第43話 葛藤の先にあるもの

 ギレルノは、夜が嫌いだ。
 暗さが苦手なのではなく、ただただ得たいの知れぬ恐怖を思い出す。または、『あの時』の恐怖がまだ自分を苦しめているのかもしれない、と自己嫌悪すら感じるからだろうか。
 それでも、毎日のように空を見上げてしまうのは何故か。月が答えを教えてくれる訳でもないのに、自分は無意識のうちに空を眺めながら、何処か懐かしさを覚える子守唄を口にするのだった。

 ディオル達は指令について今ひとつ腑に落ちていないようで、ジェダイド達よりも先に戻って情報収集をするそうだ。明日の早朝に出発と告げると、三人は早々に床に就いてしまった。
 自分は寝る事もせず、家の玄関に向かう階段に腰掛け、『あの時』を象徴するものである本を手に取り、ぱらりと捲る。
 月明かりの下でもはっきりと分かるのだが、ギレルノの持つ本のページには文字がない。ただただ空白のページだけがそこにはあり、それだけであればただの書物だっただろう。
 だが、これが普通の本と異なるのは、『持ち主の魔力を注ぎ込むとページに古代の文字が生まれる』その一点。
 現代でも、魔法の研究が進められて普通の本に字を生み出す事は可能だ。問題は浮かび上がる文字の方で、こちらについてはいくら調べても、古代に使われていた言語という事しか分からなかった。すんなり読めはしないが、だからと言って全く読めない訳でもない。
 子守唄だってそうだ。いつ何処で覚えたのかすら定かではなく、調べてみるとエアグルス大陸の何処かの地域に伝わっているようなものでもない。
 その、自身ですら認識出来ない不明瞭さが気持ち悪く、様々な手を尽くして調べてみたものの、今までそのような書物があるかどうかを知る者はついぞ現れなかったのだ。終いには諦めて、しかし手放す事も出来ずに、精霊召喚時の媒体として利用していたのだが。

「《遺産 エレンシア》、か……」

 まさか、ここでこの本の事を知っている人物に出会うとは。彼と交わした言葉を、ギレルノはぼんやりと思い出した。

 少し前。森の中で立っていたギレルノに話しかけてきたのは、ユーサだった。彼の視線は少しだけ自分から外れているような気がしたが、気のせいだと思い短く応えた。
 すると、その群青色の目は今度こそ真っ直ぐ自分の方に向けられ、あのさぁ、と話を切り出してきた。

「君、その本を何処で手に入れたの」

 その質問で、先程の違和感は間違っていなかったのだと悟る。
 ユーサは、自分が召喚の媒体として使っている本を見ていたのだ。だから顔に視線が向けられていないように思い、同時に嫌な予感を感じたのだ。

「! この本が、何なのか知っているのか」
「知ってるよ。でも、先ずこっちの質問に答えてくれないかな。言っとくけど、『拾った』っていうのは問題外だからね」
「……答えられない」
「何故?」
「……」

 それは、ギレルノにとって一番恐れていた問い。はぐらすような質問も跳ね退けられ、ギレルノは黙り込む。ユーサは整った顔を歪め、懐疑の目を向けてくる。今のやり取りだけで、不穏な雰囲気を感じ取ったのだろう。
 暫く無言の睨み合いが続き――先に折れたのは、意外にもあちらの方だった。

「……それは《遺産》と呼ばれる、特別な武器だよ。だから、何らかの目的を持っているか限られた人間しか、それを持っている事はないんだ。まぁ、そんなに話したくないなら、特別に訊かないであげるよ」
「…………」
「けど、人生というのは残酷でね。自分でした事が返ってくるというのはザラにある。例えば――奪還を目的とした復讐、とかね」

「訊かないでおいてやる、と言っておいて、気付いてるじゃないか……」

 掴み所のない飄々としたユーサの言動に、ギレルノは珍しく動揺していた。植え付けられた不安の種は、思っていたよりも大きい。
「(……力さえなければ、必要なかった罪……)」

