第29話 過去の過ち

暗い通路を抜けると、相変わらず寂しい雰囲気を讃えた広い空間が、目に飛び込んで来た。静か、だ。

「疲れたわ……」

キセラは抱えていたウィンタの身体を一旦地面に下ろし、休憩を取る。
腰を下ろした石段はひんやりと冷たく、冬の寒さを感じさせた。にも関わらず、彼女の額には僅かに、体温調整の為の汗が流れている。少年とは言え、男を運んできたせいだろう。
何故男でない自分にさせるのか、その前に自分を女として認めていない節がある野郎共イコール同胞と一度じっくり話し合う必要がある、と思う。

だが、それは今やるべき事ではない。これが終わったら、彼女はそれをやる気満々だったが。

先程、サンが彼女を呼びに来てから既に一時間は経っている。その間、彼女は初めにいた地下の小部屋を抜け出すと、通路を経て地上を目指し、ここへ辿り着いていた。常人なら先ず知らない、知られない造りの道を。

今までの自らの行動をのんびりと推察するキセラ。
あくまでも“のんびり”だが、他の者がやろうと思えば軽く分単位はかかる時間である。
更に言えば、その視界の端に自分と同じような燃える赤が映ったのは、それから十秒も経っていない。

あちらも直ぐに気が付いたらしく、多少吃驚したような動きをする顔。いや、吃驚……ではなく、どちらかと言えば信じられないものを見た人間のそれに似ていなくもない。

しかしそれは、一瞬で裡に潜った。記憶と大差無い腑抜けた表情――キセラはそれが気に入らない――のまま、こちらに歩を進めてくる。
ある程度近付いた所で赤は歩むのを止め、僅かに引き吊った口を開く。

「お久し振り、でしょうか」
「本当にね」

赤の正体は、先程ユーサと別れ行動していたイオスだった。
キセラはうんざりとした表情で彼の眼鏡の向こうの瞳を睨み付け、今浮かんだ質問を訊く事にする。

「一つ訊いて良いかしら」
「何でしょう?」
「この通路の出口って観光客には知られてないのに、何でアンタが知ってるの」

そう、キセラが出てきた通路は、あの隠し部屋に繋がっている。少なくとも、普通の人間はそんなものがあるとは知らないだろう。

イオスは軽く首を傾げ、考えを纏めるように口を開く。

「何故でしょうか。ただ、貴女の事だからきっと正面からではなく、別の通路から中心に向かうと思ったんですよ」

キセラは、イオスの返答に、そして昔と変わらない彼のムカつく言葉遣いに苛つき眉を潜めた。

「(そうだ――私は、あの余裕ぶった話し方が、嫌い)」

実は、イオスとキセラは大学が同じだった。所謂、同世代という奴だ。
テトサント大学という有名な大学に主席で進学し、天才の名を欲しいままにした彼は、キセラにとって奇異の存在でしかなかった。
天才、というだけでない。誰もが敬い、頼るような物腰の柔らかさ。それも、人を惹き付ける要素のひとつなのだ。

どんなに努力しても、どんなに全力で走っても、届かない存在。
それがキセラにとって、または自分と同時期に大学にいた学生達にとってのイオスだった。

キセラとて成績が悪かった訳ではない。寧ろ、彼女も大学のトップを争える程の知力を持っている。
それでも、彼に追い付く事は叶わなかった。彼が、良過ぎたのだ。
だから、彼の下で研究をしたがる輩はたくさんいた。そうすれば、彼のおこぼれにありつける。
そして言うまでもなく、キセラもその一人だった。

歪んだ感情は持っていたものの、彼女もそれなりに尊敬はしていた男である。

――なのに。

キセラは、イオスに対する怒りが沸々と湧いてくるのを感じた。

「知ったような口ばっかり吐いてくれてありがとう。お陰でこっちは胸糞悪いわ」

ぽつりと物騒な事を呟いたキセラの言葉に、イオスは呆れた表情で咎める。

「女性がそんな口をきいたらいけませんよ。全く、昔は」
「昔の事言ったら殺すわ。昔のアタシは死んだのよ」

太股に巻いたベルトに装着されているクナイを手に持ち、キセラは殺意を込めた瞳でイオスを睨み付けた。
そんな彼女の様子にイオスは困った表情を見せ、首を傾げる。

「……やはり、戦わなければいけませんか?」
「ま、敵でなくても、アタシは何時だって潰したいと思っていたからね。その、中途半端な笑みしか見せない腑抜けた面を」
「やれやれ……仕方ありません、ね!」

その言葉が引金となり、キセラの手から三本のクナイが放たれる。

言葉が終わる直前に投げられたというのに、イオスは横に飛び退き、軽々とそれをかわす。その為、台詞の語尾が若干跳ねた。

カカカっ、と乾いた音を立て、クナイが地面に刺さる。
距離が取れたのを見計らい、キセラは素早く詠唱を開始した。
共に魔導師、単純な魔法の撃ち合いでは決着はつかないだろうが――相手は男だ、力勝負に持ち込まれれば此方が負けるだろう。
ならば、手数で勝負を付けるのみ!

