて傀儡として操られていた、という事実をスウォアから伝え聞いていたユキナには、理不尽にも思えた。だから違うんだよサエリ、と彼を庇う為の口を開きかける。
 それを音にしなかったのは、他ならぬ叱咤を受けているレッドン自身が、手振りで止めるような仕草を見せていたからだ。声にこそ出さなかったが、ひらひらと左右に振られる腕は、『必要ない』と言っているかのように見えた。

「何か言いなさいよ!!」
「……愛している。諦めるつもりもない」
「なら、」
「だがそれは、出来ないんだ。……すまない」

 返答が返るなり響き渡る、パシン!と快い音。衝動的なのか、サエリが左手でレッドンの頬に平手打ちを喰らわせたのだ。自分は叩かれていないのに、ユキナは無意識に頬に手をやる。

「バカでしょうアンタ、ここまで言われて何で頷かないのよ! 傍にいてやるだけが、何で出来ないのよ……っ!!」
「……それは」

 サエリは力が抜けたかのように廊下に座り込んでしまい、俯いて涙を流し続ける。あの娘が可哀相じゃない、とか、ろくでなし、と譫言を呟きながら。自分もそれほど親しい訳ではなかったが、彼女のこんな姿を見るのは初めてだ。
 サエリがリレスの事を想って言っているのは、聞かなくても分かる。だからと言って、彼女のように彼を責めるのは、ユキナには間違っているように感じられた。

「ちょっと、何事!? ってあー……」
「……シアンさん!?」

 騒ぎを聞き付けて現れたシアンの声に、ユキナは天の助けと言わんばかりに名を呼ぶ。その自分の声の頼りなさに、ほとほと呆れるものだ。
 シアンは場を見て一瞬で何があったのかを察してくれたらしく、頭を抱えていたが、すぐにごめんね、と続けた。

「びっくりしたでしょ? 後はアタシが何とかするから」
「え、でも」
「任せて頂戴。ね?」
「……分かりました」

 シアンが少しだけ首を傾げ言うその顔に何故か説得力を感じ、本当に任せて良いのだろうかという疑念は払われる。大人しく頷けば、彼女は座り込んでしまったサエリを部屋に連れて行こうと取り掛かっていった。
 隣に立つレッドンに視線をやれば、クーザン以上に無愛想――ともすれば無表情と言えるその表情から、本当に僅かに申し訳なさが見えたような気がした。

 玄関を抜ければ、芝生が恐らくは手作りであろう石段を挟み道を作っている。それはアーチ状の花壇に向かい伸び、それを外れれば、子供達が遊べるように様々な遊び遊具がある。今はイオスが子供達に勉強させている時間帯なので、誰もいないはずだった。
 サエリをシアンに任せて、取り敢えず場所を移そうと言う事でやってきた庭。レッドンからはさっきまでの沈痛な面持ちは消え、またいつもの表情に戻っている。
 近くにある、腰の高さ程の柵に軽く体重を預けると、レッドンはひとつ息を吐いたようだった。
 ユキナは側にある大きな木に結われた縄で作られた、手作りのブランコに腰を下ろす。ギシギシと音が鳴るのは子供用だからか。丈夫な縄のようなので、自分くらいが乗っても壊れる事はなさそうだった。

「ごめん。驚かせた」
「ううん、気にしないで。確かに驚いたけど……それより、顔大丈夫? 何か冷やせるもの、持ってきた方が良い?」

 赤く腫れた頬が気になって尋ねると、彼は緩慢な動きで自身の頬に触れる。全く痛がっていないようにも見えるのだが、ユキナにはまだ痛々しく見えてしまう。
 しかし、レッドンは左手で頬に触れ、大丈夫、と答えるのみで、話は途切れた。
 このままお互いに無言になるのは流石に辛いものがあるので、考えた末に、先程気になった事を問うてみる事にする。

「……あの、もしかして、さっき言ってた『俺は近くにいない方が良い』って、比喩でも何もなく、何か事情があるの?」
「言葉のままだ。俺は、彼女にとっては有害な力を寄せ付けやすいらしい」
「有害な力? それって、サエリは知らないの?」
「サエリは知らないはず。心配かけたくないからってリレスに口止めされているから、少なくとも俺は伝えた事はない」