「ギレルノおにーちゃーん!」
「!」

 明るい声と同時に、背中に何かがぶつかってきた感覚。振り向かなくても、誰の仕業なのかくらいは予想がつく。

「……ジングの妹か」
「リルだよー、えへへ」

 彼女――リルはギレルノの肩にのしかかり、満面の笑みを浮かべた。この際、肩が重いという文句は言わないでおく。
 階段上なので一歩間違えれば転倒してしまうと言うのに、そういう勢いのある所はある意味兄に似てしまっている、というのがギレルノが抱く彼女の印象だ。自分だけならまだしも、彼女まで落下するのは困るので、何とか踏み留まる。
 にこにこと満面の笑みを浮かべた彼女は、ひらりとワンピースの裾をはためかせ、まるで踊るような動作でギレルノから離れ、そのまま隣に腰かけた。

「ギレルノお兄ちゃんを見つけたから、来ちゃった。ふふふー」
「ジングに怒られるぞ」
「兄貴はかほごってやつなのです!」

 むぅ、と頬を膨らませて言うリルの姿に、はぁと溜息を吐く。これは、言っても戻らないだろうという諦めだった。
 しかし、兄のホルセル=ジングには嫌われている節があると言うのに、彼の妹である彼女は何故自分に平然と構うのか。不思議と言えば不思議だった。

「……お前は、嫌わないんだな」
「きらう? 何で?」
「お前の兄は俺を嫌っているだろ」
「兄貴は兄貴だもーん。リルはギレルノおにーちゃん大好きだよー?」
「……そうか」

 悪意のない、底無しの明るさを持つ声に、ギレルノは自分でも知らない内に微笑を浮かべていた。それに気が付き慌てて顔の筋肉を引き締めるが、幸いリルは他所を向いていて、見られていないようだ。
 でも、と彼女はぽつりと呟き、続ける。

「もうひとりの兄貴はきらい。こわいから」
「怖い?」
「うん。兄貴が兄貴じゃなくて、ちがう人になっちゃった気がするの。みんなも怖がって、リルや兄貴のところに来てくれないんだ。いつもなら、みんなうれしそうに来てくれるのに」

 しゅん、と俯いたリルは、自らの小さい体を抱き締める。

「兄貴もかなしそうだったし、さみしいなぁ……」
「…………」

 先の快活さを裡に潜め真剣に落ち込む彼女を、ギレルノは慰めようと無意識に右手を伸ばし、止めた。
 この右手は、以前人を殺し血に染まっている。その穢れた手に、純真無垢なリルを励ます資格などあるのだろうか。
 心の葛藤を続けていると、彼女はそれに気が付かないままがばっと顔を上げ、また満面の笑みを浮かべる。行き場の無くなった右手は、宙をさまよった後引き戻す。

「でもでもっ、リルががんばれば、みんなも元気になるよね? だから、リルがんばるって決めたんだ!」
「……そうか」
「うん!」

 元気良く頷いた瞬間、彼女はへくちっ、と可愛らしいくしゃみをした。今の時期の夜は肌寒く、昼に湖に落ちたせいもあるだろう。
 風邪を引く前に戻れ、と声をかければ、リルは「はーい」と返事をして家の中に戻ろうとし――こちらを、振り向いた。それはもう、悪戯をしかける愛らしい子供の笑顔を浮かべて。

「ギレルノお兄ちゃん、次はリルにおうたうたってね! やくそくだよ!」
「――! おい、いつから聞い……」

 思いがけない台詞を放った彼女を振り返るが、リルは既に家の中へと消えていた。出来るなら子守唄を口ずさんでいた事など忘れて欲しいが、残念ながらそれは叶わないようだ。

「……下手な俺の唄など聴いても、眠れないだけだと思うんだが……」

 子供の考える事は分からん、とギレルノは頭を振り、再び夜空に目を向けた。

   ■   ■   ■

「ワールドガーディアンが、どうなったか……?」
「うん、嫌な話だろうけど……知らなきゃいけないと思って。姉さんの事とか」

 ベッド上で上半身を起こしたクーザンの台詞は、セレウグにとってどれ程嫌なものだったのだろうか。
 ホルセルとの会話で姉が存命なのは知ったが、何やら面倒な事になっているらしい。これから先会わないという可能性も捨てきれない以上、聞いておいた方が良い。幸いユキナは疲れが溜まっていたのか、ベッドに顔をうつ伏せて眠ってしまっている。
 セレウグは躊躇うように目線を下げたが、やがて真っ直ぐに自分の目を見返してきた。

