第36話 彼の名前

悪魔は、通常の人間よりも若干頑丈な身体を持っている。彼女が吹っ飛ばされたにも関わらず未だ立てているのは、飛ばされた時の衝撃はそんなに強くはなかったのか、それとも奇跡だったのか。
長い髪を束ねていた紐はなくなったらしく、僅かばかり流れる風にそれらを委ねている。

サエリは何かを構えるでもなく、スウォアを睨み付けたままはっきりと言った。武器を構えていなければ、一瞬後には心臓を貫かれているかもしれないのに。
そこまで考え、ふと何かが壊れた音がしたのを思い出した。音の発生源を見れば、木屑や木の欠片が散らばっている。何かの、残骸のようだが。

「(……まさか、)」

スウォアは軽く舌打ちをし、アークから退いた。

「ハッ……。俺も腕が落ちたもんだな、こんな柔な武器に妨害されるとは」
「投げる物が見当たらなかったからね。仕方ないわよ」
「……胆が据わっているのは良いが、武器を失ったんじゃ不利なのはお前さんだぜ? 遺跡の中には魔物もラルウァも、沢山いやがる。どうやって抜けるつもりだよ」

やはり、サエリは先程の瞬間、咄嗟に自身のボウガンを投げレイピアの軌道を無理矢理逸らしたらしかった。武器を構えないんじゃない、構えられないのだ。

頭が良いサエリの事、こんな場所で武器を失うのは自身の死に繋がる、と分かりきっているハズなのに。

しかし彼女は怯む事なく、スウォアに向かって口を開く。
この度胸、というか相手の威圧に怯まない精神を、アークは心底羨ましいと思った。自分は少しの事で、何時も怯えてしまうから。

「アンタ、何を知ってるの?」
「……さぁな。ただ、そいつが知らないと言う事を知っている」
「しらばっくれてもムダよ。何なら、丸焼きにしながら尋問してあげましょうか?」
「ミディアムは勘弁だ」

肩を竦めながら答えるスウォア。
彼に限らず、サエリも苦笑を洩らし冗談めいた事を口にした。

「ミディアムで済むかしらね?」
「……ふ。ウェルダンにする自信があるんだな」
「生憎と、加減するつもりはないわ。したら最後、アークやアタシの命がなさそうだし」
「正論。なら、見せて貰おうか?」
「臨む所よ! ……ホラ、アーク!」
「う、うん」

スウォアがたんっ、と軽快な音を立て地面を蹴り、地面に転がっていたレイピアを取り戻す。
同時にサエリも、黒い蝙蝠[コウモリ]の羽根を生やし距離を取る。少し遅れて、アークが武器を構えた。

こちらは、二人とも前衛向きではない。前衛型、しかも素早いレイピア相手にいつまで持つかは分からないが、やるしかない。

「深淵の闇よ、」

飛翔したサエリが詠唱を開始し、スウォアは駆け出す。唱えている間には致命的な隙が出来る、その間に討つつもりなのだ。

だが、今度はアークも黙っていない。
進路に割って入り、チャクラムで剣を弾き返す。金属と金属がぶつかる瞬間、乾いた音が響く。

「邪魔、ってんだろ! 《雷牙[トゥオザンナ]》!」
「わっ……!」

小さく舌打ちをし、スウォアがアークの眉間目掛け貫く。
危うく避けられたが、刀身に宿った何らかの力で金髪が僅かに焦げる。バチィ、と電気が流れる音がした。

アークはバランスを崩した相手に向け、体を反らせた反動を利用して右足で蹴りを放つ。が、素早く体勢を整えたスウォアは既に距離を取っていた為、当たらない。

「光に列[つら]なる希望を打ち砕け! 《イービルグラッジ》!」

その時、サエリの詠唱は完成し空間が歪んだ。
正面にいるスウォアの足元に闇が広がり、波打つ。何かを察した彼がそこを離れるより早く、闇から同じ色をした手が生えその足に絡み付いた。
標的が振りほどこうともがけばもがく程、それはより複雑に絡んでしまう。まるで、蜘蛛の糸に囚われた虫のように。

完全に捕えられたスウォアの体に、全ての手が集まる。それが触れた箇所が、金縛りに遭ったかのように動かなくなり、力が削られる感覚がしているだろう。この魔法は、相手の魔力を奪う力がある。

