第51話 絶対迷宮デスゲーム

 そう、これはゲームだ。
 ゲームと言っても、現存する数多のそれが全て当て嵌まる訳ではない。互いが互いの陣地を侵食し合い、目標を討つ。それ即ち――チェスゲーム。
 二手も三手も先の戦略を読み合い、出し抜き、出し抜かれつつ、相手のキングを詰める――討ち取る事で勝利を得るそのゲームは、大陸所かこの世界中で人気であり、親しまれている。
 プレイヤーは、組織と侵入者。キングは、前者が《天使》、後者が《狐》。彼らの周りに存在する屈強な実力者が、大駒であるクイーンとルークだろう。小駒と呼ばれるナイトとビショップは、相手の動きを翻弄させる重要な役目を持つ。
 そしてポーンは、さながらジャスティフォーカス構成員の彼ら。単体では決して有利に動ける訳ではないが、なくてはならない存在だ。
 ジャスティフォーカス本部という、変則的であり巨大なチェス盤の上で行われるそのゲーム。果たしてどちらが勝ち、どちらが負けるのか。
 それは、

   ■   ■   ■

 第二裏口。そこは、今や大混戦の中心となっていた。ジャスティフォーカス構成員による侵入者確保と撃破は、まだ完遂されていない。
 アーク達後発組は、比較的警備が薄いはずのそこから侵入する手筈だった。けれど、何故かそこには十数人のジャスティフォーカス構成員と、それを纏める統括役のカナイ。
 ババババババババババババ!!と息吐く暇もなく飛んでくる弾丸を、ユーサが避ける。際どいタイミングで避け続けているので、細かい掠り傷はあるものの、致命傷には至らない。
 だが、それも時間の問題だろう。弾丸を発射させるライフルを得物とする人物がこちらの知り合いである以上、攻撃に転じるタイミングが掴めないのだから。

「避ける必要はないんじゃないかなぁ、キミ」
「冗談。僕はまだ死にたくなんかないからね、全力で逃げてみせるさ」

 アークは継続回復魔法の詠唱をしながら、戦況を後方から見守っていた。
 ユーサの真正面から、物凄いスピードで飛んでくる弾丸。だが彼はそれには全く怯んだ様子も見せず、腰のベルトに隠していたらしい短剣を手に取り構え、一閃した。驚く事に真っ二つになった弾丸は、勢いを失って地面に落下する。
 始め、アークにはにわかには信じられない光景だったのだが、直接見てしまったからには信じるしかない。

「いい加減正体を現したらどうかな? 偽物」
「フ……ククッ。気付いていたんだぁ」

 カナイは構えていたライフルを下ろし、懐を狙って駆け出す。
 すると、まるで一コマが抜け落ちた動画のように、彼の姿が変わり始めた。紅い短髪、長身、見覚えのある服装が現れ、ライフルだった武器は、今や長刀に。
 ザルクダ=フォン=ネイビブルー。良く新聞で顔を見かける《世界守 ワールドガーディアン》のリーダー、その人だった。
 セレウグが驚愕に目を見開き、ユーサは静かに笑う。

「それ、趣味が悪いって言うんだよ。知ってる?」
「何とでも言えば良いさ。ボクはともかく、ボクを殺した同族を殺したいだけ。もっと言えば、」

 ユーサは振り抜かれた長刀をガキィ、と短剣で逸らし、すぐに来るであろう第二撃に備えた。

「ボクをコケにした、あのドッペルゲンガーの契約者であるお前もなぁ!」
「『あの』ドッペルゲンガー? ……あー、分かった。キミ、ドッペルが言ってた、帰らずの森で暴れてたドッペルゲンガーかぁ」
「今更気が付いたの? ボクはお前と会った瞬間に、ドッペルゲンガーがお前との契約下にあるって気が付いたのに。ロクな召喚師じゃないんだね」
「生憎、師の下で習得したものじゃないからね。それに、君よりは優秀な遣いを呼べる力があれば十分だし」
「ボクより優秀? あんな奴よりもっと優秀な奴がここにいるだろう? 何ならあいつと代わってあげようか」
「は――ありがた迷惑な誘いだね!」

