第52話 記憶との相違

『薄汚い子』『不吉な髪の色ね。きっと災いをもたらすわ』『お母さんが、キミと遊んじゃいけないって言うから』『早く死ね。俺らの前から消えろ!』『またあいつか。あいつは疫病神だ』
 煩い。煩い煩い煩い煩い!
 耳を塞いでも聞こえる不協和音。それは女の声であり、男の声であり、若かったり、歳老いていたり。てんでバラバラな声、だが共通点が一つだけあった。
 自分を蔑む者達。それが、声の共通点。
 早く消えろと願っても、聞きたくないと懇願しても止む事のない怨嗟を、もうどれくらい長い間聞いているのだろうか。
 いっその事、気絶してしまえば楽になれるだろうか。あの声達に、狂い殺される心配はなくなるかもしれない。
 しかし、はたと気が付く。気絶? 今までは意識があったのか? 確かに、こんな気持ち悪い雑音の中普通でいられるはずがない。じゃあやっぱり気絶していたのか? 分からない。違う。分かりたくないのだ。
 ――何で、こうなってしまったのだろう。いつから、ここにいるのだろう。分からない。考えているのかさえ。

『貴方達はこれから、私達の子供になるのよ』

 ふと、懐かしい声が響く。少女とは言い難い、だが女性らしい弾んだ明るいそれ。忘れるはずがない、少し前まで聞いていたその人の声が――。
 目をつむるよう、頭にあるはずの運動神経に命じる。本当にやったのかは、やっぱり分からないが。

   ■   ■   ■

「ホルセル、早く準備なさい」

 女性にしては低めの、少し威圧的に感じる声が耳に届く。それを黙って受け流し、ホルセルは幼少学校に行く準備を終わらせた。
 幼少学校は、まだ学校に入るに至らない七歳未満の少年少女達を預ける施設だ。その目的は勉強と言うより、労働の邪魔にならないよう預かるといった傾向が強い。
 ホルセルは、あと数ヶ月で七歳になり、来年からは学校に通う事になっていた。妹のリルの手を引いて、肩にかけた鞄の紐を握り締める。

「ホルセル、リル」

 さぁ家を出ようとした時、呼び止める者の声。見れば、大柄な男が二人を見ていた。女性、いや母親よりもずっと優しい、穏やかな目付きだった。
 彼は皺の多くなった顔を綻ばせ、笑顔を浮かべる。

「学校は、楽しいか?」
「……うん」

 本当は、肯定しかねていた。幼少学校で、ホルセルはいつも一人だ。リルとはクラスが違うせいで一緒にはいれないし、何より同じ教室の子供達が、自分と関わろうとしないからだ。楽しいと感じた事は一度もないし、これから卒業するまでも感じる事はないだろう。
 それなのに、何故肯定を返したのか。それは、ホルセルにも分からなかった。男を心配させたくなかったのかもしれない。
 だが男――ホルセルの実の父親は、我が子のその反応に何かを感じたのか、少し困惑した表情で応える。

「髪のせいか。確かにそれは悪目立ちしてしまうが……雪のように白くて綺麗だと私は思っているぞ。ホルセル、リル。可愛い我が子よ」
「貴方、甘やかしていると二人が遅刻するでしょう」
「分かってるさね。さぁ、学校に行っておいで。いつものあの約束は忘れたらいかんぞ」

 彫りの深い顔が、ゆっくりと笑みを形作る。普段は厳しくて怖い父親が、手を握ってくれた。剣士であり、また大工でもある父の大きな手と背中は、自分が一番好きなもの。
 ホルセルは笑顔を浮かべ、「行ってきます」と父親に応えた。

 次には、時間が変わったのか暗くなっていた。
 場所は変わらず家だ。ホルセルとリルは、父親の座るソファに一緒になって腰掛けている。
 突然、ガシャン、とけたたましい音が辺りに響いた。父親が顔を上げ、すぐに何かの気配を察したのか険しい顔をして、立ち上がる。その方向は、玄関。誰かの声が、小さく聞こえたような気がした。

