第40話 全ての始まり

「君達は……月を見たかい?」

何でもないような口調の割に、力強い何かが宿っているその言葉。
イオスの言わんとしている事が分かったのか、周囲の空気が沈む。

「……消えました。あっさり消えちゃいました」

ユキナ達は、今まで『そこにあるもの』だと微塵も疑わなかったものが、突如として世界から消える様を目撃していた。
双子のように浮かんでいた月が消える。それに、果たして何の意味があるのだろうか。得体のしれない恐怖を胸中に留め、彼女がイオスの問いに答えるのを聞いた。

「何だったのよ、あれ。光の柱が立ったと思ったら、それと一緒に月が消えるなんて」
「俺達の方も見えた。俺は、何らかの力がその柱に向かっていった感覚を感じたが……」
「エネルギーの転換、だよ」

ギレルノの台詞に、ユーサが短く返す。

「治癒エネルギーに変換させた《月の力 フォルノ》が一ヶ所に集まれば、それを求めて力が密集してくる。現代で疎遠となった力は量自体が充分じゃないから、大地が不足した力を吸収――」
「ま、待って下さい! そもそも《月の力》って、一体何なんですか!?」

つらつらと紡がれる話を遮り、リレスが発問する。聞き慣れない言葉に、彼女以外の者も頭に疑問符を浮かべているようだ。
ユーサはそれを察し、仕方ないなぁ、とひとりごちる。

「《月の力》は、この世に存在する魔力の上位互換の物質。正確には物質じゃないけど。月を構成していたもので、大昔に発生した神の戦いの原因となった、禍を呼ぶ力」
「禍……」
「御伽噺では、ディアナが封印したってなってる。それが、何で今になってまたこの世界に降り注いでいるのかは知らないけれど。話を戻すと、集まった力を求めた大地の力が彼に溜まった力を引き寄せ、治癒効果を増加させた。でも、それだけでは到底足りないから、力の塊として封印されていた月を吸収した……そんな所か」

腰掛けていた瓦礫から立ち上がり、ユーサがイオスを見る。
彼は右手を顎に当て、ぽつりと呟いた。

「……つまり、封印が解かれた……と、」
「十中八九そうだろうね。欠片を集め、月が全貌を晒す満月の今日、鍵を壊す事でそれを実行したんだ。少しでも多く、《月の力》を増加させようと」
「鍵? 何よそれ」
「遺跡に、鍵なんてなかったよね?」
「勿論、鍵と言ってもそのままの意味じゃない。鍵は、多分……」

一瞬視線を宙に移し、大きく溜息を吐く。そして再び顔を上げ、ユキナを始めとしたゼルフィル達に捕まっていた少年達を見やる。

「君達はその鍵の可能性があって“欠片”だったから、拐われただけに過ぎないんだと思う。けど、これから先狙われないという保証はない。戦いは、終わってなんかない」
「終わってない、って……」

ユーサの言葉に思わず反応を示す。おや、と彼に視線を向けられ、恐らくはその続きを促されているのだと分かったが、ユキナは後の言葉が出てこなかった。
続きがないと判断したらしく、彼はふぅと一息吐き、右手人差し指を天に向けた。

「まず、このままだと何かヤバいってのは分かるよね?」
「“禍在りし時、姫は嘆きのあまり自身を喪失す”」

今度の問いに答えたのはレッドンで、彼はひとつ頷くと言った。
それは他の誰もが聞き覚えがないようで、セレウグが興味津々に何だそれ、と問いかける。
レッドンが何故か僅かばかり眉を寄せ、言いにくそうに答えた。

「ブラトナサの言い伝え。幼い頃に、聞いた覚えがある」
「それ、今の月と何の関係があるんだ?」
「あるんだ、これが。私達は、それをこう解釈している」

異を唱えたホルセルや他のメンバーに、イオスがウィンタの前で語った見解を話す。
たまにユーサが付け加え、しかしやはり実感が湧かないのか、ほとんどの者がぽかんとした表情を浮かべたままだ。

