第8話 殺戮

気配を辿れば、奴の居場所には着く。
だが、どう止めればいい?
分からない。

「ホルセルっ……っ!!」

かなり息を切らせた長髪の少年が、ある路地裏に辿り着くなり、息を詰めた。

それもそうだ。その光景は……正に地獄絵図と呼ぶに相応しいものだったのだから。

辺りには、鉄に似た臭いが漂っている。出所は、聞くまでもない。
後から来たクーザン達は立ち止まった少年に怪訝な表情を浮かべていたが、近付くにつれはっきりしてきたその無惨な光景を見て戦いた。

生きている者は、もう立っている数人だけなのだろう――灰色のコンクリートだった筈の地面は、赤黒く、また白く染まっている。良く見れば、自分達の足下も同じような状態だ。

そして、見るだけでも吐き気がするものまで飛び散っていた。

嗅覚と視覚から感じる『人間』の『死』は、想像以上に残酷で、無惨で、滑稽だ。

人間が、こんな惨い死に方をするのかと思う程に。
人間だった塊が落ちているのを見、軽く目眩がして倒れそうになるが、何とか踏ん張った。

「な……?」
「ひっ……酷い……」
「……あっ、アンタっ!!」

路地裏の中央で、今なお少数の敵に囲まれている血まみれの少年――ホルセル、と長髪の少年が呼んでいた――に気付いたサエリが、指を差しながら声を荒げる。

「ちょっと! 何してんのよ!!」
「……あァ?」

ホルセルは、返事をするのも面倒そうに、四人の方に暗い蒼の瞳を向けた。
まるで、光の届かない深い海の色だ。

「何も此処まで……。え?」
「あっ!! 君は……っ」

髪も服も血で汚れていたから、直ぐには気がつかなかった。
彼は、あの日にクーザン達を(強引に)助けてくれた少年だ。間違いない。

だが今の彼は、あの日以上にやる気のなさそうな虚ろな深い蒼の瞳で、少なくとも味方のような雰囲気ではなかった。

現に、彼はククッと嫌な笑みを浮かべると、背筋の凍るような視線を自分達に向けている。
あの、一瞬にして変わった街の気配は、彼の仕業だったのだと気が付く。

「あぁ……。あん時の餓鬼共か」
「アンタこそガキじゃないかい!! ていうか、確実にアタシの方が歳上よっ! そんな事は良いの、これはアンタがやったのかい!?」
「うるせーなぁ……」

普通なら、ホルセルの異常な殺気に気圧され声も出なくなるだろう。現にリレスが、そのような状態で口をぱくぱくさせている。
しかし流石は悪魔族、サエリはそれに怯む事なく相手に食ってかかった。尊敬しても良い。

彼はサエリの詰問にも全く動じず、ボソリと呟いた。人を殺したというのに、何の感慨も感じられない彼は、恐ろしい殺人鬼のようにも見える。

だらっと握っていた大剣を、ゆっくりと持ち上げた。
何者かの血が――恐らくは一人ではない、何人もの血が、その幅広い剣にはこびりついている。

と、その瞬間、

「うっ……うわあぁあっ!!」
「!」

緊張の糸が切れた兵士の一人が、仲間の制止も聞かず中央にいる血まみれのホルセルに向かって剣を振り上げた。

完全な不意打ちだが、型も何もあったものではない、ヤケクソに似た斬撃だ。

「止めろ!!」
「……ウゼぇんだよ、雑魚」

いち早く気付いた長髪の少年が叫んだ言葉は、果たしてどちらに向けられていたのか。

少なくとも、血まみれの白髪の少年にはその言葉は届かなかった。

ドッ!!!