「穢れなき白、聖なる光の一撃で斬り尽くせ! 《ホーリー》!」
「!」

キセラの詠唱により、傍に出現した光の輪がイオスを狙って放たれた。
輪は勢い良く回転しながら、ブーメランのような軌道を描いて進む。表面で火花が散っているのか、パチパチと音が鳴っていた。

飛び退くのは無理だと判断したのか、彼は瞬時に地面にしゃがみ込む。一瞬前までイオスの額があった場所を、重力に従うのが遅れた彼の髪数本を焦がし、切断しながら輪が通り過ぎた。

軽く舌打ちをし、更に詠唱を開始しようとキセラが口を開くが、太股から痺れるような痛みが脳に伝わり、直ぐに閉じた。
見れば右太股に赤い線が出来、背後には的もないのにダーツの矢が刺さっている。
一体何時攻撃されたのか――と疑問が浮かびかけたが、その頃にはとっくに答えが分かっていた。

「しゃがんだ瞬間に、投げたわね」
「ご名答」

再び手にダーツの矢を持ちながら、相変わらずの笑顔を浮かべたイオスが立ち上がり答えた。

詠唱をする時と魔法を撃った直後は、致命的な隙が生まれる。硬直状態、と言えば良いのか。
魔法を扱う魔導師や技術者が一番狙われ易い、だが避けられない動作である。

その瞬間を狙って、何処からかダーツの一本を取り出し投げたのだろう。ダーツが刺さっている高さも、丁度彼がしゃがんだ時の腕の位置と合致する。

ここまで考えを纏めるのに要した時間は、僅か十五秒。
イオスの余裕綽々とした態度に更に顔を歪ませ、キセラは悪態を吐いた。

「三十路のクセに……」

それは、彼にとってある意味、爆弾にも匹敵する単語。聞こえるように言ったので当然聞こえていたらしく、イオスは口の端を僅かに引き吊らせる。
表情や見た目は全く変わらないが、雰囲気が若干荒んだような印象を受けるようになっているのだ。

「あのね、キセラ。三十路をあまり強調しないでくれないかな。それに君だって四捨五入すれば」
「はっ、知らないわよ。何ならあと百回言ってあげましょうか? あと、歳に四捨五入は必要ないわ」
「いやいやいやいや。それを言うなら根本的に歳も要らないんじゃないのかい? 君は十分三十路にも見え」
「……どうやら、入念に話し合いが必要のようね?」
「君が言い出しただろう」
「うっさい、さっさと老衰しなさいよ! 穢れなき白よ、悪しき者に厳格なる粛正を!!」

大人気なく歳について抗論する二人の空気は、当然だが段々悪くなっていった。

そして、先に痺れを切らしたのはキセラ。詠唱を開始すれば、イオスの足下に円形の模様が浮かび上がる。魔法陣だ。
発動までの時間がかかる魔法と判断し、イオスは直ぐ様陣の中心から足を踏み出した。
しかし、イオスはそのまま硬直する。

飛び退いた先に現れたのが、真夏の海のように美しく輝く短髪と、その下に潜む感情のない瞳でなかったら――イオスは、逃げ切れていたかもしれない。

「ぐっ……!」

それが、彼らの使役する作られた兵士等ではなく、ただある目的の為だけに捕らえられた少年自身だと察した時には。何か硬く重たいものが腹部を殴打する鈍い音が、自らの鼓膜に響いていた。

鎚に勢い良く弾かれ、彼の身体は最初入ってきた入口の近くまで吹き飛ばされる。衝撃で、粉塵が舞い上がった。

「……ったた。参ったな」

強烈な一撃を貰った腹部を擦りながら、何とも気の抜けた声を上げ立ち上がる。軽く身体をチェックし、骨折や打撲が軽い事を確認した。

最後にキセラがいる方を見やれば、彼女を守るようにして立つ少年と目が合う。
少年は――ウィンタは、レッドンのように濁った瞳をイオスに向けている。そこに、自我や理性といったものは感じられなかった。