 売り言葉に買い言葉。まるで投げられた球を打ち返すように挑発を返しながら、ユーサが嘲笑を浮かべた。挑発していたはずのザルクダ、いやドッペルゲンガーの口元が、ぴくりと歪む。
 二人が睨み合っている間にも、ジャスティフォーカスの構成員が次々とこの場に流れ込んでくる。アークがチャクラムで襲いかかってくる相手の攻撃を防ぎつつ応戦していると、セレウグと背中合わせになった。リルは事前に「絶対に誰かから離れるな」と言っていたお陰か、アークの傍でいつでも魔法が撃てるようにバトンを構えていた。

「アーク」

 ボソ、とセレウグが背後のアークだけに聞こえる声で名前を呼ぶ。視線は周りの構成員に向けたままで、そのまま、と続けた。

「ここはオレとユーサに任せて、お前とリルは本部の中に入れ。クーザンを頼んだ」
「えっ……でも」

 それはつまり、二人をここに――敵の真ん中に置き去りにしていくという事。そんな事が出来る訳ない、と続けようとしたが、言葉にならなかった。
 だが顔にはそれが出ていたのか、彼はとん、と激励するかのようにアークの背中を押す。行け、と言っているのだ。

「オレ達なら大丈夫だ。ここが片付けば後を追うし、無理でも精々拘留所行きくらいだろうしな。死にはしないさ」
「……わ、分かりました」
「あぁ、クーザン達を頼んだ。――今だ!」
「はい!」

 アークはセレウグの合図とともに、僅かに切れた包囲網を抜け出し、走り出した。巡りめぐる状況に付いていけていないリルの手を取り、彼女が転んでしまわないよう気をつけながら急ぐ。後ろは見てはいけない、そう自分に言い聞かせながら。

「(あの人達なら大丈夫だ。いつだって、危険な任務の時は必ず帰ってきた。弱いボクなんかより、ずっと強くて――)」

 はた、と自分の思考に疑問を持つ。危険な任務? 一体何の事だろうか。確かに自分は弱いが、彼らがそんな自分よりも強いと、いつ認識したのか。
 記憶の混濁。あるいは、欠乏。身に覚えのない記憶が、何故自分の中に存在するのだ。

「――いちゃん」

 もしかすると、これが自分の中から消え去ってしまった記憶の欠片なのだろうか。だがセレウグもユーサも、初対面を果たした後もそんな事は言って来なかった。少なくとも彼らとは、記憶を失う前からの付き合いではないはず――。

「――アークお兄ちゃん、いーたーいー!」
「えっ? ……あ、ゴメン!」
「むぅー。ひどい」

 思考が奥深い所まで向かってしまい、無意識のうちに繋いだ手に力が入ってしまったようだ。彼女がぶんぶん手を振って訴えられた事で、ようやくその事に気が付いたアークは、慌てて手の力を緩めた。
 リルは膨れっ面のまま、アークの顔を覗き込んで問う。

「だいじょうぶ? こわいおカオだよ」
「あ……」

 自分が今どんな顔をしているのか、残念ながら近くに鏡がない為知る事は出来ない。だがそう言われてしまったという事は、余程酷い顔をしていたのだろう。
 不安そうに眉尻を下げるリルの頭を、出来る限り優しく撫でる。

「……大丈夫。ごめんね、痛い事しちゃって」
「アークお兄ちゃん、あやまったからリルはゆるす!」
「ありがとう」

 機嫌を直してくれた彼女が自分から視線を外したのを見て、アークはひとつ息を吐く。
 スウォアに会えば、この違和感は消え去ってくれるのだろうか、と考える。残虐非道な行いをするかと思えば、その一方で何かとクーザン達の旅を助力するような行動を取ったり、こちらに向けて忠告と取れる言葉を投げ掛けたり。敵なのか、味方なのか。いまいち判断がつかない相手である事は確かだ。
 彼に会いたい、と思うが、しかしすぐにそれを拒む自分もいる。会って何が変わるかと問い掛けられたら、きっと答えられない。下手したら今度こそ殺されてしまうのだ、と無意識が語りかけてくるのだ。
 首を振る。今は自分の事を考えている場合じゃない。ホルセルを助ける為に、力を、意識を集中すべき場所なのだ、と意識を切り替えようとした、その時だった。もはや聞き慣れた声が、わずかに耳に届いたのは。

