第41話 現の夢

 夢を、見ていた。

『沢山の人間とこの雄大な大地があってこそ、初めて地上に“空”が出来るの。人が、自然と同じものを作れるのよ!』
『無論、断ってくれて構わない。決めるのは君だ』
『ごめん、お願いするね?』
『――っ、あー可笑しい! やっぱり変わってないね』
『助けたいと思うのなら、躊躇わずに斬ってあげて。それが、彼らにとって唯一の救いとなるのよ』
『くたばんじゃねーぞ。テメェ殺すのは俺だ、忘れんな』
『……会えたら、な』

 浮かんで消えて、また浮かぶ。それはまるで、シャボン玉のように風景を映し、意識を集中させる前に、割れてゆく。
 相手が誰だったか。
 会った事がある者なのか。
 そもそも、その言の葉達は自分に向けられたものなのか。
 それさえも分からぬまま、意識は更に、奈落へと。

『私は、彼女を決して斬ったりなどしません。それを、この剣に誓おうと思います』

 ――ああ、だから 絶対助けるって、

   ■   ■   ■

「という訳で」

 ここまでほぼ話の中心になっていたユーサは、片手をグーにして掲げ、開口する。
 とてつもなく面倒くさそうな予感がして、ギレルノはやはり早めにピォウドに戻るべきだったかと、数分前の自分の予感を呪った。

「その精霊を捜そう!」
「まじでか」
「でも、イオスさんのヒントじゃ絞りようがないですよね?」

 セレウグが諦めたように呟き、それをリレスが継ぐ。『風にたゆたう、深緑に住みし者』。そんな人物が、果たしているのだろうか。
 と思ったその直後、脳裏に浮かぶのは遺跡で対峙した召喚師と共にいた、緑色の精霊。そうか、まさかその人物というのは――。

「……あのー」

 頭を抱え出した場に突然、控えめな横槍が入る。おずおずと手を挙げたのは、ユキナだ。

「それ、精霊の事じゃないの? 御伽噺に、そういう不思議な生き物がいたよね?」
「海の精霊スィールの事だろ? でも、そいつは属性が違う」

 ギレルノが思った事と同じ事を口にしたユキナの言葉に、だがセレウグは腕組みをしながら、反論する。
 大陸に蔓延る脅威、魔物とは別の、精霊という存在。ユーサの召喚する獣も、もちろん自身が契約を結ぶウンディーネもまた、その精霊に属する者だ。大地を、海を、世界を構成する力をその身に宿し、人間に関する事なく暮らしている……はずなのだが。
 と、今までホルセルの服を掴んでいたリルが、空いている手でセレウグのそれを引っ張る。気が付いた彼にこてんと首を傾げ、不思議そうな表情で口を開いた。

「スィールって、だぁれ?」
「ん? あぁ、絵本ではいないんだっけか。スィールってのは、海神リヴァイアサンに生み出された精霊なんだ。海を浄……綺麗にする能力を持っているが、同時に汚くする事も出来る。人間が海を粗末に扱えば、その精霊が現れるっていう話だ」

 子供向けの御伽噺は、対象が対象なだけに描写が少ない。主役を中心とすれば、必然的に描かれる人物は限られてくる。
 この大陸の子供達は必ずといっていい程《月の姫》の御伽噺を知ってはいるが、時が経って完全に描かれた書物を読んだ者は、そうそういないだろう。そもそも、簡略化された御伽噺をより詳しく知りたいと思う者自体少ない。ギレルノ自身も、そんな存在がいたような気がする、と思う程度だ。
 精霊スィールは、そんな御伽噺の登場人物の一人。聞いた事のない話に、好奇心旺盛なリルが食い付くのも無理はない。

「へぇ~。すごいんだね、その子! 会ってみたいなぁ」
「でも、セレウグの言う通り精霊スィールは属性が違うんだ。話から分かると思うけど、深緑とは全く関係ない」
「うーん……?」

 その言葉に、イオスが顎に手を当て唸る。未知への探求という意味なら、彼もまた好奇心旺盛と言えた。ユーサも暫く黙考し、だがやはり何も思い浮かばなかったのか頭を振る。

「駄目だ、手段がない。困ったな、この先に用があるのに」
「何があるのよ?」
「ラルウァは《月の力 フォルノ》の影響によって生まれる化物。じゃあ、《月の力》は何なのか? ……それについて知っていたはずの――」

