第49話 罠

 ふわっ、と風の抵抗を受けながら、地面に着地する。しっかり二本足で体を支え切ると、自身の身長よりも高い門壁を、睨みつけるように見上げた。

「…………」

 この壁を越えれば、ジャスティフォーカスの息がかかったこの街の事だ――指名手配されている自分(宿主)の逃げ場など、存在しなくなる。
 これは、宿主の精神の問題をクリアする為の壁だ。向き合わなければならない、途方もなく高いそれ。まるで、心の中にあるものが現実として出てきているかのようだ。
 ヴィエントとしてならば、別に宿主がどうなったとしても知った事ではない。むしろ嬉々として主人格を乗っ取り暴れ回る方が楽であるし、誰もが「らしい」と頷くだろう。
 だと言うのに、宿主に言われたからでもなくここを訪れたのは、完全に『気紛れ』に過ぎなかった。ここに来れば、『アイツ』が何処にいるのかを知る事が出来るのではないか。そんな、自身の都合からの行動である。

『――あの時も今も、お前には泣いてくれる相手がいるだろう?』

 ふと脳裏に過った言葉は、彼らのもとから立ち去ろうとした際にかけられたもの。既知の間柄であるとはいえ、分かったような口を利くなと思ったものだ。それでは結局、ヴィエントの気紛れを止めるには至らない。

「オメーが姿を見せないなら、俺が見付けて殺すまでだ。――セクウィ」

 ふぁさ、と青いマフラーが風に靡き、端が両側に広がる。まるで背中から生えた羽根のようになると、ヴィエントは勢い良く地面を蹴り、目の前の高い壁を文字通り飛び越した。
 宿主は人間ではあるが、ヴィエントという人格自身は魔力――正しくは似て非なるものである《月の力 フォルノ》だが――の塊である。身体能力の強化、そして身に付けているものを翼の代わりに操る事も容易い。
 国を取り囲む壁の中は、それよりも低く建てられた建物が連なっている。煉瓦造りのものが多いエリアと、重厚な雰囲気を感じさせる白壁の建物のエリアが見えた。
 宿主の記憶から当たりをつけ、後者へ向かう方角へと飛び降りる。外套を被ってはいるものの、流石に撃ち落としてくれと言わんばかりの近付き方はしない方が良いか。落下先の地面に足をつけ、ヴィエントは建物の陰へと身を滑らせ、口許を歪ませた。

   ■   ■   ■

「……………………」
「あら、ようやく起きたのね。くたばり損ない」

 拠点でキセラが黙々と書類を整理していると、一人の青年が入ってきた。彼は部屋の惨状を見、眉間にしわを寄せたまま信じられない、といった表情で口を開く。

「くたばってなくて悪かったですね……。これでも、体の丈夫さには自信ありますよ。というか、私が寝ている間に何ですか、この部屋は」
「ごめんなさいね。必要な書類が多過ぎて、片付けるの面倒になったの」

 以前部屋を片付けた張本人、ゼルフィルはキセラの返事に溜息を吐き、身近な書類を手に取る。

「上手くいったみたいですね」
「えぇ。空から《月》は消え、世界中にラルウァが出現し始めているわ。何箇所か潰された街もあるわよ」

 何て事のないように、感情の篭らない――いや、僅かに楽しそうな響きを含んでいる――声で淡々と話すキセラ。彼女にとって、国に住むたくさんの尊い命など気にするに値したいのだ。大切なのは、忌まわしき『アイツ』にいかにして後悔を感じさせるか。それだけなのだ。

「では……計画は、最終段階ですね」
「あ、その前にやっておきたい事があるわ。もう手は打ってるんだけど」
「やっておきたい事?」
「足止めよ。邪魔な神達の」

 形の良い唇を歪め、妖しく笑うキセラ。それはまるで、ラルウァと同じような狂気をまとっているようだった。

「彼らは人に紛れて動く。けど、どうもあいつらの中にいるみたいなのよ」
「……奴らですか」
「えぇ。だから、罠を仕掛けてみたの。馬鹿な神ならあっさり引っ掛かるであろう罠をね」
「……まぁ、私は構いませんが」
「何よ、乗り気じゃないのね。やっぱりユーサがいないから?」

 キセラから出た『ユーサ』の言葉に、ゼルフィルの腕が動きを止める。

「ほんと、あいつもあんたに似て面白くない男よねー。淡々としてるし、その割には少し揺さぶっただけですーぐ熱くなっちゃって。ただのガキじゃないの」
「…………」
「あ、あんたがあいつに似たのかしら。……まぁどちらでも良いわ、あの位なら私でも相手に出来そうだし」

