第48話 ルミエール院

「……あ、着いた」

 ユーサが、手に持っていた明かりを掲げ言う。
 彼の正面には、今までうんざりするほど見てきた赤煉瓦に埋まるように、ドアがあった。かなり頑丈で、取っ手も錆び付いてはいるがまだ役目を果たせそうだ。
 ガチャリ、とそれを引く。ギイイイィと軋んだ音を伴い開いた先には、上へと続く階段が伸びていた。

「まだ歩くのかよ」
「でも、後は上に行くだけじゃないのかなぁ。階段だし」
「横に、随分歩きましたしね……」

 眉をしかめたホルセルに、アークとリレスが返す。彼等の言う通り、階段は緩やかに上へと向かっている。

「ちょっと滑りやすいから、気をつけてね」
「はぁーい」
「しっかし、こんな道がホワイトタウンの地下にあったとはな……」
「あんなところに入口があるなら、確かに見付かるはずはないよね」

 話しながら上れば、ただ通路を歩いていた時とは違いあっという間に次のドアに辿り着いた。先程と違うのは、取っ手がない事。代わりに閂が取り付けられ、こちらは若干錆びているようだった。
 閂を外し、軽くドアを押してみる。ガガガ、と音を立て、それの隙間から光が差し込んできた。長時間暗い場所にいたせいで暗順応が起こり、みな暫く動きを止める。
 視界が落ち着きを取り戻し、先頭にいたユーサが一気にドアを開けた。

「……あれ?」
「ここは……」

 後ろから覗き見た人物のうち、リレスが軽く目を見開く。
 ドアの先には、一見何の変哲もない部屋があった。部屋というよりも、物置と言った方がいいか。整然とした部屋に足を踏み入れ、キョロキョロと室内を見渡す。

「院の物置……だよな?」
「うん」
「はい、間違いない……ですよね?」
「院?」
「私達の家、です」

 リレスが、状況を把握していない者の為に答える。
 この物置は、彼女らが住んでいた《院》とやらのものらしい。《院》の近くに、あの――イオス=ラザニアルが建てたのだそうだ。シアンが言うには、この隠された地下通路の存在を教えたのも彼。

「……何者なんだ、あの人」

 クーザンが、ぽつりと呟きながら首を捻る。
 素朴な疑問だ。聞いた話では、この地下通路は昔ホワイトタウンに滞在していた王族が使っていたもので、一般の人間には存在さえ知られていないはず、という事だった。
 では――。

「さぁ。何者って言われても驚かない自信はあるね」
「……ともかく、国の中には入れたんだ。院の方に行ってみようぜ。話は落ち着いたところでもやれるさ」

 ユーサが肩を竦め、疑問を軽く受け流す。その表情からは、自信があるというよりも興味がない、といった素っ気なさが読み取れた。セレウグの促しにより、一行は物置を出て外に出る。
 空は既に日が沈んでしまい、自分達がどれだけ長い時間地下を歩いていたのかを思い知らされた。
 月のない空でも周囲はぼんやりと明るく、何とか明かりなしでも歩けそうだ。とはいえ――庭園に植えられた、背の低い針葉樹に何度かひっかかりはする。夜目が利かない以上、どうしようもない。
 そうして歩く事、三分。庭になるのか分からない庭園の向こうに、白い建物が出現した。
 家と言うよりは、病院のようにカクカクしたそれこそが、リレス達の言う《家》のようだ。結構大きいのか、この位置からでも全貌は分からない。

「財力にものを言わせた結果だね」
「うわぁー……!」
「イオスさん、子供達がのびのび育てられるようにって言ってましたっけ」

 そんな会話をしながら、ようやく到着した建物の玄関に立つ。恐らくは二階建て。ぽつぽつとある窓からは明るい光が洩れ、耳を澄ませば人の声のようなものも聞こえる。

「開けますね」
「アンタ、鍵持ってきてたの?」
「道中、もしかしたら寄る事もあるかもしれないと思いましたから。予感が当たって良かったです」

 カチャリと鍵が外れ、外開きのドアを開ける。すぐに目に入った玄関に人は――いた。

「やぁ、おかえり。そろそろかと思っていたよ」
「……まさかずっとそこにいた訳じゃないよね、イオスさん」
「まさか。たまたまだ、たまたま」

 壁に寄り掛かるのを止め、きちんと姿勢を正した男――先程まで彼らが話していた当人、イオスが言う。タイミングが良過ぎるその登場に、ユーサを始めとした数人が呆れた表情を浮かべる。大体の居場所はドッペル辺りにでも伝えられていたかもしれないが、それにしても、一体何分程ここで一行を待っていたのだろうか、という呆れである。