それはそうだろう。
突然「世界に危機が迫っている」と言われて、はいそうですかと簡単に信じられる訳がない。
だが、皆が事態を呑み込むのを待ってくれる程、敵は甘くないのだ。信じ難くても、戦わなくてはならない。

ようやく話が一段落した所で、サエリが息を吐く。半信半疑といった表情で、今までの話を要約した疑問を口にした。

「つまり……これから、何らかの災いが起きる可能性が高いという事かしら?」
「そうだ。間違いなく、早ければこの瞬間に起きるかもしれない。そして、それを止められるのは君達しかいない」
「どうして?」
「それを、今から確かめに行くんだよ」
「???」

瓦礫に体を預けていたユーサは重心を元に戻し、軽く叩いた。
それとは逆の手を、隣に突っ立っていたセレウグの肩に置きにっこり微笑む。

「着いてきて。一日足らずで着くだろうから、クーザン君位なら余裕でしょ。ね、セーレ?」
「……はい?」

セレウグの気の抜けた声を合図に、全員頭の中の整理もままならないまま移動の準備を始める。どのみち、何か行動を起こさなければどうしようもないのだと、誰しもが分かっているのだろう。

「ウィンタ、大変だったね。ごめんね、迷惑かけちゃって」

そんな中、ずっと話に加わらずぼんやり立っていたウィンタに、ユキナは話しかけた。切羽詰まっていない状態で話すのは、魔導学校が終わったあの日以来、久し振りだった。
彼は笑顔を浮かべ、別れる前とそう変わらない調子で――。

「……そうだな。元はと言えば、お前が勝手にいなくなったからだな」
「う……痛いなぁ。………クーザンも起きないし、どうすれば良いんだろう」
「さぁな」
「……ウィンタ、どうかした?」

――と最初は思ったが、何気ない受け答えの中に違和感を感じ、首を傾げたユキナが問いかける。
だが、ウィンタは「何でもないよ」と笑って言うだけだった。そこに無理をしている様子もなく、やはりいつも通りだと思える様子なのだが、感じた違和感が消える事はなかった。

   ■   ■   ■

遺跡を後にした一行がユーサの案内で何処かに向かう、その頃。

「だから、何故だと訊いている!」

ダン、と円卓に拳を力の限り叩き付け、ハヤトが叫んだ。

彼は、現在ピォウドにあるジャスティフォーカス本部の会議室にいる。昼でも薄暗い部屋に存在するのは、彼自身を除けば総帥と各課の長。
中央の安楽椅子にゆったりと座る頭のサイドには、軍の制服に身を包んだ厳つい男が控えていた。

総帥――そう呼ばれた人物が、朱塗りのキセルの底を机に軽く触れさせ、乾いた音を響かせる。

「貴様こそ、何回理由を話せば良い。ジャスティフォーカスを脅かす裏切り者、そいつらを捕まえれば良いのだ」
「裏切り者ぉ? どの面ぁ下げて言ってんだ! 証拠もないのに簡単にはいそうですか、って言うと思ってんのか!?」
「愚かな。事が起こってからでは遅いのじゃよ、残念ながらな。貴様が出来ないと言うのなら、軍に任せるだけじゃ」
「そ~そ、分かってんじゃん総帥。そんな出来損ない、さっさと切り捨てれば良いじゃねぇの」

ハヤトが拳をより強く握り締めた瞬間、入口から会議室の雰囲気に相応しくない口調の台詞が飛んできた。

振り返ればそこには、黒縁眼鏡を掛けた茶髪の男。長い前髪を整髪料で後ろに撫で付けた様は、まるで獣が威嚇で毛を逆立てているかのよう。
身に纏う黒衣は軍の象徴である、捜査課と色だけが異なった制服。それを第一ボタンだけならまだしも、豪快に全て取ったまま会議室に入る彼からは、厳粛も何もあったものではない。
細いフレームに填まったレンズが、会議室の僅かな照明を受け不気味に光る。
自身も品行方正とは程遠い人種だという自覚はあるが、その上を行く不真面目さの固まりである相手に向かい、ハヤトは鋭い視線を向けた。