 刹那、閃光が迸る。
 一筋の光は一行の遥か背後に向かって進み、その先にあった木を瞬きをする程度の時間で灰にしてしまった。
 変わり果てた木の幹を呆然と見つめていたアークが、閃光の走った辺りを振り向く。
 いやそんな、まさか。ギレルノは内心で否定するが、今のは見間違えるはずもない。

「な、何今の!?」
「今の光線……まさか、」
「ユニコーン!?」

 がさ、がささ。茂みから何かが動く音が耳に届き、ギレルノの予想通りの音の主が現れる。
 その正体は、気高き白馬。額に一本の角が生え、雪のように美しい白い毛並みには少しの汚れもない。
 凛々しく細められた双眸には、温厚な馬からは想像もつかない憤怒が見て取れた。
 白馬が現れた茂みから、更に数匹の動物が出てくる。しかし、そのどれからも尋常でない雰囲気を感じられた。
 自身が契約するユニコーンではない事に僅かばかり安堵の息を溢すが、ならば何故この個体は、こちらに敵意を向けているのか。

「気を付けろ、様子がおかしい」
「来るよ!」

 地を蹴り、白馬は一行へ向かって真っ直ぐ突っ込む。それを合図と取ったのか、他の動物達も襲いかかってきた。

「えーと、セーレとそこの白い子、二人でユニコーンを止めて! 他の動ける子は魔法で動物を牽制するんだ!」
「ホルセル、行くぞ!」
「リルを頼む!」

 ユーサの指示に、セレウグは抱えていたクーザンを下ろし駆け出す。ホルセルも大剣に手をかけ、飛び出した。
 だが、そこに動物――兎に似た生物だ――が牙を剥く。鍛えられた足の筋肉をフルに活用し、恐るべき脚力で一行に飛び掛かる。
 白馬と対峙するホルセルとセレウグは相手の猛攻を器用に避けながら反撃していた。意外にも素早い白馬は、あらん限りの力で人間を咬み千切ろうと暴れる。

「ユニコーンが気性荒いってのは知ってたけどっ、ここまでとはなっ!」
「でもこれ、どうするんだ!? 押さえたって、何か手を打たなきゃ意味ないぜ!」
「さぁなぁ!」

 ズザザザッ、と地面を擦り跳躍の勢いを止めながら、前衛二人は言葉を交わしている。確かに、ユーサは「ユニコーンを止めて」とは言ったが、その後どうするのかは明言していない。
 いっそ自分が使役するユニコーンを召喚してみるか?と、精神を集中させ魔力を練る。直後、

 キイイイィ――――。

 耳鳴りのような、だが不思議と不快ではない音を鳴り響かせながら、本が光を放ち始めたではないか。驚いた全員が動きを止め、動物達も攻撃の手を引っ込める。

「何!?」
「ギレルノの本が光ってる!」

 白馬と逆方向の動物達と相手をしていたディオルの呟きは、エネラの指摘で応えられた。ギレルノの持っている、書物にしては些か大きい本。それが、この音の音源のようだ。
 だが、この本を手にしてから今まで、こんな状態になった事は一度としてなかった。何故だ、と考える暇もなく、召喚魔法《ライトアンドダーク》の光に酷似するそれの強さを増していく。
 流石に戸惑いを隠せず周囲に視線を寄越すと、ユーサが自分――正しくは本を凝視していた。それ、と口許が動くのを見たのが最後、視界は光に遮られる。
やがて光は本を中心に波を起こし、まるで夕日に照らされた水面のように、きらきら輝きを放ちながら周囲を覆い尽くした。
 光が消え、またさっきまでの光景が戻ってくる。
 優しい鳥の囀りが、ただ成り行きを見守っていた一同の耳に入り、意識を引き戻させた。

「何? 今の……」
「あっ、おい! 動物達が」

 ウィンタの声に対峙していた動物達に視線を向けると、あれだけ殺気立っていたのが嘘のように大人しくなり、回れ右をして森に帰っていった。

「さっきの光が、ユニコーン達に悪影響を及ぼした《月の力》を緩和させた……?」
『その通りです』

 ユーサの推測を肯定する聞き慣れない声に、再び一同の視線が中央に集まる。
 声を発したのは、長い緑黄の髪と普通の人間ではあり得ない形の耳をした女性。スレンダーな身体は、ボロボロの布で申し訳程度に隠されている。瞳は固く閉じたままなので、何色なのかは分からない。
 見た目からは何歳なのか判別出来そうにないが、少女と呼ぶには抵抗がある。
 ギレルノはその姿を見た瞬間、呆然と呟いていた。アイラ、と。
 直後に何故その言葉が自分の口をついて出たのかが分からず、ただただ困惑するしかなかった。彼女の耳にその三文字が届いたかは定かではないが、彼女は微笑みを浮かべ返してくる。
 突然現れた女性に、数名が目を見開いて後退った。