「ホルセル、リルと一緒にクローゼットに隠れていなさい。父さんが戻るまで、決して開けては駄目だよ」
「はーい。リル、行こ」

 父親が部屋にあるクローゼットを指差し、言う。まだ幼くて状況を掴めていないリルの手を引き、ホルセルはそこに入り込んだ。
 中には毛布もある。それを頭から被り、音を立てないよう身を縮めた。手は繋がれたままで、妹のそれは小刻みに震えていた。
 ――一体何分、何時間待ったのだろうか。外で、誰かが話しているのが聞こえる。父親ではないし、母親でもない誰か。気になったが、父親が来るまでここを出たらいけないと約束をしたので堪えた。
 ――更に時間が経った。何だか暑さを感じて、毛布をそっと外し頭を出す。すると、明らかに不自然な臭いが鼻をついた。父親はまだ、来ない。

「あにき」

 リルが、舌足らずな口調でホルセルを呼ぶ。振り向くと、いつもならぼんやりとしている大きな瞳が恐怖に染められ、ガタガタと震えている。

「そと、もえてる」

 もえてる。燃えてる。
 自分と同じクローゼットの中にいる妹が何故分かったのか、それはホルセルには分からなかった。だが、大変な事になっているのは間違いない、と幼い頭でも分かった。
 父親の言い付けを破るのは気が引けたが、ホルセルはクローゼットを開けようとした。出来なかった。
 何かがクローゼットに倒れてきたのだ。中にいるホルセル達は揺れで体をぶつけ、三半器官が上手く働かなくなる。それでも何とか力を入れて扉を押しやると、鼻を付く二種類の臭いが差し込んできた。鉄と、焼けた臭い。
 そして目の前に広がっていたのは、赤く照らされた住み慣れた部屋と家具、そして未だ燃え上がる、黒い何かだった。

「……父さん……?」

 クローゼットから這い出し、キョロキョロと父親の姿を捜す。小さな声から徐々に大きな声に。終いには、喉が枯れるくらいの声で。しかし、父親の返事は返って来ない。ただただ、木製の家具や布が音を立てて燃え盛る。

「あにき!」

 妹の声に気が付き、ホルセルは彼女の方を振り向き――地面を蹴った。

「リル!!!!」

 ホルセルの視界には、妹の頭上でギシギシ言っていた本棚が倒れ始める瞬間が、映っていた。彼女は何事か判断が出来ず、ぽかんとしている。避けられるはずがない。
 幼いながらそう判断すると同時、ホルセルは意識が途切れた。

 恐らく、意識が消えたのはほんの一瞬。針山に寝かされたような痛みに強制的に覚醒させられたホルセルは、何が起きたのか分からずただ叫んだ。
 妹を倒れてくる本棚から庇えはしたものの、引火したクッションがホルセルの体に触れていたのだ。だが激痛の正体が分かったところでどうにもならず、悲鳴にならない声を上げ、無意識に払い退けようと手をクッションに向ける。

「駄目!!!」

 叫び声が、その動きを止める。女性の声を母親だと思い、叱られた時のような感覚でホルセルが固まった瞬間、クッションが吹き飛ばされる。

「大丈夫!? 意識はあるわね!?」

 現れたのは母親ではなく、美しい水色の髪の、見知らぬ女性だった。クッションは手に持つ棒で叩き落としたのか、遠くの地面で灰になろうとしている。
 女性はしゃがみ込みながら、火傷を負ったホルセルの肩に手を翳す。瞬間、暖かな光が彼女の手の中に生まれたのを見た。

「痛かったでしょう、すぐに治してあげるから!」

 必死な顔だったと思う。まるで自分が怪我を負ったかのように顔を歪ませ、何かに耐えながら唇を噛む姿に、ホルセルは思わず見入る。女性が生み出した光を浴びていると、痛みはどこかへ消え去ったかのように感じられなかった。
 とても綺麗な女神様が、助けに来てくれた。そう思った。

「めがみさま、リル、が」

 辛うじてそれだけ口にすると、女性が一瞬目を丸くし、すぐに「大丈夫だから」と答えた。

「アーリィ! 女の子は無事だ、早く脱出するぞ!」
「あと一分待って!」
「仕方ないなぁ……!」

 男性の声がして、女性の肩越しに誰かの姿が映った。彼の腕の中に抱かれた妹も見えて、良かった、と呟くように息を吐く。

「……はい! 応急処置しか出来ないけど、痛みはないよね?」

 ホルセルは頷く。確かに、あれ程の痛みだったものは一体どこに消えたのか、全くなくなっている。

「終わったわ!」
「もうここは持たない、早く行くよ!」

 四人を囲んでいた薄い膜が消えると同時、ホルセルとリルを抱えた二人は地面を蹴る。男が呟くと、近くまで迫っていた炎を、大量の水がどこかから現れて飲み込んだ。
 治療をしている間に、火の手は大分進んでいる。見慣れた本棚、さっきまで座っていたソファ、カーペットが、赤々と照らされ燃えていた。
 ホルセルは唯一動く首を回し、父親の姿を捜す。見当たらないのがとても不安になり、思わず声を出した。

