第45話 《月の姫》の加護

 ぜぇはぁと息を切らせ、アブコットの港方面へと逃げてきたアーク達は、港の倉庫街へと身を隠しながら、今しがた自分達がいた方へと視線を向けた。
 ラルウァはそこまで巨体ではなかったので、流石にここからは見えない。が、時折爆発音のようなものが空に轟いている。
 周りを見渡すと、自分達と同じように避難してきた住人達の姿もあり、誰もが青ざめた目でアブコットの町を見つめていた。
「結構走ったけど……おじさん達、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
「でも、あんなに恐ろしいものが、この町に現れるなんて……。アブコットはどうなってしまうのか」
 夫婦を気遣うと、二人も息を整えつつ答えてくれた。住人達のように不安そうではあるが、混乱に陥っている様子はない。
「くそ……っ!」
 突然、ホルセルが倉庫の壁に向かって、拳を叩き付ける。鈍い音が周囲に響き、それに驚いたリルが、不安そうに兄を見上げた。
「兄貴?」
「何だよ……何が《正義の力》だよ……! いざ大事な時に戦えないなんて、無力と変わんねぇよ! くそっ……!」
「…………」
 仲間が危険な目に遭っているのに。
 組織の庇護の対象である住人が、死ぬかもしれないのに。
 自分はほんの些細な助力でさえ出来ないで、住人達を守れないでいる。
 助けたくとも、追われる者が動けば仲間が危なくなる。そんな自分が疎ましいと、ホルセルは握り拳を何度も叩き付けた。リルがあわあわとその腕を止めようとしているが、彼女もどう声をかければ良いのか分からないのだろう、止めることが出来ないでいる。
 アークはホルセルと出会って日が浅いが、多分とても正義感が強くて、真っ直ぐな人なんだろうと言う印象を抱いている。だからこそ、自分の責務を全う出来ずにいる今の状況は、彼にとってとても苦痛なのだ。
「――それは違うと思うよ」
 壁を殴り続けるホルセルの腕を掴み、物理的にその行為を止めさせる。自分を見上げてきた目は獣のように鋭かったが、それはどこか怯えているようにも見えた。
「ボク達は一人じゃ守れない事もある。だからジャスティフォーカスは、グループとして行動してるんじゃないかな。ひとりじゃ駄目だから、力を合わせてみんなを守るんだよ。ホルセルは無力じゃないし、無力だからって、自分を蔑むのは間違ってる」
 手短に詠唱をし、今出来たホルセルの擦り傷を癒す。リレス程には癒す事は出来ないが、止血程度にはなるだろう。
「会ったばかりの奴が何言ってるんだって思うだろうけど、少なくともキミは、ここに来る途中でおじさん達やリルちゃんを守った。だから、無力なんかじゃない」
「……でもっ……!」
「大丈夫だよ。ボクと会う前まで、キミはリレスやサエリと旅をしていたんでしょ? 二人もいるし、クーザンもいる。信じるのだって、ホルセルの十分な力だよ」
 あの場には、頼りになる親友が何人も残っている。でなければ、彼らに任せて自分が出来る事をやり遂げるのを選ぶ事はなかった。
 ――だから、みんな無事でいてね。
 今なお戦闘音が止まない、親友がいる方に視線を向けながら、アークはただただ彼らの無事を信じ続けるのだった。

