第11話 進む道

「しんかんごっこするやつ、このゆびとーまれ!」
「やるー!」
「おれもー!」

ピォウドの一角にある小規模な噴水の隣で、大体六~八才位の少年達が集まっている。
その中の一人、どうやらリーダー格らしい少年が人差し指を掲げ、叫んだ。

「おれ、バハームトが良い!」
「じゃあリツやる!」
「ぼくはリヴァイアサンだから、おまえはセクウィだ!」
「えー、ぼくもリヴァイアサンがいいー!」

やんややんやと言い争いながら役を決める子供達は、本人達としては真剣な事なのだが、端から見れば微笑ましい一場面である。
現に世間話をしていた彼らの母親達も、会話をしながらそちらを向き、その成り行きを穏やかに見守っていた。

「また始まりましたわね、神官ごっこ」
「ホントに好きなのねぇ。私も昔、良くやっていたわ……フフ」
「懐かしいわ。……そう言えば、さっきの爆音は何だったのかしら?」
「さぁ。ただ、夫もさっき呼び出しを喰らってたみたいだから……何かあったんじゃないかな」
「怖いわねぇ」

「やめたまえ! このままでは、せかいはめつぼーするぞ!」
「かまうもんかー! こんなひょろながいへびなんて、いっしゅんだぜー!」
「ぐぉー!」
「おねがい、やめてー!」

母親達の会話等露知らず、子供達は思い思いに身体を動かし、役を演じる。舌っ足らずな台詞は、毎晩親にせがんで読んで貰い、覚えたものだ。

無邪気な子供の遊びは、彼らが飽きるか親に連れ帰らされるまで続く。

ニコッと笑ったツンツン頭が、対峙している彼らには、恐怖が具現化しているように見えた。

「…………」

ギレルノは目の前の少年を睨み付け、だが何も口にせずただただ沈黙を守る。
話術で相手に色々聞き出すのは、自分の得意分野ではない。その役目は、どちらかと言えばディオルの方だ。

「誰だキミは!?」
「ワイ? タダのコドモや、コ・ド・モ」
「ふざけないで、答えてくれる? これは質問じゃないんだよ、尋問なんだ」

ディオルの誰何におどけた様子で返す少年は、年相応の無邪気さを残しながら、意地悪く笑う。
独特なイントネーションを含んだ話し方は、恐らく少数民族特有のものだろう。殺伐としたこの光景には、全く相応しくない。それ故に、恐怖を煽る。

しかし、妙だ。

「(只の子供が、こんな異常な殺気を放つか?)」

相手を怯ませそうになる殺気だけは、隠せていない。
身体が、心が、「この少年は危険だ」と叫んでいる。
少しでも気を緩めれば、足が勝手に逃げ出そうと動く。

「君なの? 此処を爆破して、沢山の人を死なせたのは?」
「そうや」
「一体何の為に、そんな事をしたの!」
「兄ちゃんは、なしてそないな事気にするんや? 世界は弱肉強食。弱い奴は強い奴に喰われる。それが当たり前やないか」

本当に分からない、とでも言うように、ツンツン頭の少年は首を傾げる。これには、流石のディオルも眉を潜ませた。

近年、幼い少年少女でもやむを得ず犯罪を犯す事は少なくない――寧ろ日常茶飯事と化しているが、相手はそう言った類いの少年なのかも知れない。

「罪もない人を、私利私欲の為に殺すとは……万死に値するぞ」
「あんさんがな? ギレルノ=ノウル」

瓦礫から飛び降りて着地し、ツンツン頭の少年が顔を上げる。
ギレルノは、自らの名を初対面の怪しい少年に呼ばれた事により、更に警戒を強めた。

「どういう意味だ」
「ジャスティフォーカスにいるお前を誘き出すには、これが一番手っ取り早い思たんや。如何に雑魚[構成員]から切り離すか、考えた結果な」

ばちぃ、と少年の足下から黒い光が地を走るが、ギレルノとディオルは気が付かない。否、そちらに意識が行かなかったと言った方が正しいか。

彼は、目的はギレルノだ、と言った。
自分ただ一人を自らの元へ誘き出す為だけに、何の罪もない門番や人間を利用し、殺したのだ。

「俺を誘う為……だと!? 貴様、何者だ!!」
「ま、直接手を下した訳やないけど? あと、その問いにはさっき答えたやろ」
「ふざけるなっ!!」

ギレルノは本を掲げ、再び召喚を行おうとする。相手が何を使うのかは分からないが、武器を構えていない分、圧倒的にギレルノが優勢だ。
あくまでも、彼が何らかの対策を高じていない場合の話だが。