「貴様は黙ってろ、クラティアス!」
「やだね。悪ぃが、我ら軍に於いて“敵”と見なしたもんは絶対的にとっ捕まえる必要がある。大体、あんな仕事もしてないような奴らを野放しとは何事だよ? ドネイト捜査長」
「何だと!?」
「止めるんじゃ、みっともない。狐につままれるとは、貴様も落ちぶれたものだな」

激情に身を任せ、胸ぐらを掴んだまま男を殴り飛ばそうとしたハヤトを制したのは、感情の籠っていない総帥の言葉。

それで今自分がどこにいるのか、今男を殴ればどうなるか気が付き、小さく舌打ちをして離れた。
同時に、総帥の両サイドで待機している男達の手も、腰の武器から退けられる。

「では、任せる。一刻も早く、我がジャスティフォーカスを裏切り壊滅へ追い込もうと企む輩を、我の前に連れて来い」
「イエス、マスター。ま、どうせオレの部隊がちゃちゃっと捕まえて来るだろうけど? たかが餓鬼二匹、ちゃっちゃと捕まえてご覧に入れますよ」
「…………」

大袈裟に胸部に手を当て忠誠の意を示す男――マーモン=クラティアスとは逆に、ハヤトはただ黙って総帥を睨み付けた。暗闇の向こうにあるはずのその顔は、やはりぼんやりとしていてはっきり認識する事が不可能だ。

やがて、彼も口を開き――。

   ■   ■   ■

ユーサに連れられて一行がやって来たのは、この近辺では一番広い面積があるという湖、プルガシオン湖。
生えている草花は人の手が入っていない割には綺麗に整えられており、歩行の阻害をされる事もない。
アークやギレルノ達が先日休憩していた場所と異なるが、似たような景色が広がるそれの何処に、目的地があると言うのか。

「アンタ、ギレルノとか言ったわね。クロスの奴、何でいなくなったのかしら」

サエリはギレルノの耳をひっ捕まえ、悶々と我慢していた質問を口にする。
散開していた間の話は既に情報交換をしていたが、どうしても腑に落ちないのは消えた仲間の行方。
周囲が光に包まれ、やがて視力が回復した時には、何処にもクロスの姿がなかったのだと言う。
藪から棒に話を振られたギレルノは、あからさまに眉をしかめた。

「何故あいつに訊かない」
「訊けると思ってるの? さっきリルに名前出されただけで動揺してたアイツに。アタシ、流石にそこまで薄情じゃないの」
「悪魔が聞いて呆れる」
「悪いわね。種族云々じゃなくて、アタシ自身そんな性格だから」
「……普通に考えるなら、奴等に連れて行かれたか」
「そうね、それが妥当ね」
「妥当って……そもそも、クロス程の実力を持つ人が、そんな簡単に捕まっちゃうかなぁ」

ディオルは首を捻り、逆にギレルノの言葉に反論した。話の主が大人しく敵の懐に落ちるイメージが、全く浮かんで来ないのだ。
サエリもそれを受け、肩を竦めて返す。

「だから妥当。アタシだって、アイツがあっさり捕まるとは思っていないわ。けど、一番可能性が高いでしょう?」
「成程」
「とすると、厄介ねぇ。レッドンみたいに、アイツがアタシらに襲いかかってくるとなると……」
「……勝てる気がしねぇ」

サエリの言葉通りになった状況を想像したのか、ネルゼノンとディオルが同時に項垂れた。発言した彼女自身も、眉を寄せ口元を引き吊らせている。

アークは話題の人物とは全く関わりがない為どんな人物なのかはさっぱり分からないのだが、サエリがこうした反応をするのは珍しい、と思った。自分と違い、どんな人が相手でも臆せず向き合う彼女だけに。

と、そんな事を考えていると、ギレルノがふいと視線を後方に投げるのが分かった。
何かあったのかな?と自分もつられて後ろを見やると、リルがずぶ濡れになり、周りにいたみんなに心配されているところだった。