「父さん……?」
「お父さん? 貴方のお父さんがいたの?」
「アーリィ」
「……! ……とりあえず脱出しましょう」

 男性の声に、何かに気が付いたのか女性が口をつぐむ。だがすぐに首を振り、目指すべき出口を見据えた。

   ■   ■   ■

「めがみさま、どこに行くの?」
「私達の家よ。……というかキミ、その呼び方は止めてね。私はアーリィよ、アーリィ」
「アーリィが女神……ふっ……」
「クレイ、ちょっとそこ正座して」

 助けてくれた二人は、ジャスティフォーカスという組織の構成員で、女神、ではなく女性はアーリィ、彼女と共にいた男性はクレイと名乗った。すっかり女神だと思い込んでいたホルセルの発言に笑いを堪える男性も、兄妹を快く受け入れてくれた。父親よりは痩せていて、ちっとも強くなさそうだったが、穏やかな笑顔だけは父親のそれと重なって見えた。
 燃え盛る家から救出された兄妹は、自分達が住んでいた町から遠く離れた国に連れて来られた。
 何故、父親と母親が一緒にいないのか問いかけても曖昧に返されるだけで、死んだと知ったのはもっと先の事。この時は、しばらくして焼け跡から発見された父の剣だけが、ホルセルのもとに帰ってきた。それは父親が「お前が大きくなって強くなったら、譲ってあげよう」と約束していた物。もう、その約束が果たされる事はない。

「貴方達はこれから、私達の子供になるのよ」

 親がいなくなった二人は、アーリィとクレイに引き取られた。子供が好きなアーリィの申し出だったらしいが、今思えば、自分達の両親を助けられなかった贖罪なのかもしれなかった。

 住む部屋へと連れて行かれる道中、二人には既に世話を任されている子供がいるのだという話を聞いた。自分のひとつ上なのだと聞き、幼少学校での友人関係を思い出したホルセルは仲良く出来なかったらどうしよう、と思ったのを覚えている。

 部屋に着き、扉が開けられる。
 ホルセルが住んでいた家よりは、当然ながら狭い。だがすっきりと片付けられた部屋はそれを思い起こさせないような工夫がされているらしく、窮屈だとは思わなかった。
 帰っているかどうか分からないと言われていた件の少年は、リビングに据え付けられたソファに腰掛けて本を読んでいた。
 短い、紫がかった黒髪。座っているので、身長は分からない。少年の割には細い目つきが、多少の威圧感を感じさせるような気がした。
 向こうもクレイの影から様子を見ていたホルセルに気が付き、何故か一瞬目を見開いた。だがすぐに落ち着いた表情を取り戻し、口を開き――。

「ただいま、クロス!」
「……。おかえり」
「帰りが遅くなってごめんよ」

 アーリィに先手を取られた彼は、恐らく言おうとしていた事とは異なるであろう二人を迎える言葉を、口にする。
 続いてその二人は、とクロスと呼ばれた少年が問いかけると、クレイが自分よりも後ろにいた自分達を、苦笑を浮かべながら彼の視線の前に押し出されてしまった。紫色の鋭い瞳が自分に向けられ、思わずごくりと喉を鳴らす。

「今日から俺達が預かる事になった、ホルセル君とリルちゃん。二人とも、彼が話していたクロス君だ。仲良くしてあげてね」
「……分かった……」

 何故だろう。彼について話し出す二人の話は自然と耳に入らず、ホルセルはただクロスを、負けじと凝視し続けた。会った事もない、ましてやどこかで見た事もないはずの彼は、だが自分の中の誰かが、知っている、と告げているような気がした。

   ■   ■   ■

 夢はまた、場所を変える。
 ホルセルは十歳になっていた。ジャスティフォーカス構成員として働き、たまに剣の稽古を受ける位だが、勉強も続けている。学校に入る事はついぞ叶わなかったが、組織に保護された子供達が集められた青空教室は、幼少学校よりも居心地が良かった。
 そんな、ある日の出来事。