「リルちゃん、静かにね。ボクから離れないで」
「う? はーい」

 彼女の手を再び握り締め言うと、リルも最大限に抑えた声で返事をした。
 声の方へ歩を進めると、やはり見知った誰か――クーザンとギレルノの二人が、急ぎ足で歩いているのが見えた。声をかけようと口を開き、すぐに閉じる。
 誰かが、いる。二人とは異なり、以前にも感じた事のある気配が、微かに肌を撫ぜた。
 アークは急いでリルを抱き上げ、天使の羽根を具現化させる。そして、滑空を始めると同時、謎の気配も彼らに近寄る素振りを見せた。

「――ギレルノさん、危ない!」
「!」

 叫びながら、空いている方の手で腰に吊していたチャクラムを握り、ギレルノの斜め後ろを狙って振り払いの予備動作を取る。
 ガキィ!!と、激しい音が周囲に響く。アークのチャクラムとクーザンの片手剣、そして刃が細い剣――レイピアが、キシキシと不快な金属音を立ててせめぎ合った。
 姿を現した謎の気配は、軍課の制服を身に纏った青年だった。狙われていたギレルノが、咄嗟に掲げていた腕を下ろし後退りながら、その正体に目を見開く。

「貴様は、レキア……!」
「え?」

 ギレルノの台詞に緊張感もない声を上げると、自分の声だけではない事に更にえ、と首を傾げた。向こうも同じだったのか、こちらを見て目を丸くしている。恐らく、今考えている事は同じかもしれない。
 その名は確か、クラティアスという軍課のトップに就いている者の名だったと記憶している。だがこの人物から感じられる気配は明らかに、アークが知っているもの。
 片手剣を握る手を緩めずに、クーザンがその問いを投げかける。

「スウォア、お前何してんの?」
「……チッ。空気読めよ、お前ら」

 舌打ち。そして、聞き覚えがあり過ぎる声。
 彼はこちらから一歩後退し距離を取ると、帽子とカツラをいっぺんに脱ぎ捨てる。そして現れたのは、金髪と切れ長の碧眼――つい今しがたまで会いたい、だが会いたくないと思っていた相手その人だった。まさか本当に、こんなところで再会してしまうとは思っておらず、アークは額に冷や汗が伝うのを感じた。チャクラムを握る手に、力が籠る。
 しかし、それと同時に自身の体にしがみつく力が強くなった事にも気が付いた。ちらりと見れば、抱えたままのリルがスウォアに視線を向けたまま、どこか怯えたような表情でいる。そこでようやく、彼女が兄弟達の許から離されてしまった元凶が目の前の相手だったのを思い出した。
 クーザンが片手剣を構え直し、正面のスウォアに向けて口を開く。

「お前がここにいるって事は、やっぱりジャスティフォーカスはお前らに操られているんだな」
「馬鹿、違ーよ。むしろ逆だ、逆」
「何が逆なんだ?」
「俺達が奴らに踊らされてんの。それに気が付かない馬鹿が一人いるから、俺は仕方なくその子守」
「……もう一人ここに潜り込んでいるのか。まさかとは思うが、――か?」
「は?」
「えっ……!?」
「やっぱバレてんのか。ま、分かりやすいと言えば分かりやすいけどな」

 ギレルノが一人の人物の名を口にするが、それはアークとクーザンを驚かすには十分過ぎるものであった。当然スウォアも驚く――かと思えば、つまらなさそうにあっさりと肯定し、肩を竦める。やっぱ、と発言した事から、この襲撃はギレルノが正解に辿り着いていた可能性を考えてのものだった、と推測出来る。

「正解なんだな」
「あぁ。だからといって、俺はどうこうしねぇよ。まぁ、お前らの足止めを止めるつもりもねぇけど」
「通せって言っても、無理だよな」
「俺がこんなチャンスを見逃すと思うかよ?」

