第44話 崩壊した町

「何だよ……これ……」
「嘘……」
 セレウグは顔を引き吊らせて呟き、その隣でリレスが口元を押さえる。声に出さないが、他の者も己が見ているものを信じられないといった様子で目を見開いていた。
 彼らの前にあるもの、それは。
「これが……アブコットの町だって言うのか……!?」
 あまりに変わり果てた、ファーレンとキボートスヘヴェンを繋ぐ架け橋の町、アブコットの姿だった。

 アブコットは、先にも言った通り船の交易が盛んな場所だ。直接海に面しているのもあり、ホワイトタウンのような華やかさはないものの、いかにも港町といった風景を有している。
 一年を通して色んな海鮮物や食料が出回るこの町を、利用する旅人は多い。そして、誰しもが口を揃えて「美しい町だ」と称するのだ。
 だが、その美麗な風景は今や影を潜め、空の天気も相まってどんよりと暗い雰囲気を纏っている。何より、木製の家々で形作られた遊歩道、いやそれでさえも姿を消し、まるでルナデーア遺跡のような廃虚と化していた。
 住人達は至る所に怪我を負い、まれに腐臭が漂う事さえある。
「何があったんだ……」
「まさか、これも《月の力フォルノ》の影響とか言わないわよね……?」
「そのまさか。生き残っていた人の一人が、黒い化物を見たと言う発言を残して死んでる」
「黒い化物……」
 それはつまり、出現したラルウァによって町を潰されたという事。ラルウァは《月の力》を取り込み過ぎた人間が突然変異を起こし、理性をなくしたまま暴れまわる怪物。変化したら最後、普通の武器では死なない体で死ぬまで人を襲い続ける。
「私……っ、怪我を負った人達を治療してきます!」
「リレス! ったく、あの娘ったら!」
「…………」
 居ても立ってもいられなくなったのか、リレスが勢い良く飛び出していく。それを、呆れたサエリとレッドンが追い掛けた。
 彼らの背中に向かい、ユーサが「気を付けて」とだけ注意をし、咎める事なく見送る。気配はないらしいが、油断大敵、というものだ。
「どうする? オレらも慈善活動してくるか?」
「いや、ここでラルウァを潰したって意味がない。元を絶たなくちゃ、また誰かがラルウァになって破壊するの無限ループだよ」
「という事は、情報収集か」
 その言葉にクーザンは彼の意図を察し、周囲を見渡す。ユーサも頷き、分からなかったらしいセレウグに声をかけた。ちら、と外套を被ったホルセルを一瞥しながら。
「こんな状態じゃ、まともに話をしてくれるかは分からないけどね……」
「アブコットが町で良かったな。国だったら、ホルセル達が危なかった」
「それだけは同意するよ」
 本当は、あの森の家でもう暫く滞在するつもりだったのだが、アブコットの惨状を聞き、予定より早く動き出してしまっている。
 ホルセルとクロスの逮捕命令が出されたのは四日前、ジャスティフォーカスの面々も厳しく目を光らせているだろう。目立つような事は避けたいところだが、この状況では目立たずとも巻き込まれる可能性が高いかもしれない。
「問題は海を渡った後のホワイトタウン入りにもあるけどね。船を国じゃなくて別の海岸に着ければ大陸には行けるけど、黒い服の方が審査官をやってるゲートを突破しなきゃいけない」
「黒服……軍か。厄介だな」
「何とかなるかもしれないけどね。最終手段は強行突破」
「それは止めたい」
 最後の物騒な台詞を一蹴し、セレウグが首を振る。流石に彼もこの手段は無謀だと分かっているのか、「そうだね」と肯定が返ってきた。
「とはいえ、向こうも向こうで色々調べなきゃならない。僕は先にホワイトタウンに行くよ、ここの情報収集は頼んだから。準備が終わったらドッペルを寄越すから、それまでに船を確保しておいて」
「分かった。お前も気を付けろよ」
 アブコットからは、キボートスヘヴェンへの定期船が、毎日何十便と出航していた。だが町がこの惨状ではそんな余裕はなく、海に出ている船は一艘もないだろう。
