第23話 止まない雨

曇天の空から、大粒の涙のように、或いはバケツをひっくり返したように雨が降り注ぐ。
夜まで降るらしい。

水分で湿った地面を踏む度に、土から絞り出された水が踊る。

「……雨」

雨の中傘も差さずに歩く青年は、聳え立つ巨大な石の前に立っていた。
衣服はとっくの昔にびしょ濡れになっている。動き難くなるが、仕方がない。傘を差す訳にはいかないのだ。

石に近寄ると、そこに書かれている古代文字――何らかの文章を愛しそうになぞらえ、口にする。

「『諦めてしまったのだ。諦めてはならなかった。どうか愛しき子供達よ、迷う事なかれ。諦めてはいけなかったのだ――』。……何とも傲慢な話」

文章から手を離し、上を見上げる。雨粒が目に入るが気にしない。
群青を身に纏う青年は、誰にも聞かれる事なく呟いた。

「諦めさせたのは何処の誰だ。この文章は、自分達の良いように真実をねじ曲げ、後世に伝えていく人間の身勝手の表れ――そうは思わないかい、ゼルフィル」
「……やはり気が付いていたんですね、ユーサ」

誰もいないと思っていた雨のカーテンの向こうから、声が返ってくる。
銀髪に血のように紅い瞳――ゼルフィルだ。彼自身も、全身ずぶ濡れである。
対照的な瞳を持った二人は、何処と無く似ているように思えた。

「トキワが祀られているこの碑になら、僕が来ると思ったんだろ? 君にしては単純な考えだね」

額に水が流れるのも気にせず、淡々と言葉を紡ぎ出すユーサ。ゼルフィルも、ただその青く暗い瞳を睨み付けながら口を開く。

「まぁ、場所を考えるのも面倒でしたしね」
「随分余裕だね」
「貴方こそ。私を捜していると聞きましたが?」
「ああ。忘れもしないさ、君を捜してもう何年経ったか分からない――タスクを返せ。君が捕らえたのは知ってる」
「さぁ」
「惚けるな。あの後、僕に刺客を差し向けて、瀕死のタスクだけを捕まえてっただろ」

ユーサの声が1オクターブ低くなる。それに気が付いているのかいないのか、ゼルフィルは大袈裟に両手を上に向け、溜め息を吐いた。
そして、口の端を持ち上げて、何時か見せた残虐な笑顔を浮かべる。笑っているが、目は全く逆の表情を映していた。

「安心して下さい、彼は充分に痛め付けた後牢に」

ぱぁん。

銃声が轟き、僅かに顔を背けて避けたゼルフィルの頬から血が一筋流れた。避け切れていなかったらしい。

抜いた瞬間発砲した――それは常人では反応しきれないスピードだったが――ユーサは武器を構え、銃口からは紫煙が立ち昇っている。
前髪に隠れて良く見えない群青の瞳が、ゼルフィルを睨み付けた。そこには、どんよりとした憤怒の色が浮かんでいる。

「答えろ。タスクは何処だ」
「穏やかではないですね」
「貴様と穏やかに話す時間なんて、ありはしない」

かちゃり、と銃弾の装填をさせ、引き金に指をかける。
普段のユーサからは想像出来ないが、二人称が『君』から『貴様』に変わっている。それが、彼の『本気』になった時の合図だと、ゼルフィルは知っていた。

意図的ではなく、本能的に、笑みが溢れる。
しかし次に動いたのは、この二人のどちらでもなかった。

「ああああっ!!」
「!?」

がきぃ、きぃん!

突然横から斬りつけてきた片手剣を、ゼルフィルは寸での所で、鎌の長い柄の部分で防いだ。
雨のせいで視界が悪いとは言え、ここまで来られなければ気が付かなかったのは不覚だった。

片手剣を握っている少年は、真っ直ぐにゼルフィルを見ている。

「お前、ユキナを何処にやったんだ!? 答えろ……!」
「……こんな時に」

鎌の柄を握り直し、前に押し出すように剣を振り払う。
弾かれた少年――クーザンは素早く体勢を立て直し、構える。後ろを見れば、彼の仲間が走って来ているのが見えた。

「……良いでしょう」

パキ、と指を鳴らし、何らかの合図をするゼルフィル。
と、周囲の至る所から、同じような服を着た人間が現れた。皆それぞれ武器を構え、ユーサとクーザン達を取り囲んでいる。