「道中疲れただろう? 入りたまえ。食事も用意しているからね」

 だが、そのあらゆる突っ込みは虚空に消え、イオスに促されて孤児院に足を踏み入れる。
 中に入ると、玄関は吹き抜けになっていた。玄関の正面にある階段から上に上がる事が出来、上った先で左右に分かれるように通路が設けられ、その先には寝室が並んでいるそうだ。
 吹き抜けの真下にある扉の向こうはキッチンやリビングらしく、イオスにそちらへと案内される。
 ガチャリ、と開けた音が聞こえたのだろう。向こうには数人の子供達がおり、それぞれがこちらに視線を投げ掛け、満面の笑顔を浮かべて声を上げた。

「リレスおねーちゃん!」
「セレウグだー!」
「おいおい、久々だって言うのにオレは呼び捨てかよ……」
「ユーサさん、おかえりなさい」
「ん、留守番ありがとね。……って、」
「あれ?」

 口々に話しかけてくる子供達に返事を返しながら、ふと顔を上げたユーサとセレウグが動きを止める。彼らに倣い、そちらに視線を向けた。
 そこにいるのは、椅子に腰掛けている青年。少なくともクーザン達よりは――恐らくセレウグよりも――年上であり、鋭いナイフのようなチャコールグレーの瞳が、逆らえない恐怖を思い起こさせる。黒と白のコントラストが映える衣服は、レッドンと同じく魔導師だからだろうか。

「遅かったな、貴様」
「ライ!?」
「フン。お前も生きていたか、セーレ。大人しくくたばっていれば良いものを」
「ライラック、そこまでにしてやりなさい。彼らも疲れているんだから」
「元気が有り余っているの間違いだろう」
「ライラック……? もしかして、ライラック=クラウド?」
「貴様のような餓鬼に呼び捨てにされる謂れはないぞ」

 イオスの台詞で彼の正体に気が付き呟いたアークは、自分に向けられた刺すような眼光に怯えレッドンの陰に隠れる。
 ライラック=クラウド。ザルクダ=フォン=インディゴと同じように、ジャスティフォーカスに籍を置きながら《世界守 ワールドガーディアン》としても活動している、『よく旅という名の音信不通』になる人物だった。
 セレウグはともかく、ユーサでさえ目を丸くして驚いているところを見ると、ここにはいるはずもない人物である事だけは確かだ。

「お、お前何でここに……」
「ジャスティフォーカスの奴らが《白い獣》を捕まえろと言ってきてな。捜している途中に寄っただけだ」
「《白い獣》?」
「そこにいるだろう。まさか、貴様らと共にいたとはな」
「――!!!」
「……俺か」

 ライラックが口にした《白い獣》という言葉。そのままでは確実に白い魔物と捉えそうなものだが、生憎白い魔物は滅多に現れないアルビノ以外存在しない。という事は、これは明らかに何らかの人物を指したもの。
 また、御伽噺に伝わるバハームトの正体。一説では魚だとか龍だとか言われているが、その提唱は明らかに獣という意見が多い。なにより、白髪は目立つのだ。
 つまりは、その呼称の該当者であろうホルセルが、向けられる視線に怯える事なく呟いた。

「安心しろ。俺は、貴様を組織に突き出すつもりは毛頭ない」

 テーブルに置いてあったコップを手に取り、ライラックが言う。

「奴らのやり方は、俺は気に食わん。そうやすやすと従ってやるつもりもない」
「やり方? ライ、どういう……」
「はいはい、とりあえず食事でも用意するぞ。話はその後でも大丈夫だろう? アルトー!」

 パンパン、と手を叩くイオスに話を遮られ、ユーサが顔をしかめる。
 先程彼に労いの言葉をかけていた子供が、イオスの呼び掛けに嬉々としながら頷くと、キッチンに駆けて行く。その後を、リレスとサエリも追い掛けていった。

 リレスやサエリ、孤児院の子供達が拵えた食事は賑やかなものになった。
 こういう時、我先にと料理に手をつけるはずのホルセルが比較的控えめだったのにクーザンは気が付いていたが、それに訝む者もいないようだったので、特に触れる必要はないか、と判断した。