 バン!!! 狭い部屋に、机に拳を叩き付けた音がこだまする。気が付いた時にはキセラの目の前に存在したその拳は、僅かながら怒りで震えているようだった。

「ユーサは私の獲物ですよ。貴女に譲るつもりは、毛頭ありません」
「フフン、強がっちゃって。勝てる秘策があるの? 今回だって負けちゃったくせに」
「余計なお世話です。それに今回は――」

 反論しようと口を開いた直後、パーソナルノートから着信の音が鳴った。あら、とキセラは呟くと、そちらに意識を向ける。
 完全に気が削がれてしまったゼルフィルは、ばらばらになってしまった書類を綺麗に整頓し、彼女の部屋から立ち去る事にした。

   ■   ■   ■

「……おや?」

 静かな時間。厳かな造りの美術品が立ち並ぶ室内の、明らかに体より大きな椅子に座るジャスティフォーカス総帥――ビューが、窓の外を見て呟いた。扉に立つ二人の構成員が、総帥と同じものを認めると臨戦態勢に入る。

「……ふふ、相変わらず不躾な真似事をするのぅ」
「るせぇ。テメェ相手に、真面目に正面から来れるか」
「私も言われたものだな」

 突然、窓の縁の下方から手が生えた。がしぃ、と縁を掴み、続けて雪のように白い髪が現れる。勢いをつけて乗り上げてきたのは、ホルセル――いや、ヴィエントだ。扉の側に立つ構成員が、指名手配されている容姿をした者そのものである相手に反応し動くのを、ビューは片手で制す。

「ここは五階なのだが?」
「知ってら」
「ほぅ……なら何故、こんな所から沸いて出て来たのだね? きちんと本来の手続きを踏んで、ここに通されたのならまだ納得が」
「御託は良いんだよ、御託は。それより、俺をわざわざ指名手配してまで呼び出した理由を教えろ」
「……気付いておったのか?」

 放っておけば五分以上は続くであろう台詞を遮り、ヴィエントが妙な質問をする。それは、総帥にとって図星とも言えるものだったが、本人はどこ吹く風といった構え。ただ意外そうに首を傾げ、相手に視線を投げ返す。

「周りくどい事しやがって」
「聞けばお主、連絡手段を持っていないそうじゃないか。一つのグループに一つは提供しておったはずだが、クロスが持って行ったのじゃろう?」
「…………」
「ならば、通信手段もないと同意義。ま、上手くそれに気が付いたお主が来れさえすれば問題はない」

 パチン、と持っていた扇を閉じる。窓の前で無愛想に立つヴィエントを改めて見返し、総帥が今までの態度とあまり変わらない――ように見えるが、纏う雰囲気が若干険悪なものになっている――ままで話を進めた。

「何を企んでる」
「心外だな。私はお前の為を思って呼び」
「それが怪しいっつってんだよ!」

 ヴィエントが、総帥が言い終わらぬうちに怒りをあらわにし、叫んだ。扉の構成員がその怒声に怯みながらも彼を押さえようと身構え、だが再び主に制止される。

「……やれやれ、どちらも血の気が多いのぅ。穏便に済ませようとする、こちらの身にもなってくれんか」
「なりたくもねぇ。目的をさっさと言え」
「あぁ、そうしよう。目的はな――」

 ――バチィ!!!
 瞬間、ヴィエントは身体中に電撃が走り、膝を折る。ビリビリと全神経を麻痺させるそれは、いつまでも余韻を残し彼の意識を朦朧とさせた。

「あ、ぐぁ……!? な、にを……!」
「安心せぃ。人体は死なんよう調整した、電撃銃みたいなものだからな」

 どさ、と床に崩れ落ち、途切れ途切れに言葉を紡ごうとする。しかし電撃のダメージが重く、掠れたような声しか出ていない。痙攣する身体でさえ、自分の思うがままに動かせないのだ。
 狭まる視界に、高いヒールの靴が入る。ヴィエントの頭部付近まで近寄ってきた、総帥のものだろう。

「要はな、貴様を使った狩りを嗜もうと思っているのだよ。神という美食に酔いしれた、醜い獲物を狙ってな」
「しゅ、みが……悪ぃ、ぞ……」
「何とでも言え。ともあれ、貴様がホイホイ来てくれて助かったぞ。飛んで火に入るなんとやら、だな。感謝する」
「クソ……が……」