「こいつら……」
「あの時の敵ね。服も雰囲気も、全く一緒」
「……っ」

突然現れた敵に戸惑いの声を上げた者もいたが、クーザンとユーサの二人だけは無言でゼルフィルを見ている。

「各自、彼らは殺さずに捕らえて下さい。絶対にですよ」
「……余計なモノを喚んでくれたね」
「貴方を迎える為にですよ。多少予定が狂いましたが……お気に召さなかったでしょうか?」
「貴様の心遣いには何時も疲れる」

そう呟くとユーサは目を閉じ、両手を上に掲げた。

「天と地の狭間に棲まう者達よ、我の声に現れ出でよ」

両手に光が生まれ、それが地面に降りていく。
ぽろぽろと溢れ落ちる光はやがて形を作り、何かを生み出す。

「ドッペル、出番だよ」

光がまるで粘土のようにむくむくと形を変え、色が戻ってくる。完全に『それ』は、現れた。

現れた人間――黒いチョーカーを着けたユーサの姿を模したドッペルゲンガーは、直ぐに周囲の状況を確認すると、呆れたような表情をする。今回は人の姿でいたらしい。

「あらら、これまたたくさんのお客さんで……」
「僕はゼルフィルを。雑魚は任せたよ」
「りょーかい。あ、ユー……」

ドッペルに素早く指示すると、ユーサは再びゼルフィルに顔を向けた。
指示された本人はユーサに何かを言おうとしていたが、もう何も聞こえないだろうと察したのか。
溜め息を吐き、現れた兵の方へ黙って向かった。

突如現れた兵に、クーザンとクロス以外の皆は驚きを隠せない。

クロスはそんな中冷静に周囲を見やり、状況判断に努めていた。
そしてクーザンは、片手剣を構えたままやはり周りを見回し、最後に闇色の青年と幼馴染を浚った銀髪の悪魔――ゼルフィルを視界に捉えた。
剣を握る手に、力がこもる。

「ホルセル、セーレ、人間達を! サエリとリレスは弓と魔法で援護してくれ!」
「了解!」
「分かりました!」

クロスの指示に三人は自身の武器を構え、敵を見据える。ただ、セーレだけが、中央を睨み付けて立ったままだった。

そしてクロスは最後に、

「行け。ここは俺達で大丈夫だ」
「……え?」
「アイツなんだろう、今居場所を訊かないで何時訊くんだ」

そう言って、クーザンを先に促した。
はっきり言うと、自分はクロスに「こっちで戦え」と言われても反発しただろう。
当然そう言われると思っていたのだが、全く逆の事を言われてしまい、戸惑いを隠せなかった。だが、迷っている暇はない。

「任せた」
「ああ」

クロスに一言そう言い、クーザンは中央のゼルフィルの方に向かった。
それを見送った五人は、素早くポジションに付き相手を薙ぎ倒していく。

「……?」

そんな中敵を斬り付けたクロスは、斬り裂いた感触に違和感を感じた。
確かに致命傷にはならないよう、だが戦闘不能に陥るよう気を払ってはいるが、それにしてはリカーンで戦った時と比べて手応えがなさ過ぎる。
良く見ると、倒れた兵の体は気が付いた時にはなくなっていて、後には灰のような細かい粉が周囲に舞っていた。

「(こいつら……人間じゃないのか?)」
「《旋回剣》!」

クロスが訝っている後ろで大剣の柄をしっかり握って振り回し、周囲の兵を薙ぎ倒すホルセル。
彼が続けて目前の敵を倒そうとした瞬間、横から跳び蹴りが飛んで来た。蹴りが命中した兵士の身体から、嫌な音が響く。

蹴りをかました人物は、顔に思いっきり胡散臭い笑顔を浮かべ、言った。

「よう、少年少女達! 元気か!」

場違い過ぎる。誰もがそう思った。

   ■   ■   ■

ぱぁん。びゅっ!