「やっぱり老衰してんじゃないの? 魔法は最初から詠唱中断するつもりで唱えたの。本当の目的はこっち。アンタが知らない筈はないわよね?」
「……まぁ、戦意を削ぐには一番効率の良い方法ではありますが……」

それは、キセラの使う洗脳魔法《ブレインウォー》。

他人の体内に眠る、皮膚を再生させる為の細胞の、活性化を促す治癒魔法。
それが転化し、他人の運動神経に直接干渉して、まるで意識があるかのように自由自在に操る魔法だ。
――知っていて当然、といった所だろうか。

髪に載った砂埃を払い、序でにコートの裾も叩くと、紅眼を力なくキセラとウィンタの二人に向ける。
そこに、先程のような何時もの笑顔は、もうない。

「それは……私が編み出した魔法で……この手で封印したものですから……」

悔しさと悲しさが入り雑じった表情で、半ば絞り出すようにそれを口にした。

魔法学の第一人者。
あらゆる魔法について詠唱の組立、術の構成、果てはその魔法の発展形を作り出す。
その学業において優秀な魔法を次々と編み出したイオスは、学会等でそう称されていた。
数々の、生活や科学にも万能に役立つ魔法を生み出した者として。

――表向きは。

その一方で、軍事的に用いられる、所謂“人を死に追いやる為”の魔法も編み出していた。
人の生命力を奪う。
人の行動を縛る。
そして、人の精神を支配する。
ブレインウォーも、その一つだった。

罪悪感や、背徳感がなかった訳ではない。だがそうしなければ、当時一人暮らしだったイオスは生活が出来なかったし――何らかの形で自らが役に立つのなら、それでも良いと思っていた。

そんな荒んだ生活を送っていた時、彼に会ったのだ。

あの、荒れた荒野の戦場で、“死神”と独り戦っていた少年。あの時の彼の言葉が、イオスに言いなりになる生活を止めさせた。

『それで生涯を終わらせるつもり? 馬っ鹿みたい』

他人から聞けば、これはイオスを虐げる言葉に他ならない。だがイオスは、それを口にした彼の群青色の瞳にそういう意味合いの色が見えないのを知り、心底感謝した。

そして、嘆いた。
ああ、自分は何て事をしてしまったのか、と。

それ以降、イオスは殺人兵器の開発者としての立場を捨て、逆の事をしようと動いた。
人を殺すのではなく、人を生かそうとしたのだ。

確かに魔法で人を殺しているから、という罪悪感もあったのかもしれない。
だから、身寄りのない子供達を集めて孤児院を造ったのかもしれない、そう思う時もある。

だが――その頃のイオスには、それ以外に贖罪の方法が見つからなかった。
贖罪の仕方など、どの文献にも教科書にも載っていないのだから。
例え載っていたとしても、それが必ずしも命を失った人々への贖罪になるとは限らない。

勿論、当時通っていた学校にはいられなくなり、独学で大学教授の資格を取った。
数々のレポートも全て暗号化させた上で燃やし、二度と使われないよう処理を施して、元の学校を去り。

その道も決して楽ではなかったが、他人に使われる人生よりもずっと有意義なものに思える。
後悔はしていない。

「(……しかし、何故)」

「お前は生きているのか? そうでしょう?」
「……」

イオスの頭に浮かんだ言葉を引き継ぐように、キセラが続きを口にした。

「アンタは――いいえ、アンタ以外の金で動く馬鹿者共は、それを知る者全てを殺した。私も含めて、一番後始末が簡単な事故死として。……アンタはさぞ不服だったでしょうね。人殺しなんて一番嫌いそうだし」
「ああ、ちゃんと反論はしたさ。そして私も、追い出されるようにして学会から姿を消し、位を下げられて大学の臨時教授をやっている」
「良い気味よ」
「っ……。いや、私の事などどうでも良い! ……あの時の事故の死亡者リストに、確かに君の名があった! 遺体も確認されている! なら、」

イオスは何かを言い返しかけたがそれを飲み込み、代わりの言葉を吐く。それは、一番訊きたくて一番訊きたくない事。

キセラはくすり、と微笑を溢し、

「死人よ?」

その質問を先回りして答えた。

「死んでるわよ。当たり前じゃない、あんな大惨事で生きてたらそいつ尊敬してあげるわ」
「……やはり……っ」
「あら、予想してたとでも言いたそうな顔ね。酷いわ……あんなに恐かったのに。アンタ、やっぱりどうでも良いのね。他人なんて」