 総帥がにやり、と笑う気配がする。果たして本当に笑っているのかは、分からない。
 悔しげにぽつりと悪態を吐いたが最後、ヴィエントは意識を失い、床に倒れ伏した。その姿に同情したのかふ、と憫笑すると、総帥は部屋にいる構成員に彼を運ぶよう指示をし、自身はピォウドの街を見下ろした。

   ■   ■   ■

「!」

 ばっ、と顔を上げ、ギレルノは周囲を見渡す。
 彼がいるのは、ジャスティフォーカス本部にある図書室の窓際の席。ダラトクスの国立図書館に次ぐ数の書籍が、所狭しと棚に並んでいる。あくまでそれだけであり、彼が探している何かはそこにはない。

「……魔力が動いた気がしたんだが……」

 軽く首を捻りつつ、また机に置いた書物に視線を落とす。
 彼が読んでいたのは、伝説と呼ばれる生物達を描いた資料集だ。人間達の記憶を頼りに集められた情報も、少なからず載っている。
 伝説の存在と伝えられている《バハームト》を自称するホルセルの裏の人格に遭遇し、また自らの裡に棲まうリヴァイアサンがいつ再び暴れるのか分からない状態だという事を思い知った今、無知のままでは対策の立てようがない。そう考えたギレルノは、情報収集の為にこの図書室を訪れていたのだ。
 関連していそうな書物は片っ端から読み更けたが、やはり人間の記憶では限界がある。やっとの思いで見付けた資料も、他の本では全く違う解釈をされていて結局どっちが真実なのか判断がつかない。伝承という性質上、それは仕方のない事だが。

「バハームト、リヴァイアサン、……ジズ。いずれも、名を変えて世界に存在している……」

 昔話の解説を事細かに載せられている、通算十数冊目のその本の一文を反芻する。

「まぁ、そんな簡単に情報が載っている訳はないか……」

 ふ、と一息吐き、読んでいた本を片付けようと閉じ――なかった。突然視界に入った、その文字。ごく当然のようにそこにあったそれは、まさしくギレルノが探していた情報の片欠だった。

「……まさか」
「何を探してるんだ?」

 突然声をかけられ、思わず勢い良く書籍を閉じる。
 声から見知った知人ではないと判断が出来たものの、だからと言って完全に知らない訳ではない。正面の窓に、立っている相手の姿が映っている。自分の背後に立つ青年――確か、レキアという名前だった――は、無愛想な表情のままでギレルノの手元を覗き見ていた。

「ずっとここにいるだろう? 探し物だったら、一緒に探してやろうか」
「お気遣い痛み入る。だが生憎、必要ない」
「へぇ。――何を見付けたんだ?」

 先程までとは打って変わり、声が氷のように冷たくなる。と同時、首筋に何かを当てられた感触を感じた。ナイフの刃、だろうか。

「……薮から棒に、何だ。失礼な奴だな」
「質問に答えろ」

 動けば恐らく、いや確実に首筋のナイフを引かれて頸動脈を斬られる。それだけの殺気が、背後にいる人物からは感じられた。しかし、一瞬前まではそんな気配は微塵も感じられなかったのだ。気が付かない訳がないはずだが、と己の危機察知能力に内心頭を抱える。

「守秘義務は?」
「そんなもの、あると思うかよ?」
「だろうな」

 予想通りの返答に、わざと笑ってみせた。命を敵の手に委ねられておきながら余裕を見せるのは、相手にとって苛立つ他ないだろう。予想通り、レキアは更に声音を低くして再度問いかけてくる。

「殺されたいのか?」
「大人しく殺される気はないぞ」
「なら――殺してみせるまで」

 レキアが、言下しないまま力強くナイフを引こうとした。だが、それはギレルノの首筋の肌を傷付けるどころか、ぴくりとも動かされる事はなく。

「!? な……」

 レキアが、初めて困惑の声を上げる。今彼はいくら運動神経に手を動かせと命じても、神経が凍りついたようにぴくりとも動かない状態になっているはずだ。
 ギレルノは先程まで見ていた本を手に取り、彫刻のように固まった相手から素早く離れる。そしてナイフを突き付けられていた首筋を撫でると、至極平然とした顔で言い放つ。