ずるずる、ずるずると引き摺られる足。
スウォアは憎々しげに舌打ちをし、叫んだ。

「舐めんじゃねぇぞ……! 糞が!!!」

瞬間、辺りの空間が唸り、光が走った。
腕が痺れるような静電気は、集束し本物の雷を生み出す。アークも魔法の維持が出来なくなり、目を閉じた。

光が収まり錐体細胞が働きだせば、暗順応により見えなくなった視界が回復する。
そして、見えた。

「……え?」

魔法を使えば、天使や悪魔は魔力の象徴である翼が生える。アークにそっくりな容姿を持つスウォアも、当然その現象が起きたが。

その背中には、本来対であるハズの翼が、一枚しかなかった。
サエリも流石に驚いたようで、魔法を撃った時の格好のまま固まっている。

「片翼……!?」

『魔力の源である翼を片方失った、片翼の天使』。
『片翼と堕ちた天使様』という、子供の頃に読んだ御伽噺の一節が脳裏を過る。

翼を一枚失った天使と、天から堕とされてしまった天使のお話。二人は集落から忌み嫌われ、追放されたが、それでも希望を捨てずに放浪し続けていくのだ。

――が、それはあくまでも御伽噺の話。現実にそんな者がいるなど、想像もしていなかった。
しかし、目の前の彼は、確かに翼が一枚しかない。

「……言っとくがなぁ」

自嘲気味に吐き出された声には、さっきまでの覇気がない。

「あの昔話みたいに、先天的じゃないからな」
「何ですって?」
「良いよなぁ、記憶喪失なんて確実性のない言い訳を振り回せて。本当は、気が付いてんじゃないのかよ。思い出せてんじゃないのかよ?」
「…………」
「アーク!?」

スウォアの視線の先のアークは、先程よりも怯えたように蒼を見開いていた。いや、実際に怯えているのだろう。
様子がおかしいアークに気が付いたサエリが呼び掛けるも、彼は何も聞こえていないのかただ震えるだけ。

「……だ、知らな……っ。ボクは、ボクは……っ!」
「アーク!? しっかりしなさいよっ、ちょっと!」
「……せめてもの慈悲だ。思い出せて苦しみながら死なすのも悪くないが、全て思い出さないまま、何故殺されるか分からないまま殺してやるよ」

ピッ、とレイピアを払い、膝を付くアークに狙いを定める。
そして、駆け出した。

――ザクッ!

アークの額目掛けて突きを繰り出されたレイピアは、無理矢理間に割って入ったサエリの横腹をかすった。狙いが逸れたのは、彼女がレイピアの刃を直接掴み強引に反らしたせいだ。

だが、その傷は決して浅くはなく、見ている間に黄色のワンピースに赤い模様が広がっていく。
吸収しきれなかった血液が、ぽた、と地面に落ち、赤い花が咲いた。

ざぁざぁと降り頻る冷たい雨の中、彼らは立っていた。
街の中にいれば嫌でも注目を集めそうな形相、髪型をした中年や青年が、狂喜に顔を歪める。
遠くで、金髪碧眼の女性が泣き叫んだ。が、誰かに諌められ直ぐに聞こえなくなってしまう。その声は、一体誰を呼んでいたのか。
そして、目の前には、赤い、紅い花。

気丈にも立ってスウォアを睨んでいたサエリの体がぐらぁと崩れ、地面に吸い込まれるように倒れる。
正気に戻ったアークは咄嗟に手を伸ばし、彼女を受け止めた。傷を触ってしまったのか、生温かい血液が手に付着する。

「サエリっ!?」
「……っ、」
「サエリ、サエリ! ――生命の輝ける活力を、《リザレクション》! 死んじゃダメだ、サエリ!」

元々体力的に限界だったのだ、それに出血が重なった事により、サエリの表情はすっかり病人のように蒼白くなっていた。
無我夢中で彼女の名前を呼びながら、アークが回復魔法を使う。

その一部始終を黙って見ていたスウォアは、興醒めしたのか冷めた目で彼らを見ていたが――やがてレイピアを鞘に戻し、背を向ける。

「……情けねぇ。泣く事しかしねぇなんて、ただの糞餓鬼だ」
「う……うるさい……っ」
「はっ、殺る気削がれた……助かったな、まだ長生き出来るぜ。感謝しろ、主に俺に。――そこの通路を真っ直ぐ、途中燭台を見つけたら横に逸れろ。誰か応戦してるようだからな。勘違いするなよ? お前を殺すのは俺だ、死なれたら困る」
「キミは……キミはどっちなんだよ! ボク達を殺そうとしてたクセに」

涙を浮かべながら叫ぶアークに振り向くと同時に、スウォアは再び抜いたレイピアの刃を突き付ける。
今度は、アークも正気を保ったまま彼を睨み返した。
意志の強い瞳がぶつかり、先に逸らしたのは……スウォアだった。