 理由はあるが、サエリが知らない領域の話なので反論する事も出来ない。それで黙っていたのか、とユキナは納得すると同時に、新たな疑問が生まれた。

「……レッドン君は、リレスが倒れた理由を知ってるんだよね?」

 有害な力、と聞いてすぐに思い浮かんだのは《月の力 フォルノ》だったが、それよりもレッドンが、他の者達は知らない『何か』を知っているような気がした。リレスが倒れた原因が自分にあると思い近寄らないという事は、真偽の程は不明としても、大方見当をつけている、という事にはならないだろうか。
 その問いに、彼は少しだけ鋭い両目を大きくし、すぐにふいと顔を背けた。

「――ルナサスは、リレスから俺達の話を聞いた事は?」

 どう考えても無理矢理話を背けられたのはユキナでも分かったが、デリケートな話を聞いているのは自覚していたので、突っ込みもせず従う事にする。
 二人とは教室が一緒なのもあり、時折話をする程度には仲が良いと思っている。特にサエリは話が合う事もあって、クラスの女の子も交えて女子だけの集まりで話もした事があった。
 一方リレスはどちらかと言えば大人しい子で、自分から一方的に可愛くて羨ましい、といった感情を抱いているだけで、話自体はあまりした事がない。本人は否定するだろうが、ユキナからして見れば高嶺の華とも言える女の子らしさを持った少女、といった印象だ。
 という情報こそあれど、そう言えば二人から仲が良い男の子二人の話は、本当に数える程しか聞いた覚えがない。それも日常会話のレベルで、出会った経緯や詳しい話は恐らくないだろう。

「えっと……少しだけかな? そこまで深い話をする程、仲が良い訳じゃなかったから」
「そう」

 素直に答えれば、レッドンはまた顔を俯かせ、足元で揺れる青々とした草に視線を投げる。

「元々俺は孤児だけど、今は必要がないから、詳しくは割愛する。良くある、スラム街でその日の食料にも困っているような少年と考えてくれれば良い。リレスは、その頃から叔父さ――イオス教授に連れられて、たまに楽団と共に旅行をしていたそうだ。……とある町で、彼らに色々助けられたのが縁で、俺はリレスと知り合った。陽だまりのような彼女の笑顔を見ているのが好きだった」

 おっと、早速ののろけ!と、普段恋の話で盛り上がる女の子との会話でなら茶化しているところだが、ユキナはぐっとこらえる。今は真面目な話の上に相手は男の子なのだ、と自分に言い聞かせた。

「そのうち、俺は楽団の護衛のような形で付き添う事になった。正直、リレスの傍に居られれば何でも良いと思っていた。それからあれよあれよと言う間に魔導学校に通う事になって、ホワイトタウンを発つ前日――三年前のある日。俺とリレスは、事故に遭った」
「事故?」
「そう。天気が良く、星が綺麗に見える日だった。ここの近くにある丘に、二人で空を見に行ったんだ」
「ロマンチックね。羨ましい」

 そう言うと、レッドンは僅かに笑ったようだった。しかし深く追求する事はなく、話を続ける。

「……それは、空から降ってきた。まるで狙い定めていたかのように、俺達に真っ直ぐ落ちてきた」
「何が?」
「隕石……とはまた違う。何だったのか、俺達も今だに分からない。とにかく、それによって俺達は重傷を負っていた」

 ギシ、と縄が軋んだ音が鳴る。

「俺は咄嗟にリレスを庇ったはずだった。けど彼女は重傷、意識さえなくなっていた。治癒術を習得していれば、と後悔した」
「けど、あなたは無理なのよね」
「素質がない。……途方に暮れて、ショックで動けなくなった。俺自身も血が抜けていたんだろう、その時の記憶はそこまでだ」
「そっか……」
「次に目を覚ました時、俺は体も動かせない程に疲労していた。何とか体を起こすと、傍には無傷のリレスが座っていた。そして、言ったんだ。何で、私なんかの為に、って」
「……どういう事なの?」
「リレスが、《アストラル》の末裔だからだろ」
「!」