 実際ここから見える海岸には、いつもなら漁に出ているはずの数十艘の船が停泊している。つまり、船の主が今海に出る余裕がないという事。そんな状況下でも、確実に海を渡れる手段を確保しろ、とユーサは言っているのだ。彼の言葉にセレウグは頷き、辺りを見渡す。
「船か……」
「取り敢えず、怪我してる人を治療しながら聞き込むしかないんじゃないかな」
「だな。話してくれる人がいれば良いが」
「手順は任せるよ。じゃ、僕は行くね」
 ユーサは踵を返すと、アブコットのゲートに向けて歩き始めた。恐らく、龍に変身したドッペルに乗って移動する為だ。
 彼を見送ったクーザン達は、情報収集を始める。自然災害、例えば竜巻やら地震に遭ったかのような惨状だが、幸い生き残った住人が大半のようで、肩を寄せ合って寒さを凌いでいる。
 これが、《月の力》の汚染で生まれるラルウァの力によって引き起こされた悲劇。今の大陸では、この怪物がどこで現れてもおかしくないのだ。

 リレス達には出遅れたものの、アブコットの住人を救助、治療しながら町を回る。
 助けた相手に話を聞いたが、恐怖に何も喋れなくなったり、ただ首を振って「化け物には近寄るな」と忠告をするだけであったり。やはり彼らの体だけでなく心にも大きなダメージを、ラルウァは与えている。予想通り、海に船が出ているかどうか、とても聞ける状態ではなかった。
 眉間にシワを寄せたセレウグは、とても難しそうな顔をして呟く。
「……何だか嫌な空気だな」
「空気?」
「ああ。やけに空気が暗――」
「止めてください!」
 突然の叫び声。クーザンはセレウグと目を合わせ、声の出所を求めて辺りを見回す。
 それは意外とすぐに見付かった。炊き出しが行われている広場の一角、そこに数人の黒服の男らが、男女を囲んで立っている。女性を守ろうとしたのか、傷だらけの男の体がそのダメージによりふらつき、やがて体重を支えきれず倒れる。黒服の男のうち一人が彼に近付くと、助け起こすどころか、地面に置かれた手を踏みつけた。
「っあ゛……!」
「何だよ、飯欲しいんだろ? ほらほらさっさと働けよ。奥さんの代わりによぉ」
「止めてください! お願いですから……!」
「働かざる者も喰うべからず。そんな基本的な事も分からんとはな」
「アイツら……!」
 目に余る虐待行為にホルセルの足が前に出るが、セレウグが肩を掴んで止める。黒服に見覚えがある彼は、男達が何者なのかを知っていた。
「馬鹿、あれ軍だぞ!」
「……知ってる」
「お前が行って見つかったら、それ被ってる意味がないだろ。オレが行くから、見つからないよう隠れてろ」
「…………」
 彼を後ろに退かせ、代わりにセレウグが件の人だかりへ走る。その背中を見つめながら、ホルセルがとても小さな声で呟いたのを、クーザンは聞き逃さなかった。
「……人一人助けられない奴が、偉そうにジャスティフォーカスだとか……言えねぇよな……」
 言葉の端々から彼の無念さが感じられ、クーザンは思わずそんな事ない、と反論しようとして、口をつぐんだ。
 彼にとって居場所でもある組織から追われ、目の前で助けを求めている相手すらも助ける事が出来ない。正義感の強いホルセルにとっては、苦痛以外の何物でもないだろう。
 ただ、どうにかしてやりたいと思っても、クーザンには出来る事はない。ただ黙って、事の成り行きを見守る役目だけは果たそうと、上げた視線の先を睨み付けた。

   ■   ■   ■

「あーあ、またやり直しかよ」
 窓の縁に器用に腰掛け、煙草に火を点けたヴォスがぼやく。
 側にはキセラと、年相応の不機嫌さを表情に貼り付けたサンがいた。遺跡でクーザンと対峙していたのが嘘のように、彼は不機嫌な表情で髪を掻く。
 ゼルフィルとリスカ、スウォアは不在だった。
「仕方あれへん。鍵は壊したさかいに、後は《姫》さえ殺せば世界は抗う事が出来ひんよーになる」
「《姫》ねぇ……何で逃がしたのよ」
「それを言うんなら、何で捕まえられなかったのよ。唯一大したダメージ受けてないじゃない、アンタ。ゼルフィルなんて一回殺されたから、暫く姿を見てないってのに」