 そして食事が終わると、片付けに残ったり、構えとせがまれて子供達と遊ぶ為に残る者を除いた面子で、情報交換が始まった。
 ライラックは例の通達をネルゼノン達と同じように間接的に受け取っており、怪しいと感じ本部に常駐する仲間に連絡を取ったそうだ。それでジャスティフォーカス本部の内情、主に上層部の不穏な動きについて知ったらしい。

「つまり?」
「つまり、今の組織にはオレらの味方がいないって訳か……」
「上層部は何を考えているのか分からんぞ。ドネイト捜査長もアテにはならんだろうな」
「八方塞がり……」
「気になるのは、軍側の首領マーモン=クラティアスだな。あと、側近のレキア。奴らが率先して上に入れ知恵をしているとは思えないか?」

 セレウグがメモに書き込む。そこには上層部の関係を図式化したものが書いてあり、彼はそれに『レキア』と書き足した。

「何でも、そいつは最近クラティアスの代理として就任したらしくてな。最高責任者でなくてはならない会議でさえ、そいつが出席している程だ」
「……怪しいね。ソイツ、古参なの?」
「いや、恐らく最近ではないかと俺は踏んでいる。少なくとも、俺が本部に在籍している間には名前すら聞いた事がない。その割には、クラティアスに良いように使われているが」
「ライで知らないのかよ……」

 ライラックは、ザルクダよりもジャスティフォーカス在籍年数が長い。その彼が知らないと言う事は、『レキア』なる人物の存在がいかにジャスティフォーカスにとって異質なのかが良く分かった。

「そうそう、一つ忠告しておく。今組織は、獣を捕らえるのに必死だ。間違っても、真っ向勝負で突入など考えない事だな」

 ギロリ、とライラックの視線がユーサに向けられる。しかし彼は意に介した様子はなく、軽く肩を竦めた。

「そうもいかないんだよ。会わなければならない人がいる以上」
「誰だ?」
「エアグルス大陸を統治する王族、リニタ=ル=エアグルスさ。彼女に会うには、冤罪とはいえ罪人という肩書は重過ぎる」
「……ユーサ。何故、王女に会う必要があると?」
「正直、現存している文献だけじゃ情報が足りないんだよね。王宮にある蔵書庫なら、テトサント大学よりも詳細な資料が残っているだろうから」
「……ああ、なるほど。それは重要だな……」
「むしろイオスさんがそこに思い至らなかったのが、僕は不思議で仕方ないんだけど?」

 じー、と自身を凝視しながら言うユーサに、イオスは「私だって思い至らない事くらいあるさ」と、苦笑しながら肩を竦めた。端から見ればなんてことはない普通のやり取りだったが、ユーサは暫く彼を見つめ、やがてふいと視線を逸らす。

「どちらにせよ、ピォウドには行くしかないみたいだね」
「そうだな。問題は、どうやってピォウドの中央にあるジャスティフォーカス本部まで辿り着くか……だな」
「あ、あのぉ……」

 そこから侵入についての手順を詰めるかと話し合いが始まりそうになった直後、ユキナが恐る恐る手を挙げる。彼女の行動にクーザンも驚くが、口を挟む事はしなかった。

「そのお話、また明日にしませんか? みんな疲れていると思うの……ゆっくり休んでから、考えてもいいんじゃないかなぁ」
「そんな悠長に……」
「賛成だな。疲れていては、誰もがびっくりするような素晴らしい案は出てこないぞ?」
「イオスさんまで……」
「おやおや、腹が満たされていても体調が万全でなければ、戦闘なんて出来ないぞ? それはただの負け戦だ」

 なぁ?と笑顔を浮かべるイオスは、皆から向けられる視線におろおろしていたユキナを見、軽く片目を閉じた。どうやら彼もユキナの意見に賛同だったらしく、助け舟を出してくれたのだろう。