 レイピアを構えるレキア、いやスウォアの顔には、もう何度見たのか分からない楽しそうな笑顔が張り付いている。やる気しか感じられないその表情から、どうあっても彼の追撃からは逃れられない事を悟り、アークは覚悟を決めた。

「ギレルノさん」
「……なんだ、ミカニス」
「リルちゃんをお願いします。早く、ホルセル君を」
「え!? アークお兄ちゃん、危ないよ!?」
「そうだよ、アーク。悔しいけど、スウォアは強い。三人で迎え討った方が……」
「お願い、ボクなら大丈夫だから」

 二人の言葉ももっともだ。自分一人で倒せる相手どころか、きっと瞬殺されるのはこちらだろう。想像するだけでも足が笑いそうになる自分がいるのも分かっている。
 だが、譲れないと思った。譲りたくなかった。自分の我が儘だと分かっていても、これだけは意地でも譲るつもりはない、と言う代わりに、クーザンとギレルノへ視線を向けた。

「……分かった」

 しばらくして、クーザンは大丈夫だろうかと言いたげな顔をしながらも、アークの意思を受け入れた。ギレルノも異論はないらしく、やれやれといった調子で肩を竦めている。
 抱えたままだったリルを地面に下ろすと、彼女が不安そうな表情で、アークを見上げた。

「アークお兄ちゃん……」
「ボクは大丈夫だから、心配しないで」
「…………」

 努めて笑顔でそう言うと、リルが未だに握っていたアークの服の裾をゆっくりと手放す。そしてスウォアに振り向くと、両眉を吊り上げて叫んだ。

「アークお兄ちゃんにひどいことしたら、リルがゆるさないからね!」
「危なくなったら、すぐに逃げるんだぞ!」
「――うん!」

 リルがぱぱっとギレルノの傍に駆け寄る。それを確認し、クーザンがスウォアがいる方とは逆に駆け出した。背後からの追撃を考えなくて良いのであれば、三人がここから逃げるのは容易いはずだ。
 残り二人の足音もアークから離れていくのを聞きながら、対のチャクラムを空いている手で握り締める。と、それまで黙って流れを見ていたスウォアが、ようやく口を開いた。

「酷い事したら許さない、ねぇ。……お前が俺に何をやったか知ったら、あのガキは同じ事言えるのかねぇ」

 直後、レイピアとチャクラムがぶつかり合い、ギィンと金属音が鳴り響く。力の反動で互いが離れ、自然と距離を置く形になる。
 すかさず来る追撃に、チャクラムで再び力を受け流す。攻撃速度は速いが、何故か遺跡の時よりは鈍っているように思えた。
 細い剣先を持つレイピアは、力を乗せるバランスが難しい。あまりに強力な力を乗せると、脆いものでは下手をすればぽっきり折れてしまう。だが彼のそれは、凄まじい勢いでアークに襲いかかる。速さが落ちているとはいえ、正直、力を逸らすだけで精一杯だ。
 ガキ、キィン、ガシャ! 素早く突き出されたレイピアをチャクラムで受け止め、膠着を嫌がった彼が再び離れる。痺れた腕を庇いながら、アークは顔を上げた。

「何でテメーが残った。俺はクーザンみたいな強ぇ奴と戦いたかったんだが」
「じゃあ何で、無理矢理にでも止めなかったの。キミなら、出来たでしょ」
「は、知った口ききやがって」
「ボクは、キミと話をしたかった。キミは、一体誰なの? キミが『アーク』なんだったら、ボクは誰なの? ボクの事を、ボクにない記憶をキミが持っているのなら、教えて欲しい」

 知りたかった。自分が何故記憶を失っているのか。
 遺跡で彼に逃がされた後から今まで、アークはずっと考えていた。記憶を失ったままこれからを生きるのか、取り戻す為に戦いに身を投じるか。
 記憶を失う原因は、何も頭部に強いショックを受けたからだけではない。少し前のセレウグのように、自ら記憶を閉ざしてしまうパターンもある。
 後者の場合、記憶を取り戻した時に自分がどうなってしまうか、自分には分からない。分からないが、知りたいと思う。そうしなければ、サエリと会った時のままからずっと、成長出来ない。前に、進めない。アークはそう考えたからこそ、スウォアとの再会を望み、また拒んでいたのだ。
 無言のまま睨みつけていたスウォアは、やがて吐き捨てるかのように答えた。