向かってくる“雑魚”に一瞥をくれ、同時にその胸を、他者の血で汚れた大剣で貫いた。
クーザン達からは、その兵士の背中から、血によって輝く刃物が生えたのがはっきり見えていた。

「がっ……はぁっ……!」
「さっさと死ね」

大剣を引き抜き、兵だった亡骸は地に伏した。赤黒い血が飛び散り、彼の肌に再び付着する。

ホルセルはその血を指で拭い、暫く眺めた後に、嘗めた。その表情は、あの銀髪の青年よりもおぞましく見える。

「流るる氷柱、全てを貫かん雨――《氷柱雨》」

続け様に、ホルセルは大剣を掲げて詠唱を開始した。

完成した魔法は直ぐに具現し、氷柱が残った兵の回りを取り囲む。
その数、数百本。

それが、一斉に兵目掛けて落下する。
地獄から響くような断末魔が、辺りに谺した。

「……止めろ、ホルセル」

一部始終を見ていた長髪の少年が、静かに口を開く。
その表情は、先程クーザン達を咎めた時よりも険しかった。
まるで、獲物を狙う鷲のように。

ホルセルは、漸く彼に向き直り笑みを溢す。
殺人によって得られた優越感と、快感に見初められた怪物の笑みを。

「止めろ? 殺さなければ、こいつらが俺を殺そうとしてくるのに?」

馬鹿を言うな、と吐き捨て、持っている大剣を素振りする。
そんな僅かな仕草さえも、今の彼では他者に恐怖を植え付けるものに他ない。

「……さっさと中に戻れ。ホルセルの体で好き勝手やるな。その声で喋るな」
「(え……?)」

長髪の少年の言葉は、クーザン達には何の事か理解出来なかった。
ただ、クーザンには分かった事がひとつ。

「(……彼は今、操られているか正気を失っている、という事か)」

本来の性格が、あの日一緒に戦っただけでは流石にどういうものかは分からないが、長髪の少年に取って思いもよらないものであるのは確かだろう。

“中に戻れ”の意味は、全く分からないが。

そうこうしている間にも、長髪の少年は腰に提げているケースから短剣を抜き、構えた。
二振りの短剣は共に片刃であり、右手は順手、左手は逆手で握る。リーチの短い短剣での、最もポピュラーな持ち方だ。

今にも飛び出しそうな少年のその様子に驚いたサエリが、慌てて彼に問うた。

「ち、ちょっと! アイツ、アンタの仲間じゃないの!?」

話のやり取りから察するに、彼とホルセルという白髪の少年は仲間なのだろう。
それなのに刃を向けようとする長髪の少年を、サエリは信じられなかったらしい。

案の定、少年は眉間に皺を寄せ、

「……仲間だ」

と答えた。
途中の間が気にならなくもないが――今は、それどころではないだろう。

「なら、何で……」
「部外者は黙っていろ」

更に問いただそうとするサエリの発言を遮り、長髪の少年は飛び出した。
まるで、お前達には関係ない、とでも言うように素早い踏み込みだ。

しかし、向かってきたと気付いたホルセルが黙って立っている筈がない。

「……なぁ、クロス。短剣が大剣に敵うとでも思ってんのか?」
「!!」

ホルセルが、血付きの大剣を薙ぎ払い、まだ乾いていない血が飛び散る。
がきぃ、と受け止めた大剣が重たく感じた。もとより、大剣の方が重量は半端ない。
短剣が不利なのは分かっていた。交差させ、押し切られないようにするのが精一杯だ。
正直、問いかけに応えている余裕はない。

が、長髪の少年は口を開いた。

「だが……」
「止めなけりゃ、また人を殺すって? 当たり前。それが、殺伐としたこの世界で生きる秘訣だからな。そんなキレイゴトばっかり言ってちゃ、生きるのも辛いだけだぜ? 俺達の場合はな――腹ががら空き」
「がっ……!」

ホルセルが上から大剣で押さえ付けながら、意識が短剣にいってしまっていた長髪の少年――クロスの腹に蹴りを入れた。
ずどっ、とくぐもった音がし、クロスは素早く後退した後蹴られた腹を押さえてうずくまる。
ホルセルのブーツがかなり頑丈なのもあるが、何より彼自身の力の強さを上乗せされた蹴りだ。急所と言えなくもない腹部へのダメージは半端ないだろう。

「死ねよ」

無慈悲に呟いたホルセルの大剣は、鈍い音を鳴らしながらクロスの身体を貫く筈だった。

――ガキィ!