「もう何が来ても驚きそうにないわね」
「び、びっくりしたぁ……」
「何か出るなら、言っといてくれよ」
『それは失礼致しました』

 サエリが呆れたように肯定し、胸を押さえたセレウグもクーザンを抱え直した。女性は彼を一瞥すると、僅かに驚愕を見せたがすぐに元の表情に戻り、口を開く。

『先程の動物達は、先日から《月の力》に犯されおかしくなっていました。精霊達は力が必要なものの、許容範囲ギリギリの力を抱いていたものと思われます』
「成程、だからラルウァになってなかったんだね」
『はい。しかし、リツ様のお力で彼らの体内を侵す《月の力》は調整され、おかしくなる前の状態に戻されたのだと』
「……え? 待って下さい、今何て」
「いや、その前にお前何者なんだよ?」

 ユーサが納得したように相槌を打つが、何かに引っかかったらしく話を遮るリレス。しかし、それを問い質す前にホルセルが誰何した為、確認する事は出来なかった。

『申し遅れました。私は、主よりこの森を守る責務を拝命しました精霊、アイラと申します』

 綺麗な動作でお辞儀をし、彼女――アイラは自己紹介をする。先程の三文字は、違わず彼女の名前であったのだ。

「あぁ、じゃあ暗号の『風にたゆたう、深緑に住みし者』って君の事か。木々に居を構え、木と命運を共にする運命を持つ精霊、ドライアド」
『そうです。本来なら出てきてはいけないのですが、お伝えしたい事がありましたので。ト――』
「いやー良かったぁ! 暗号とかさっぱり分からなかったからさぁ、出てきてくれて助かったよ~」

 アイラの台詞を中断させる勢いでユーサが声を上げ、彼女の両手を取ると大袈裟なまでの勢いで上下に振る。呆れた表情のセレウグが制止の言葉を投げるが、それ以上注意する事はなかった。

「なら、これでその結界は破れるのか?」

 イオスの問いに、振り回された腕を解放されたアイラはこくりと頷くと、お待ちください、と言い残し宙に浮いた。
 周囲の木々が激しく騒ぎ出す。葉と葉が擦れ合う、テンポも何もあったものではない、耳障りな音楽が奏でられる。ぱきぱきぱき、折れて倒れるような音を立てながら、木の幹は有り得ない方向へ伸び曲がった。長く、長く。
 そうして何本もの木々は二本の絡み合った蔓のようになり、その先が繋がる。やがて、彼らの目の前には自然のアーチが出来上がっていた。
 魔法の発動は完了したのか、アイラが再び地上に降り立つ。

「ほへー……」
「これが、精霊の力……」
『終わりました。これで、結界の向こうへ入る事が出来ます』
「よし、行こっか」

 アークとリレスが驚愕の表情を浮かべ、同時に感心する。自分達よりも幾分迫力のある精霊の魔法は、予想していたよりも素晴らしいものだ。
 何の飾りもない、味気ないアーチを潜り抜けた先には、一軒のログハウスがあった。
 平屋の、一見何の変てつもない家。だがギレルノはそれを見た瞬間、ここに来るまでに感じていたものよりも強く懐古の念を抱いていた。来た事はおろか、見た事もないはずなのに。

「(さっきから何なんだ、この感覚は……俺は、ここを見た事があるのか……?)」

 森に来た時から感じていた懐かしさ。
 名乗られる前からアイラの名前を知っていた事。
 そして、この家を見た瞬間のこの安堵した気持ち。そのどれもが自分の中で感じているという事実がどうにも認められず、ギレルノは頭を悩ませている。
 くいくい、とコートの裾が引っ張られている事に気が付き、ゆっくりと視線を家からそちらに移す。そこには予想通り、レッドンのマントに包まれたリルが立っていた。

