第46話 次なる舞台

 翌日。
 ぴょんぴょん跳び跳ねながら歩くリルは、身体中で喜びを表現していた。あまりにも楽しそうに歌うものだから、誰もが仕方ないといった表情で苦笑する。

「うーみーはーひろいーなー、おおきーいーなー!」

 そんな午前十一時。クーザン達は、男が待つ船に向け足を動かしていた。
 町は相変わらず酷い有様にも関わらず、アブコットの住人は一生懸命復興しようと働いている。本来ならクーザン達も助力したい所だが、破壊の原因を絶たない限りこの悲劇は終わらない。
 中には昨日の騒動を見ていた人物も少なからずいるようで、一行を見付けて声をかけてくる者もいた。

「あ! アナタ達!」

 前もって早めに宿を出発していたものの先を急いでいた一行は、そんな彼らの話を適当に受け流していたが、彼女は違った。
 黒く短い髪を揺らしながら駆けてくる、快活そうな顔つきをした少女。華奢な身体に似合わぬ大きさの武器――恐らく刀の類いだ――は、腰から下げられた鞘ごと揺られている。
クーザン達の後を追いかけてきた少女は肩で息をし、にっこり笑って口を開いた。

「ハジメマシテ、昨日は散々だったネ! アナタ達がいなかったら、ワタシも危なかったヨ。感謝!」
「あ、貴女は」
「知り合い?」

 反応を示したリレスによれば、この少女は昨日のラルウァ襲撃の際に負傷していて、彼女が治癒魔法を施していたのだそうだ。
 幸い大事には至らない怪我ではあったが、今にも戦線に加わろうとしていて大変だったらしい。
 リレスの説明が終わったのを見計らい、今度は少女が話し始める。

「ワタシ、辰巳漣……違った、レン=タツミ。琉から来た。エアグルスには、探し物に来まし……来たヨ」
「探し物?」
「うん。それで、ホントはキボートスに行く……行きたかったんだけど、間違えてファーレン行きに乗っちゃったみたいなんダ。仕方なくこっちで降りたら、何だかおかしな事になっているシ」
「それは災難だったわね、アンタ」

 本当にエアグルス大陸に来たばっかりなのだろう、拙い話し方で自己紹介と訳を話す少女――レンは、大袈裟に肩を竦める。リレスの知り合いであるツカサといい、琉大陸の人間は何かとリアクションが大きい。
 哀れむような表情でサエリが労うと、そこに含まれた意味を全く理解していない彼女は、腕を組んで続けた。

「全くだヨ。……それで、向こうに渡る船を探していたら、アナタ達がいたんダ。アナタ達なら、何らかの手段を持っていそうだと思ってネ」
「どうして?」
「昨日の怪物を相手に全然怯えずかかっていったり、終いにはそいつを倒せる程の腕前から、かナ。住人なら、そんな戦い慣れてたりはしないヨ」
「分からないじゃない。もしかしたら、街の警備に雇われた住人かもしれないわよ?」
「なら、そんな返し方はしないネ」

 サエリの台詞に、レンは尚も言い返す。言った本人も失言だったと気が付いたのか、珍しくしてやられたという表情を浮かべた。
 そこで、今まで話を傍観していたセレウグがようやく口を挟む。

「良いんじゃねーの? キボートスに着くまで位」
「そうですか?」
「暫くは大陸間の船も出なさそうだしな。何より、」
「ここで時間喰う位なら、彼女連れてさっさと行きたい、だろ」
「……歯に衣を着せような、クーザン」