「この姉ちゃんに免じて、今回は見逃してやるって言ってんだよ。俺の気が変わらない内に行かねーと、今度は殺すぞ」
「…………」

アークはまだ不服そうな表情を浮かべていたが、実力を考えれば、ここは逃げた方が得策。見逃してくれると言っているのだから、遠慮なくそれに従おうとした。

「……アンタ、腹、くくり切れて、ないのね」
「!」
「完全に、嫌っている訳じゃ、ないんでしょ……?」
「……何を意味の分からない事を。俺は、コイツが……憎いんだよ」

途切れ途切れのサエリの問い掛けに、視線を逸らしたまま答えるスウォア。その横顔は、憎悪に満ちていると言うより、ようやく絞り出した答えを口にしているようだった。

ふ、とサエリが息を吐き、横腹の傷を手で押さえながら立ち上がる。まだ痛むのか表情を歪めていたが、アークに助けを求める事はなかった。

「……行きましょ。まだ、終わってないんだから」
「う、うん……」

アークとサエリが去った空間に、スウォアはまだ残っていた。
二人の去った方角を見詰めたまま、ただ立ち耽る。レイピアは、握ったままだ。

『完全に、嫌っている訳じゃ、ないんでしょ……?』

「……憎み切れて、ない、か……。あんだけ酷い思いをさせられたって言うのに」

その自嘲と共に吐き出された呟きは、誰に聞こえる事もなかった。

「本当に……お前にだけは、会いたくなかった。スウォア」

   ■   ■   ■

目を醒ませば、身体を走る鈍痛に眉を潜める。意識がはっきりしない所を見ると、かなり血が抜けたらしい。
仕方なく、人より少し良い聴覚のみをフル稼働させ、周囲の様子を探った。

人。多分、四人位。
その内の一人は、自分が信頼を置く同志。良かった、無事だったんだ。
でも、それ以外の気配は誰のものなのかはっきり分からない。何だか、懐かしい気もする。

と、その懐かしい気配を帯びた人物から、暖かい光を感じた。エネラがかけてくれる治癒魔法と感じが似ているから、多分治療を施されている。不甲斐ない。
という事は、仲間だ。まさか、敵の誰かが自分達に情けをかけて回復させている訳はないだろう。

「さて、これで取り敢えずは大丈夫でしょう。そろそろ先に進まなければ、後々大変な事になってしまう」
「……どうやって、運ぶつもりだ」
「ドッペル、乗り物に変身」
『出来ません』

「(あぁ、まただ)」

一体彼が誰と話しているのかは分からないが、暗に自分らを心配するような発言に、自分は不謹慎にも呆れた。
あくまで、僕らも連れていくつもりなのだ。

昔から――昔から、彼はそうだ。
端から見れば他人に興味なさそうな表情をしている癖に、こうやって誰かが傷付けば自分よりも優先して守ろうとする。

ジャスティフォーカスは、義父さ――ハヤト=ドネイトが捜査長に上り詰める以前は、それこそ弱肉強食の世界だった。
実力のある者は生き残り、ない者には死が。同志は、必要あらば切り捨てなければいけない駒、と同意義だ。
何より優先されるのは、過程より結果。例え一人二人が死のうと、作戦が成功しなければ罵られる運命なのだ。

そんな中で、彼は異色を放っていたと言える。

ただかすり傷をしただけなのに「破傷風を嘗めるな」と毒吐いて治療を施したり、魔物から僕らを守ろうと自らが傷付いたり。

実力は、悔しいが彼の方が上だ。生き残るのなら、確実に任務をこなせる人間がそうなるべきだ。なのに、彼は敢えて傷付こうとする。
ある意味、それが彼の使命だと言うかのように。
その甘さは、決定的な致命傷であり……自分にとっては、擽ったくもあった。

時間は、少し戻る。

眩しい、と感じ重い瞼を開けると、白い石造りの天井の隙間から満月が見えていた。
まだ、遺跡の中にいる。

『お、目が醒めたぞこの餓鬼』

脳に直接響くような声が届くと同時に、正面の風景の中に異質なものが加わった。
青とも紫とも取れないような色をした、半透明な生き物。

――生き物?

「! っ……!」

驚いて飛び起きるように上半身を起こせば、その反動か鈍痛が体中に響いて踞る。
寝ていただけでも痛みはあったから、起き上がれば痛みが酷くなるのは分かっていた。これは自業自得だ。

『あー、起きなさんなって。まだ完璧に治ってないんだから』
「お前がいるからだろう、ドッペル。少しは普通の人間からの認識を考えてくれ」
「……貴様ら、は?」

クロスが声をした方を見やれば、そこには燃えるような赤い髪を項で一つに束ねた男と蒼い髪の少年、そしてさっきの生き物がいた。

少年は何かを言うでもなくぼんやりと地面に座り、何か考え事をしているようである。
彼は知っている、クーザンの幼馴染のウィンタ=ケニストだ。
先日、アラナンに滞在していた彼を何者かが拐った――という情報もあったのだから。

男の方は、比較的瓦礫が少ない場所にのんびり腰掛けていた。
そして、クロスは彼に妙な既視感を感じる。
何処かで、会っただろうか?