「ほんっと何も覚えてねーのな。仕方ねぇ、教えてやるよ。テメーは故郷の奴らを殺したんだよ。自分の親も、兄弟も、全員な」
「……え……」
「町は小さかったが、それなりに平和な場所だった。――粛清により、町に暴動が起きるまではな。奴らは気が狂ったように見境なく住人を斬り、殴り、いたぶった。両親も町の奴らと一緒になって抑えようとしたが、流石に戦いも知らねぇ農民だ。戦うすべもないくせに、子供を逃がす為に自ら奴らの前に身を投げた。――でも、約束は果たされなかった。俺は瀕死だったし、お前も動けなかった。ファイはきっと逃げ切れただろうが、詳しい事は分からない」

 予想すらしなかった、いや出来なかった話。スウォアの口から聞き覚えのない名前が出てきたが、何故か、とても懐かしい、と感じた。ファイ。きっと、自分にとって大切な――だったのだ。
 頭痛がする。彼の言葉が、アークの奥底に消えた記憶を掘り返す。容赦なく、抵抗する隙も与えずに。

「その時だ。もう奴等に従ってさえいればせめて命だけは助かるって時に、お前が突然俺の翼を奪って、粛清で殺戮を行っていた奴らや住人共々を一瞬にして消した。何もかも終わった時、町は荒野に変わっていた。それが、お前がやった事だ」
「ボク、が……」
「俺はな、一回死んでるんだよ。テメーのせいでな。光に包まれてからゼルフィル達のいる《塔》で目を醒ますまで、俺は死んでいた」
「……っ」
「だから、俺はお前を殺す。殺して、その痛みを味わせてやると決めたんだよ……!」

 タンッ、と地面を蹴り、スウォアが向かってくる。レイピアの先端が、廊下の照明の光を反射して、キラリと嫌な光を発した。

 ――嘲笑。哄笑。
 聞こえてくる声全てが憎らしい。穏やかな日々を奪い去った奴らが憎い。
 まるで人をおもちゃのように扱う人間達。奴等の手にある鋭利なナイフの刃が、鈍く光を帯びる。
 ――触るな。
 ――離せ。
 ――止めろ!!

 一瞬脳裏に過ったその光景は、間違いなく、今のアークの記憶にはないものだった。あんなに暗く、恐ろしい空間にいた覚えはない。つまり、あれは失われた記憶の断片なのだ。

「……そう、だ」

 ぽろりと口をついた言葉は、自分のものではないと錯覚する程にか細い。断片的に垣間見た光景は、想像以上に凄惨なもので。

「ボクは……ボクが、みんなを……」

 遺跡でスウォアと出会った際、そして今もまた、あれだけの殺意を向けられていたのだ。自分が彼に何かをやった事くらい、予想はついていたし、覚悟もしていた。だがそれはあくまで「つもり」でしかなかった事を、思い知ったのだ。
 ぷつ、と何かが切れたような音が聞こえた気がした直後、アークはふっと意識を手放した。

   ■   ■   ■

「被検体の状態は」
「はい、異常ありません。今だ目を覚ます事もないようです」
「そうか」

 カツカツカツ、とヒール音を廊下に響かせながら部下に問うのは、ジャスティフォーカス総帥ことビュー=ハイエロファント=カマエル。艷やかな長い髪を靡かせながら、堂々とした立ち居振る舞いで廊下を進む。
 隣の、部下と思しき人物は手に持つノートの該当部分をめくりながら、的確に答えている。
 果たして、どこに向かっているのか。廊下の照明は、本部の他の通路のそれより控えめに照らす。オレンジ色の蛍光灯が、接触不良からか不気味に点滅していた。