「遠征任務……?」 

 ホルセルは、告げられた言葉をそのままおうむ返しに呟いた。
 アーリィとクレイは相変わらず腕の良い捜査官として、様々な任務を与えられている。これも、二人の実力を見込んで下された任務だろう。
 その頃には、二人が色んな人に頼られるのがむしろ誇らしいとすら思えるようになっていた。いたのだが、その時は何故か、嫌だ、と思った。

「そ。行かなきゃならなくなっちゃった」
「行かなきゃって、そんな簡単に……」
「大丈夫だよ。僕達そこまで柔じゃないからさ。ささっと行って終わらせてくるよ」

 遠出の準備をしながら、二人は言った。軽い口調を装ってはいるが、緊張しているのか僅かに顔が強張っている。
 『遠い町での任務だから、しばらく帰って来れない』というのは幼いホルセルでも分かった。だがそれだけと言うには、二人がまとう緊張した雰囲気に疑問符を浮かべるのだ。

「クロス。いつも通りショーグンさんがたまに来てくれると思うけど、留守番の間よろしく頼むわよ」
「……あぁ。気をつけて行ってこい」

 本を読んでいたクロスにアーリィが声をかける。と、何かを思い出したのか、彼女は首に巻いている青いマフラーを外した。そして、ホルセルの首にぐるぐる巻き付ける。あまりにも自然だったので、ホルセルは抵抗する暇がなかった。

「あ、アーリィ……?」
「私達がいない間、いじめられないようおまじない! うんホルセル、似合うわ。でもちょっと長いわね……はい!」
「おぉ、似合う似合う」

 マフラーは、大人であるアーリィでも少し長いくらいなので、ホルセルだと余裕で床に端がついてしまう。彼女は首の後ろでリボン結びをして、踏んでしまわないよう長さを整える。
 アーリィとクレイは、お互いに同じ色のマフラーとバンダナを身につけている。任務の時に仲間だとすぐ分かるように、と理由を教えて貰ったが、本当は互いが互いに、無事に帰れるように、と願いを込めて贈ったものだと、いつだったか二人の知り合いに聞いた事がある。
 そんな大切なものを自分達に託して行くだなんて、信じられなかった。外して返そうと首元に手をやるが、見えない位置にあるマフラーの端が見付からない。
 クロスの方を見ると、彼もクレイから同じ色のバンダナを託されていたところだった。

「で、リルちゃんにはこれ」
「?」

 兄に巻かれたマフラーを羨ましそうに見ていたリルに、アーリィは胸元から何かを外し彼女にかけてやっていた。
 それは、四角い金属プレートに、緑色の小さな宝石がついているペンダントだった。

「私の母の形見よ。リルちゃんが預かってて? 絶対無くしちゃ駄目よ」
「はーい」
「よし、良い子ね」
「アーリィ、クレイ! これ、大切な物なんでしょ! 持って行かないと駄目だよ」
「あら、大切だからこそ貴方達に預けるのよ? 傷つけたりしたら許さないわよ」
「…………」
「なんてね! ああもうそんな顔しないでよ。可愛い子!」

 瞬間、ホルセルはアーリィの腕の中に包まれた。彼女の豊満な胸と柔らかい女体に、流石に顔を赤らめてしまう。逃れようとするが、迂闊に彼女を押しやればどこか変な所を触ってしまいそうで、いくらか自由な腕も行き場を無くしたまま。

「あ、アーリィ!」
「ふふ。留守番よろしくね、三人共。帰って来る時には知らせを出すわ」

 抱擁を解く直前に軽く頬にキスを落とし、アーリィはようやくホルセルを解放した。その後リルにも同じく抱擁とキスを贈り、纏めた旅荷物を肩にかける。

「じゃあ、行ってくるね」
「良い子にしてるのよー!」
「……いってらっしゃい! ちゃんと、ちゃんと帰って来てよ!」

 ホルセルが二人に向けて手を振ると、アーリィが満面の笑みを浮かべて手を振り返す。
 大丈夫。二人は強いんだ。数日後には、またあの笑顔でただいま、と言ってくれるはず。だから、きちんと良い子でいないといけないんだ。
 二人を信じるんだ、と必死になって自分に言い聞かせていた。胸の裡に感じる得体の知れない不安を、退けたい一心だった。