「安心しろ、十分もあれば解ける。俺は逃げさせて貰うがな」
「チッ、召喚獣かよ……! 舐めた真似しやがって、待ちやがれ!」
「万全の状態で行動しないと気が済まない性格でな。それと、待てと言われて待つ奴はいないと思うぞ」

 動けないレキアの叫びを一蹴し、コートを翻しながら急いでその場を後にした。敵に襲われた以上、単独でいるのは危険な上、別で同じ人物を捜している仲間にも危険が及ぶ可能性がある。一刻も早く、合流を急がねば。
 中庭が見える廊下に差し掛かったところで、据え付けられた噴水の水がぱしゃりと跳ねる。そこから少女とも女性とも取れる顔つきの女が、ギレルノを心配そうに見ていた。

「助かった、ウンディーネ。また呼ぶかもしれないが、取り敢えず戻ってくれて良い」

 レキアの動きを止めたのは、潜んでいたウンディーネの拘束魔法だ。薄い氷の膜を相手に纏わせ、数分だけだが自由を奪うもの。単独で組織内を動くとなった時、念の為にと仕込んでいた護身だったが、まさか役に立つとは思わなかった。
 聞こえないはずの距離が両者にはあったが、ギレルノがそう声をかけると、彼女は嬉しそうに笑顔を浮かべて、噴水の中に再び身を潜めたのだった。

   ■   ■   ■

「着いたな。ここが、要塞――ジャスティフォーカスの本部だ」
「リルたちの家だよー」

 セレウグは、空高くそびえる城壁を見上げながら口を開き、それにリルがのんびりと付け加えた。
 ホワイトタウンを出発して二日目。一行は、ジャスティフォーカスの本部がある街――ピォウドに辿り着いた。
 要塞と言うに相応しい重圧的な城壁は、恐らく鉄砲所か大砲一発でも砕けないだろう。流石、ジャスティフォーカスの息がかかっている街。残念ながら、この位置からでは中の様子は伺えなさそうだ。

 結局ジャスティフォーカス本部へ向かっているのは、クーザン、ユーサ、アーク、セレウグ、リルの五人。リレスが倒れた事もあり、施設潜入の人数を減らして孤児院に数人残らせるようにしたのだ。少人数の方が動きやすいのは確かだが、もしもの場合――これが自分達を苦しめる事になるのだろう。
 サエリ、レッドン、ユキナは孤児院に残り、万が一の場合に備え、ライラックにも施設潜入組が戻るまで残って貰った。
 しかし、リルこそ残して来なければならないはずだったが、彼女はなんと皆に内緒でこっそり潜入組の車の中に忍び込んでいた。相変わらずの悪路に揺れる車内で、「きゃ!」と可愛らしい悲鳴が漏れたのが原因で、彼女が荷物に埋もれているのをアークが発見して判明したのだが、本人は隠れていたのが見付かってしまい、ばつの悪そうな顔をしながら舌を出した。
 幼いながらも、兄の様子がどこか変だったのに気が付いていたのだろう。それがどうしても気になって、ついてきてしまったのだと言う。
 危険、かつ予測出来ない事態に彼女を巻き込む訳にはいかないが、その時は既に、ホワイトタウンに戻るという選択が出来ない場所に来ていた。残った仲間達に連絡出来ないのが心残りだったが、一同は彼女を極力危険な目に遭わせぬよう気を付けながら連れて行く事にしたのだった。

「ジャスティフォーカスは、元々世界の安寧を願う有志によって創られた。彼らが集落を造り、一カ所に留まったのがこの街。もし大陸が他の大陸に狙われた場合、一番安全な可能性がある街だと言われてる」
「た、確かにそんな感じするや……」

 クーザンの説明を聞いたアークは、僅かに苦笑いを浮かべながら城壁を見上げ続ける。
この中に、ホルセルは単身乗り込んで行ってしまったのだろうか。

「(――いや、ホルセルじゃない)」

 ホルセルの主人格は、今表に出て来れない程深い精神ダメージを負っていたはず。そんな彼が、こんな大胆な行動を起こすのは考えにくい。
 なら、誰だと問われれば――ホルセルの中に眠る、もう一つの人格としか言えない。ヴィエントと言ったか、残虐非道な方の性格の青年。彼が表にいたのを知っているクーザンは、次に何故そんな行動を起こしたのかを考える。
 自らの宿主が所属する組織の争いと言えど、突き詰めてしまえばヴィエントには関係のない話。それなのに向かって行ったのには、何か目的があったからとしか考えられない。
 だとしたら、何が目的だったのだろうか?