「あの遺跡の広さ忘れたのかよ。だから、ちゃんと言われた通りに手配しといただろー?」
 ゴソゴソ、と懐を漁り、取り出したのは一枚の紙。それと一緒にあるものを出し、ヴォスは紙の上に載せた。
「! ヴォス、これ」
「あぁ、遺跡で拾った。妙に気になってね、サンに見せてみようかと思ってな。あの辺り、《月の力》のせいで生物はあまり寄らないんだろ?」
 それは、鳥の翼から抜け落ちた羽根だ。黒っぽく、普通よりも若干大きめの。だが彼らが疑問に思うのは、そんな事ではない。
 ルナデーア遺跡は、《月の力 フォルノ》が漂いやすい節がある。即ち、肉食の魔物がラルウァになり易い。ラルウァになれば動物は真っ先に喰われ、やがてその辺りには近寄らなくなる。元々何らかの気配を感じてか、それとも低い知能の中で学んでかは分からないが。
 つまり、《月の力》が集まり易いルナデーア遺跡に鳥の羽根が落ちている事は、先ず有り得ない事なのだ。
 サンが鳥の羽根を手に取り、まじまじと見詰める。
「……鷲の羽根に似とるけど、ちゃう。コイツから、《月の力》とは違う何かを感じる……」
「高濃度の《月の力》の中を移動出来る鳥なんているの?」
「ラルウァになり易いのは人間と魔物と動物、つってたよな? いねーだろ、そんなの」
「いや、」
 キセラとヴォスの話を遮り、サンが顔を上げ発言した。
「一匹だけおるんや。《月の力》を跳ね退ける身体を持った怪鳥が」
「何だそれ?」
「怪鳥、ねぇ」
「ともかく、ヴォス。お前に頼んだのは、滞りなさそうか?」
「あぁ、先ず大丈夫だろ。アイツら捕まえるのも時間の問題、って奴さ」
 羽根と一緒に取り出していた紙を掲げ、二人の目の前に見せる。それは、あの文書の内容をそっくりそのままコピーしたものだった。
「ま、獣の餌になってしまわないよう気を付けなさいよ」
「じゃあ、その前にキセラに慰めて貰っとこ……うぐぉっ!?」
「前言撤回、さっさとそのお花畑な頭を餌にしてきなさい」
「な……ないすぱんち……」
 気にかけてくれたのが嬉しかったのか、ヴォスがキセラの肩を自身に寄せる。しかしどさくさに紛れて彼女の腰に手をやったのが運の尽き、そのまま丁度良い高さにあったがら空きの腹に肘鉄を喰らい、彼は地面に突っ伏した。
「で、お前は戻らんでええんか?」
「あぁ、取り敢えずは部下が何とかするだろ。俺は高みの見物役さ」
「良いご身分ね」
 そんな彼に溜息を溢し、サンは問いかける。
 ぴくりともしなかったヴォスは瞬間的に立ち上がり、にやにやしながら返答した。本当に、この男の行動はいまいち掴めない。
「だってさ、ラルウァが見失ったんだろ? なら闇雲に捜したって無駄無駄、ここは専門家に任せるしかないさ」
「……その専門家が動けないから言ってるのよ。一理あるけども」
「ま、なるようにはなるさ。奴等もまさか、味方が敵になるとは思わないだろうし?」
 サングラスの縁に指を当て、軽く持ち上げる動作をすれば――その向こうの赤い瞳は、狐の目のように鋭くなった。
 呆れを浮かべたキセラは、彼のその余裕が一体何処から来るのかを問い詰めたくなったが、余計にややこしくなりそうだと察し、ひとつ溜息を吐いて黙認する。
「……精々、口先だけにならない事を祈っていてあげるわ」

   ■   ■   ■

 食料の臨時配給が行われている広場から、少し離れた路地。
 セレウグの介入により助け出された夫婦は、助けてくれた相手が《世界守ワールドガーディアン》のひとりだった事に軽く驚き、頻りに礼を口にしてきた。何か礼がしたい、と言われ、これ幸いと話を聞く為に移動したのだ。
 何でも、町の人の為に何かしたいと食料配給の手伝いを申し出たまでは良かったのだが、アブコットに配置されていたジャスティフォーカスの構成員が悪かった。良くある『自分以外の者達は下等』と思い込んでいるタイプの人間であり、この非常事態もあって気が触れてしまったらしく、自分の良いように使っていたらしい。少し休みたい、と口にしただけであの騒ぎに発展してしまったのは予想外の事だった、と男は溜息を吐く。