「……あんまり、聞かせたくない事だ。聞いて後悔しないか?」
「後悔は……するかもしれない。でも、何も知らないよりはマシだと思う」
「そうか」

 クーザンの決心を察したのか、彼はそれだけ言うと窓際から移動し、ベッドの隣に備え付けられた椅子に腰かける。

「まず簡潔に言う。オレ達ワールドガーディアンは、奴等に惨敗した」
「……はぁ。聞いていたとは言え、本人から聞いて漸く現実味を帯びたなぁ……」
「そりゃ、当事者が言わないと説得力に欠けるだろ」

 肩を大袈裟に竦め、セレウグは続ける。

「オレ達は、アイツらが世界を脅かす何かを企んでいる事を知った。ユーサの事もあるし、何より」
「何より?」
「奴らは、オレ達の尊敬する彼を殺した。その目的の、あくまでついでだと言って」
「ついで……? 彼、って」

 まるで虫を潰すかのような平然な言葉に、クーザンも心の中に怒りの感情が生まれるのを感じた。しかしそれを押さえ込み、問い掛ける。
 セレウグは逡巡したが、はぐらかす事もなくはっきりと答えた。

「……グローリーさん」
「!!!」
「彼は、オレ達の目の前でサンというガキに殺された……。命と体力があったオレやザルクダ皆を逃がそうとして、奴の凶刃に命を絶たれてしまった」
「父さんが……死んでる、という事だよね」
「……あぁ」

 もたらされた事実に、クーザンは無意識からか首の飾りを握り締める。
 セレウグも、幼少期は幾度となくグローリーに世話になっている。それは、孤児である彼をどれ程支えてくれたのだろう。
 悔しそうに両手を握り締め、顔を俯かせ――だが、何かを必死に堪えているのは確かだ。

「ハハッ、ざまぁないな。世界の守護者を謳っていながら、実際には自分だけじゃ何も出来ねぇ。挙句恩人を殺しちまうなんてさ……」
「……セーレ兄さん」
「そして、お前の姉ザナリアは敵の一人に拐われ、オレ達の前に立ち塞がっている。ホントはお前に『兄さん』なんて呼ばれる資格ないんだぞ、オレ。グローリーさんを殺しちまったし、本物のザナリアは……安否不明。もう、どうしたら良いか分かんねぇ……そう思ってたら、気が付けば何もかも忘れてしまっていた」

 月明かりのない、星が輝く暗い空を窓越しに見やるセレウグ。
 全て忘れてしまえば、楽になる。
さっきまで何をやっていたのか、結果どうなったのか。自分の境遇も、約束さえも。全て、何処かに置き去りにしてしまったのだ。

「……でも、セーレ兄さんは思い出した。ゼイル――いや、実はその前からだろ?」
「あぁ。ゼイルに入ったその日の夜だ。物音で目が醒めて、でもダルかったからそのまま寝ようとしたんだ。そしたら、」
「そしたら?」

 その日は、確か自分とサエリがクロスを追いかけて抜け出した日だ。極力音を立てないよう出たつもりだったが、やはり起こしてしまっていたのか。

「『心に、魂に焼き付いた記憶は消えない』」
「え?」
「ホルセルが言ったんだ。暗くて表情は分からなかったけど、今思えば……あれは、アイツのもう一つの人格だったのかもしれない」

 思いがけない人物を出され、クーザンは目を見開く。

「あいつが、そんな事を?」
「オレだって信じらんねー……ん? クーザン、知ってたのか」
「今までに二回会ったかな……」
「おっかねぇな、あれ。ま、アイツのその言葉で、何かぼんやりしてたのが全部浮かんできて……思い出した。右目も、その時にはすっかり見えるようになってたな」
「……『右目も』?」