 先手を打たれ、言いたかった事を言われてしまった彼は、苦笑いでクーザンをたしなめる。

「はぁ……分かったわよ、アンタに従うわ」
「良かったですね、レンさん」
「アリガトウ! 恩に着るヨ」

 胸の前で両手を合わせ、深々と頭を下げるレン。妙な仲間が増えた所で、一行は船着き場へと足を急がせる。

   ■   ■   ■

「はぁ、慣れないんだよねーここ」

 縦横無尽に張り巡らされる鉄パイプの造形物に、青年は溜息を吐いた。その声が聞こえたのか、隣の男が彼を一睨みし威圧をかける。
 彼がいるのは、ピォウドのジャスティフォーカス本部の敷地内にある訓練場。息が詰まるような閉鎖的な空間の中に、自分よりも大柄な男二人が左右から見張っている為、息苦しいにも程がある。
 彼は何故ここにいるのか。それは、ジャスティフォーカス幹部の集う場へと向かうからだ。腕のない左の袖が風と彼の動きにつれ、揺れる。
 黙々と歩き続けると、訓練場を抜けしっかりした造りの建物へ出た。執務室や彼らの部屋が纏まっている、本棟へ着いたのだ。
 幹部が集まる時に使う部屋は、その建物の最上階にある。贅沢にも最上階のフロアを全て使い、馬鹿みたいな大きさの机が置いてあるのみの部屋。
 彼は幸運な事に一回しか呼ばれた事はないが、出来る事なら二度と足を踏み入れたくなかった。訓練場よりも息が詰まるのだ、あの部屋は。
 最上階まで真っ直ぐ上がるエレベーターに乗り、見張りの男がボタンを押す。男三人、先程よりもずっとむさ苦しくなった光景は想像したくない。
 チン、と控えめに到着した音を響かせ、二重扉がゆっくり開く。行けと顎で示され、エレベーターを降りる。
 正面にはまたも扉があり、そこには厳つい男が立っていた。

「お務めご苦労さん」
「……黙れ。この先は厳粛なる間、貴様の如何なる言動も相応しくない。よって、総帥の前では極力品行方正な振る舞いをするよう」
「しんどい……」
「貴様の意思は聞いていない。返事は」
「ラジャー」

 折角労ってあげたのに、と青年が肩を竦める事さえも許されない。どうやら、かなり嫌われているようだ。
 仕方なく了承の意を告げると、ラグスが渋面を崩さぬまま扉を開け、中へと促す。煩くなる動悸を思考の端へと追いやり、彼は部屋の中へ足を踏み出した。

 中には、三人の人間がいた。
 一人は総帥。ジャスティフォーカスを創設した、青年や組織皆が従うべき存在。
 一人は捜査課を束ねし英雄。しかめっ面を浮かべていたが、自分の姿を認めると驚いたかのように目を見開く。
 そして一人は、見た事のない青年だった。
 青年は、入ってきた青年をちらりと一瞥しただけで、特に何かを話す事はしない。青色の短い髪に同色の瞳、端正な顔立ちをしていると思う。身に纏う衣服は、紛れもなくジャスティフォーカス軍部の黒い制服だ。
 青年を観察していると、その真逆から自分を呼ぶ声がした。

「ザルクダ……!」
「おや、ザルクダ。やはり生きていたか」
「はい。ザルクダ=フォン=インディゴ、帰還の命を受け只今参上致しました」

 青年――否、《世界守 ワールドガーディアン》のリーダーでもあるザルクダは、仰々しく胸に手を当て、貴族のように頭を下げる。ハヤトは何かを言おうとしたのか口を開きかけたが、思い直したらしく直ぐに固い表情に戻った。
 彼の決まり文句に、総帥はくすくすと微笑を溢す。そして、空いている椅子を指し示した。

「そこになおれ。今まで何をしていた?」
「失礼。――はい、報告します。実は、気が付いた時にはトルシアーナのとある民家にいました。発見された当時は、事情により私の体力が持たないという事で、こちらには帰って来られる状態じゃありませんでした。連絡を怠った事、お許し下さい」
「事情とやらと、その中身のない袖とは関係があるのか?」
「……はい」

 率直な総帥の台詞に、僅かに躊躇いを見せながらも答える。
 数年前までは当たり前のようにあった、自らの腕。その位置をちらりと一瞥し、袖を隠す。
 彼の動揺を察したのかは分からないが、総帥はふっと微笑し続ける。

「ご苦労。下がって良いぞ」
「え?」
「道中疲れただろう。今日はもう休んで、明日いろいろと聞かせて貰う。疲労困憊とした相手からは、大して重要な話を聞けそうにないからな」
「…………」
「不服か?」
「……いえ。このような若輩者への多大な気遣い、感謝致します。仰せの通り、また明日こちらに伺わせて頂きます――ビュー=ハイエロファント=カマエル総帥」