「災難だったな、おじさん」
「本当に助けてくれてありがとうございます、セレウグ君。酷い目に遭うところでした……」
「奥さんも、怪我がなくて何より。あれ、軍だったよな? アブコットに常駐してる奴?」
「その通りだ。人が変わってからなんだが、アブコットにいるジャスティフォーカスの構成員は、ああいう奴の方が多い……と言うより、元々軍の方は悪い噂が絶えないからね。下手をしたら、折角助かった命を落としていたかもしれないな。本当にありがとう」
「確かに……あんな事しているなんて」
「…………」
 先程の騒動を思い返し、クーザンは嫌悪感を示す。
 ジャスティフォーカスが町に拠点を置いているのは、国や町の治安維持や緊急時の対応の為だ。だがあの軍の者達は、そこから遥かに逸脱した行為を行っていた。あまりの異常事態に気が触れた可能性もあるが、クーザンはそれはないような気がしているのだった。
 取り敢えず、そうなるに至った経緯を知りたい。夫婦に向き直り、口を開く。
「何があったか、聞かせてくれませんか?」
「ああ。私はこの町の漁師なんだが」
 本日は妙に天気が優れず、漁も出ようか躊躇っていたそうだ。だが少し待ったところ何とか持ち直しかけたので、やはり漁には出るという話になり、二人が職場である港に出てきた時に、事件は起こったのだと言う。
「現れたんだ、黒い怪物が。町の中心部、住宅が固まっている辺りにね」
「中心部に……?」
「見ての通り、外交を主に行うアブコットと言えど、大した広さもない町だ。騒ぎがあればすぐに分かるんだが、唐突過ぎた」
 唐突過ぎる化け物の襲来にパニックを起こした住人は、逃げる者、ヤケになって怪物に向かっていく者、そして成す術なく殺されていく者と分かれ、場はまるで地獄のようだったと話す男は、その光景を思い出したのか両目を伏せる。
「幸い私達は怪物よりも遠くにいたから、逃げるという選択肢を選べたが……息子は未だ行方不明だ。家は中心部の住宅が密集している所にある。恐怖を押し殺して戻った時には、家はなくなっていたよ。あれでは恐らく――」
 言下せずして口をつぐんだ男が、何を続けようとしたのかは、嫌と言う程予想出来る。どんな力を持つ化け物だったのかは分からないが、普段戦いに身を投じる必要がない者達では成す術もなかっただろう。
「その時にね、見たんだよ」
「見た? 何をですか?」
「大きな鳥だ。全身が黒とも違う……灰色に似た色の、大きな鳥」
「鳥……?」
「たかが鳥だと思うだろう? だが違うんだ。突然空から舞い降りてきて、気が付いた時にはその黒い怪物を倒してしまっていた。目を凝らそうとしたら、また空に戻っていったんだが」
「鳥が怪物を? 何だそれ」
 アブコットに着いてから薄々感じていた疑問、それが『一体誰がラルウァを倒したのか?』という点。
 ラルウァは、ユーサの持つ銃のような《遺産エレンシア》でしか倒せないと聞いていた。それを持つ人物など、彼以外に知らない。何より、鳥がラルウァを倒すなど誰が予想するだろうか。
 彼らも予想外の事だったようで、分からない、と力なく肩を下ろす。
「私だって信じられないから仕方ないが、鳥が黒い怪物を倒したのは確か。ともかく、そのお陰でこの町の住人は救われたんだ」
「爪痕は、痛々しいけどね……」
 沈痛な面持ちで呟くクーザンは、町と公園で治療を受ける人々を見回した。
 アブコットの住人は、ほとんどが何らかの怪我を負っている。こんな状態では、町の復興に人員を割く事も出来ない。
「復興には、時間がかかりそうだな」
「そうだね。別でジャスティフォーカスの構成員が派遣されてきたのも、多分その為だろう」
「うーん……。――おじさん。この町の船以外に、キボートスヘヴェンに行く方法を知りませんか? オレ達、あっちに行きたいんです」
「キボートスヘヴェンにかい? 残念ながら、他だと空を飛ぶか、くらいしか思い付かないな」