クーザンの持つ片手剣にさえ、阻まれなければ。

ちっ、と悔しさからか、はたまた楽しみを邪魔されたからかは分からないが、ホルセルはクーザンを睨み付けながら舌打ちをした。

「……退け。殺すぞ」
「嫌だね」
「あっ、そ」

ひゅっ!

長い青のマフラーの裾が、ホルセルの動きにつられて靡く。

ストレートを相手の顔面目掛けて放ったのだが、相手はそれより先に剣を弾き返して距離を離していた。
支えがなくなって僅かによろけるが、何とか踏ん張る。

再び剣を構えると、クーザンは双眸を細めて彼を睨み付けた。

「見損なった。助けてくれた時は良い奴だと思ったんだけど」
「は……。たった一回一緒に戦った位で、他人を分かりきったと思うなよ。それに、俺は今そっちの長髪を殺そうとしてんだ、邪魔すんな」
「やだね。事情なんて知らないし、知らなくていい。ただ、見てられない。だから、加勢させて貰うよ」

――『断る』

ドクン、と、動悸が早くなった音がした。

「(――っ!)」

それが、一瞬の隙となる。

踞っていたクロスが直ぐ様立ち上がり、クーザンの横を駆け抜けてホルセルに近付いた。
そして、素早く彼の首の後ろを狙い、手刀を喰らわせたのだ。

強張らせたホルセルの体はよろめき、地面に倒れ込む前に慌てて伸ばされたクーザンの手によって支えられた。

完全に目を閉じる直前、ホルセルの口が僅かに言葉を紡ぐ。

「――ぇ……て……」
「……え?」

そして、完全に意識を失ったのか、ホルセルの身体がより重たく感じるようになった。
僅かに呼吸音は聴こえるので、多分気絶している状態なのだろう。

クロスが、クーザンからホルセルを受けとると、その様子を診る。

足元を見れば、まだふらついているようだ……よくこの状態で、あのように素早く、鮮やかに手刀を繰り出せたな、とクーザンは感心した。
流石はジャスティフォーカスの構成員、といった所か。

そして、頭の中で先程のホルセルの呟きを反芻する。

『助、け……て……』

確かに、そう言っていた。
ひょっとしたら、あれはホルセルの本来の人格の、助けを乞う叫びだったのかもしれない。
そうは思ったが、クーザンは頭を振ってクロスの方を再び見やった。
情報が少な過ぎる今の状態で結論を出せば、軌道修正が容易ではなくなる。

出会った時から険しい顔つきをしていた彼は、相棒の無事を確認し幾分落ち着いたようだ。

「……どういう事?」
「お前には」
「ちょっとアンタ達!! 手伝いなさい!!」

関係ない、とでも言おうとしていたクロスの言葉を遮ったのは、サエリの切羽詰まった声。振り向いた先では、彼女とリレスが残っていた兵士を相手に苦戦していた。

相手は武装している兵士。対してリレスは魔法専門、肉弾戦程苦手な物はない。
サエリも、魔法は撃てるものの接近戦には向いていない筈だ――苦戦するのが当然だとも言える。