 突然割り込んできた第三者の声に振り向くと、背の高い男が立っていた。
 ユキナ達より、いやもしかしたらセレウグよりも年上だろう。鋭い目付きは常に周りを気にかけている。身に纏うスーツを呆れる程に着崩した彼は、それが汚れるのも厭わずアーチのポールに体を預け、こちらを見ていた。
 レッドンが槍こそ構えず、だが警戒の色を隠さずに相手を睨みながら、ユキナの前に立つ。男と自分の対角線上に割り込む形になり、庇ってくれているのだと気が付く前に彼が口を開く。

「何者?」
「ただの通りすがりだ。ここの主人に用がある」
「それで信用するとでも?」
「思ってないな。……ん」

 ポールから体を離し、彼はレッドンとユキナを視界の真正面に入れた。すると、何が気になったのか、ユキナをまじまじと観察し始めた。流石に不躾な視線を浴びせられるのは不快なので、何よ、と多少強気に問いかける。

「あ、いや、おじょ――主人に良く似てるなと思っただけだ。悪いな」
「え、あ、うん」

 何か失礼な事を言われるものなら言い返してやる、と思っていたのを律儀に謝られては、それ以上言う気にもなれない。拍子抜けしたユキナは、ぽかんとした表情で頷く。背格好からのイメージだったのだが、見た目というものは信用出来ないなぁ、とひとり反省。
 その直後、玄関が開き子供達が飛び出してきた。どうやら、勉強会は終わったようだ。
 それぞれ無邪気に飛び出してくる子供達を追いかけるようにイオスが現れると、「よ」と男が軽く手を上げて声をかけた。

「ジャック?」
「あ、わんこのお兄ちゃんだー!」
「わんわーん!」
「だから、犬じゃないって言ってるだろお前らは! ユーサの真似すんじゃねぇ!」

 声をかけられたイオスは、男の姿を認めると目を丸くしていた。反対に子供達は、やたら嬉しそうに彼――ジャックの足元にわらわらと集まってくる。
 寄り付いてきた子供達数人に男が発した言葉は少々きついが、表情にはそこまで剣呑な雰囲気は見当たらない。この場にはいない青年の事も知っているようなので、どうやら、本当にイオスの知り合いのようだ。

「どうしたんだ、ジャック。お前一人とは珍しいな」
「お嬢にはちゃんと剣士様がいるからな。俺はそいつから頼まれ事をされただけだ。ていの良い厄介払いだな」
「そんな事もないだろう?」
「あの……」

 ユキナは申し訳ないと思いつつ、彼等の会話に口を挟む。ジャックの言っていた《アストラル》という言葉が、自分でも何故か分からない程に気になっていたからだ。
 イオスはぱちくりと目を瞬かせ、ああ、と何かに気が付いたかのように声を上げる。だが話の続きを聞きたい、と思う自身の気持ちが相手に伝わるはずもなく、彼が口にしたのは全く別の事だった。

「彼はジャック。私の知り合いの執事兼、護衛をやっているんだ。怪しい人間ではないから、安心してくれたまえ」
「そ、そうじゃなくて……」

 どうしよう、こんな事聞いたら怒られるだろうか。どう切り出すかを考えながら続けようとしていると、イオスではなくジャックが答えた。

「《アストラル》だろ。人名だぜ、それ」
「……ジャック、言ったのか?」
「どうせ説明すべき事だろうし、知るだろうがよ。なら、遅らせても今でも一緒だろ」

 イオスが咎めるような視線で問う。温厚な性格をしている彼だが、そういった表情をすると少しばかり迫力を感じる。
 だがジャックは素知らぬ顔で、悪いか?と答えた。

「それはそうだが……いや、何でもない。――場所を変えよう」

 一行は場所を孤児院の憩いの場、居間に移す。窓を開け放っているので、遊具で遊ぶ子供達の元気な声が聞こえる環境だ。
 リビングには現在孤児院に残っている人間全員が集められ、リレスの世話や子供達の見張りはアルトくらいの子供にお願いしてある。目を赤くしたサエリやシアン、ライラックもその場にいた。