ツンツン頭の少年は、悪戯が成功して喜ぶ子供よりも質の悪い笑みを浮かべて、言う。

「おっと。召喚したら、また死人が増えるで? 例えば、一緒におるそっちの兄ちゃんとか」
「うわああぁっ!?」
「! ディオル!?」

彼の言葉が終わると同時に聞こえた悲鳴の主、ディオルを見やると、体が黒い靄のような物に包まれているのが見えた。
苦しそうに体を縮こませてしまい、側に落ちている杖――仕込み刀も、靄に包まれている。

先程の黒い光、あれはツンツン頭の少年の発動したものだ。
《モルト・マレディツィオーネ》――闇の呪縛により、相手を行動不能にする闇の魔法。
詠唱が聞こえなかったので警戒を怠ったのが、仇に出たようだ。

彼は瓦礫の上に器用に立つと、びしっとギレルノに人差し指を向け、言う。自然に少年の方が目線は高くなるので、見下されているように感じた。

「子供だからってナメんなや。さっさとそのデカい本捨てぇや」
「……ちっ」

ごとっ。

本にしてはかなりの重さを感じさせる鈍い音が、周囲に響く。
武器を足元に捨てたギレルノは今や武器を持たない丸腰状態だが、自分のせいでディオルを殺される訳には、いかない。背に腹は代えられなかった。

音に反応したのか、ディオルにまとわりつく黒い靄が本にもかかり、包み込む。恐らく、今拾ったとしても召喚は出来ないだろう。

「召喚師は、召喚の際に体の中に流れてくる膨大な魔力を制御し、異形の生き物を呼び出す。制御には、媒介となる物質が必要……けど、それじゃ召喚出来へんやろ」
「……っ」
「ほな、行くでっ!」

ツンツン頭の少年は懐からトンファーを取り出すと、真っ直ぐギレルノに向かってきた。

頭を狙って一閃されたトンファーをしゃがんで避け、素早く体制を直す。
一旦距離を開けて迎え打とうと思ったのだが、そんな暇さえ与えてくれない。そして何より、武器がない。

ディオルの武器を借りようか――ギレルノが考え、彼の方を一瞥する。が、それが命取りとなった。

「余所見してんじゃねー!」

ゴスッ!

「がっ!!」

一瞬の隙を突いて、ツンツン頭の少年の真鍮性のトンファーが、ギレルノの腹部に直撃した。無理矢理吐き出された酸素に噎せながら、がくっ、と膝をついてしまう。

急いで顔を上げれば、時既に遅し。ギレルノの顔の直ぐ隣に、先程ダメージを与えたツンツン頭の少年の、トンファーが構えられていた。
彼は、にやり、と勝利を確信した笑みを溢す。

「ギブ?」

「何故、貴様等は俺を狙う!? いや、俺を狙っているなら、俺だけを攻撃すれば良かった筈だ!」
「フン、そー出来んようにしたんはお前やないか。お前を狙う理由……それは、お前が一番知ってるんとちゃうんか。考えてみぃや。お前みたいな平民の成り上がりが、どないして召喚術を使えるんか」
「知……、るかっ!」

何故、自分を直接狙うよりも効率の悪い、住人を巻き込むような戦法を取ったのか――やはり、それだけがギレルノは意に介さなかった。しかし、返ってくるのは曖昧な答えのみ。
素早く立ち上がり、トンファーで殴られる前に後退する。