 胸の前に手を当て、恭しく頭を垂れる。

「ところで、ひとつだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」

 ザルクダはふぅと息を吐いて間を置き、椅子に腰掛けた青年を見やる。相手もそれに気が付いたのかこちらに視線を向けられ、空中でかちあった。

「彼は……?」

 主語も何もない疑問文だが、その問いに総帥ではなく青年本人が応えた。

「クラティアス様の代理を務める事になった、レキア。よろしく」
「代理……?」

 ジャスティフォーカスという組織は、総帥の直属としての地位がある。
 直接総帥からの指示を受け、適任である構成員に任務を請け負わせるといった何かと重要な役目を担っているはずなのだが、代理などを使うのはにわかには考えられない行為だ。組織の存続に関わるかもしれない物事を話し合うはずの、この場所では尚更。

「あぁ、何か重要な対談があって忙しいとかで、特例で代理を許可した。ドネイトは不服そうだがな?」
「……そんな事は思っていないな」
「ふ、よく言う」
「総帥は、何も思われないのですか?」

 ザルクダはレキアを横目に、総帥に向け問う。主語の抜けた台詞だが意味は通じたのか、相手はニヤリ、と不敵に笑った。

「決まっておろう?」

   ■   ■   ■

『あぁ――また、な』

 波の音に揺られ、クーザンは目を醒ました。体を起こし周囲を見やれば、見慣れない部屋の内装に窓の風景。海だ。

「……あぁ、酔ったのか」

 陸地の移動に比べ、海上の移動は乗り物の動揺が激しい。三半規官が刺激された結果引き起こされる自立神経の失調状態は、そう簡単には治らない。
 軽く首を振り、自分の体の状態を確認する。乗り物酔いによって少しふらふらするだけで、大事はないようだ。
 ふと、首の飾りを手に取る。黒い紐に繋がった、鎖の欠片。幼い記憶の底では、これは父の剣に巻かれたものだったはず。

「……父さん」

 夢で聞いたあの声――あれは父親の声のようで、だが考えれば考えるほど違う者の声に思える。
 どこか心の奥底で、懐かしい――そう思う声。一体あれは、誰だったのだろう。もし父親なら、

「……馬鹿馬鹿しい」

 そんな事、あるはずがない。セレウグの話によれば、父親は彼らの目の前で殺されている。生きているはずはなかった。

「……ん?」

 窓の向こうに人影が見えた気がして、クーザンは視線を動かす。
 船は結構な大きさで、窓からは甲板が見える。派手でない飾りが頭に見えるから、恐らく進行方向側に向いている窓なのだろう。
 バサバサバサ……と風を受けてはためく布地、いやマフラーを着けた人物と言えば、一人しかいない。

「ホルセル……?」

 彼――ホルセルは、船首の縁に手を置き、ただただ海を、水平線を見ているようだった。その目にはいつもの陽気さはなく、真剣で寂しさを帯びている。
 クーザンは寝ていたベッドから降り、ドアに歩み寄る。この部屋は休憩室らしく、だが誰もいないので恐ろしく静かだ。
 ドアを開け、突然来た風に体の平行バランスを奪われかける。流石に風よりも己の力が弱いとは思いたくないので、倒れないようしっかり足を踏み出し、船首に向かって歩く。

「ホルセル」
「!? ……びっくりした。クーザンか」

 クーザンの呼びかけに応えた彼は、びくつかせた肩を下ろし安堵の息を漏らす。
 姿を隠す為の外套は羽織っており、顔の半分は隠されたまま。視線すら合わせてくれないのは、多分気のせいではないだろう。

「何してたんだ、こんな所で」
「……いや、別に」
「海を見てたの?」
「そんなもん」

 遥か遠くにある水平線を見やり、クーザンも手摺りに手をかける。

「到着は夕方だってさ。何だってそんな時間に合わせたんだろうな」
「……さぁ。クーザンに分からないなら、オレが分かる訳がないだろ」
「…………」
「…………」

 急に黙り込んだホルセルを一瞥すると、クーザンは再び海に視線を戻す。本当は昨日の事を話そうと思っていたのだが、今話す時ではない。それよりも、大切な疑問が出てきたのだから。
 水面スレスレを滑空する水鳥やトビウオが、仲よさ気に船と平行して滑空していた。