「あら、何で犬がいるのよ」
「だから犬じゃねぇってんだろ、万年露出女」
「万年ご主人様に尻尾振ってる忠犬に言われたくないわね。一旦野生に帰ってマナーってものを習ってなさい」
「フン、馬鹿に言われたくねーな」
「黙れ、やっかみ女と馬鹿犬」
「二人揃って殺されたいの?」

 ユーサが聞いていれば気絶――いや発狂しそうな会話を繰り広げているのは、シアンとジャック。そこにライラックまで加わり、一触即発の雰囲気が形成されていた。
 子供達ならともかく、彼女らまで彼を「犬」と呼んでいるのには何か理由でもあるのか、と気になったが、何かの言葉の綾だろうか。

「はいはい、そこ痴話喧嘩は後にしなさい」
「痴話喧嘩……?」

 どう聞いても痴話喧嘩には程遠かったような、とユキナは首を傾げるが、あまり気にすると身の危険に繋がりそうな気がしなくもないのでスルーする事にする。

「みんなに話しておきたい事がある。リレスの事だ。彼女は知っての通り、原因不明の昏睡状態に陥っている。――と言ったが、すまない、それは嘘だ。大体の原因は分かっている」
「《月の力》の影響だな」
「あぁ、恐らくは。リレスと《月の力》が結び付かない者もいるだろうから、簡単に説明しよう」

 イオスは立ち上がり、背後にある黒板に近寄るとチョークを手に取った。これは先程まで子供達の勉強会にも使われていたもので、何かの説明をするには使い勝手が良いらしい。
 そこに、イオスとリレス、シアンの名前が書かれた。

「まず先に説明しておくと、私と二人は直接的な血の繋がりはない」

 イオスは、自分と彼女達の名前の間に斜めの線を書き加えた。

「確かに血縁関係にはあるが、まぁ遠い親戚のようなものだ。彼女達の親が死去した後、丁度孤児院を建設していた私が引き取った。では二人の両親が何故死去したのか――それは、彼女達の本来の姓に関係している」
「本来の姓?」

 リレスとシアンの姉妹に両親がいないのも、この孤児院が実家の代わりだという話も初耳なユキナは、こてんと首を傾げる。が、イオスの説明の後を継ぎ、告げられたその言葉は、自身が驚くには十分過ぎるものだった。

「ハルシオン。聞き覚えがあるでしょう?」
「ハルシオン……!? ……アストラルの、姓?」

 少し困っているような表情なのは、その時の事を思い出してしまったからだろうか。
 その言葉に覚えはあった。アストラル=ハルシオン――ディアナの側近であり、仲間達が信頼を置く第一人者。『アース』と、親しみを込めて呼ばれていたとも聞く。

「そう。私とリレスは、アストラルの意志を継ぐ家系の子。その上リレスは彼の力を色濃く受け継いでいて、昔から魔物ではない、別の何かを引き寄せる子だったの。アタシ達の父さんと母さんは、あの子を狙ったラルウァに殺されたわ。リレスは覚えてないでしょうけど」
「知らせを聞いた時には手遅れでね。二人を引き取った私は、まず姓を名乗らない事を言い聞かせた。そして、決して人前でアストラルの話をしないと約束させたんだ」
「イオスさんの元で暮らしてて、リレスは凄く楽しそうだったわ。楽団の旅にもたまに連れて行ってあげたり……その時だったわね、貴方達に会ったのは」

 俯き気味だった顔を上げ、シアンがレッドンとサエリに視線を移す。レッドンはただ黙ってそれを受け、サエリは恥ずかしそうに視線を逸らした。
 あまり気にしてはいないのか、それでもシアンは話を続ける。