「ギレルノお兄ちゃん、どうしたの?」
「……いや、何でもない。大丈夫だ」
「ならいいよー。それにしても大きいお家だね、リルあそこにすわるの大好き!」

 びしっ、と彼女が指差したのは、玄関に続く階段。瞳をきらきら輝かせながら言うリルに、そうか、と返事を返す。
 とりあえず、考えたところで何故なのかの答えは出るまい。ならば自分が今すべき事は、彼らの後に続いて家に入る事だけか、と、ギレルノは思考を切り替えた。

   ■   ■   ■

 他人の家に勝手に入るのは不法侵入に値するが、ユーサとアイラが何食わぬ顔で入っていくので、気にするところではないのだろうかと誰もが思っていた。
 家の中は茶系の家具を基調とした暖かな雰囲気で、少し前まで人が住んでいたのか、埃一つ見当たらない。四人分の椅子とテーブル、そして本棚。様々な本が並んでいて、そのどれも題名を読む事は出来なかった。驚くべき事に、そのどれもが古代の言葉で書かれていたからだ。
 二枚のドアを隔てた先は、アイラ曰く寝室になっているそうだ。未だ目覚めぬクーザンはそのうちの片方に寝かせられ、彼女が付いてくれている。
 そして他の皆は少し休憩を取った後、ユーサによってリビングに集められていた。

「……さて」

 ユーサは一同の方に振り向き、口を開く。

「君達は、今までは訳も知らないままこの戦いに身を投じてきたはずだ。当然、真実を知りたいと思っているでしょ。――先に言っとくね。これから話す事は、全て本当。突拍子もない事ばかりだから誤解されると面倒だし、聞いたら後戻りも出来ない。聞く気がある人だけ聞いて」

 誰かの喉が、ごくり、と鳴った。そんな前提があって話される真実とは、どれ程重たいのだろうか。ただならぬ雰囲気に全員が逡巡し、息を呑む。
 だが彼女だけは一歩前に踏み出し、綺麗な声を響かせた。

「教えて!」
「ユキナさん?」
「あたしは……あたしがあいつらに付いていけば、みんなには迷惑かけないって思ってた。けどそれは間違いで、そのせいでクーザンだって死にかけて、ウィンタは捕まって。……もう、何も出来ないままは嫌! あたしに何か出来る事があるなら、教えて!」

 その切実な叫びは、ユキナの本心。
 良かれと思って行動した結果、よりによって一番守りたかった相手を傷付ける――残酷過ぎる皮肉を経験しても尚、いや経験したからこそ強くなったその想い。
 真っ直ぐに向けられるその桃色の瞳には、悲観や後悔の色はない。あるのはただ、決意のみ。

「まぁ、アタシらは関係ないかも知れないけど。でも何にしても、協力者は多い方が良いでしょう?」

 本来なら何の関係もないサエリは、危険を承知で協力すると言った。
 そしてちら、とディオル達を見やる。彼らも彼女と同じなのか、その言葉に大きく頷いた。

「ボクは……スウォアにもう一度会いたい。会って、話をしたいんだ。その為には、敵を知らなきゃいけないから……」
「俺も聞きたい。何故俺の中にリヴァイアサンが宿っているのか」

 アークはおずおずと手を上げ、自分の意思を示した。スウォアとの繋がりがそこにあるのなら、と。
 遺跡で不可解な出来事にばかり遭遇したギレルノも、本を抱え呟く。ホルセル――いや、彼であり彼でない者に言われたその意味を知る為に。

「……その、オレは……今までジャスティフォーカスの一員としてしか、この戦いを認識してなかった。けど、オレだって何も出来なかったり、一般人に助けられたりして……何だオレ、弱いじゃんって思った」

 そう言ったのはホルセル。地面に視線を落とし、手のひらを見つめる。今までたくさんの人間を傷付けてきたが、それでも敵わぬ敵。
 自分はまだ、この舞台の役者としては不十分。それを、今回の戦いで痛い程理解した。

「だから……これからは、ジャスティフォーカスとしてじゃなく、オレ個人として戦いに臨みたい。そうすれば、クロスに追い付ける気がするんだ」

 開いた手をぐっ、と握り込み、ホルセルは顔を上げた。彼のもうひとつの人格について知っている、セレウグとギレルノが複雑な表情を浮かべているのには、気が付かない。

「……オーケー、全員だね。僕はイオスさんの元でこの一連の事件、及びある伝承について調べていたんだ。それを、これから説明するよ」
「伝承?」
「薄々感じてるでしょう? この事件には、伝承が関わってるって。――先ず、ここが何処なのか」