「…………」
「って、何してんのあっちは。アンタ達、置いてくわよー」

呆れたように、サエリが彼らに声をかけると同時。アークはギレルノが顔の向きを進行方向に戻すのを、見ていた。
ぼんやりしていたようにも見えるが、その瞳は明らかに懐古に似た感情を映し、まるで我が子を見守る親のようだった。多分、リルちゃんや他のみんなに、カイリさんとトワちゃんを重ねていたのだろう。
そう言えば、何故彼は家に帰ろうとしないのだろうかと気になった。気になっただけで、自分からそれを聞こうとは思わないのだが。

   ■   ■   ■

「あはは、やっぱりお水がきれーい!」
「……リル、あんまりはしゃぐと」

リルが、湖の水の透明さに喜びの声を上げる。隣にいるホルセルは、妹のあまりのテンションの高さに注意を投げ掛けたが、その瞬間。

「……ひゃっ!?」
「リル!?」

ばしゃん!!
滑りやすいサンダルのせいか、はたまた朝方に霜が降って滑りやすくなっていたのか、彼女は盛大に足を滑らせ、水飛沫を立てながら湖へダイブした。
手を伸ばしたが間に合わなかったホルセルの腕が、彼女の腕を掴み引き上げる。

「リルちゃん!?」
「言わんこっちゃない……」
「えへ、すべっちゃったぁ。海じゃないのにしょっぱい」
「は、早く陸地へ!」

幸い、座り込む彼女の腰辺りに水面が来る浅い所だったから良かったものの、今の時期の水温は人間にとってキツい。――はずなのだが、リルは慌てて引き上げようとするエネラにも動じる事なく、舌をぺろっと出して笑った。
びしょ濡れになったリルだが、ここは国内ではなく森林の中の湖。当然、着替えもない。

「り、リルちゃんタオル!」
「気休めですけど、拭いておかないと風邪引いちゃいます!」
「平気だよ~。でもありがと、お姉ちゃん達」
「駄目だ。リル、せめてマフラー貸してやるから。そんなカッコで濡れてたら……」

自身が差し出すタオルで軽く水気を拭き取る彼女に、ホルセルが首元に手をやる。左肩の位置で結んでいるマフラーを、外そうとしたのだ。
それに気が付いたリルは、はっとしたように叫ぶ。

「ダメ!」
「え?」
「マフラーいらない! 兄貴はつけとく! 寒くない!」
「はぁ? お前な……」
「いーらーなーいーのー! 外しちゃダメー!」
「…………分かったよ」

まるで子犬のように首を振り、ホルセルの腕を阻害するかのように掴んで拒むリルの姿に、彼は降参の意を示す。
彼女はそれに満足そうに頷くも、直後可愛らしいくしゃみをした。やはり、体温は低下しているようだ。
エネラと困った表情を見合わせたところで、バサ、と衣擦れの音が耳に届く。
振り返るとその主はレッドンで、布は彼が何時も羽織っているマント。彼自身は、黒のジャケットに同色のズボンのみだ。

「それで、良いなら」
「良いんですか?」
「俺は平気」
「わーい、お兄ちゃんありがと!」
「悪いわね。わたしの服ならあるにはあるんだけど、流石にサイズ違い過ぎるし、助かるわ」

リレスがそれを受け取り、手早くリルの体に巻き付ける。そのままだとずり落ちるので、エネラの髪止めをピン代わりに留めた。動き辛くはあるだろうが、何もないよりは良い。

ふとリレスは、ホルセルが何かを言いたそうにじっと視線を向けている事に気が付く。
そうだ、彼からしたらまだ洗脳されたままの行動ではないのか、という疑いが拭えていないのかもしれない。普段は人懐こい大型犬のような人なのに、一旦敵と見なすと異常なまでの敵意を向ける彼の事だから。
今のレッドンであれば大丈夫だと自分が保障して、信頼して貰わねばという使命感に背中を押され、口を開く。