黒光りする銃を片手に、銃弾を避けたゼルフィルの鎌を跳んで避ける。
腕に着けているポーチから弾倉を取り出し、使い終わったそれを銃から抜いて新たに装着。使用済みはそのまま投げ捨てた。
振り降ろされた鎌の刃を、今度は銃身で受け止める。

「どうしても言わない、って事で良いのかい?」
「簡単に教えてもつまらないでしょう?」
「僕は気に食わない!」

素早くバックステップし、再び銃口が火を噴き銃弾が飛ぶ。
体勢を整えながら器用に鎌で銃弾を斬り裂いたゼルフィルが、ユーサに数歩近付いた。

「単発など使わず、連発させたらどうですか? 一発位は当たるかもしれないですよ!」

そう叫ぶゼルフィルの表情は、心なしか愉しそうに笑っていた。

「五月蝿い!」
「それか、白弾を使えば一発でしょう? 躊躇わずに使える程私を憎んではいないのですか?」
「憎いさ。だけど、貴様を殺すのはタスクを取り戻した後!」

柄の長さが異常に長い鎌がユーサの顔ギリギリを掠め、前髪が数本舞う。

「っ!」

鎌を引き戻そうと体勢を直したゼルフィルが、腕に痛みを感じ立ち止まる。見れば、右腕の服が裂かれ、下の肌から鮮やかな血が滲んでいた。

斬りつけた本人を睨みながら数歩後退り、ニヤリと笑う。
目の前には、片手剣を構えたクーザンの姿。ユーサも、銃口は真っ直ぐゼルフィルに向けている。

「ふふふ……」
「何が可笑しい?」
「何を馬鹿の一つ覚えみたいに焦っているのか……そう考えたら、自然と笑みが浮かんだだけの事です」
「……余程僕らを怒らせたいと見える。言え、タスクと他に浚った人達は何処だ」
「知りません」

ぱん!

「っ!」

最後まで言う直前に銃声が響き、銃弾は少しの傷だったゼルフィルの腕に当たって貫通した。ぶしゅ、と血が噴き出す。
クーザンは少し驚いてユーサを見やった。

「……次はない」

次弾を装填し、今度は確実にゼルフィルの頭部に狙いを定める。

と、

「ユーサ、止めろ!」
「っ!」

ユーサの銃を持つ腕を押さえた人物がいた。ドッペルではない、生身の人間。

「……君まで僕の邪魔をするつもり? セーレ」

ユーサが睨み付けたのは、隻眼の青年セーレだった。
腕を押さえつける事で銃口を無理矢理反らし、制止させたのも彼。
力はセーレの方が強いのか、ユーサがどんなに足掻こうが銃口が再びゼルフィルに向く事はない。

「邪魔じゃない、だけどやり過ぎだ!」
「君だって知ってるだろう、彼はこれ位では死なない!」
「だけど、お前まだ撃つつもりだったろ!? 冷静になれよ!」
「僕は冷静だ! それより良いのかい? 僕を止めたせいで、君が記憶をなくしてるフリをしてたのが彼にバレちゃったよ?」

意地悪な笑みを浮かべながら言うユーサ。

セーレはちら、とクーザンを見やり、申し訳ないような、または困ったような表情を浮かべたが、直ぐに視線を外す。
当のクーザンは目を見開いて、セーレを見ていた。

「おやおや……一体何処に隠れていたんですか?」

まるで旧知の友が世間話をするかのような口調で、ゼルフィルが腕を押さえながら言う。
しかし、セーレは全く逆の態度――お前なんかと話したくない、という表情で返す。

「お前に話すつもりもねーし、必要もねぇ」
「つれないですね。セーレ……いえ、大陸を守る為に私達と戦い無惨に負け、尻尾を巻いて逃げ出したガーディアンの一人、《異眼の拳王》セレウグ=サイナルドと呼んだ方が相応しいでしょうか?」

片方しか見えない茶色の瞳が、紅い瞳を睨む。
動きを止めたホルセルやサエリ、クロスが驚きの声を上げるが、クーザンとリレスだけは僅かに反応を示しただけだった。

「……ふ、まぁ良いでしょう。少し予定が狂いましたが、必要な事は既に伝えた訳ですし、今日の所は消えますよ」
「待て、こっちはまだ話が済んでいな……ぐへっ」
「ゼルフィル、ザルクダに何かあったら……只じゃおかないからな」