 セレウグの記憶を封じていたのは、彼自身の悲愴な感情だったのだろう。思い出したくもない事柄――だが、生きている以上それは彼に付き纏うのだ。
 それよりも、クーザンはセレウグがわざわざ『右目』と称したのに疑問を抱いた。
 主語しかない問い掛けだったが彼は何を聞かれたのか分かっているようで、肩を竦めて答える。

「左は駄目だ。リレスの治癒でも治らなかったんだろ?」
「まぁ……うん」
「多分、呪いに似たのがかけられてる。ゼルフィルの鎌は切れ味良過ぎて痛かった。ユーサに聞けば何の呪いなのか分かるんだろうけど……」
「やっぱり、呪いなんだね」
「あぁ。ま、左はどっちにしろ隠してたし、良いんだけどな」

 その言葉を最後に、二人の間に沈黙が降りる。
 セレウグは腰を上げ、許可を取らずにクーザンの上着を手に取り、寝ているユキナの肩にかけた。そして、再び窓際に移動し夜空を見上げる。
 彼の行動に文句を言うべきかと一瞬悩んだが、クーザンは結局黙ったまま。

「……神官が、《月の姫》を殺したって言ったよな」
「え? あくまで、俺が見た夢の話だよ。夢にしては怖い位に無音で、リアルだったけど」
「分かってる。だけど、もし理由があったとしても、お前がそう捉える出来事が確かにあった……」
「分かってないよね」
「フラッシュバックと言うのがあってだな」
「知ってるよ。だから何」
「クーザン、お前強かになったな……じゃなくて」

 真面目に考えていたはずだったが、クーザンの言葉の刃に涙さえ覚えたセレウグ。あと少しで何故か土下座の格好になりかけた所で、勢い良く顔を上げ反論に転じる。落ち込んだり意気込んだりと、彼もなかなか大変だ。

「お前の言うフラッシュバックは閃光のあれだろ? オレが言ってるのは、心理現象や夢で言うフラッシュバックなんだ」

 閃光の後に一瞬暗くなる錯覚、それがフラッシュバック。だがセレウグは違う、と首を振る。

「夢?」
「心理現象的には、フラッシュバックは心的外傷を受けた場合に、後々にその出来事が突然に思い出されたり、夢に出てきたりする現象の事を指す。必ずしも、音や映像があるとは限らないんだ。つまり、」
「それが本当だとすると、俺がカイルとして生きてた時期があるとでも言いたいの?」
「…………。クーザン、その人を蔑むような目止めてくれないか。リアルに凹む」

 侮蔑が込められた視線を向けると、今度こそ落ち込んだ格好でセレウグが言う。
 だが、実際そうなのだ。フラッシュバックが起こる絶対的な条件は、本人がその出来事に遭遇している事。クーザンは、そんな出来事に遭遇した覚えはない。
 ただ、ルナデーア遺跡の広間で感じた、不思議な慕情。あれは、一体何だったのか。
 自分が寝ている間の出来事は、全て仲間達に聞いた。瀕死の状態で尚彼らに斬りかかってきたと言われても、やはりその記憶は全くなかったのだが。
 しかし、クーザンはこの『知らない記憶』が気にかかった。何となくだが――これがホルセルの人格交代時の、主人格に記憶が存在しないのと一緒のように思えるのだ。

 確かに、ラルウァという怪物にあわやなりかけた事で理性を失い、意識がなくて記憶していないと説明されても納得出来る些細な事。
 その些細な事に、何らかのヒントがあるのでは――との結論に至ったクーザンは、取り敢えず自らの考えを思考の端に追いやる事にした。そして体を横たわらせ、皆が譲ってくれた温かい毛布を被り寝る準備をする。
 今はまだ、情報が少な過ぎた。こんな状況では、真実を導く事など出来やしない。

「取り敢えず、暫くはここで待機、か」
「そうだね……」
「どうなるんだろうな、世界は」
「分からない」
「……だな」

 寝返りを打ち、窓と反対の扉を視界に入れた。暗い闇しか続かない窓など見る位なら、扉を見ていた方が安心する。
 それを見ていたセレウグは、泣きそうな顔で微笑を浮かべていた。