 つかつかつか、と本棚に近寄ると、その中の一冊を手に取り、テーブルの上に広げる。
 その本は地図のようで、見開きのページにはエアグルスの大陸が大きく載っていた。ただ、学校で見るような地図とは幾つか地形が異なっている。
 一番の違いは、ファーレンとキボートスへヴェンが繋がっている、という事だろう。

「これもエアグルス大陸の地図。ただし昔の――およそ八百年前の地形のだから、分かりにくいけど……ここが、今いる湖」

 地図で見て、中央から北西にある色が変わった場所を指でトントン、と叩く。こんな昔の地図に載っているという事は、プルガシオン湖は相当昔から存在していたという事になる。

「この湖には不思議な力が宿っていると言われ、昔から動物や生き物達が好んで集まる場所だ。ここに、一人の女性が住んでいた。それが、リツレント――リツ、と呼ばれている彼女だ」
「《奏者》、楽団の存在が生み出される切っ掛けとなった、天使族の女性ですね。その方の、お家……?」

 リレスは家を見渡し、首を傾げた。見た所、この家には空き家にあるはずのない“生活感”がある。
 埃はそれ程溜まってはいないし、そもそも約八百年放置されていたにしては、家屋は全く傷んでいない。最近まで人が住んでいたと言われた方が納得出来る程だ。ここに、楽団の元となった女性が住んでいたとは、俄に信じ難い。

「原因は、来る時に周囲を囲んでいたあの結界だ。この家を隠すと同時に、どんな事があっても破壊される事のないよう外界から守っていた。恐らくは、アイラが」
「何の為に?」
「この家――いや、この家にある何かを守る為、か?」
「そう考えて良いね」

 そう言えば、先程ユーサはこの家の住人が《月の力》について研究をしていた、とも言っていた。ならば、外界から切り離してでも守らなければならないものとは。

『勿論それもありますが、目的はそれだけではありません』
「え?」
「アイラ。クーザン君はどう?」

 横槍を入れたのは、会話に上がっていた本人。居間へのドアを開け、相変わらず瞼を閉じたまま口を開く。

『やはり、高濃度の《月の力》を吸収していたせいで何らかの影響が出ているのだと思います。でも、いつ目覚めてもおかしくはありませんよ。……それと、リツ様がこの家を外界から切り離す魔法を使われたのは、これを奪われる事を恐れたからです』

 手短にクーザンの容態を述べ、次に差し出された手に握られていたのは、ペンダントに似た首飾りだった。三日月の形をした銀に、まるで満月のように埋め込まれた宝石のトップの。

「あっ……! これ、まさか!」

 ユキナが胸元に手をやり、服の中に隠していたペンダントを取り出す。
 トルシアーナの露店で、クーザンに買って貰ったペンダント。それは細かい装飾は間違っているものの、アイラの手中にある首飾りと、そっくりだった。

「やっぱりおんなじだ! これ、もしかしてディアナの……」
『はい、ディアナ様のアミュレットです。お守りのようなもので、何時でも首にかけておられました』
「それが何故、《奏者》リツの家に……?」

 常に身に付けていたのなら、《月の姫 ディアナ》が最期にいたとされる遺跡にあるのが普通だろう。或いは骨を拾った彼女が、たまたまこのアミュレットを発見し、持ち帰ったのか。
 だがアイラは首を左右に振り、首を傾げる。

『そればかりは、私にも。ただ、リツ様はこれを守らなければ同じ事の繰り返しになってしまう、と嘆いておられました』
「……同じ事の、繰り返しだって? リツは、ディ……《月の姫》が死んだ理由を知っていたのかい?」
『いいえ、ご存知ないようでした』
「そっか……」

 残念そうに呟くユーサとユキナ。二人は顔を上げ、不思議そうに互いの表情を見つめ合う。
 そして、そこに再び声を掛けられる。

「……殺したんだ」

 実際には一日しか経っていないのに、もう何年も聞いていないような錯覚に陥りそうなその声は、だがかつてない程に沈んだ低い音域のものだった。
 それでも、聞き間違うはずがない。ユキナはアイラの向こうにあるドアを反射的に見る。
 果たしてそこには、

「……おはよ」

 翡翠の輝きを取り戻した少年が、気の抜けた挨拶を口にする姿があった。