「です、よね」
「あちら側に、何をしに?」
 彼の問いに、セレウグは数秒言葉に詰まった。恐らくは、どうはぐらかすのかを考えている。一般人に細かい説明をしても、先の男の台詞ではないが信じて貰えないだろう。下手をすれば、ウィンタのように敵のターゲットにもなりかねない。
「詳しくは言えないんですが、オレはザルクダ率いる《世界護》として動いています。今回のアブコットのような事が他の場所で起こらないよう、世界の異変について調査をしてます。それで、どうしてもあっちに行く必要があるんです」
「なるほど……。だが、残念ながら今の町の状況では、難しいだろうな」
「承知の上です。それでも、オレ達は行かなきゃいけないから、諦めません」
 結果、セレウグは所々をぼかし、半分本当と言えるような説明を口にした。《世界守》の名を出したのも、ジャスティフォーカスの名前を出せば混乱の火種になりかねないと判断したからだろう。
 それに納得を示した夫婦は、首を捻り考える。何か協力したいと思ってくれるのは有り難い。だからこそ、彼らを巻き込む訳にはいかないのだ。
 クーザンも何かしらフォローした方が良いだろうか、と考え、それとなく口を開こうとし――突如、周囲の空気がぐるんと動いたかと思うと、背中に悪寒を感じた。殺意ではない、かといって友好的な感情でもない。
 ばっ、と勢い良く振り向き、違和感を感じた方に視線を向ける。「クーザン?」と隣のユキナが不思議そうに名を呼ぶが、それどころではない。
 一行の上に、周囲の地面に落ちる影。それは人よりも巨大で、圧倒的だった。
「セーレ兄さん! 上!」
「――っ!」
 警戒を促すと、血相を変えたセレウグが夫婦の前に守るように立つ。クーザンも腰の剣を抜き放ち、いつでも飛び出せるように構えた。
「「「「オオォオン……」」」」
 快晴の空が何故か影を背負い、鼠色の雲が太陽を隠す。雄叫びと共に光が遮られたアブコットの町に現れたのは、紛れもなくあの“人間の武器では倒せない黒い怪物”だ。頬に流れた汗が、いやに冷たく感じる。
「っ!? 何でこんなところに!」
「分からないけど、たまたま通りかかった、とかじゃなさそうだよ」
「そんな穏やかな理由だったら良かったけどな……!」
 荒廃した街に舞い降りた、地獄を呼び起こす死神。その姿に、既に恐怖心を植え付けられていた周囲の住人はパニックを起こし、我先にと逃げ始める。
 アブコットの街の人口は、決して少なくはない。先日のラルウァの襲撃で生き延びた人々が一斉に逃げ出せば、必ず何らかの混乱が生じるのは火を見るより明らか。
 本来それを抑えるべきであるジャスティフォーカス構成員すらも戸惑い、黒い怪物から逃げ惑う。
 自分達がやるしかない、と覚悟を決め、セレウグに視線を送る。クーザンが何をしようとしているのか、あるいは彼も同じ事を考えていたのか。迷いなど見当たらない、力強い首肯が返ってきた。
「アーク! 二人と、ホルセルとリルも連れて安全な場所へ。軍に見付からないように気を付けてくれ! ユキナはアイツの攻撃範囲から離れろ!」
「途中でリレス達を見付けたら、応援を頼んで!」
「分かった!」
「う、うん!」
「待ってくれクーザン、オレも――」
 アークは素直に指示に頷いたが、ホルセルは背中の大剣を抜こうと動く。それよりも先にクーザンは彼の右手を掴み、動きを止めさせると、首を横に振って言った。
「ホルセルはアークと一緒に、二人を守ってやってくれ。軍が駆けつけて来たら危ない」
「…………。……分かった……」
 前衛は『人を守る』為の戦士。そんな相手が、敵が目の前にいるのに逃げろ、と告げられるのは、どれだけの屈辱を感じるだろうか。少なくともクーザンであれば、自分の無力さに怒りを覚えるかもしれない。それでも今は、彼をジャスティフォーカスの人間に見付けられる訳にはいかなかった。
 ホルセルは顔を俯かせ、だがすぐに踵を返し、夫婦とアークの元へと駆けた。リルが一度だけ足を止めてクーザンを一瞥し、また兄の後を追いかける。