   ■   ■   ■

「ねぇ、レッドン」
「?」

 湖の家という寒さを凌げる屋根はあるものの、そこにクーザンを除いた十二人分の寝具があるはずはない。各々床に寝袋を広げたり、そのまま腰掛けて寝ようとしている中、アークはレッドンに小声で問いかけた。
 彼は壁に背を預け、ぼんやりと宙を見つめていたらしい。隣には疲れ切ったのかリレスが眠っていて、規則正しい寝息を立てている。彼女の肩には昼間リルに貸していたレッドンのマントがかけられ、寒さから逃げるようにくるまっていた。

「レッドンが別れ際にボクに頼んだ事、覚えてる?」
「……あぁ」
「“カイル”って、あの御伽噺のカイル以外いないって、助けてくれた人に聞いたんだ。レッドンは、誰を捜して欲しかったの?」

 御伽噺に疎いアークがその事を聞いたのは、倒れていた彼とリルを介抱してくれたイノリという女性から。
 咎を犯した人物の名前を、愛する子供の名前に付けるはずがない。そう告げられた彼は、次に疑問を抱いた。
 なら、レッドンは誰を捜して欲しかったのか、と。
 合流出来た今なら、彼と協力してその人物を捜す事が出来る。そう思っての発言だったが、レッドンは暫く無表情のまま――否、アークは彼のその表情が呆気に取られていると気が付いた――口を開いた。

「もう、見付けているだろ」
「え?」
「まさか、こんなに早く見付けているとは思わなかったが」
「……え? ちょっと待って、誰の事?」

 見に覚えのない事を誉められ、困惑を隠せないアーク。サエリ達が一緒にいた友人達にも、そんな名はいない。
 そんな彼の様子に、レッドンは苦笑を溢す。

「じきに分かる」
「なら良いや……。サエリはどうしたの?」
「サエリは、外に行ったと思う。……あいつにも、無用な心配をかけた」
「うん……一発位殴られると思ったんだけど」

 昔――サエリの家族の暖かさが苦痛で、何度も家を飛び出した事がある。いなくなった家族を差し置いて自分だけが幸せになるのを、当時の自分は良しとしなかった。
 その度に、心配した彼女(口では絶対に言わない)が何故だかアークを必ず見つけ出し、握り拳で拳骨を喰らわされたものだ。
 同い年の割に大人びている彼女だが、心配のあまり口より手が出る所は年相応なんだな、と思ってしまう。
 そんなアークの台詞に、レッドンが眉をしかめる。

「もう喰らった」
「本当?」
「ああ。大分痛みは引いたが」
「うう、ボクも覚悟しとこうっと……」

 ぶるる、と決して寒さのせいではない体の震えを感じながら、アークは言った。その親友の様子に、鋭い眼光を和らげたレッドンが、本当に僅かに微笑む。

「サエリは良い奴だ。俺は嫌われているが……あいつがいるから、リレスは大丈夫だと思っていた」
「……あれのせいで、だね」
「あの時はあの方法しかなかった。後悔していない」
「……ねぇ、その事なんだけど」

 アークは声を潜め、周囲を見渡しながら口を開く。

「あの時のリレス、もしかして《月の力》が原因だったの?」
「…………」
「やっぱりおかしいよ。ストレスであんなになる訳がないし、あの後は急に体強くなっちゃったみたいだし。何かあったとしか考えられな」
「アーク」

 早口で話し出した彼の頭に、レッドンの手がぽん、と置かれる。それは少々乱雑に、だが優しく触れられた。
 その行動に度肝を抜かれたアークは、ただただ目を見開いて相手の少年の瞳を見つめる。穏やかな眼差しだ、まるで子を見守る親のような。

「お前は心配しなくて良い」
「でも……」
「例え何があっても、俺は彼女を守る。それが、俺の存在理由」
「……はぁ。レッドンが言うと、本当にやりそうに思えるから不思議だよ」