「逃がさへん! 絶望を抱く黒よ、彼の者を力で縛ってしまえ――《グラビティ》!!」
「ぐあぁ……っ!!」

うつ伏せに倒れたギレルノの体には、とてつもない重力がかけられた。意識を保っているのが不思議な程だ。

「ギルっ!」
「悔しいやろ? 動けなくて。これで余計な事は出来へんな」

ツンツン頭の少年が、ギレルノの動かせない腕を勢い良く踏みつける。

「そうや。ついでに、腕へし折ってやるよ。《グラビディ》の使い方は、こういったのもあるんやで?」

言った瞬間、ツンツン頭の少年の足が、ギレルノの腕に食い込んだ。彼の足にかかる重力を増加させたのだ。
それにより、腕から伝わる痛みは倍以上になり――ぼきっ、と嫌な音が響いた。

「……ぐあぁっ!!?」
「ギル!!?」
「あっさり折れたなぁ。脆いもんや」

口調はかなり軽いというのに、少年の笑顔は、ギレルノには歪んで見えた。

「次はどこ折ってやろか? 足か?」
「……っ!!」
「大人しく付いてくると誓えや。したら助けたる。そこで《マレディツィオーネ》喰らってる兄ちゃんも」
「やはりっ、呪、術……っ」

呪術。
言葉に宿る力を駆使し、世間一般に言う《呪い》のような魔法の事だ。故に魔法の特性としては、相手を窮地に陥れるものが多い。

「ま、オレは手品師なんやけど。さぁ、どうする? オレに付いてくるか……此処で死ぬか」

ツンツン頭の少年の圧倒的優勢。ギレルノ達に勝機はないと、思われる。

「……否」
「あ?」

しかし、未だ重力という名の枷を付けられているギレルノの口から、否定の言葉が洩れた。

「貴様、などに……誰が、屈するものか……っ。それ、位なら……、自害した方が、まだましだ……っ!」
「……残念。じゃあ、徹底的に苦しめてから、生きて連れて行ってやるよ」

同じ年頃の少年の表情とは全く違う、残忍な表情を浮かべ、ツンツン頭の少年はトンファーを構えた。
その表情は、まるで玩具を与えられた子供そのものであり、それが逆に恐怖心を煽る。

だが、ギレルノは屈しない。

確かに、召喚師でなくとも――媒介となる武器がなければ、物事を成し遂げる事は普通不可能に近い。あくまでも『普通』の話だが。

「常識ではな……」
「あ?」

ポツリと呟いたギレルノの言葉に、ツンツン頭の少年が頭を傾げる。
それに気付いていながらも、ギレルノは敢えて心の中で台詞の続きを呟いた。

「(俺の身体を媒介として使えば、命が危なくなるだろうが――召喚は、不可能じゃない!)」

目を閉じ、自らの身体に魔力を集中させるイメージを脳裏に浮かべた。
空気を、地面を、体内を流れる全ての魔力は、ギレルノの力に合わさっていき――。

「……?」

ディオルは、闇に覆われかけていた目でそれを見た。
やがて彼の身体は淡い光を発し、そのまま背後の大きな光に集まっていくのを。

光が形を二度三度変形させ、ドームと同じ位の大きさになると色を持ち始めた。
横たわる光は、巨大な胴。
頭上から見下ろす大きな首は、爬虫類のそれ。
ひとつだけで十分迫力はあるというのに、その生物の首は全部で7つあった。

――オオオォン。

巨大な生物は、曇天に向かって大きく嘶くと眼下の小さな人間に向け、十四分の瞳で睨み付ける。それは恐怖というより、畏怖を感じる威圧だ。

かつては海の守護神として果敢に空、陸の主と戦いを繰り広げた、7つの首を持つ神獣――リヴァイアサン。御伽噺に現れる、神の一人だ。

「……ぷ、リヴァイアサンとか」

悠然と立つギレルノの、その背後に漂う大いなる神の姿に、ツンツン頭の少年は戦慄しながらも苦笑を浮かべた。

リヴァイアサンは、海を粗末に扱う人間達に復讐する為、人間達では抗えない強大な津波を起こしたという伝説が残っている。代表的なのは、やはり《月の姫》だろうか?
しかし、何故そんな強大な力を持つ神を、ただの平民の成り上がり召喚師が召喚できたのか。