「……分かったよ。今日のところはこれで終わり」
「よし、みんな今日はゆっくり休んでくれ」

 渋々と言った様子で溜息を吐きながら、ユーサが両手を挙げ降参の意を示した事により、その日の話し合いはそこでお開きとなった。

   ■   ■   ■

 ジャスティフォーカス本部は、東棟と西棟、本棟と分かれる。
 隊員達の個室が据え付けられ、全体的には生活に関わる部屋が集まっている西棟。会議室など、主要人物が集まる場所が多いのは本棟。そして、東棟は捜査課と軍課の穴蔵だ。
 ドームを支点に扇状に並ぶそれは、ピォウドの住人達に安堵と余裕、そして恐怖を与えていた。
 その二階、階段の踊り場がギリギリ見える場所に、ギレルノは立っている。ディオルと共に、捜査課の人物に怪しまれないよう内部の情報を聞き回っていたのだが、その最中に知り合いらしき姿を見付けたのだ。
 東棟の廊下の一角、階段の踊り場にいるのは、一人の男。手摺りに体を預け、端末から発されているであろう言葉に律儀に返している。
 その男は、眉間に深いシワを寄せた。気付かれないように耳を澄ましてみれば、やたらと不穏な言葉が耳に届く。

「あぁ、手筈通りだ。全てお前の言う通りにしておいた」

 ギレルノとディオルは顔を見合わせ、逡巡した結果、気付かれないようにと様子を窺いながら声が聞こえる位置に近付き、そして今に至るのであった。いや、逡巡したのはギレルノだけで、ディオルは半ば反射的に動いていたが。

「馬鹿を言うな。それは、お前だって同じだろう。辛い思いをさせてすまない。……。……それにしても、良かったのか? 計画が成功したら、アイツは……。……そうか」
「……誰と話してるんだろ」
「ディオル、見付かったらただじゃ済まんぞ」

 渋面を浮かべたギレルノが、溜息を吐きながら指摘する。一応気取られないよう、声のボリュームは下げた。
 もうちょっと聞き取りやすく出来ないものか、とディオルが体勢を変えながら、小声で分かってる、と返してくる。分かっているけれども、気になるのだろう。

「昔、ゼノンが虐めたせいで、ホルセルは死にかけた事があってさ。ハヤトさんはゼノンを凄く怒ったし、ホルセルを凄く心配してた。なのに、泣く僕らを慰めてくれた。そんな人が……自分の息子だと大切にしてくれる人が、ホルセルを監獄に入れようとするなんて信じられない」

 絶対に何か理由があるんだ、その理由を突き止めてやる――と、ディオルは目を凝らす。そんな彼を見ながら、ギレルノは再び溜息を吐いた。
 遺跡から戻ってきた彼らは、本部ですぐさま事情把握に奔放した。自分達がいない間に何があったのか、どういう状況なのか。捜査課は今、軍課の指示の許に動いているようなのだ。驚くべきなのは、捜査課の頭・ハヤトがそれを甘んじて受け入れている事実。
 確かに、彼の性格を少なからず理解しているギレルノも、それには疑問を抱いた。付き合いは長い方ではないものの、彼が大人しく誰かの許に動く人間でないことは知っている。それを調べたいと思うのも分かるのだが、手段が盗み聞きというのは流石にどうなのか。

「悪いな、頼んだ。……それは覚悟の上だ。俺が動かなければ、お前らがやりにくいだろ。………………お前がその心配をする必要はねーよ。良いから切るぞ。後は任せろ」

 ぴ、ハヤトは端末の通話を切る。そして、入念に辺りを見渡しつつ、ディオル達がいる側とは逆の方へ降りていった。
 それを確認し、ディオルは姿勢を正す。

「何だろう。何か、凄く違和感が」
「知り合いみたいだったな」
「うん。でも、その相手がハヤトさんにどう動くか指示してる……?」
「そう見て間違いない」
「……イオスさん、かな」

 ディオルが思い浮かんだ人物の名を挙げ、思い浮かべる。遺跡で遭遇した、やけに頭のキレるあの教授。あの人ならハヤトの知り合いでもあり、こうやって指示出来るのかもしれない。
 ふむ、と思考を更に巡らせようとして、ギレルノの視界に人影が入り込む。本部の廊下だ、他の構成員が通りかかっても何らおかしくはないのだが、問題はその人物であった。

「でもイオスさんは、確か……」
「ディオル、後ろ」
「――!! ったぁ……」
「何コソコソやってんだ、お前らは」

 思考に没頭しきっていて背後に気が付かなかったディオルは、背後に立ったハヤトから脳天に手刀を喰らわされ、頭を押さえて蹲る。ハヤトはギレルノを一瞥し、呆れた表情で手に持つ煙草を口にくわえ吹かした。