「フム……流石にショックが大きかったか」
「言葉は時に、凶器にもなります。僕は何度もそれを実感しましたから……それに、すぐに様々な状況に陥ったのも、理由の一つかもしれません」
「様々な状況、のぅ」

 部下の言葉に、総帥が徐に頷く。

「あ奴の思惑通りではあろうが、目が醒めぬ内はどうしようもないのう。今しばらく奴の状態を見てみるとしようか」
「はい、そのように」

 銀髪の青年は、返答ののち右耳に触れ、しかしながら、と呟く。手の隙間から、黒い機械のようなものが見え隠れしている。仲間内で、連絡を取り合う為の機材だろうか。

「総帥、計画は順調でしょうか」
「さぁな。あ奴の言った通り、童達もここへとやって来た。後は、誰かがヘマでもせぬよう、願うのみだろうと思うがのう」
「……複雑です」
「そう固くなるでない。あ奴らも、簡単に計画をしくじるタマではないわ。それはむしろ、妾よりお主の方が良く知っておろう?」
「……はい」

 ケラケラと笑う総帥の台詞に、部下は僅かに笑みを零しつつ頷く。組織の上司、それもトップの前にいる状況にしては相応しくないが、話の人物を本当に信頼していると感じさせる笑顔だ。

「これが上手く行けば奴らの戦力を削ぐ事が出来る上、こちらは戦力が増大する。削れなかったとしても、奴らに対抗出来る力が増えるのはこちらにとって大きなアドバンテージじゃ」
「まるで遊戯ですね。一手先二手先を読み合うといった形の」
「二手先など生温い。我は三手、四手先まで読まぬと気が済まん。……そして、相手が必ずしもこちらの思惑通りに動くはずがないのじゃ」
「……僕には理解出来そうもありません」
「そうじゃろ」

 総帥の口元にも微笑が浮かぶ。ただ、そちらは何らかの事柄に対する興奮も交えているようだ。虚空を一瞬見やり、何事もなかったかのようにまた前方を向く。

「果たして、このゲームの勝者はどちらになるのか……楽しみじゃのう」

 総帥らしき人物と部下が歩いていた廊下は、東棟の地下。枝分かれして少し複雑になっているが、迷う程ではない。
 ひょこ、と二人が通った廊下に慎重に顔を出したのは、クーザンだ。

「……今の、こっち気付いてなかった?」
「多分な」

 クーザンの引き攣った笑みと言葉に、ギレルノが素っ気なく返す。

「罠かもしれないね。困ったな」
「止めるのか? ジングはどうする」
「そういう意味じゃなくて。君は仮とはいえ、ここの所属の人間なんだ。ここから先は俺一人でも……」
「それこそ余計な心配だ。その肩書きは、元々俺が目的の為に動きやすいように、とほぼ無理矢理渡されたものだからな。いつ捨てようが、俺の勝手だ。……まぁ、多少迷惑をかけるかもしれないが」

 ギレルノは、少しだけ申し訳なさそうな雰囲気を見せたものの、きっぱりと言い切った。クーザンはあまりの潔さに、逆に困惑してしまう。

「君、ホルセルに嫌われてるだろ。なのに、どうしてそこまで」
「……。さぁな」
「さぁ、って……」
「確かに奴には、何故だか嫌われている。その原因を、本人に追求するつもりもない。人間なんだ、苦手な部類の相手というものもいない訳がないからな。……ただな、」
「ただ?」
「助けなければいけない、と思った。ただ、それだけだ」
「……そう」

 彼の声には、少なからず恐怖が混じっていると感じられた。恐らくは、彼自身にもはっきりと分からない感情へ向けられたものだろうか。
 これ以上の追求を拒むかのように顔を背けたギレルノを見て、クーザンもそれ以上追求をするのは止めた。
 ふと、上着の裾が引っ張られているような感覚がして、そちらを見下ろす。そこにはアークから託されたリルが、ギレルノが見ている方とは逆――三人が歩いてきた方だ――の廊下の先を見ながら、上着の裾を握っていた。