その答えが、サンには心当たりがある。それを証明する為にも、

「これで、お前を絶対に連れて行く理由が出来てしもたな」

ニヤリ、と顔を歪め、ツンツン頭の少年は相手と対峙する。

「……はぁ、はぁ……」

一方。召喚を行った本人ギレルノは、自分の胸を押さえて動悸を抑えようと奮闘していた。
自らが召喚したものが何なのかを確認せず、ふらつく足元に目を向ける。やはり、力の拠り所となる媒介無しの召喚は、召喚者に大きな反動が返ってくるらしい。

「……まだ、こんな所で……、死ぬ訳には、いかない……」

ざり、と一歩を踏み出す。
折れた腕を庇いながら、ギレルノは敵に向かって歩き出さなかった。

がしゃん!!

「!?」

ドームの外の方から、ガラスを突き破って侵入してきた影が一つ。
黒光りする大きな乗り物――バイクは、爆音を轟かせながらディオルの前に着地した。下手したら彼は敷かれてしまうかもしれないというのに、荒い運転だ。

「よっ。遅れちまった」
「も、もう! レディを乗せてるんなら、もう少し丁寧な運転をしなさい!!」

乗っていたのは、先程外で別れたネルゼノンとエネラ。
この際、年齢も運転経験も足りていないのに二人乗りしている事は、突っ込まないでおく。

「ゼノン、エネラ!!」

ディオルが歓喜の声を上げるのと、ドサッと言う人が倒れる音が背後から聞こえたのは同時だった。

「全く、無茶ばっかりしやがって……」

見ると、口に煙草を咥えたままの長身の男が、倒れたギレルノを支えていた。支えている方とは逆の手は、彼を気絶させる為に使った手刀の形になっている。

彼が無意識に召喚したリヴァイアサンは、召喚師が気絶した事により、暴れる事なく本来住んでいた場所に消えていった。

「ハヤトさん!!」
「ディオル、もうちょい待っとけ。今あいつを確保して術を解除させるからな」

男は、先程まで彼らが連絡を取っていた相手、ハヤト=ドネイト。

ディオル達の先輩であり、厳しい上司であり、放任主義の『父親』である。
勿論、『実の』ではないが。

「邪魔するんやあらへん。そいつを寄越せ」
「邪魔ではない。両成敗しにきたんだよ。それと、ギレルノはうちの構成員だ。お前のようなどこの馬の骨とも分からない輩に渡す事は出来んな」
「なら……力ずくで奪うまでや!!」

ギレルノを抱えるハヤトに向かって、ツンツン頭の少年が飛び出す。
ハヤトは意識のない彼を脇に抱え、その場を素早く離れた。
一瞬前まで立っていた瓦礫に黒魔法の刃が突き刺さり、粉々に砕け飛び散る。

「ハヤトさん、こっちへ!!」

ネルゼノンと、ツンツン頭の少年の気の緩みによってあっさり魔法の束縛から解放されたディオルが構え、彼を誘導する。背後には、エネラも控えていたが――何とも、頼りない。

「邪魔だあぁっ! 深淵の闇、全ての負を糧に悪しき力を解放しろ! 《ダークネスラグナロク》!!」

空を薙ぐと同時に詠唱した、ツンツン頭の少年のトンファーに黒い影が浮かぶ。それはまるで意思を持っているかのように鋭利な刃を生やし、立ち塞がったネルゼノンとディオルへ向けて一直線に飛んだ。

ネルゼノンは右腕、ディオルは頬に、黒い塊の攻撃を受けて一筋の赤い線を作る。一瞬だが、鋭い痛みが走った。

「ぐっ……」
「うわああっ!!」
「《ヒール》!!」

エネラの癒しの力によりダメージは減ったが、そこに少年の第二の攻撃が飛んでくる。再び《ダークネスラグナロク》を使ったのだ。

「死ね、死ね、死ね、死ねえぇぇぇえ!!!」
「ちっ。餓鬼が」

ハヤトはぺっ、と先程まで口に咥えていた煙草を投げ捨て、腰に下げていたホルダーから小型斧を取り出す。付け加えるが、彼はジャスティフォーカス捜査班の頭だ。

「ゼノン、ディオル!!」
「はい!」
「オレがコイツを逃がすまで、この餓鬼の面倒見とけ! 無理に倒さなくて良いからな!!」
「逃がすかよぉぉぉお!!!」

彼の元へ飛翔した黒い塊を斧で打ち消すと、矢継ぎ早に二人に指示を飛ばす。そこへ、ツンツン頭の少年が再び腕を振り上げた。
その手に負の力が集まり、魔法のエネルギーが蓄積され、――魔法は発動しなかった。