 ――しかし、それから一週間経っても、二人は帰って来なかった。

 二週間経ったその日、部屋に一人の男が訪れた。
 短く刈り上げた茶髪の、背の高い男。その人こそ、ハヤト=ドネイトだ。アーリィとクレイの同期ともあって、ホルセルも彼の事は知っていた。だが、何をしに来たのかは分からない。
 彼は体に包帯を巻いていた。顔色も悪く、本来ならまだベッドに寝ているべきだろう。
ハヤトは、駆け寄って来たホルセルとクロスに重々しく口を開いた。

「すまねぇ。お前らの家族――アーリィとクレイを、助けられなかった……」

 アーリィとクレイが、死んだ? そんな馬鹿な。だって二人は、必ず帰って来るって。二人はあんなに強いのに。
 ハヤトの説明も耳を通らない程にショックだった。託されたマフラーをギュッと握り締め、何とか涙を堪える。
 二人の遺体は見付からなかったそうだ。今日、その任務で命を落とした者達の追悼式があるのだと言う。

「遺体の捜索はまだされてるが、発見される確率はないに等しい。本当にすまねぇ。お前らの事は、俺が責任持って何とかする」
「……分かりました」

 いなくなって初めて気が付く、二人の存在感。それが心にぽっかりと穴を開け、どんどん広がっていく。クロスが何かをハヤトに聞いていた気がするが、耳に入らなかった。

 ハヤトが去った後、部屋は暗い雰囲気に包まれたままだった。
 リルは幼いながらも何となく理解してしまったのか、一頻り泣いた後ベッドで眠っている。ホルセルはその脇に腰を下ろし、ただ黙っていた。

「……めそめそ泣いていても二人が帰って来る訳もないし、何かが変わる事もないぞ」

 窓際の椅子に腰掛けていたクロスが本から視線を上げ、はっきりと言う。良くしてくれた二人が亡くなったというのに、何故コイツはここまで無心でいられるのか不思議で堪らなかった。

「お前だって悔しいだろ! アーリィとクレイが……お前だって……」
「二人はこうなる事を、何らかの形で予感していたんだ。覚悟していたから、こいつらを俺達に預けて行ったんだろう」

 クロスが、手元にあるバンダナとホルセルのマフラー、そしてリルの胸元にあるペンダントを順に見る。
 大切なものだから、預けて行くのだ。そう言って自分達に残して行ったアーリィ達は、どれだけ怖い思いをしながら、それでも戦地へと赴いたのだろうか。最後になるかもしれない、実際に最後になってしまった自分達との会話を、笑って続けてくれていたのだろうか。
 ――まだ、何も返せていない。死の縁を彷徨っていた自分と妹を助けてくれた二人に、自分は何も出来ていない。
 ホルセルは、姿勢を正した。彼にこれから言う事は、こうしないと冗談か気の迷いだと一蹴されると思ったからだ。

「……オレ、二人が何で死んだのか知りたい」
「お前なぞ、大人達に連れ戻されるのがオチだろうな」
「じゃあ、ジャスティフォーカスの構成員になれば、堂々と調べに行けるだろ」

 ホルセルの発言に若干目を見開いたクロスだが、予想通り、すぐに正論を返して来た。
 非力な子供ごときが危険な戦場を調べたいと言っても、当然却下される。そんな事は言われずとも分かっていた。
 ならば、構成員になったらどうだ? それならいくらか自由が利くはずだ。戦える力を身に付ければ、文句を言う大人もきっといない。
 ホルセルは、クロスの鋭い目を睨み返す。じっと見続けていると、どこか闇の向こうに吸い込まれてしまうのではないかと錯覚する程に深い紫は、自分の姿をぼんやりと映していた。

「ジャスティフォーカスの構成員は、どんな事件があっても臆さずに飛び込んで行く事を求められる。それこそ、死にに行くと分かっている戦いでも。お前のような甘ったれた子供は、どういうものか分かっていないと思うがな。犯罪を冒した者を相手にするのだから、時には相手を殺さねばならない命令も下りるかもしれん。子供だからと上は遠慮もしないし、容赦なく送り込まれても、泣かないと自信を持って言えるのか?」
「……っ」
「前に言ったな。ネルゼノンにちょっかいかけられたと言うのに、抵抗もしないのかと。犯罪人の前でもあのような態度を取るつもりなら、大人しくしていた方がお前の為でもある」