憤慨するユーサの腹を殴りながら口を開いたドッペルが、ゼルフィルに言う。最愛の契約者の名を呟く魔物の腕からは、紫色の光の粒が溢れていた。
が、彼は尚も笑みを溢して言い返す。

「約束は出来ませんねぇ、抵抗する者ばかりなので……。っ!」
「覚えてろよ? あ、ちなみに今かけたの呪いだから。帰って治して貰え」

ケケケ、と笑う彼の表情は、魔物そのものだった。
先程の紫の光は、どうやら魔物が魔法を使った時に現れる魔力の源だったらしい。力のある魔物達だけが使える呪いの類い、魔力を縛る呪縛の力だ。

動きが制限されたゼルフィルは、初めて余裕の表情を崩す。

「……私が一番恐れているのは、貴方なのでしょうね」
「餓鬼が偉そうな事を言うからだろ。大人しく従っていれば良いものを……オレもそろそろキレそうだ」

ギロリ、と睨み付けられたゼルフィルが、ビクリと肩を震わせる。
同じ色の双眸でも、本物と偽物では威圧の度合いが違う。肉食動物に狙われた草食動物のようだ。

「……良い事を教えてあげましょうか。――おいでですよ、ラルウァが」

腕を押さえたままのゼルフィルの表情に、再び余裕が戻った。そのまま、一同の背後に視線を移す。

刹那、

「――!」

ぞくっ、と以前感じたのに似た悪寒が背中を走った。全員が、悪寒の発生源を辿る。

それは、公園の入り口に立ち塞がるようにして現れていた。大きく戦慄き、鳥の翼らしき黒い手を広げて威嚇する。

目は、紅い。その上、三匹。

「……マジかーい」
「あの化け物は……!」

ドッペルは苦笑いを浮かべながら、クロスはアラナンで戦った敵を思い出しながら構えた。
ユーサとセーレ――いや、セレウグは黙ったままだったが、やがて銀髪の悪魔に向けて叫ぶ。

「ゼルフィル、貴様! また……また人を、巻き込んだのか!?」
「たまたまですよ。それに、彼はもう百年以上前に死んでます。碑の番人として」
「ユーサ、構うな! 今そいつに言ったって何も変わらない……」
「っ……!」

ギリ、と歯軋りをするユーサ。
自分で分かっていたつもりだったが、言わずにはいられなかったのだ。相手の行う、非道とも残酷とも言える他人への仕打ちに、感じる憤りを。

「(ヘタレに言われなくても分かってる、そんな事……!)」

「では、私は行きますよ。ユーサ、また会いましょう」
『シャ、イン、ころす』
「待て!」

ゼルフィルが鎌の柄の下の部分を敢えて左手で持ち、向かって来た怪物に思い切り振り回す。
重量によって威力が増した鎌の刃は、彼がラルウァ、と呼んだ化け物一体を半分に斬り裂いた。

怪物が立っていたスペースをすり抜け、翼を出さないまま彼は走り去っていく。ユーサは追い掛けなかった。

残された一同は、目の前に現れた怪物二匹と対峙する。
しかし、奴らはアラナンの碑で戦った際、此方の攻撃が一切効かなかった。

「っ、この前はやられたけど、そうはいかねーぞ!」
「ホルセル、あまり深追いはしないのよ。また怪我されたら堪らないもの」

張り切るホルセルに注意をしたは良いものの、サエリの表情は固く強張っている。悪魔族は感じ取れる気配に敏感だ、怪物の尋常でない殺気に気圧されているのだろう。
そんな中、果敢にも動き出した者が二人。いや、一人と一匹か。

「ドッペル、やれるか?」
「だりーけどやってやるよ」

腕に装着しているグローブを叩き合わせ、爪先を地面に叩きつけながら、彼らは言葉を交わす。
少なくとも、それだけで二人が知り合いだと理解出来る。

「……クーザン」

正面の敵を見据えたまま、セレウグがクーザンに声を掛ける。
掛けられた本人は肩を震わせた。

「こんな事言える立場じゃねーけど……嘘吐いててごめん。後で、ちゃんと説明する」
「……セーレ兄さん」
「その為には! 今、目の前のアイツらを倒さなきゃいけない。大丈夫、死にはしねーから」
「良く言うよ……昔はウルフに怖がってたヘタレだった癖に」
「……ドッペル、泣くぜ」
「勝手に泣け」