「盗み聞きなんざ、見捨ててはおけねーな」
「俺は止めましたよ」
「結局聞いてりゃ同罪だ、同罪」
「だ……だって! 納得がいかないんです! ホルセルを捕まえるなんて、それじゃあ……!」
「納得行かなくても、お前らは俺の指示に従うしかない。諦めろ」
「ハヤトさん!!」
「あまり煩く喚くと、狐に捕まるぞ。早く持ち場に戻れ。あと、俺が会話していたのは誰にも口外するんじゃないぞ」
「……狐?」
「いざという時は個々の判断で動くように。俺からはそれだけだ」

 それだけ言うと、彼はそのまま執務室の方へ去っていく。後に残されたディオルとギレルノは、ただその姿を見ているだけだった。

「どうしちゃったんだ、ハヤトさん……」
「……さぁな。それにしても」
「?」
「狐……」

 意気消沈とするディオルとは反対に、ギレルノが呟く。しばらく眉間にしわを寄せ考え込んでいたが、やがて首を振ってそれを止めた。

「狐がどうかした?」
「いや、気にするな。誰の事なのか気になっただけだ」
「あ、そうか……誰なのか突き止めていた方が、何かと都合良いよね。狐、かぁ」

 うーん、とディオルも首を捻る。その脳内では、必死で狐の姿を思い浮かべているのだろう。とはいえ、それは厳密には狐そのものを指すのではなく、何らかの隠語なのだろうか。
 ギレルノも思い至るものがないか思考を巡らせる――が、残念ながら、今の自分達にはその答えにたどり着く程の情報はなかったのであった。

   ■   ■   ■

「良い天気ねぇ」
「しばらくはこの天気が続くらしいわよー、絶好の洗濯日和ね」

 大きな洗濯籠を抱えながら、サエリは空を見上げて言った。
 場所は孤児院の庭の一角。孤児院の子供達の衣服、更にはベッドシーツなども大量に干す必要があるので、組み立てられた竿は十本程。リルや孤児院の子供数名が、お手伝いと称してちょこまかと動き回っている。
 昨日の内に戻ってきていたシアンも一緒で、せっせせっせと洗濯物を干しながら答えた。正攻法で入国した彼女は、その直後に楽団仲間やレンと別れたそうだ。

「やっぱりここの空気は美味しいです。なんだか、あったかい」
「何となく分かるかも。安心出来る何かがある気がする」
「むうぅーっ」

 吹き抜ける風に煽られた前髪を整えながら、リレスも手に持っていた洗濯籠を下ろす。リルは両手を青空に精一杯掲げ、気持ち良さそうに伸びをした。

「……本当に世界の危機なのかしら、って思えてくるわね」
「そうね。無理もないわよ」
「今も、世界は侵食されているかもしれない……そう分かっているのに何も出来ないのは、歯痒いですね」
「でも、足掻くんでしょ? 最後の最後まで。大丈夫、月の姫は最後まで諦めない心を持った人を見捨てはしない」
「……そうですね、最後まで……」
「リレス?」

 隣に立っていたサエリが、不意にリレスの名を呼ぶ。その直後、彼女の体がぐらりと傾き――力を失ったかのように倒れた。

「ちょ、リレス!? リレス!!」

 地面に激突する前に、辛うじてサエリが受け止める。慌てて脈を取り、正常に動いているのを確認すると僅かに息を吐いた。どうやら気絶した訳ではないようで、気持ち良さそうに寝息を立てている辺り、寝てしまったらしい。
 だが、あまりに唐突過ぎる。まさか既に国内に敵が入り込んでいて、麻酔でも打たれたのかと思ったが、そんな気配も見当たらないのだ。

「大丈夫?」
「大丈夫だけど……どうしたって言うのよ」

 サエリは、胸中に浮上した嫌な予感を拭えなくなっていた。

   ■   ■   ■

 同時刻、孤児院内の一室。

「クーザン!!! 起きろ!!!」

 まどろみの向こうから聞こえた叫び声。聞き慣れた声だが、どこか切羽詰まったような響きを帯びている。

「ん……何だよ、セーレに」
「起きろ起きろ! 大変なんだ、ホルセルが何処にもいねぇんだ!」
「……はあぁ!?」

 思わぬ言葉に、一気に眠気が吹っ飛んで覚醒する。
 取り敢えず着替えて部屋を出ると、玄関先が騒がしい。セレウグもそれには思い当たる事がないようで、顔を見合わせると首を横に振った。
 階段の辺りまで来れば、ようやく何が起きているのかを把握する事が出来た。玄関にはリレスを背負ったサエリが立っていて、珍しく慌てふためいた表情でいたのだ。
 ――それが、午前中のうちで起こった出来事だった。