「海か。――大陸と空、それらと対を成す存在。生物を育む、世界に在るべき存在」
「……急に何だよ?」
「海の神は、大地と険悪な仲だったって話だったよな。海が広ければ大地は狭くなる。逆もまた然り。自然の摂理に基づき、人間達が創造した神も同じような関連付けがなされた」

 突然難しい話を切り出したクーザンに、布の向こう側できょとんとしているだろう声音で聞き返すホルセル。だが、直接的な答えはない。
 そして――クーザンはそんな彼の表情、いや眼を見て問う。

「何でまたホルセルのフリしてるんだよ。……お前の名前って、ヴィエントだろ」

 バサバサバサ。マフラーが、踊るように宙を舞った。問われた本人はしばらくそのまま動きを止めていたが、やがて外套のフードを頭から外し、深海色の両目を刃のように、鋭く細めた。

「……フン。好きでやってんじゃねぇよ」

 普段より低いトーンの声に、粗暴な言葉遣い。それは、明らかにホルセルがホルセルでない時の証だ。

「やっぱり……ホルセルをどうしたんだ」
「どうしたもこうしたもねぇ。アイツ、余程ショックだったのか表に出て来ねぇんだよ。だから仕方なく、俺が表に出てるっつぅ訳だ」
「ショック……」
「原因は分かってんだろ?」
「……クロス」

 クーザンの脳裏に、長髪の少年の影がちらつく。理由も告げず消えた彼は、一体どこに行ってしまったのか。

「あと、ジャスティフォーカスな。ダブルで来たら、流石に気も滅入るだろ。俺には関係ねーけど」
「……ホルセルは、そんな弱い奴じゃない」
「どーだかな」

 きっ、と彼を睨みつけるが、相手は素知らぬ顔で海を見続ける。
 ふと。その姿に見覚えがあるような気がして、クーザンは目を凝らした。

「人間なんて、」
「…………?」
「……何でもねぇ。とにかく、コイツがどうにか上がってくるまでは俺が動いててやるよ。感謝しろ」
「なっ……!」

 何かを言いかけ、だが結局は何も告げず代わりに宣言したホルセル――いやヴィエント。それはあまりにも衝撃的で、クーザンは我が耳を疑った。
 今まで彼が表にいて、良い方のハプニングが起こった試しはない。表情を険しくした事で相手も察したのだろう、彼は薄ら笑いを上げ言う。

「ばぁーか、俺が何の目的も無しに殺してたと思うかよ?」
「え……?」
「リカーンのあれ、全部ゴーレムだ。血はモノホンだがな」
「!!」
「ひでぇ事するよなぁ、奴ら……ククッ。俺を捕まえる為だけに、ゴーレムを仕掛けてきてたんだよ」

 ホルセルと再会した国、リカーンでの惨事。スウォアと対峙した後、クロスを追いかけ遭遇した場所に広がっていた光景を思い出し、少し気分が悪くなる。が、重要なのはそこではなく。
 クーザン達はあの時、敵の配下にあるゴーレムという存在すら認知していなかった。襲われれば普通の人間だと恐れ、撃退どころか抵抗すら出来なかっただろう。あの時周囲に転がった死体も、彼を襲い返り討ちに遭った兵士も、全てゴーレムだとすれば。

「お前まさか、俺達を助ける為に……?」
「勘違いするなよ? 俺はお前らの心配なんてこれっぽっちもしてねぇんだからな。最後には、俺がお前殺すっつったろ」
「……? 何の話だよ」

 身に覚えのない事を聞かれ、素直に聞き返す。そうすれば、ヴィエントは口をへの字に曲げ頭を掻いた。

「思い出したの、名前だけかよ」

 ヴィエントの台詞に、クーザンはふと首を傾げる。
 何気なく接しているつもりだったが、そういえば自分は何故ホルセルのもう一つの人格の名前が『ヴィエント』だと気が付いたのだろうか。自分の記憶も何も曖昧なままなのが、更にクーザンを困惑に落とし入れる。

「名前……あれ? 俺何で、お前の名前……」
「おいおい、何となくは無しだぜ。……ま、良い。とにかく、他の奴らには言うなよ。言ったら――」
「クーザン! もう、いつの間に起きてたの?」