折角格好付けてみたのに、と嘆くセレウグ。格好付ける時点でヘタレなんだよ、と追い討ちをかけるドッペルに、どうやら彼は反撃する余地がないようだった。

「っ! 皆さん、あれ!」
「! さっきの手応えの無さはこれか……!」

リレスの声に振り向くと、一度片付けたはずの兵達が再び一同を囲んでいた。良く目を凝らして見れば、兵達の亡骸から出来た灰が再構築され、人間の姿になって襲ってきている。灰色の身体で襲ってくる者もいた。

「ユーサ、大丈夫か?」
「愚問だね」
「失礼しました」
「んじゃ、共同戦線といきますか!」

敵は、ラルウァが二体と蘇生する兵達。対するは、ラルウァを倒す手段を持たない少年達。
絶望的状況にも関わらず、不思議と何とかなる気がした。

   ■   ■   ■

『ウィンタ』

靄がかかったような視界の中、名を呼ばれた自分は相手を見た。
短い黒髪と翡翠のような色の瞳を持った少年――夢の中の、自分の幼馴染を。

そう、これは夢。

何故なら、幼馴染は今よりずっと幼い――多分、十歳位の姿なのだから。記憶が正しければ、だが。

『ウィンタ、もし……俺のせいで、お前が危険な目に遭いそうになったら、』

何の話だよ?と、オレは冗談混じりで返したが、本人は至って真面目な顔を崩さなくて。
オレの言葉を無視して、続きを口にする。

『その時は、俺を見捨てて良いから』

オレが変な顔をしたのか、相手は少し苦笑を浮かべて再び口を開く。

『俺のせいでウィンタが傷付くなんて、堪えられないし。だから、俺の事を訊かれた時とか、遠慮なく答えて。もし何かされそうだったら、俺の事と引き換えに助けて貰うんだ』

でも、それだとお前が。
そう返すと、相手の表情は真剣なものから一転穏やかなものになり、

『ありがとう。……でも、俺は見捨てて』

やっぱり納得のいかない答えをくれた。

   ■   ■   ■

「あら、お目覚め?」

目を覚ますと、暗い部屋に一つだけある光源が見えた。周りは本だらけ。
オレの座高程高さのある本の山もあれば、ただ紙を積んだだけの如何にも倒れそうな山もある。押せば確実に倒れるな、これは。

光源は見に覚えのない女性が使っている。確か、何とかノートとかいう機械の前に。実際に使った事はない。

身体を動かそうとすると、電気が走ったような痛みを感じた。その部分を手で押さえようとして、身動きが出来ない事に漸く気が付く。
両手は頭上で纏めて縛られている。縛っているロープの先は、石造りの壁に繋がっていた。

そこまで状況を確認して、漸く思い出す。確かオレは、工房から仮眠室に移動しようとして、それで――。

「悪いわね。あのでしゃばり娘が中々吐いてくれないものだから、仕方なく貴方にお越し戴いたわ。恨むならあの娘を恨んで頂戴」

赤い髪の女性が近付いてきて、そう言った。
言葉の意味が理解できたオレは、直ぐに叫び返す。でしゃばり娘と言ったら、オレには一人しか心当たりがない。

「でしゃばり……ユキナを連れ去ったのはお前らか!?」
「心外ね。連れ去ったのではないわ。我々の崇高な計画に賛同してくれて、自ら志願して来たのよ」
「嘘吐け! あいつは……」

あいつは、そんな簡単にクーザンから離れたりしない!

そう叫び返そうとしたが、女性の紅い瞳に睨まれて怯む。まるで蛙と蛇だ。

「貴方に発言の余地はないわ。あるとするならば、私の質問の答えだけよ。ウィンタ=ケニスト」

冷酷無慈悲な紅い瞳が自分を見下すだけで、背筋に冷や汗が流れる。
身体中が「危険」だと忠告しているが、生憎脱出する手段も、選択肢もない。

「貴方の大事なオトモダチ、クーザン=ジェダイドの事よ。彼、私達が動く度に邪魔して来て、いい加減ウザくなってきてね。潰そうと思って情報を集めてるけど、ハッカーの力を駆使しても有力な情報がないの」
「……」
「ねぇ、教えなさい。彼は何者?」