「(まさか、ジャスティフォーカスの奴を殺す為だけではないだろうしな……)」

 まず始めに思い付いたのは、やはりそれだ。余程リカーンでの事件が頭に残っているのか、あれから時間が経つと言えどクーザンの中では未だに『人を殺すのを好む』という印象が強い。結果的に、あの人間達がゴーレムだったと知ってもだ。
 しかし、それだけではないという考えを持つ事も出来る。キボートスヘヴェンに来るまでの船上で話した事、そして先日のアークの話を踏まえると、どうしてもそれが目的だとは思えないのだった。

「……とは言うものの、」

 結局、考えていた事は最初の地点に戻る。それ以外の目的というものが、皆目見当がつかないからだ。
 恐らく、いくらヴィエントといえど変な行動には出ないだろう。このような巨大組織に捕まってしまったのなら、尚更。

「二手に別れよう。僕は彼と接触してるってバレてないはずだから、正面から行く」
「おいおい、いくら何でもそれは危なくないか?」
「まぁ……捕まるだろうね。でも、それで良いんだよ。僕が彼らに捕まれば、運が良ければホルセル君のいる牢に送られる。それから脱出して、道を探れるからね」
「ちょ……わざと捕まりに行くのか!?」
「全員捕まるよりはマシだよ」

 仲間達はどうやら、ピォウドに入る際の作戦を話し合っていたようだ。ユーサが単身本部に乗り込み、他の皆が中に侵入出来る術を探るという事について、セレウグが異論を唱えていた。
 確かに、自ら敵陣の中に突っ込んで行こうなどと普通は思わない。一対多の怖さはいやというほど知っている。しかし――クーザンには、その提案は然程悪くないのでは、と思った。本部内に侵入する入口も、脱出する際の出口も分からない今は、その手しかないと。
 そう考えると同時に、クーザンは「待って」と言葉を発していた。半ば口論になりかけていた一同が、一斉に自分の方を見やる。

「その、中に先行する役目。俺にやらせてくれ」
「クーザン!?」
「確かに俺は、ホルセルと接触してるのを知られてるかもしれない。本部までの道も分からない。けど、捕まるのが目的なら逆に知られている方が有利だし、最悪戦闘になっても逃げ切れる自信はある」

 何を言い出すんだ、とでも言いたげなセレウグには気付かないフリをし、クーザンは言う。

「……本気なんだね?」

 腕組みをしたまま問い返してきたのは、ユーサ。群青色の双眸が、自らを見定めるかのような威圧感を生み出している。
 怯みそうになる精神を叱り付け、向けられる威圧を返すつもりで本気だ、と睨み返した。
 ――先に折れたのは、ユーサの方だ。ふと肩を竦め、組んでいた腕を解きひらひらと振る。

「じゃ、よろしく」
「き、危険だよクーザン! もし失敗したら」
「大丈夫。その時は何とかするよ」
「……はー……。お前、そういうところ頑固だもんなぁ……」

 髪を掻きながら呟くセレウグは、もうクーザンを止めるのを諦めたらしい。
 ジャスティフォーカスに捕まってしまえば、未来の可能性を潰すのと同意義だと言われている。それを自ら望むなど、我等ながら馬鹿な事をしているとは思う。自分で自分が今から行う事に疑問を感じていると、ユーサが口を開いた。

「一応忠告しておくよ」
「忠告……?」
「もし、自分を見失いそうになったら……君が、今一番大切に思ってる人を思い浮かべるんだ」
「は?」
「忘れても構わないよ。一応、って言っただろ?」

 妙な忠告にクーザンは首を傾げるが、言った張本人は既にこちらから視線を外していた。

 入国は、あっさり出来た。てっきりゲートにはジャスティフォーカスがいるものだと思っていたが、予想に反しそこには他の国と同じように制服を着た審査官がいる。
 自分の役目は、まず他の仲間が国に入れる手段を作る事。ゲート内には審査官以外いないようだから、この相手さえどうにかすればいけるかもしれない。
 クーザンは審査官に休憩室を借りたいと申し付け、差し出された書類に書き込む。名前は、当然『クーザン=ジェダイド』だ。
 幸い、国外に一番近い部屋は今空室のようだ。音を立てないようその部屋に潜り込み、窓を開ける。顔を出し過ぎないよう注意しながら、暫くキョロキョロと辺りを見回す。
 後は窓を開けっぱなしのまま、その部屋を退室し自分に宛てられた部屋に向かう。幸いここで休憩している旅人はクーザンだけではないので、疑われたとしても逃げ道はある。