   ■   ■   ■

 悔しい。リレスの治癒魔法を受けるセレウグの傍で立ち竦むユキナは、食い込む爪の痛みも忘れ、両手を握り込んだ。
 クーザンだけでなく、兄と慕うセレウグまで自分のせいで傷付けた。今度は、傍にいたのに。助けられるはずだったのに。
「(せめて、あの時の力が使えたら……)」
 ゼルフィルに連れられ、クーザン達と対峙したあの日。脱力感からすぐに気絶してしまったが、自分がやった事位は覚えている。
 何が、どうして、何で、と混乱する頭で覚えていたのは、クーザンが強い光を帯びた瞳で自分を睨み付け、絶対に諦めないと口にした事。その強さが羨ましくて、自分の弱さに泣きたくなった。
 そのせいで感情が爆発して、周囲の時間を止め、何一つ音が聞こえない空間にする現象を起こしたのは、紛れもなく自分であった。
 あの力が使えたなら、セレウグが傷付く事はなかったのに。
(――でもね、)
 唐突に聞こえた声。はっとして周囲を見渡すが、その声の主らしき人物はいない。
 なのにそれは、まるで耳元で囁かれているかのようにはっきり聞こえたのだ。
(――それは、悲劇を生んだ力。私は、望まずに得た力なんて要らなかった。欲しく……なかった)
「……でも、でも! 悲劇を生んだとしても、皆を守れるなら……!」
(――例え守れたとしても、次は大切な人を傷付けてしまうかもしれないよ?)
「あたしがさせない!」
 姿も見えぬ相手に、ユキナは言い返す。周りの目も気にせずに、声高に。
「傷付くのを見てるしかないのは嫌なの! あたしだって……あたしだって戦いたい!」
(…………。貴女は、強いね)
「強い? 違うの、あたしは弱いの。弱いから勇気が欲しい。守るための力と、勇気が!」
 強いなら、最初からゼルフィルなんかに付いて行かなかった。力があるなら、クーザンやセレウグ、大切な人達を守れた。
 弱いから、力がないから自分の意思で行動せず、結果的に彼らを傷付けてしまったのだ。己が招いたのだと罵られても、仕方ないと思える。
 声は暫く沈黙を貫いていたが、やがて再び言葉を紡ぎ出した。
(うん、分かった。貴女なら、この力を私よりも正しく使ってくれるよね)
「え?」
(私のアミュレット、持っているでしょう? それを使って、絶対に成功する呪文を教えてあげる。忘れちゃダメよ? その代わりに――)
 『私のアミュレット』と聞いて、すぐに思い当たったものを腰のポーチに視線を落とす。刹那、まるで見つけてもらうのを待っていたようにそこから光が溢れ出した。そこに収めていたもの――歌姫の滝の家から慌てて出立する際にアイラから託された、ディアナのアミュレット。それが、何かに呼応するようにして光を放っていた。
 でも、あたしが何故それを持っていたのを知っているのだろう。顔も分からない相手の台詞だと言うのに、ユキナはその人物が、まるで悪戯をこっそり教える子供のような笑顔を浮かべている気がした。

 滴り落ちる汗が、長い間ラルウァと対峙している事実を教えてくれる。先程まで自分を取り巻いていた不思議な感覚はもう、感じられなかった。
 如何なる攻撃を与えても怯みさえしない怪物は、彼らに絶対の恐怖心を植え付けるに十分だ。だが、諦めないその心はやがて人々を動かし、アブコットに滞在していた戦える猛者までもが戦線に参加していた。
 死にたくないともがく者。
 街を失わせまいとする者。
 助けになりたいと願う者。
 誰もが全力で、恐怖の象徴であるラルウァに飛び掛かる。
 一体いつ、この戦いは終わるのだろうか。そう錯覚せざるを得ない、長い時間。一生終わらないんじゃないか、とさえ思えてくるのだ。
(絶対に、成功する呪文……)
 ユキナの中に、先程までは知りもしなかった言葉の羅列が浮かぶ。それが《彼女》の言っていた呪文なのだろう。
 大きく深呼吸をし、皆の位置を確認して、最後にラルウァを視界に入れた。アブコットの人達を恐怖に陥れた相手を、絶対に見逃さないつもりで。
「時を駆ける優しき風 荒んだその御心を開放し――」
 歌うように紡ぐその言霊は、前線で戦っている者達を包み込む。ラルウァが、《月の力 フォルノ》の流れに反応しこちらを向いた――いや、睨み返してきた。
「今再び、勇ましきその者を 我が眼前に顕せ」
(ここで止めてしまうと、諦めてしまうと、全てが絶望で終わってしまう。――なら、あたしは絶対に諦めない!)
 ユキナは残りの《呪文》を口にし終えると、閉じていた瞼を開け、声高に叫んだ。
「《ウールリベラシオン》!」
 暖かな風が吹き渡り、波動となって波打つ。動きを止めたラルウァに向かって、具現化した風が斬りかかる。いや、動きを止めたのではない。止められたのだ。
 断末魔の叫びは予想通り聞こえる事はなく、禍々しい黒い体は唸りもしないまま、宙に消えた。
 ――一瞬現れた小さな子供の口が動く。その姿を映したユキナの瞳に、強く焼き付けさせるように。
 先程まで死闘を繰り広げていたと思えない静寂が辺りを支配し、やがて戦っていた人々は、次々と力尽きたかのように膝を付く。長期戦を覚悟していた皆が、ようやく訪れた終わりを喜び、安堵しているのだ。
「……う、そ……?」
 呆然と呟いたユキナは、ぽすん、と地面に座り込み、呆然と自らの両手を見つめたのだった。