「……え?」

魔法を発動するポーズはそのままに、ツンツン頭の少年は身体の動きを止めていた。
否、封じられていた。

彼に纏わり憑いていたのは、透明な何か――それこそ、アメーバのような生物だ。それが、彼の動きを封じる原因らしい。

「サン、そこまでだよ。お騒がせしたね?」
「……っ、リスカ!? テメェ、何しに……」

現れたのは、妖艶な女性だった。
露出の激しい服を身に纏い、手に持つ鞭を鳴らす。
長い緑色の髪は、手入れが行き届いているのかさらさらと風に流されている。
しかしその表情だけは、先程とは違いマントの下に隠されていた。

動きを封じられた少年――サンは、リスカと呼んだ女性に向かって叫ぶ。

「勿論、貴方を連れ戻しに来たんだよ? あ~あ、こんなにしちゃって」
「んだと!? オレ達の目的には、あの気障野郎みたいな《パーツ》が必要だ、回収しに来て何が悪い!!」
「サン。僕、怒るよ? 本人達がいる前で、言わないでくれないかな?」
「……っ」

二人のやり取りは、その場にいるネルゼノン達には全く理解出来ないものだった。全員が少年と女性に注目していたせいで、ハヤトが僅かに眉間に皺を寄せたのも、誰も気が付かない。

女性がネルゼノン達の方を向き、腰から下げている布を持って頭を垂れた。
丁度、高貴な女性がドレスの裾を持って挨拶するように。

「うちの者がお世話になりました。僕が責任持って連れて行きますので、どうかご了承を」
「って、何の解決にもなんねーだろうが!! テメーら何モン……」
「ゼノン」

噛み付くように前に出たネルゼノンを戒めたのは、今なお気絶しているギレルノを抱えたハヤトだった。
先程の煙草の代わりに一本取り出し火を点け、一息吸い込み吐き出すと、器用に口に咥えたまま話し出す。

「分かった。早く何処でも行っちまえ。ついでに二度と、この地を踏むんじゃない」
「ハヤトさ……!?」
「ありがとう。肝に銘じておくよ」

アメーバに包まれたサンを軽々と抱え、リスカが言う。口元が笑っているのが見えたが、逆にそれが恐怖心を煽る。

サンは完全に怒ったらしく、訛りのある話し方であらゆる罵声を彼女に吐いていた。内容があまりに過激なので、取り敢えず聞こえない事にする。

そして、いとも簡単に嵐が過ぎ去った。

   ■   ■   ■

「さぁ、次はアラナンだ!」
「元気だねー」

かなりのいざこざから無事逃走した一行は、予定していた通りアラナンに向かって街道を歩いていた。唯一予定と違うのは、事情聴取やら何やらで出発が一時間遅れ、既に夕日が見える事だろうか。

「そろそろ、野営の準備をするぞ。歩きだから丸二日はかかる、休憩は早めが良い」

グループを事実上仕切っているクロスの一言に、朝から歩き通しだったクーザン達が安堵の溜め息を吐いた。正直、足が棒になりそうだったので有難い。

「はぁ、翼で移動出来ないし面倒だわ~。馬車持ちの行商人でも捕まえれば良かったのに」
「そんな金はないよ、サエリ」

クーザンは、魔物が出て来た時にすぐ剣を抜けるよう剣の柄に手を置いている。野営ではどの方角から襲われるか分からない、その為の警戒だ。
良く見れば、クロスとホルセルもリラックスはしているが、同じように直ぐ行動出来るよう構えている。