「で? つまり、何なんだよ」

 ユーサがこめかみに指を当て、億劫そうに問い掛ける。
 彼の手元にあるのは、先日セレウグがメモをしていたのとはまた違う紙。と、ペン。今回は、お手本として見せられても納得出来そうな文字がぎっしり書かれている。ユーサはそれに、新たに文字を書き出した。

「昨日の夕方にここに着いて、今日からに備えて早めに休もうって言って解散したのが昨日の夜。で、今日の朝起きたらホルセル君がいなくなってて、ほぼ同時にリレスが倒れたと」
「神は休む暇もくれない訳か」

 セレウグが肩を竦め、皮肉めいた事を呟く。

「リレスの容態は?」
「至って健康。いつ目を覚ましてもおかしくはないんだが」
「つまり、いつ目を覚ますか分からないって事か……」
「物騒な事言わないでくれる?」
「事実を述べたまで。倒れた理由が分からないなら、目を覚ます理由もまた分からないだろ」
「…………」

 サエリとユーサが睨み合う。二人の間に火花が見えそうな気がするが、皆見て見ぬフリをする。

「ホルセルは、アークが同室だったよな?」
「うん。…………」
「どうしたんだ?」
「……実はね」

 犬猿の仲と言っても間違いない二人は置いておき、クーザンがアークに聞く。歯切れの悪い返答と何か言いたげな表情に、更に問いを投げ掛けると、彼は意を決したように話し出した。

「明け方近くにたまたま目が覚めて、ちょっと外にでも行こうかなって部屋を出たんだ。そしたら玄関の方から声が聞こえて、他にも誰か起きてるのかなと思って様子を見てたんだけど……」
「声?」
「うん。ホルセル君の声で間違いなかった。でも何言ってるかは聞こえなくて……。しばらくしたら聞こえなくなったから、どこか遠くに行っちゃったんだと思う」
「アイツ、ジャスティフォーカス本部へ向かったわね……。無茶してくれちゃって」
「そうだな。結構精神的にダメージでかかったみたいだし、ホルセルの性格じゃ行っても仕方ない」

 サエリとセレウグが、呆れたように溜息を吐きながら言う。正義感の強いホルセルの事だ、冤罪をかけられて黙っていられるはずがない、と。
 だがそこで、クーザンはアークの方が気になっていた。話しているとはいえ、妙に目が泳いでいる。性格からして彼が嘘をついているとは思えないが、同時に真実を話していないような、曖昧な違和感が、彼からは感じられた。

「仕方ない。予定より早過ぎるし、何より情報も少ないけど――行ってみるか。本部」

 とはいえこの場で聞くのも、と判断し、クーザンはユーサが立ち上がったのを受けて出立の準備に向かおうと腰を上げようとしていた。

「あたしも行く」

 隣の幼馴染が、思わぬ発言さえしていなければ。

「……は?」
「あたしも行きます。ジャスティフォーカス本部」
「ゆ、ユキナ? あのな、今回は……」
「足は引っ張らないようにするから! お願い、セーレ兄!」

 顔の前で両手を合わせて懇願する彼女に、名を呼ばれたセレウグがえぇ、と声を上げた。ユーサは元より口を挟むつもりはないのか、わざわざ立ち上がろうとしたのを座り直して状況を観察している。

「おいユキナ。お前は留守番に決まってるだろ」
「何で!?」
「お前は一回狙われたのを忘れたのか? 連れていけば、またあいつらに捕まるかもしれないだろ」
「大丈夫! 今度は、あたしだって戦える!」
「ダメなもんはダメ」
「クーザンお願い!!」
「~……。ユキナ、今回は魔物やラルウァが相手じゃないんだ。人間だ」
「分かって……」
「ないだろ。それが何を意味するのか。下手したら、」

 人を殺す事になるんだぞ? そう告げると、ユキナは動きを止め、さっと顔を青ざめた。
 確証はない。そんな手段を取らないよう、最大限尽力するつもりでもいる。だがそれはあくまでこちら側だけであり、向こう側は違うかもしれない。例えばゼルフィル達(やつら)のように、邪魔する者は処分しろと命じられているかもしれない。
 そんなところに、彼女を連れて行く訳にはいかなかった。

「だから、お前は留守番だ」

 クーザンはそれを最後に、もう何を言われても反応しない、と言うように今度こそ腰を上げ、退室するのだった。