 その時、ヴィエントの言葉を遮る大きな声がクーザンを呼んだ。
 振り向かなくても誰か分かるその声を境に、彼は険のある表情を打ち消し、フードを深く被り直してからそちらを見遣る。目の色の変化は外套で隠し通すつもりらしい。
 声の主――ユキナと、傍らについてきていたリルが、クーザン達の傍に駆け寄ってきた。

「どうした?」
「何か伝える事があるから、みんな船室に集合だって。一度に伝えた方が楽、だって」
「真っ黒なおにーちゃんが言ってたよ」
「何なんだろな」

 リルの『真っ黒なおにーちゃん』は、恐らくホワイトタウンから戻って来たユーサの事だろう。全員を集めるからには何か重要な話だと思うが、何だろうか。

「ま、行けば分かるだろ! ほら、取り敢えず行ってみようぜ!」

 怪訝な表情を浮かべたクーザンの肩に手を置き、ホルセルが言う。その眼は未だ蒼いままだが、見ようによってはいつもの空色だ。彼は、本気でホルセルのフリをするつもりらしい。

「(……ホルセル自身の問題だから、俺に出来そうな事は何もないな……)」

 一つ溜息を吐き、これから訪れるであろう数々の騒動に思いを馳せる。
 キボートスヘヴェン。今向かっている新たな大陸には、一体何が待っているのだろう。

  ■   ■   ■

「お嬢?」

 首都ダラトスクの中央には、一般の人間には一生手に届かないような豪邸がある。
 敷地の面積から建物の造りまで、全てが膨大で繊細な造りのそこは、大陸を治める重要人物が住んでいた。

 ベランダに立つ一人の女性。彼女に声をかけたのは、茶髪を短く刈り上げた長身の男性だ。
 スーツをぴしゃりと着込んでいる、と思いきや第一ボタンは外され、ネクタイもしていない。執事だと予測出来るが、このように豪華な場所に住まう者のそれとしては、あまりにだらしない着崩し方をしている。
 対するは、膝下まで裾があるドレスを着た長い髪の、大人しそうな女性。大きな桃色の瞳は真っ直ぐに、だが憂いを帯びた表情で、首都を見詰めている。

「ジャック、どうされました?」
「それはこっちの台詞だ。ここの所、浮かない顔ばかりしてるぜ」
「そうでしょうか?」
「陛下殿の判断か? 気がかりなのは」
「……」

 つい先日、海に出た一艘の船が、忽然と消息を絶ったという報があった。
 普通なら大時化に呑まれたか事故か、と判断し捜索に向かうものなのだが、同じ時期から海の方に現れるようになった魔物――と言えるものなのかは怪しいが――のせいで、救助を行うか否かの選択を迫られる事になったのだ。
 リニタの父、つまり陛下は深く眉間に皺を寄せ、決断を下す。より大きな犠牲が予想され、協議の結果――難破した船の捜索は、行わないと。
 大衆を抱える大陸の王の判断としては、間違ってはいないだろう。だがこの王女は、その救えるかもしれぬ命を見捨てる事に、最後まで反対していた。
 はぁ、と詰めていた表情を緩め、リニタは答えた。

「確かにそれは気がかりですし、どうにかならないものかと思案してもいるのですが……。でも気にしないで。楽しみにしている事もありますから」
「楽しみ?」
「えぇ、楽しみなんです」

 女性はくるりと振り向き、ベランダから部屋に戻る。その軽やかな動きを、ジャックと呼ばれた男は目で追った。
 天蓋付きベッドの前で立ち止まり、ぼすん、と弾力のあるマットレスに座る。その立ち振る舞いは年相応に見えて、至る所に上品さが見え隠れしていた。

「きっと、素晴らしい出逢いが私を待っています。そう遠くない、未来に」
「…………」
「彼は、きっと来ます。運命に導かれて……」

 バサバサバサ。神殿に響き渡る、木々のざわめき。
 全ての生き物達は、後に大陸を襲うであろう災いの到来に気付かぬまま、いつも通りの日常を過ごしていた。

第二章「三つ巴の演奏会」END