 固唾を飲んで見守っていた住人達や、一緒に戦っていた者達が動き始めるのに、それから数分を要した。
 皆口々に礼や労いの言葉をクーザン達に送り、自身に礼を告げる声は途切れない。しかし、ユキナは今しがた自らが行った事をすぐには理解出来ず、それらに反応する余裕はなかった。
 やがて、あまり目立っては厄介だと、街が復興した暁には是非礼をさせてくれと申し出た町長への挨拶もままならないまま、ユキナ達はアークらを捜す為にその場を離れた。

   ■   ■   ■

 その数時間後。日はとっくに暮れ、夜の時間を迎えていた。
『よっ、元気してっか!』
 何も知らないドッペルの底抜けな声に、クーザンは一瞬待ちわびていた事も忘れ、殴りたくなる衝動に駆られた。実体化していれば間違いなく理不尽な暴力に遭っていた彼は、部屋の妙な空気を読んだのか、声の調子を変える。
 この部屋には、現在クーザンとドッペルゲンガーしかいない。他の面子は、崩壊を免れ快く受け入れてくれた宿のそれぞれの部屋で、今日の疲れを癒している頃だろう。相部屋であるホルセルの姿もないのが心配だったので、もう暫く待って帰って来ないようなら捜しに行こうか、と考えていたところの来客だった。
『……なーる。それは申し訳ない』
「まだ何も言ってない」
『よし聞こう』
 自分が何も言っていないにも関わらず、分かったふうな深刻な声音で言ったドッペルの独特な態度に呆れつつも、クーザンが一言「ラルウァが出たんだよ」と呟く。ここにセレウグがいればもっと細かく説明してくれるのだろうが、生憎彼はまだ治療中だ。
 だが、どうやらそれだけでも十分インパクトがあったらしい。相手は驚愕の声を上げた。
『ラルウァだって!? お前らよく無事だったな……』
「正直、実感ないな」
 終わりの見えない戦闘に、突然訪れた終幕。生きた心地がしない絶望感は、まだ鮮明に思い出せる。
『一体ユーサ無しでどうやったんだよ。今のところ、辺りに変な気配なんて微塵も感じないんだぜ?』
「……分からない」
『は?』
「分からないんだ。ユキナが何かやったのは覚えてる。あいつの魔法がラルウァの時間を止めて――気が付いたら、黒いあの体はどこにも見当たらなかった」
 当の本人は、宿に着くなり眠ってしまった。サエリ達の話だと、ルナデーア遺跡で暴走した自分を押さえる為に魔法を使った時も同じように寝ていたらしいので、恐らくはその影響だと考えられる。
 自らの思考を纏めるように呟く彼の台詞に、ドッペルは僅かに首を傾げ黙考した。しかしすぐに首を振ると、再び声の調子を明るくして口を開く。
『ま、無事だったんならひとまず安心だ。ところで、船は確保出来たか?』
「一応」
 アーク達が守っていた夫婦の男が、町を守ってくれた礼として自分の船を出すと申し出てくれたのだ。息子の捜索はどうするのかと止めようとしたが、それでは自分達の気が済まないと女性まで頭を下げ出し、結局その申し出を受ける事になってしまった。
『上出来! じゃ、出発は明日の昼だな』
 人差し指を立てて言うドッペルに、クーザンは眉間に皺を寄せ異論を唱えた。
「そんな人目に見付かりそうな時間に出発で良いのか? 夜とかじゃないか、普通」
『これにもちゃんと訳があるんだよ。それについては追々話すとして、出発を他の奴等に伝えておいてくれ。オレも手伝ってやっからさ!』
「あ、おい!」
 じゃ、ヨロシクーと手を振って影に消えるドッペルを引き留めるも、間に合わずに一人残される。困ったように髪を掻き息を吐くが、考えていても仕方ない。
クーザンはベッドから腰を上げ、他の者が休む部屋を回る事にした。