キセラは自らを抱き締め、身体を震わせる。だが一瞬だけ浮かんだ恐怖の表情は、直ぐに妖しい笑みに取って変わった。

「なら、これはどうかしら? アタシが死人で蘇ってアンタが封印したはずの魔法を使っている、それで何か可笑しいと思わないの?」
「何を……。……っ!」

イオスは何の事かを問いただそうとし、思い出した。

あれは、つい数日前の事。

『お、そうだイオス。一つ話を聞け』
「……強制ですか。まぁ、聞きますけど」

ある人物と電話で話しているイオスは、彼に話を促した。否定しても続けられる事は、分かっているからだ。

『つい一ヶ月前にとある街を捜査したんだけどな、これがまた可笑しいんだよ』
「可笑しい?」
『死体の腐蝕がな、あまり激しくなかったから分かったが、……泣いてんだよ』
「泣いている? 死体が?」
『あぁ。何か恐ろしい事をしたのか見たのかは分からんが……悲しんでいるように見えたな、あれは』

彼が言うには、現場にあった死体が不可解な体勢で倒れていた、という事らしい。
寄り添うように倒れていたのを見れば、剣と剣が互いに突き刺さっていたり――まるで、仲違いをした彼らがお互いを殺し合ったかのように。

「……」
『見ていて気分の良いものではないのは、何時もの事だが……この前のは酷かった。死体は見慣れた俺でも、気分が悪くなっちまった。情けない。ま、そん時に見つけた写真機にもしかしたら犯人写ってるかもしれないから、そん時が粛清の終わりだけどな。あんな非人道的な行為をやらかす馬鹿野郎を、俺は許さん』

「…………まさ、か」

目を見開いて呆然とするイオスの姿に、キセラは恍惚とした表情で残酷な言葉を呟く。

「そうよ……粛清はね、私達がやったの。アンタが生み出した魔法のあらゆる限りを使って、人間達を殺したの!」
「――!」
「あぁ……もう、最高だった。私の使う魔法で操られた人間が、愛しい人、大切な者を自らの手で殺めて泣きながら死んでいく様は! その時程、アンタの下にいたのを嬉しく思った事はないわ。いいえ、その時だけ、ね! アンタにも見せてやりたかった、殺戮のダンスパーティーを!」

まるで、何かに夢中になっている少女のように熱く語るキセラは、手を組んだり大きく広げたりと、忙しなく腕を動かした。その様は、自分の言葉に酔いしれ興奮していく者そのものだ。

それとは逆にイオスの表情は引き吊り、元々健康的とは言えない顔色も、青くなるばかり。

「(私の考えた魔法が、粛清の中枢を担っていた? 知らない土地でまた人を、コロシタ?)」

「だから、『いい気味よ』って言ったのよ」

キセラは身動き一つ取ろうとしないイオスを指し、愉しくて仕方ないといったように声を弾ませた。
ウィンタが、暗闇から姿を現した灰人形達が、彼女の示す敵に目を向ける。

そして、

「自らの過ちに気が付いた所で、悔いながら野垂れ死になさい! 無様な貴族風情が!!!」

一斉に動く。

イオスは、動かない。
死を覚悟して目蓋を閉じる事も、一かバチかで守りに転じる事もしなかった。

或いは彼女なら、自分を殺す資格があるのだと思ってしまったのだろう。

ヒュ、ガキィ! ガッ。

「!」
「っ!?」

一瞬目の前が真っ暗になり、風を切る音を境に、再び視界が戻る。

気が付けば、イオスは神殿の風穴――窓に例えればへりの部分だ――付近に移動していた。
操られたウィンタとゴーレム達は、目標を失い慌てたようにキョロキョロと辺りを探す。

それにしても、先程自分は攻撃を避けなかった。なら、何故この場所に移動しているのだろうか?

幾ら頭の回転の早いイオスでも、物理的に不可能な物事に対しては全く無力だ。つい学者の本性が出て、目の前の疑問にかぶりつきかける。

そして、その対象である不可解な謎は、後ろからの声によって直ぐに解明する事になった。

『……ったく、何してんだイオス! 死にてーのか!?』
「その声は……ドッペル!?」

少々声が二重になっていて聞き取り辛いが、それは確かに、先程別れた仲間の魔物の声だ。

しかし、周囲を見渡しても姿は見えない。
あるのはただ、そこから見える地平線と空き家(と呼べるのかは分からないが)、そして自分の影のみだ。
相手の居場所は分からないが、声は届くだろうと判断し、イオスは話しかける。