「レッドン君に出逢って、あの娘は普通に女の子として生活出来る。……そう信じてたの」
「信じて、た……?」
「あの事故」

 意味ありげに呟かれた言葉を反芻するユキナに、レッドンが顔も向けずに応えた。何を指すのかは、すぐに見当が付く。

「そう。あの時もね、リレスは今みたいに昏睡状態に陥ってた。本当に目を覚まさないんじゃないかと思ったわ」
「これは、ユーサが言っていたんだが……リレスには、普通の人とは違う何らかの気配がしていたらしいんだ。今思えば、それがアストラルだったのかもしれないが……事故直後、彼女からはそれがなくなり、代わりに君から感じられるようになったと」

 今度は、イオスがレッドンに視線を向ける。彼は短い思考の後、顔を上げた。

「……俺は、多分事故のショックでほとんど覚えていない。だが、確かにあの時、誰かと話をしたような気がする。リレスではない誰かと」
「まぁ、何があったのかは詳しくは分からないが……結果、リレスは無事回復した。副作用と言えるかもしれない症状を残してな」
「副作用?」
「クーザン君と一緒だ。ユーサの言う“何らかの気配”が《月の力》なら、彼女は幼い頃からそれを体に宿していた事になる。つまり――」
「ラルウァ化してもおかしくなかった、という事か」

 イオスの言葉を続けたのは、ライラック。難しい顔をしているのは、頭の中で今までの情報を整理しているからだろう。実際、ユキナもそろそろ頭がパンクしてしまわないかと心配になってくる程度の話なのだ。
 その時、椅子がガタン、と音を立てた。見ればサエリが顔を青くし、レッドンを凝視している。

「じゃあ、アタシ達が聞かされていたのって……アンタが、リレスの近くにいないのって……!」
「そういう事よ、サエリ。全部嘘なの」

 彼女は、自分よりもずっと頭の回転が速い。その理解力で、一体何に気が付いたのか。
 理由を聞かずに立ち上がったサエリに、シアンが自嘲を浮かべながら淡々と答えた。

「リレスが心配かけるのが嫌だから、って言うから、この事はアタシとレッドン君とイオスさんだけが知っていた。アーク君も知らないはずよ。……ごめんなさいね、嘘をついて。でも、あの子の気持ちを無視する事は出来なかったの」
「……っ」
「私からも謝らせてくれ、サエリちゃん。君やアーク君を巻き込みたくはなかったんだ」

 す、と自然な動作で頭を下げるイオス。流石のサエリも、親友の叔父に頭を下げられれば慌てたようだが、正直なところ内心は複雑だろう。
 大切な親友から、自分を守る為に嘘を吐かれていたという事実。嘘は悲しい事だが、その理由が理由では怒るに怒れない――そこまで考え、ふとユキナは思い出した。自分もまた、同じ罪を犯していたのを。

「(……ごめん、クーザン)」

 帰ってきたらもう一度、きちんと謝ろう。そう改めて決心したところで、頭を上げたイオスが話を続けた。

「この昏睡は、恐らく《月の力》の過剰反応によるもの。どうにかしてそれを取り払わねば、最悪……」
「なら、あたしが……!」

 クーザンを元に戻した時のように、自分の力ならリレスを助けられるかもしれない。
そう考えての発言だったが、イオスは首を縦には振らなかった。

「考えたが、生憎リレスは怪我している訳ではないしな。それに、君が危なくなる」

 あの時クーザンが元に戻ったのは、ユキナが月の力を治癒の動力に変えたからだ。エネルギーをどこかに追いやる先があったから、助ける事が出来た。
 だがしかし、リレスは怪我をしていない。つまりはエネルギーを他所にやることが出来ないのだ。
 最悪ユキナ自身にエネルギーが溜まり、その場合ラルウァになってしまうのは自分だ。
 友を助ける為なら、とユキナは言いかけるが、リレスの事だ。助かった時に自分を責める光景が容易に浮かんでしまう。ならば、他に手はないのか――静まりかけた空間に、彼は事もなげに発言した。