「入るぞ」
 軽くノックをして入ったのは、レッドンとアークに割り当てられた部屋。のはずなのだが、
「あら、いらっしゃい」
 出迎えたのは、何故か別の部屋にいるはずのサエリだった。上質なベッドにうつ伏せに寝転がり、適当に買ってきた新聞を広げている。
 リレスも同じ場所に腰掛け、寛いでいた。少しばかり顔色が悪いような気がしたが、気のせいだろうか。
「……部屋、間違えた」
「合ってるわよ。アーク達ならベランダ。風に当たりたいだってさ」
「何かご用でしたら、伝言しておきますよ?」
「いや、どちらにしろお前らにも関係ある話……というか、リレスは医者と一緒に、セーレ兄さんの治療をしてたんじゃなかった?」
「えっと、そうなんですけど……『大丈夫だからキミは休んでいて』、と言われてしまいまして。お言葉に甘えて、お任せして来たんです」
「……それ、リレスが――」
 そこまで言いかけた所で、ベランダに出る窓が開く。そこからひょっこり現れた人物こそ、この部屋に割り当てられた当人であるアークだった。横にはレッドンもいる。
「あ、クーザン!」
「……?」
 呼びかけに軽く片手を上げて応え、ふとその隣のレッドンと目を合わせる。あちらも視線が合った事に気が付いたようだが、特に話しかけては来なかった。
 ベランダにいた二人は室内に戻り、こちらまで来ると立ち止まる。軽く首を傾げながら、アークがどうしたの?と問いかけてきた。
「出発が決まったよ。明日の昼に発つってさ」
「昼間? てっきり夜か早朝かと思っていたのに」
「俺もそう思ったけど、理由があるってさ」
 告げられた時間にサエリが疑問を持つのも仕方ない。
 普通の漁に出る際にも、獲物の行動に合わせ早朝に発つ事も少なくはなく、ましてや自分達の中には組織に狙われている者もいる。白昼堂々と行動すれば、どうぞ捕まえて下さいと言っているようなものだ。
 姿を消しながら海を渡るとなると、やはり早朝に出発した方が見付かる可能性は低いと思われる。夜は、視界の利かない場所で航海する事が無謀な為だろう。
 それは分かるのだが、何故早朝ではなく真昼に指定したのか、クーザンにはさっぱりだった。
「何か手があるなら大丈夫だよ、多分。……あ、そうだ。クーザンって、同室ホルセルだよね?」
「ああ。そう言えば、ホルセルを守ってくれてありがとな、アーク」
「うーん、守られたのボクの方かもしれないけど。そっちも、みんな無事で良かったよ……彼、大丈夫そう?」
「俺が部屋を出た時にはどこかに行ってたからな……ちょっと分からない」
「そっか。じゃあ良いんだ、明日にでも会えるだろうし」
 いつもの困ったような表情で問いかけられたものの、クーザンは同じ部屋にされたとはいえ、宿に来てからホルセルと会話をしていない。アークの心配は彼の様子なのだろうが、それを判断する為の情報を自分は持っていない事を正直に伝えた。
「じゃあ、伝えたからな。俺は戻る」
「あ、ちょっと」
 くるりと体の方向を変え部屋の出入口に向かうと、サエリが体を起こして引き止めた。
「何だよ?」
「アンタまさか、このまま真っ直ぐ部屋に帰る訳じゃないわよね?」
「いや、そのつもりだけど」
「あのねぇ……。少しは女心ってもんを察しなさいよ。ユキナは私達の部屋で寝てるから、ちゃんと会ってきなさいって。起きた時に一人じゃ、不安がるわよ?」
「は?」
 なら何故お前らはここにいるんだと突っ込みたくなったが、クーザンの発言はサエリの笑っていない眼光に気圧され引っ込んでしまった。
 何を言っているのか分からないという表情で聞き返すと、隣のリレスが両手を合わせて口を挟む。
「クーザンさん、私からもお願いします」
「リレスまで。何で俺が……」
「それは、ユキナちゃんが――もが」
「良・い・か・ら、行きなさい! 行かなかったら、アンタがひとでなしって事学校で言いふらすわよ?」
 危うく何かを口にしかけたのか、アークはサエリに口を塞がれそのまま技をかけられる。クーザンには奇跡的に聞こえていなかったようだが、ギブギブ、と布団をぼふぼふさせるので、埃が舞い始めた。
「誰がひとでなしだ……」
「ユキナさんのお陰で助かったのに、お礼一つ言わない人の事ですよ」
 げんなりと言い返せば、今度はリレスの意を突く一言が返る。つまりは自分を指しているとクーザンが判断するのに、そう時間はかからなかった。
「~っ、あー分かったよ! 行けば良いんだろ行けば」
「そうそう。でなきゃ、何の為にアタシ達が抜け出したか分からなくなるわよ」
「いってらっしゃーい」
 にやつきながらクーザンを送り出す彼らに文句の一つでも吐き出したくなるが、恐らく自分では、悔しいが口で勝てない。ドアを出、仕方なく彼女らの部屋に足を向ける。
 だが、再び呼び止めるかのように、肩を叩かれた感覚があり。今度は誰だ、と叫んでやろうと振り向けば。
「ジェダイド」
「……レッドン? 何か用、」
 予想と反した人物に驚き、クーザンは言葉を止める。その隙に、レッドンは口を開いた。
「彼女を守りたいなら、決して手を離すな。何があっても」
 無表情で、だがその瞳には有無を言わせぬ威圧感を湛えた言葉。彼の台詞にただならぬ気配を感じ、クーザンが訊き返す。
「どういう意味だ?」
「……、さぁな」
 だが、相手は何も答えてはくれず、そのまま賑やかな部屋に戻っていった。