「何故お前が!? ユーサは……」
『……空気を読んだんだよ』

二、三秒躊躇うように息を詰めたが、ドッペルはボソッと呟いて答えた。

長い付き合いだ、その数秒の間だけでドッペルが何て言いたかったのか位は判断出来る。
出来るが、敢えて全く違う話に持って行く。これ以上場の雰囲気を重くしても、戦い辛いだけだ。

「……お前に空気を読むデリカシーがあるとは……」

と、大袈裟に驚いたような言い方をしてみる。
すると、周囲の何処かから、殺気が向けられているのが肌で分かった。

『殴っていいか?』
「断じて断る。不本意にも三十路の老体に鞭を打たないでくれ、Mではないんだから……というか、何処にいるんだ? さっきから君の位置が特定出来ないんだが」
『下』
「下?」

言い逃れる序でに居場所を問えば、返ってきたのは素っ気ない一言。
言われて足下を見るも、広がっているのは神殿と自分の、月明かりによって作られた影だけだ。
――影?

そこまで来て、イオスは漸くドッペルゲンガーという魔物の持つ能力を思い出した。
忘れていたというより、そこに注意が行っていなかったと言った方が良いか。

レイス族に属するドッペルゲンガーは、人間や建物等のあらゆる陰に潜る事が出来る。更には、潜ったまま別の陰に移動する事もやってのけるのだ。
とはいえ何時でも移動出来る訳ではなく、陰と陰が繋がった瞬間のみという制約がついている――そう、本人から聞いていた。

ウィンタに神殿の陰になる場所に飛ばされた時か、最初キセラが投げたクナイをしゃがんで避けた後、イオスの影に潜り込んだのだろう。あの時、少しだけ神殿の天井の影を踏んでいた。

と、言う事は。

「……何時からいた?」
『…………』

再び黙り込むドッペルに、イオスは溜息を吐く。
応えないという事は最初からか、または途中から。流石に、ゴーレムに取り囲まれる直前ではないだろう。
少なくとも、キセラとの一連の話は全て聞かれている。イオスはそう判断した。

「別に、ユーサ達に言ってくれても構わない。私がそれを責める権利はないからな。代わりに、頼みがある」
『頼み?』
「ああ。見えるだろう? 彼が」

イオスは再びキセラの方に目をやり、その隣に戻っているウィンタを見た。
虚ろな瞳からは全く感じられないのだが、今にも飛びかかって来そうな殺気は間違いなく彼のもの。

ちら、と自らの影を一瞥し、覚悟を決めた声音で呟くように言った。

「彼を戻したい。お前は彼女を引き付けてくれ」
『おいおい……手立てはあるのかよ?』
「ある。暫く使ってないから、成功するかは分からないが……」

イオスは自らの手を胸の高さまで上げ、握り締める。

キセラに近寄れば、彼女の狙いは自分だからマトモに魔法を喰う可能性があった。まだ遺跡に侵入したばかりだ、ここで倒れるのは勘弁したい。

だが、ドッペルがいるなら話は別だ。こういう言い方は怒られるだろうが、囮としてキセラを引き付ける事が出来る。

倒す必要はない。要は、操られた少年を元に戻せば良いのだから。
運動神経に干渉された力は、また別の力を注げば相殺されて消える。身体に負担はかかるだろうが、方法はそれしかない。
もっとも、試した事はないので確証はなかった。

「(私の目的は、もう半分は達成された……出来ればあと少し彼女に訊きたかったが、限界だ)」

元々、キセラが本当に存命しているのかどうかを確かめる為に、ユーサに無理を言ってついてきたのだ。ここで倒れたら、確実に彼らに迷惑をかける。
せめて相手が知り合いでなければ容赦なく強力な魔法をぶっ放すのだが、彼女にそれをすれば、憎悪が倍になって返って来る。それだけは、避けたかった。
これ以上の深追いは、自滅を招く。

何より、彼自身が精神的にダメージを負い過ぎた。自分でも分からない程心の奥に追いやっているだけで、平気な訳はない。

「(倒れる訳にはいかないからな。この戦いで、何人が怪我をするか分からない)」

沈黙を守っていたドッペルは彼の決意を読み取ったのか、潜んでいるイオスの影が不自然に揺れた。OK、のサインだ。

「ありがとう。行くぞ!」

大きく頷くと、クリーム色に似た色のコートの裾を靡かせ、イオスは走り出した。

対峙するキセラ達の戦力に、何処まで対抗出来るか――それは、天才と呼ばれる彼の分析能力をもってしても分からない。
が、諦めるつもりは微塵もなかった。

NEXT…