 淡々と述べられた言葉は、まだ十歳だったホルセルには正直、難し過ぎた。だが、子供が大人の世界に飛び込むとならば、やがてはぶつからなければならない事なのだろう、とは何となく分かった。

「いつ闘争に巻き込まれて死ぬかも分からん。リルを置いて、お前だけ逝く事にもなりかねんぞ」
「死なない」

 ほとんど反射的に、その言葉は出た。
 絶対死なない。死ぬ訳にはいかない。まだ、やれていない事がたくさんある。それだけは絶対成し遂げてみせる、とホルセルは一対の紫の瞳に目を合わせ、もう一度言った。

「オレは、絶対死なない」
「……根拠のない自信も相変わらずとはな」

 やれやれ、と言いたげに深く溜息を吐くクロス。
 これは、試練だ。まずはこの試練を乗り越える事。ホルセルはあまり良くないと自覚している頭をフル回転させ、彼への次の一手を考えようとした。この気難しい《兄弟》を納得させない事には、前には進めな――。

「だが、そうだな。自分の意志というものが消えていないなら、生きているうちに従っておいた方が良い。お前は色んな奴らに会って、それを学んできたはずだ」

 え、と声に出ていたかもしれない。背景は確かに自分達の部屋なのに、クロスの台詞はあの時のものとは全く異なっていた。しかも、あの時の自分に向けた言葉と取るには些か的を外れている。でも何故? これは、夢のようなものではないのか?
 動揺するホルセルに気が付いているだろうに、彼はそれに触れないまま、続ける。

「やらない後悔よりやって後悔、だろう」

 ふ、と微笑を浮かべるクロスにはっとなる。
 懐かしい言葉だ。良くアーリィがそう言っていて、クレイが呆れていた。何も動かずして嘆くより、自分で納得出来るように行動して後悔する。それが彼女の口癖で、信念だった。

「ジャスティフォーカスが、構成員を募集するそうだ。そこまで言うなら、真実を探してみるが良い。アーリィとクレイへの手向けにもなるだろう。……見付かるかは、お前次第だ」

 クロスはテーブルにある紙をホルセルに向かって広げた。そこにはつらつらと文章が書いてあって、一番下に赤いスタンプが押印されている。アーリィ達が見ていた書類に押されているのを何度も見たそれは、紙がジャスティフォーカス公認の書類だという証明だ。なかなか読み辛い文章で書かれているものの
、『希望者は明日正午、中庭に集合されたし』という文脈だけはホルセルでも読み取れた。
 だが、それよりも。今目の前にいる相手は幼少時のクロスなのか、それとも――。

「その気がまだ残っているなら、歌姫の滝へ来い。お前はまだ、納得出来ていないんだろう?」

 ホルセルの困惑に、恐らくは敢えて触れないまま告げられた言葉。いや、ある意味では答えでもあるのだろう。それは、幼少時の自分が聞いてもおらず、また聞いていたとしても何の事か分からないであろうものだったから。
 今目の前にいる少年は、姿は違えど、現在に生きるクロス本人である。そう確信し、声をかけようとした。
 だが非情にも、夢はそこで景色を揺らがせる。まだ、言えていない事があるのに。

「クロスっ……!!」
「――待っているぞ、ホルセル」

 気が付けば、そこは真っ暗な闇の中だった。幼少時に暮らした家の中も、ジャスティフォーカスにあるアーリィ達の部屋も、全て幻影だったのだ。あるいは、誰かが故意に見せていた夢。だが、不思議と恐怖はなかった。
 クロスに届かなかった手を引き寄せ、握り込む。

「納得……」

 自分の手の平を見る。最後に見たそれより幾らか小さく見えるが、それがまるで自分の心の裡を顕しているようだ。
 ホルセル自身が今、納得出来ない事。
 自分にかけられた冤罪の事。
 《月の姫》の物語に隠された謎。
 世界の行く末。
 そして、クロスとの仲違い。納得出来ていない事だらけだ。

「やらない後悔より、やって後悔……そうだよな」

 考えてみれば、うじうじ考えていただけでは何の解決にもならない事ばかり。自分から動かなければ、真実なんて分かるはずもない。
 大きく空気を吸い込み、自分を閉じ込める夢と言う監獄に向かって叫んだ。

「オレはもう迷わない。だから……ここから出せ!!! ヴィエント!!!!」

 視界の暗転が、始まる。