 クーザンは次に、サエリに言われた通り彼女達の部屋へと向かう。ユキナの他に誰かいるのなら、躊躇いが生じてなかなか中には入れそうにないのだが、今は幼馴染しかいないと分かっているので、試しに軽くノックしてみる。が、返事はない。
「? まだ寝てるのか……?」
 再びドアを叩くが、やはり返って来るのは沈黙のみ。何となくドアノブに手をやれば、ガチャリと低い音を立てそれは開いた。
 不用心な、と悪態を吐きながら室内を覗き込むと、ベッドは空。ベランダの窓が開けっ放しで、その向こうに人の気配を感じる。
 無意識に足音を忍ばせそちらに歩み寄ると、やはりそこに目的の人物はいた。
 昔から何かあると空を見上げる事の多かったユキナは、ベランダに椅子を持ち込み、心そこにあらずといった表情でぼーっとしている。一息吐き、ベッドの薄い毛布を手に取り彼女の許へ歩み寄った。
「ほら、風邪引くぞ」
「ひゃあ!? ……クーザンか、びっくりしたぁ」
「空が暗いのに、照明も点けないで何してるんだよ。月も見えないだろ?」
「うん、そうだけどさ……」
 椅子から腰を上げ、手渡された毛布をいそいそと肩にかけるユキナ。寒さを忘れる程夜空に夢中になっていたらしく、今頃になって僅かに震え出した。
「何か、色々あったから……空見たら、考え纏まるかなって」
「で、結果は」
「全然」
「予想通りだ」
「あ、ひどーい!」
 むぅーとむくれる彼女は、だがすぐに顔を俯かせ、ぽつりぽつりと話し始める。
「何かね、声が教えてくれたの。あたしの力を絶対成功させる呪文。それ使ったら、あの化物倒せちゃった」
「声? 何だよそれ」
「分かんない。けど、何か懐かしかった。女の人の声だったよ」
「会った事がある相手って事か?」
「ううん、聞いた事がない声だと思う。それより、クーザン達はあんな怖い相手と戦ってたんだね。あたし、怖くて逃げ出したくなっちゃった」
 あはは、と力なく笑い、ユキナは両手の毛布を握り締める。カタカタと震える手は、決して寒さだけではない。
「……どうしようもなく怖くなったら、逃げたら良い」
「え……」
「俺が、そいつ倒して絶対に迎えに来てやるよ。だから、心配するな」
「……ありがと、クーザン」
 くす、と微笑を浮かべて礼を告げるユキナ。だがまだ元気がなさそうな相手に、クーザンは話の続きを促してみる事にした。
「……で?」
「え?」
「まだ何か黙ってるだろ」
「……分かっちゃうかぁ」
「お前、どれだけの付き合いだと思ってるんだよ。無理して笑ってる事くらい分かるっつの」
「うん……」
 ユキナにとっては大きな事が、今日は色々あり過ぎた。無理もない事だとは思うのだが、それにしては嫌に引きずっているように見える。
 それは的中していたらしく、彼女は少しだけ迷いつつも、その理由を話し始めた。
「ラルウァって、元は人間、なんだよね」
「って言ってたな、あのユーサって人は」
「……昼間のラルウァ、多分……あの二人の、子供だった。男の人に、そっくりだった」
 ひゅ、と喉から音が聞こえた気がした。
 助けた夫婦には息子がいて、ラルウァが現れた当時は住宅街の自宅にいたと。捜してはいるが、恐らくは、と半ば諦めているように感じていたが、まさか。
「ラルウァを倒さなきゃって思ったの。思ったのよ。でも消える瞬間、見えたの。小さな子供が、ラルウァとダブったのが。どうしよう、あたしがあの二人の子供、殺しちゃったのかもしれない……」
 ふと、先程のレッドンの言葉を思い出した。彼は、こうなる事を見越していたのだろうか。
「……ラルウァになれば、後はヒトにも戻れず、死ぬ事も出来ない。子供が親を殺すような事にならなかったのは、不幸中の幸いだな」
「割り切れないよ! だって――」
「そうだな、そう簡単に割り切れるはずがない。割り切る必要もない」
 ラルウァという存在とはいえ、人の命だ。仕方なかったと割り切れるような人間がいたら、それこそ自分は信用出来るとは思えない。
「でも、ユキナがラルウァを倒さなければ、もっと人が死んでたんだ。そうするしか、なかったはずだ」
「……っ。……ねぇ、どうしたら良い? あたし、二人に何て謝れば良い……?」
 ぽろぽろ、ぽろぽろと抑えきれなかっただろう涙が、ユキナの両目から零れる。
 ぐずり始めた彼女の頭を撫でながら、クーザンはそうだな、と考え、言った。
「ラルウァの脅威を終わらせたら……そしたら、改めて二人に話しに行こう。俺も一緒に行くから」
 今は話す事が出来ない。彼らに危険が及ぶような真似は出来ない、それはラルウァの正体を話す事も含まれる。
 知っているのに黙っているという罪悪感に苛まれるだろう。いざ話した時には、何故早く話さなかったと非難も罵声も受けるかもしれない。それでも、全てを話す事は出来ないのだ。
 ならばせめて、ラルウァという脅威を終わらせてから話そう。ただの問題の先送りでしかないが、今のクーザンにはそうするしか、考えが思い付かなかった。