サエリののんびりとした意見に、野営道具を広げていたクロスがふと言葉を返した。

「……確かに、行商人の車を捕まえるべきだったかもしれんな」
「え?」
「知っているかもしれんが、アラナンとリカーンの道の途中には、昼でも薄暗い森がある。そこは、嫌な噂が絶えない所だ」
「ああ、知ってるよ。《帰らずの森》でしょう?」

帰らずの森。
入った者は、魔物に殺されるか道に迷って野垂れ死ぬしかない、と噂されている森だ。地学の授業で、教師が何度も「近寄るな」と注意していた。
まさか、その森に行く事になるとは。

自分には関係ないと思っていただけに、クーザンは嫌そうな顔をして溜め息を吐く。
世界は理不尽だ。関係ないと思っている人物に限って、その出来事にぶち当たるような意地悪を仕掛けるのだから。

「何が出るかは分からんが……それが一番の近道だ。通らない訳にはいかない」
「じゃあ、仕方ないわね。取り敢えず、飯を作りますか! 腹が減ってちゃ、森を抜ける前に行き倒れだわ」
「それだけは、勘弁して欲しいですね……」

サエリの言葉でその光景を想像したのか、リレスもぐったりとした表情で返した。尤も、歩き慣れていない為体力を消耗したせいでもあるのだろうが――。

   ■   ■   ■

すっかり日は沈んだが、夏に聞こえるような虫の声は聞こえなかった。冬眠しているのだから仕方ないが、やはり静かな暗闇はあまり好きになれない。

夕食(と称して良いものかどうかは別として)後、クーザンは薪拾いを兼ねて夕方発見した水辺まで散歩する事にした。
てっきり一人だと思っていたのだが、そこには既に先客がいる。
月の光に照らされて尚はっきりと見えないという事は、クーザンと同じ黒髪の者だろうか。自分以外に黒と言えば、一人しかいない。

「……クロス、さん?」
「取って付けたような敬称なら、最初から使うんじゃない」

自分の中での確認の為に呟いたにも関わらず、彼――クロスは湖を向いたまま返事を返した。

「あ、気が付いてたんだ」
「あれだけ草の音を立てておきながら、こっそり来たつもりだったのか。闇討ちには向かんな」
「そんな事するつもりは、微塵もないけどね」

クーザンはそう返しながら彼の隣に腰を下ろし、後ろ手に体の重心を傾けた。
その間にも、クロスはこちらを見る事なくただ湖を見詰めている。――いや。一瞬だけ、チラリとこちらを一瞥したが、結局何も言わない。

「じゃ、クロスと呼ばせて貰うか。……ねぇ、湖好きなの?」
「好きじゃないと、湖に来たらいけないのか」
「そうじゃないけど、意外だな~と」
「……フン」

会話は、そこであっさり途切れた。

湖の傍は、空気が綺麗なのか居心地が良い。風が冷たいのはまぁ我慢出来るとして、これで時折聞こえる魔物の声さえなければ最高なのだが。

と、沈黙していたクロスが立ち上がり、クーザンを見下ろす。

「戻るぞ。見張りがホルセルじゃ、心許ない」
「……だね」

今頃必死に周囲を見回しているホルセルの姿を思い浮かべながら、クーザンも立ち上がり帰路につく。

明日は帰らずの森を抜けられるのか――そんな事を考えていた時、だった。

ずるっ!

「っ!」
「クロス?」

足下に生えている草に足を滑らせたのか、クロスがコケた。何とか体勢を整えて地面との衝突は避けていたが、それにしてもこんなものでコケかけるとは。

「……心配要らん」
「足下見てないと、またコケるよ。この辺りの草って、結構濡れてたりするから」
「…………」

何だか彼の妙な一面を見たような気がしながら、立ち上がったクロスと共に仲間のいる場所へ向かうクーザンだった。

   ■   ■   ■

薄暗い森。

上下左右見渡しても、人どころか動物さえ見当たらない。聞こえるのは、鳥の囀りではなく、魔物の唸り。

ザワザワザワ。影が、揺れる。

森で一番背が高い木の陰もやはり高く、大きい。風が吹き、陰は笑う。

その真っ白い口を、不気味に開きながら――。

やがて風は止み、木は笑うのを止めた。
再び、森が静寂に包まれる。