「セーレ兄さん、どのくらい止められると思う?」
「精々、時間稼ぎくらいだろうな……。町の人達が逃げ切れる時間は稼ぐぞ」
「うん、そのつもり」
 倒せる手段を持つユーサは、先にホワイトタウンへ出発してしまっている。ラルウァ相手では丸腰も同然だが、後に退くつもりは微塵もない。
 ラルウァは黒い体から、うねうねと伸びる蔓を生やしクーザンに向けて叩き付ける。寸での所で回避し、危うい体勢で刃から衝撃波を撃つも、弾かれた。
 攻撃の反動で動きを止めた隙に、セレウグの力を載せた右ストレートが本体と思わしき体を捉える。続けて蹴り、左ストレートがラルウァの胴体を幾度も叩き込まれるが、やはりこれも大したダメージにはならないようだ。反撃に出た蔓の刺突を辛うじて回避し、距離を取る。
「くっそ、全然手応えがねぇ」
「ユキナは前に出るな、適当なタイミングで治癒魔法を頼む!」
「う、うん!」
 別れたリレス達がこの騒ぎに気が付いて駆け付けるとしても、まだ時間がかかるだろう。それまでは、この面子でどうにか耐えるしかない。
 一本一本の蔓を複雑に突き出してくる攻撃は、冷静にかわせばまだ避けられる。だが、当然これだけしか相手が攻撃してこない訳がないだろう。ラルウァの攻撃をかわし、セレウグは掌底、クーザンは斬戟をカウンター気味に放つ。先程よりは手応えは感じるものの、やはり大したダメージは入らない。鉱石のように固い体が衝撃を吸収し、刃を食い止めている。
 伏せていたクーザンは冷静に蔓を避け、剣を疾らせた。
「――ユキナっ! 避けろおぉ!!」
「え……、!」
 しかし運の悪い事に、弾いた蔓は後衛のユキナに向け真っ直ぐ伸びた。直線上にいたセレウグが間一髪、彼女と蔓の間に滑り込み弾く。
「セーレ兄!」
「大丈夫か!? 大丈夫なら後方に走れ!」
「う、うん!」
 だが、蔓は尚も進行方向を変え、更にクーザンに攻撃をしていた蔓までも二人を狙い始めた。まるでこちらが見えていないかのように、いくら攻撃を加えようがちらりとも反応しない。
 攻撃が激しくなる前にユキナを逃がすべく、セレウグはラルウァから彼女に意識を向ける。その一瞬、
「ぐぁ……!」
「セーレ兄!!」
 死角、つまり髪で隠れた左目の方向から伸びた蔓が、ざくりと彼の腹部を抉った。ユキナが悲鳴を上げ、それを目印にか再び向けられる、植物の刃。
 セレウグは血が流れる腹部を押さえ、地面に手を付く。治癒魔法を使おうとしないところを見ると、ユキナも混乱してしまっている。あれでは狙ってくれと言わんばかりだ。
 間に合うはずもないが、それでもクーザンは地面を蹴って、そちらに向かおうとした。
「――龍戟」
 静かな声の後。龍が舞うかの如く斬り付ける攻撃が蔓を破壊し、セレウグの腹部を貫いていた黒い蔓は霧散する。ばさ、と黒と白のコントラストがあしらわれた外套を翻した黒髪の少年は、槍を一回転させて正位置に持ち変えた。
「……一応、こちらの攻撃も効くのか」
「レッドン君!」
 ユキナがセレウグの上半身を支えながら相手の名を呼び、彼――レッドンがちらりとそちらを見やる。と、三人の向こう側から新たな声が聞こえてきた。
「アークから頼まれました! セレウグさん、今治療します! 動かないでください!」
「頼む……」
「全く、速過ぎるわよレッドン」
 アーク達とほとんど入れ違いで現れたところを見るに、彼女らも騒ぎが起きた場所へ向かおうと動いていたのだろう。遅れて現れた二人も、すぐに己のやるべき行動に移る。リレスは負傷したセレウグの治療、サエリは魔法のサポートに。
 そしてレッドンは、セレウグが抜けた前衛へと駆けてくる。
「ジェダイド。前に出るよ」
「助かる!」
「アンタ達、魔法は上手く避けなさいよ!」
 リレスがセレウグを治すまでの時間、いかにして戦線を維持するか。いや、維持したところでラルウァをどうにかしなければ、終わりのない戦いになるのは目に見えているけれど。
 それでも、ここで退く訳にはいかなかった。