   ■   ■   ■

 自分の部屋に戻ってきたクーザンは、ノックをせずにドアノブを回し、手前に引く。誰もいない――と思っていたのだが。
「うわっ? クーザン?」
「…………悪い。ノックし忘れてた」
 いないと思っていた同室のホルセルが既に帰って来ていたのは予想外で、クーザンは彼に向け、謝罪する。着替え中だったようで、自分が入ってくるなり慌てて首だけ通していた上着を被り終わった。だが、見てしまっていた。
 取り敢えずドアを閉め、自分のベッドに腰掛け、口を開く。
「……火傷、酷いな」
「……やっぱ、見えたよな。本当の父さん母さんが死んで、オレ達がジャスティフォーカスの構成員に助けられた時の、火傷」
 背中と腹部にかけての、皮膚よりも赤い、明らかにそうと分かる焼け爛れた傷跡。湖のほとりに落ちてずぶ濡れになったリルが頑なにマフラーを拒んだのは、これを知っていたからなのだろう。更に、ホルセルがいつもそれを着用しているのを考えれば、恐らく火傷の痕は首元まで続いている。何故あんなに拒むのだろうと思ったが、彼女はあの時、兄が隠している火傷を晒そうとするのを嫌がったのだ。
「リルに倒れそうだった柱……ガキだったオレでも防げる大きさのだったけど、あと一歩助けが遅かったらと思うと、今でも怖い。そんな思いをする子供を助けられれば、と思って構成員に志願したけど。……それは、間違っていたのかな」
「……ホルセル」
 一瞬、ホルセルの双眸に影が差したように見えて、名を呼ぶ。だが彼はすぐに顔を上げ、それより、と言った。
「明日の昼出発なんだろ? さっさと寝ちまおうぜ、船は酔いやすいからな! おやすみ!」
「……あぁ、おやすみ」
 捲し立てるように喋るホルセルから、やはりその話はあまりしたくないのだと察する。それ以上は聞かれまいとしているのか、あっという間にベッドに潜ろうとする彼に挨拶を返した。
 自分も寝る支度をしようとして、そこでようやくアークがホルセルの様子を気にかけていたのを思い出した。気にはなるものの、今は触れないほうが良さそうだ。どうせ船旅の間に時間がある、そこで話を聞いても良いだろう。
 そんな事を考えていたクーザンは、最後まで、心中に浮かんだはずの妙な違和感に気が付く事はなかった。