 自らの金糸を掻き、大きな溜息を吐く。発言した本人は、自分が言った事がどんなに重要なのか分かっていないらしく、アークを見て目を白黒させるだけだった。

   ■   ■   ■

 翌日早朝、ネルゼノン達は一足先にキボートスヘヴェンへと旅立った。アブコットには寄らずサポーターの船で海を渡ると言っていたから、向こうに着くのは暫くかかるだろう。
 連絡が取れないと困るだろうから、とディオルは自分達のパーソナルノートを、ホルセルに預けていった。

 そして、それからまた二日後。

『おいお前ら! 起きろ!』

 脳に直接響く不快な声が、今日の目覚まし時計。
 明るくなった視界を見回せば、そこには抽象的なお化けが――ドッペルゲンガーが存在していた。どうやら、チェストの影から現れているようだ。
 左右には、ベッドに突っ伏したユキナとセレウグ。ドッペルゲンガーはそんな二人にも構わず、主にセレウグの頭部を何度も叩くモーションを繰り返していた。実体がない為、痛みがある起こし方は出来ないらしい。

「っ!」

 その姿に、帰らずの森のドッペルゲンガーを思い出したクーザンは、ベッド上で後退りをする。布擦れの音に気が付いた相手はそんな心情など露知らず、釣り合っていない大きさの手のひらを掲げた。

『おい、こいつら起こせ! 緊急事態なんだ!』
「き、緊急事態?」
『良いから早く!!』

 あまりの慌てようと、口調から帰らずの森で加勢してくれた方のドッペルゲンガーだと気が付き、一瞬感じた恐怖も忘れ二人を起こしにかかる。
 とは言え、ドッペルゲンガーが慌てていた事による騒音に気が付いたのか、セレウグは既に目を覚ましていて、ぼんやり「うるせぇよ、ドッペル……」と呟いていた。
 残るユキナを起こそうとして、クーザンは手を伸ばす。彼女は、ウィンタと比べると寝起きは悪い方でないので、肩を軽く揺すれば大抵は起きる。

「(――もし起きなかったら、)」

 彼女の肩に触れる直前、何故かふとそんな考えが脳裏に過った。ぴた、と手の動きも止まってしまう。
 自らの思考に疑問を感じ、首を傾げる。

「(……起きなかったら? まさか、そんなはずないだろ)」

 そう、そんな事あるはずがない。何気なく肩を揺すれば、寝ぼけ眼で顔を上げ、気の抜けた挨拶を口にする。それが日常だ。
 頭で分かっているものの、だがクーザンはその手でユキナに触れる事が出来なかった。己の杞憂に、体が無意識に恐怖を感じているのだろうか。

「ん~……むにゃ……?」

 やがて、ユキナが猫のように体を伸ばしながら体を起こした。まだ半分夢の中らしく、瞼は下がり気味だ。
 行き場をなくしていた腕は、既に引っ込めている。

「おはよぉ、クーザン……?」
「何で疑問形なんだ」
「ふあぁ……。朝?」
「見れば分かる」
『そんなのんびりいちゃいちゃしてる暇はねーぞ! 起きるのおせーんだよ!!!』
「い、いちゃいちゃはしてない!」
「わっ!? 何何!?」

 横からにゅるりと飛び出したドッペルに、ユキナは目を見開き驚く。そういえば、彼女はドッペルゲンガーという魔物を知らないんだった。
 さりげなく茶化されたクーザンも相手に向かって反論を試みるが、そんな事はどうでも良い、と一喝される。
 そして遂に、付き合いの長いセレウグが欠伸をし頭を掻きながら、ドッペルに問うた。

「大変って何だ……あれ。ユーサはどうした
?」

 一緒にいたはずのユーサの姿が見えないのに気が付き、セレウグの表情に緊張が走る。

『ユーサはホワイトタウンに……じゃない! 全員、今すぐ出立する準備をしろ!』
「何?」

 抽象的な形の指で居間を差し、あまり恐怖を感じない表情で怒るドッペルが叫んだ。それは、彼らにとって恐れていた事態だった。

『ラルウァのせいで、街が一個潰れかけてるんだ!!!』