あくまでも丁寧な物言いだが、含まれている威圧感だけは隠されていない。

ふと、先程の夢を思い出した。
あの時、クーザンは何であんな事を言ったのか、少し分かった気がした。多分、こうなる事が分かっていたのだろう。
ああ見えて、周りの者達には人一倍敏感だから。そのくせ、自分自身の事は人一倍鈍感な幼馴染。

「知らねぇよ」

オレの返事に、女性は眉間に皺を寄せてこちらを睨み付けてきた。

「……自分の立場が分かっていないようね」
「知らないもんは知らない。大体、クーザンが何だってんだよ? オレはあんな目に遭った理由でさえ分からないのに」
「黙りなさい」
「それよりも、ユキナとレッドンを解放しろよ。二人だけじゃない、ホルセルの妹と」
「黙りなさいと言っているでしょう」

淡々と喋っていたオレの喉元に、女性が何処から出したのか刃の先に輪っかが付いている、多分琉の武器――を当てられていた。少しでも余計な事を話したら、喉にグサリ、だろう。
戦いは不慣れなオレでも、それは容易に予想出来た。

「余計な事を吹き込まれたようね? つくづく運のない子……そんなに会いたければ会わせてあげるわ」

ぱちん。
女性が指を鳴らすと、オレが見えない位置から人影が現れた。

特徴的な帽子とマント、胸元のブローチ、黒髪黒目の、気絶する前に最後に見た人物が。暗いからはっきりとは見えないが、瞳は正面の虚ろをじっと見ているかのように動かない。

「レッドン!?」
「……」
「レッドン、てめっ、何か喋れよ! さっきはよくも」
「無駄よ。洗脳してるから、貴方の声なんか聞こえないわ」
「洗脳……?」
「ふふ……。そうだ、彼の命と幼馴染、どちらが大切かしら? レッドン!」

女性が腰のベルトに隠していた武器を取り出し、レッドンに放り、彼がキャッチする。そのまま、今オレがされてるように、首筋に刃を当てた。

「……!」
「さぁ、吐きなさい。さもないと、彼の首にこのクナイがグサリ……よ」

幼馴染か、友人か。
選べるはずのない二つの選択肢は、オレにとって重い枷となった。
オレがターゲットになる位ならまだ良いが、まさかレッドンを人質にされるとは。
彼には、待っている人がいる。見捨てる訳にはいかない。

数瞬黙考し、ぎり、と悔しさから歯ぎしりをしたが、口を開く。無理だとしても、やってみないと分からない!

「レッドン、目を醒ませ! お前こんなんでやられる程馬鹿じゃねぇだろ!?」
「聞こえないって言ってるでしょ?」
「お前……リレスをどうするつもりだよ!」

女性が煩わしそうに言うが、ウィンタは無視してレッドンに叫んだ。
暗くてウィンタ達からは見えないが、レッドンは確かに「リレス」の言葉に反応を示す。

「リレス、お前を捜して旅までしてるんだぜ!? こんな所でこいつらに操られてる暇あんのかよ!?」

ばごっ!

「~っ!」
「黙れ、と言ってるんだけど。私ちゃんとあなたに理解出来る言語を話してるわよね?」

叫び続けたウィンタの無防備な腹部に拳を叩き入れた女性が、さっきよりも低い声で言った。
腹を抑えようと無意識に動く手を捕らえた鎖が、じゃら、と音を立てる。

「こうなったら実力行使ね。さっさと吐いていた方が良かったと思わせてあげる」

女性は立ち上がり、レッドンに此方へ来るよう指示をする――が、彼は首にクナイを当てたまま微動だにしなかった。

「レッドン?」
「……リ、レス……」
「!」
「穢れた白の力、彼の者さ迷える羊となれ。《ブレインウォー》」
「あ、てめっ……」

彼から微かに聞こえてきた呟きにウィンタは目を見開いたが、女性が詠唱した魔法が再びレッドンを沈黙させた。抗議の声を上げかけたウィンタの喉に再びクナイが当てられ、仕方なく口を閉じる。

「手を煩わせないで頂戴。本気で、殺すわよ」
「……」
「さあ、吐きなさい。クーザン=ジェダイドは何者で、本当の名前は何なのか」

NEXT…