「ホルセルさん、あの――」
「何だ」
「……マント、ありがとう。体調はどうなんだ」

だが自分が言うより先にレッドンが声をかけると、ホルセルから出たのは意外な言葉。
少し、驚いた。まだ少し警戒の色は見えるが、少なくとも敵意を向けている相手にかける言葉ではない。
レッドンも意外だったのだろう、少し目を丸くし、ああ、と答える。

「心配される程じゃない。大丈夫だ」
「……なら良いけど」

これは、一応大丈夫なのではなかろうか。
リレスが自分の心配が杞憂だった事に安堵していると、前方にいるサエリの声が聞こえてきた。

「――ストップ」

慌てて彼らに追い付いたところで、落ち着いたユーサの声が耳に届く。

プルガシオンの湖と川が、混じり合う合流地点に近い地点。ざぁざぁと岩に打ち付ける水の音が、静かな森に吸い込まれてゆく。
豊富で汚染されていない水で育った木々は、まるで侵入者を拒むように鬱蒼と生い茂る。
動物も生息しているようで、姿を消してはいるがちらほら気配を感じる。

だが、それだけだ。

「……? ここ……?」
「何もないですよ、ね?」

アークとリレスが、不思議そうに首を捻る。ここで、一体何が分かるのか、と。
それは二人だけでなく、その場にいる全員の疑問だった。

「着いたとは言ってない。道は、あるんだよ」

にこりと……いや、にやりと笑った彼は、固く育った木々の一本、一番太い幹を持ついかにも老齢の樹木に歩み寄り、触れた。

――瞬間。

木の幹から淡い閃光が瞬いたと思うと、そこに何かが浮かび上がる。規則的に並んだ列――文字、だろうか。
しかし、驚愕の声を上げたリレスには読めないものだ。ちらほら見覚えのある文字を確認出来るものの、それを文章として読むには不可解過ぎる。

「な、何だ何だ?」
「成程、暗号ですね? 実体のあるもので残して、侵入者に気付かれてしまうのを危惧した結果、編み出された魔法のようなもの」
「正解」
「でも、読めません……」

困ったように首を傾げ、光の文字の羅列に目を凝らす。何かヒントのようなものがないかと思ったが故の行動だが、残念ながらそれを見付けることは出来なかった。
だがイオスは、普段よりも生き生きとした様子でそれを眺めている。「魔法のようなもの」と称した台詞が示す通り、彼の興味対象としては十分だったらしい。

「見た所、今の言語の古い型ですね。それも、現在では読めるものすらおらず、我々が必死に解明しようとしている言語……」
「あぁ、碑に刻まれてるやつと一緒の?」
「恐らくは」
「え?」

ぽん、と手を叩いて開口したサエリの台詞に嬉々としてイオスが返し、リレスはぽかんとなる。
それが聞こえていたのか、サエリは「何よ?」と問い掛けてきた。慌てて何もない、と手を横に振り、意気揚々と解読を始めたイオスの背を見つめる。

――「『追憶の碑』……『幸せなんて、掴める筈ない』、か」
――「よく読めましたね。私なんか、気絶してたから見る事も出来ませんでした。」
――「仕方ない。……何だ?」
――「! あ、い、いや何でも……」

「……クロスさん……?」

迷い込んだ洞窟で見付けた碑。
リレスの、ブラトナサに碑はなかったのかという問い。それに真っ先に、しかも細かく答えてくれたのは――。
何故、クーザンがあの時クロスを不思議そうに見ていたのかが、ようやく分かった。その理由は、多分彼自身も気が付いていない。

「(最初のゼイルの碑では、クロスさんは何も言ってなかった。けれど、あの時は碑の文字を教えてくれた。古代の言語で書かれ、現代の人達では解読すら難航しているという、文字の意味を……)」
「ふぅ、曖昧にですが分かりましたよ。これは奥に進む方法が書いてありますね」