「クーザンお兄ちゃん……兄貴も、アークお兄ちゃんも、だいじょうぶかな?」

 ギレルノとの会話が終わったのを見計らっていたのだろう。今まで大人しく黙っていたリルが口を開いた。
 緊張で不安を増長させてしまった事に気が付き、クーザンはごめん、と謝りながら、腰を落とす。目線の高さを彼女と合わせると、ぽす、と頭を撫でる。

「大丈夫だよ、絶対。ホルセルが強いのは、君が一番知ってるだろ? アークも、俺達と会うまでは君をしっかり守ってくれていたはずだよね」
「……うん……。でも、リルね、いやな気持ちがするんだ。リルのきらいな気持ち。こわい」
「そっか。じゃあ、兄ちゃんと手を繋ごう。少しは安心出来るかもしれない」
「……うん!」

 不安そうにしているリルを気遣い、クーザンは手を差し出す。他人と触れ合っているだけでも、少しは気持ちに余裕が出来るだろう。ぎゅっと繋がれた、自分よりも小さな手は、とても温かかった。

『――、この子をお家まで送ってあげてくれませんか?』
『え?』
『お家でしたら、この子が教えてくれます。お疲れなら、断って頂いて構いませんよ?』
『いえ、構いませんが……。――わっ』
『ふふ、懐いてくれたみたいですね』

「!」

 そうだ。いつだったか、こうやって幼い少女を誰かの許に連れて行って欲しい、と頼まれた事がある。その時も、自分はその少女の手を取り、慎重に歩調を合わせていた。
 ――だが、一体いつの事だ? 少なくとも、クーザンの知り合いにリルと同じくらいの少女はいない。

「クーザンお兄ちゃん?」
「……あ。い、行こうか! いつまでも立ちっぱなしじゃ、構成員に見付かるしな」

 垣間見た光景が何なのかを考えようとしたクーザンは、リルの呼びかけに慌てて何でもないと答え、慎重に歩き出した。彼女はさほど気にしない性格なのか、元気良く返事をし自分に合わせてくれている。
 ギレルノにも行こうと声をかけ、警戒をしたまま、総帥と部下が消えた研究室へと向かう。

「…………」

 そんな自分達を、一拍遅れて歩き出したギレルノがじっと見ていたのに、クーザンが気が付く事はなかった。

   ■   ■   ■

 カチャ、と食器棚に洗浄済みの皿を並べながら、溜息を吐いた。
 本当に、呆れる程に大量だ。この屋敷にある皿は。そのどれもが、一枚数億にも上る価値を持つものだから聞いて呆れる。大陸には、一生このような物を見れずして死んでいく者も少なくないと言うのに、それらは我が物顔で棚の中に居座っていた。
 ただでさえ、世界がおかしくなった頃から気分が優れないのだ。あまり憂鬱になる事だけは避けたいのだが、生まれが生まれなだけにどうしても余計な事を考えてしまう。

「ジャック!」
「お嬢」
「ほら、お客様!」

 更にはその直後、俺の気分は一気に最低ラインまで下がる事となった。

 俺、ジャック=イザティーソは執事として、この屋敷の主に雇われている。
 メイド長に頻繁に「執事としての身なりってものは~」と説教を喰らう程には、服装を崩している。スーツを身につけているだけでもかったるいと言うのに、一番上のボタンまでかけては息が詰まる。恐らく、お嬢がそんな醜態を全く気にしない性格でなければ、とっくの昔にクビになっているはずだ。
 その当の本人は、先程訪れた客人と喜々として話をしている。前にそいつが訪れたのは数ヶ月前だから、結構間が空いていた。当然、話したい事もたくさんあるだろう。
 だが、客人はさっきの俺のように息を吐き、視線を俺に向けた。

「今日はお前に用があったんだ。ジャック」
「俺、か?」
「あぁ、頼みたい事がある。――《月》に関する事だ」

 いつもならお嬢と長い間話をするだけの客人だけに、珍しいと同時に嫌な予感が脳裡を過ぎる。《月》に関わる事なら尚更だ。
 しかし、隣に座る彼女が「聞かせてくださいませ!」と勢い良く机を乗り上げた事で、俺はその頼みとやらを引き受けなければならなくなってしまった。