「そういう訳か、アイツが俺をここに寄越したのは。ったく、回りくどいやり方しやがって」

 今まで黙って話を聞いていたジャックは、肩をコキコキ鳴らしながら姿勢を正す。

「人狼族の里に、代々伝わる話がある。『大陸の王女に蝕まれたら、月の草を身に纏え』。ガキの頃、耳が腐る程言い聞かされたのを覚えている」
「月の草? もしかして、ルーノの事?」
「知ってるのか?」

 ジャックが目を丸くし、問い掛けて来る。まさか知っているとは思わなかったらしく、普段の態度からは想像もつかない、気の抜けた表情だった。彼だけでなく、その場にいる全員が同じ顔をしているのには流石に笑いかけてしまう。
 ユキナは頷く。

「うん、パパが随分昔に見せてくれた事があるの。貴重な草なんだって言ってた」

 まだユキナが小さかった頃、薬剤師の父親はたくさんの草を部屋の中で育成していた。様々な形をした草は幼い自分の好奇心を擽り、見ているだけでも楽しかったのを覚えている。
 その中にあったルーノ草は、見た目はそれ程綺麗でもないのだが、とりわけ心を惹かれた。確かに、父親も貴重なのだと自慢げに語っていた気がする。しばらくすればその草は、いつの間にか父親の部屋から消えてしまっていた――そんな、懐かしい記憶だ。

「あぁ、貴重だ。人狼族の里の者でさえ、今それがどこに生えているか分かっていない状態だ。だけど、それならリレスを助けられるんじゃないのかね」
「……ジャック。さっきから聞こうと思っていたんだが、一体誰に何を頼まれたんだ?」

 イオスが訝しげに問う。そういえば、ジャックは先程も『客人』『剣士様』とぼかした返答しかしていない。彼の人柄なのか、それともわざとぼかしているのか。
 彼は肩を竦めながら、眉間にシワを寄せ答える。

「ウチの客人に、だよ。何をすれば良いのかとか、そんな明確な頼みじゃねぇ。ただ『ここに来ればお前がやる事が分かる』って言い放って、つまみ出された」
「やたら抽象的ねぇ……大体、何でアンタそんなに詳しい訳? 人狼族の里とか言ってるけど、人狼族って言えば、要するに《魔物》よね?」
「彼、人狼族だし」

 サエリが訝しげに問えば、答えは全く別の方から返ってきた。
 人狼族は、人間に果てしなく近い容姿を持ちながら、魔物と何ら変わらない不可思議で危険な力を持つ種族。そのせいで差別され、最近では本当に存在しているのかでさえ怪しまれていた。
 彼はそんな人物だ、と唐突に言われれば、「は?」「え?」と喫驚せざるを得ないだろう。知らなかった人間は口々に間抜けとも言える言葉を吐きながら、当人に視線を向ける。

「だからさっきから言ってるじゃない、犬犬って」
「犬じゃない、狼だっつの……」
「あ、え? そうなの!?」
「そーだよ。これでも魔物だぜ、俺」
「これで納得するでしょ? ね、サエリ」
「え、ええ……なら、アタシが是非早く聞きたいのは、そのルーノ草の事なんだけど。そんなものがあるなら、早く場所を教えてよ」

 げんなりした表情で、シアンの言葉にもう何度聞いたか分からない突っ込みを入れるジャック。なるほど、だからそんな呼び方をされていたのか。
 ユキナは変に納得していると、サエリが焦れたのか話の続きを促す。ジャックも気を取り直し、頷いて続ける。

「分からねぇ、俺はな。俺の故郷にいる里の長老達なら知ってるんだろうけどな」
「人狼族の里はどこなんだ?」
「ここからなら近い。馬車なら往復一日で済むんじゃないか? 行くなら案内するぜ」
「人狼族の、里……」

 反芻させるように呟く。本ですらなかなか見かける事が出来ない場所への誘いに、正直戸惑いよりも興味の方が勝っていた。帰ってきたらクーザンに怒られるかな、と一瞬頭を過ったが、それもすぐに思い直し、ユキナはジャックに視線を向け大きく頷く。じっとしているだけは性に合わない、自分にも出来る事はまだあるはず。
 その熱意が通じたのかは分からないが、彼は心底面白そうに口の端を吊り上げ、分かった、と了承した。