考え事に耽っていた彼女を我に返らせたのは、イオスの声。
リレスははっとしたように顔を上げ、首を振る。
付き合いは短いが、自分達よりもずっと物知りである彼の事だ。何処かで解読された言葉の意味を知っていて、それを話したに過ぎないのだろう。
そう自己解決をし、すべき事に目を向ける。

「奥に進む方法?」
「えぇ、森の奥に、です」
「おい、一体何処に行こうとしてんだよ? オレ達は早く本部に戻らないと……」

それまでのやり取りに遂に限界が来たのか、ネルゼノンが挙手をし発問する。しかし、それは恐らく彼だけの疑問ではない。
事態が急変した今、大陸の秩序を統率する組織の構成員には、悠長に探索をしている暇などないと思われた。一刻も早く本部に戻り、報告やら今後の対応やらを考える必要がある。目に見えぬ異変ならまだしも、月はあからさまに消失してしまっているのだ。

それらを踏まえての発言だが、ユーサは彼を見やりぶっきらぼうに答えた。

「別に、君達は来る必要ないから帰れば良いよ。来たい人だけ来れば良い」
「はぁ? んだよおま――ごふっ」
「『君達は』って事は、ホルセルやそこの彼女達は行く必要があるって事ですか?」
「来なくても僕一人で行くだけだから、関係ないよ」

ユーサの言い方が気に食わなかったのかネルゼノンが凄みかけ、それをディオルの台詞が遮った。平然と発問する彼が同時にスピードのある正拳突きを繰り出し、ネルゼノンの腹に命中させたのには、慣れているエネラ以外の皆が見て見ぬ振りをしている。

「ディオル達は先に帰れば良い。後で追い付く」
「オレは元からお前らとは別行動だしな……。報告任せた」
「ホルセルはともかく、ギレルノも行くの?」

議論を遠巻きに見ていたギレルノが同行の意を示し、ホルセルは片手を上げる。
その行動に驚いたディオルは、率直に出た疑問を口にした。問われた本人は頷き、森の奥を見据える。

「何故かは知らないが、風が……懐かしい気がする。それを確かめたい」

風?とディオルが辺りを見回すが、彼には木々を揺らす何時もの風と変わりのないように感じられる。だが、彼にとっては違うのだろう。
正拳突きから復活し、何時も以上に顰めっ面になっていたネルゼノンは暫く唸っていたが、やがて短い髪を掻き両の手を上げた。

「……あーもう、分かった行くよ! ここまで来たら乗り掛かった船だ」
「そうね。それに、もしかしたら本部に持って帰れる情報あるかもしれないしさ」
「お前達……」
「話し合いは終了?」
「そうみたいね。で、何て書いてあるのかしら?」
「『風にたゆたう、深緑に住みし者を捜せ』とある」

サエリの問いに答えたイオスの言葉は、本当に何らかの暗号のようだった。ユキナが「深緑?」と呟いて首を傾げ、その文字を凝視する。

「……それだけ?」
「まぁ、読めない文字もあるので当てずっぽうではあるが」
「オレも読めないな……」

考古学をかじっているセレウグもお手上げ、と両手を上げる。現代の言語の基礎とはいえ、今は使われていない表現や言葉もあるのだ。読めなくて当たり前である。
それを推測とはいえ読み上げたイオスの明晰な頭脳と記憶力は、やはりその辺の人間よりもずば抜けていると言えた。
彼はユーサに顔を向け、問い掛ける。

「ユーサ、これは……」
「確実に、隠蔽結界の解除の方法。事実、辺り一帯は強固な気が漂ってる。だからこそ見付けたんだ、本当なら僕にも見付けられないはず」
「それで、良く見付けたな?」
「随分杜撰に仕掛けられてる。余程慌てていたのかもしれないね、仕掛けた当人が」

そう言えば肩を竦め、ユーサは首を振る。
その分析から導き出される、『仕掛けた当人』とは一体誰なのか。
それを話してくれるとは思っていないが、リレスは彼が自然な動作で顔を下に向け、何かを呟いているのが見えた。

「――一体何があったんだ、リツレント」

NEXT…