彼は顔に穏やかな笑みを浮かべ、口を開いた。
微笑む前、何故か疲れたような表情をしていたのが気になったが、追求する必要はないだろう。

「怪しい者ではない……と言っても信じてはくれないだろうね。こんな所にいる時点で、怪しいし」
『おい』
「私はイオス=ラザニアル。初にお目にかかるよ、クロス君。で、この面白いのはドッペル。こっちが、捕まっていたウィンタ君だ……って、知っているかな」

男の名を聞いたクロスは、そこで漸く既視感の正体に気が付く。

イオス=ラザニアルと言えば、魔法の生みの親として有名だ。新聞や書物に目を通す事の多いクロスだ、何処かで見ていたのだろう。

――いや、違う。
そんな不確定要素ではない。

似ているのだ、魔導師のあの少女に。身に纏う雰囲気や、柔らかい物腰、話し方が。
それにしても、何故大学の有名臨時教授がこんな場所に?

「……何故、俺の名前を」
「とあるヘビースモーカーに話を聞いていたんだ。『無愛想で融通効かない息子達は扱いに困る』ってね」

自分は相手を知っているが、相手は知らないはず。名前を知られていた事に僅かに警戒し、問い掛ける。
が、イオスはそんな警戒など気にしていないように肩を竦めて、そう言った。
クロスは首を傾げた。
彼の周りで、ヘビースモーカーと揶揄される程煙草を吸う者は多いが、部下を恥ずかし気もなく『息子』と称する上司は、一人しかいない。
というより、思い付かない。

その唯一思い付いた人物の名を、口にしてみる。

「ハヤト捜査長、か?」
「ご名答」
『それ以外誰がいんだよ。あのワーカホリックしかいねーよ、ジャスティフォーカスでそんな事言う奴』

イオスは、軽く手を叩いて肯定する。ドッペルゲンガーの台詞はスルーする事にしたらしい。

しかし、正直自らの組織のリーダーと有名臨時教授が知り合いだとは、クロスでも驚きだった。そんな話、聞いた事もない。
その上只のいち教授が、何故魔物と畏れられるドッペルゲンガーと共に行動しているのか。

判断材料の少なさと複雑さに少々冷静に判断出来なくなったクロスを横目に、イオスは「よいせ」と立ち上がった。

「さて、残りの彼らにまた治癒魔法をかけますかね。クロス君、君は奇跡的に軽傷で済んだが、他の子達はまだ危ない状態だ。酷だが、辺りの警戒だけしておいてくれると助かる。ウィンタ君、ちょっと手伝ってくれるかい?」
「あ、はい」

そう言われ、クロスは自身の身体を見る。成程、確かにあちらに倒れている彼らよりは、軽傷で済んでいる。それでも、抜け過ぎた血のせいで目眩はするが。

そこでようやく記憶が、先程自分が吐いた言葉を呼び起こさせた。

「(……『戻った』のか……)」

だが、軽いと言うだけで、全くないとは言い難い。
一番最後に気を失った自分が一番に起きているのだ、怪我の違いは明らかである。
それに、今のイオスの口振りからして、どうやら気絶していた間に治癒魔法がかけられていたらしい。

クロスは、再び顔を上げ満月を見た。
遺跡に侵入する時と比べると、満月の位置が大分西に傾いている。
かなり、時間を費やしたようだ。

「(……先ずアークを拾って、それからあいつらの方へ合流しなければ。アークが上手くサエリを回収していれば良いが……)」

これからの事を考えると、気が重い。身体的にも、精神的にも。

しかし、優先させるべき事柄が脳内を横切った。
確かにジャスティフォーカス構成員としての目的は、神隠しに遭ったアークとリルを引き取る為だ。
だが、クロス個人としてはもっと別の優先すべき事柄がある。

クロスは、恐らく今までで最も長い溜め息を吐いた。

「(……戻った事で、何者かが感付いているかもしれないし、な)」

カツ。
神殿の端から、黒服の男は中を観察する。僅かに乱れた呼吸は、無理矢理殺した。
視線の先にはクロスと、負傷した3人を治療するイオスの姿。
男は、舌打ちをする。

「……失敗か……」

足元にある鷲の羽根が一枚、静かに舞った。
淡く光っているように見えるのは、月光のせいなのか――。

NEXT…