「ふぅ……」

 ひとまずは休息の時間、という事で息を吐く。備え付けられたベッドに腰掛け、連絡を待った。

「……大切な人……か」

 そう問われ、始めに思い浮かぶのは家族の顔。そして、ユキナやウィンタ、セレウグ。
更には芋づる式に、仲間の顔が浮かび上がった。
 最初はただの知り合いだったというのに、自分はいつの間にか心を許し、居心地が良いと思ったのだろうか。今の自分なら、例え彼らが敵に襲われた時にも間違いなく駆け付けるのだろう。
 随分長い間友人の間に壁を作っていたクーザンは、その考え方の変化に驚き――認めるしかなかった。
 再び息を吐き、天井を仰ぐ。

「考えた事もなかったな…」

 幼い頃は、父親の肩書のお陰で自らが危険な目に遭う事も少なくなかった。自らを守る為に習得した剣術も、理不尽に襲い掛かってくる奴らを追い払う為に培ったものだ。それを学ぶ時間が惜しくもあり、余計な事はあえて考えなかった。
 もしくは――その答えが自分にとって足枷になるのを、どこかで分かってたのかもしれない。
 もちろん、自分以外の誰かが襲われたとしたら、全力で守る。例え自らが危険に晒されようとも。だが、それは敵にとって絶好の付け入る隙であるし、剣士としてバレてはいけない事。彼らを危険に晒す位なら、いっそ関わりを持たない方が得策だ、と言うのが、クーザンの考えであり持論だった。
 結局の所、それが答えなのかは誰が答えられるはずもなく。自分でも正解なのか分からないのだが、それ以外にどうすべきか分からない以上、自分は従うしかなかったのだ。

 部屋に備え付けられたランプに照らされたチェストの影が動いたのは、それから暫くしての事だった。ぐにゃり、と歪んだその影は、平面から三次元になり形を得る。それは、間違いなくあの魔物だった。

『よっ』
「みんなは?」
『あぁ、全員上手く入れたぜ。夜を待って出ていく予定だ』
「そうか。なら、俺はこのまま行くって伝えておいてくれ」
『お前は待たないのか?』

 腰を上げ、外していた装備を身につけながらクーザンは言う。意外そうに聞き返してきたドッペルを一瞥し、壁に架かった時計を指しながら答えた。

「何か事を起こすなら、日があるうちが良いだろ」
「まぁな……よし、俺も行く」
「知らせなくていいのか?」
『大丈夫だろ。ガキじゃあるまいし』
「ふぅん……」
『という訳で、ちょいと影借りるぜ』

 ドッペルは長い腕をクーザンの影に突っ込み、まるでプールに飛び込むかのように入り込んだ。移動を初めて見たクーザンは、少し目を見開きつつ問い掛ける。

「すごいな」
『どこが』
「……色々と。俺達には出来ない事が出来るのが」
『そりゃあ人外だからな。俺は人前じゃあまり使わないようにしてる』

 人間と魔物の違い。それを明確に表すのが、魔物だけが使える異質の力。ドッペルゲンガーの影を移動する力もそうだが、魔物達は時に人間が真似出来ないような力を使える者がいる。それを躍起になって解き明かそうとするのが魔導師の一部に存在するのだが、彼らは普通のそれとは異なり、異端と蔑まれる傾向にある。つまるところ、人間達にとって魔物は、畏れる存在なのであった。

「確かに、たくさんの人間に見られると面倒だよな」
『つか、普通は驚く。お前がそんなに普通にしてるのが不思議なんだが』
「君のせい。……あ、そうだ」

 ドッペルゲンガーの力は――そう思ったところで、クーザンは手を叩いた。新たに何かを口にしようとしていた相手は、『何だよ』と問い掛けて来る。

「ドッペルゲンガーって、人になれるよな。帰らずの森のあいつみたいに」
『……まぁな』
「んでもって、影を移動出来るよな」
『…………あぁ』

 勿体振るようにして質問をし、恐らくは嫌な予感でもしていたのだろう――問われた本人が、間を置きながらも答えた。
 それの解答に満足気に頷き、クーザンはドアに歩み寄る。埋め込まれていた窓に映る表情は、自分でも分かる程に笑っていた。

「侵入する方法、見付けたかもしれないな」