何より、無視をすれば後でサエリから何を言われるか分からない。

付き合いは短いものの、クーザンは既に彼女らとの付き合い方を習得していた。

「悪い! 今行く――あ、」
「大丈夫だ。自分の身も守れない程落ちぶれてはいない」

返事をした後に、クーザンはクロスがダメージを負っていたのを思い出し、彼に視線を戻した。
迂闊に離れれば、気絶したホルセル共々危険だと思ったからだ。

しかし、彼から「行け」と促されてしまったので、自分もサエリ達に合流する。

クーザンが行った後、クロスが大きな溜息を吐いた。また、悩みの種が増える。

「……面倒な事に……」

がきぃん、ごおっ……っと、剣が交わったり魔法が発動する音が聞こえてきた。

   ■   ■   ■

路地裏に潜伏していた兵士を攪乱し、一行が急いで退散する頃には、既に日は落ちて夜の帳が下りていた。
気絶したホルセルは、クロスが担いでいる。
クーザンは手伝いを申し出ていたのだが、彼が頑なにそれを拒否したのだ。

「はぁ、はぁ……此処まで来れば大丈夫でしょう」
「全く、キリがないったらありゃしない。――で、アンタ!」
「何だ」

不機嫌にクロスを指差して言うサエリ。
クロス自身も、不機嫌そうだ。

「どういう事か、話して貰わないと気が済まないわ!」
「関係な「関係ないじゃ済まないの!!」

クロスの発言を遮って叫んだ彼女の気迫に、流石にクーザンもびびる。
言われた本人は、あまり動じてないようだ。

「大体、あの地域が侵入禁止なんていつ決まったのかしら!? そこの所詳しく話しなさい!!」
「さ、サエリ、落ち着いて」
「……煩い女だ」
「君も油に火を注ぐんじゃないよ」

怒りのボルテージが上がっていくサエリを止めようとするリレスは、気絶したままのホルセルに治癒魔法をかけている。
クロスは最初それも拒否しようとしていたが、サエリの「アンタ治癒使えないでしょう。まぁ、こんな宿もない住居エリアの端っこから宿までコイツ担いで夜通し歩きたいのなら話は別だけど、アンタみたいなほっそい男がそんな事出来ないでしょ、ほらさっさと貸しなさいよ馬鹿」の発言に渋々治療を受けていた。

余程周りを信用しない質なのか――何にせよ、付き合いにくい人物に違いはなかった。

「……一般人は関わるな。命を捨てたいのか」
「そうは言ってない。さっきは知らなくていいって言ったけどさ……やっぱり、関わってしまったからには原因位は知りたいんだ。君も、話してくれるからこそ、一緒に逃げて来たんじゃないの?」
「それはこいつが……」

話したくないのなら、一緒の方向には逃げなければ良かったのだ。

そうクーザンが言えばクロスは何かを言いかけたが、サエリに睨まれて舌打ちをして黙り込む。
蛇に睨まれた蛙――のように彼は消極的ではないが、既にそういう関係になっているらしい。

「何なら、何故君があの金髪――えっと、スウォアって言ったっけ? 奴に追われていたのかだけでも良いから、さ」
「……。一つ訊きたい。貴様ら、何故そんな事を訊く」

険しい表情で黙り込んだクロスは、暫く間を空けた後に問い掛けた。

クーザンはサエリとリレスに目をやると、二人は僅かに頷く。

「トルンの神隠し、知ってる?」
「……やはり、神隠しされた奴等を追ってる学生だな」
「情報が早いわね。JFの情報網?」
「違う。……こいつからだ」

クーザンの台詞に、クロスは大して話を訊く事なく彼らの立場を理解したようだった。

組織の情報の早さに感嘆したサエリの言葉を否定し、彼はホルセルをちらりと見やる。

「ホルセルからお前達の特徴を聞いてはいた。……が、まさかこっちまでは来ていないだろうと判断していたんだ」

そうだった。
彼がホルセルと知り合いならば、自分達の事を知っていてもおかしくない。

「あ、忘れてた。ソイツは何なの一体?」

思い出したようにサエリが口にするが、クロスは更に表情を歪めた。
恐らくは、一番訊かれたくない事だったのだろう。

「関わるなと言って――」
「二重人格?」

クロスが再び同じ言葉ではぐらかそうとするより前に、黙っていたクーザンがさらりと言った。
直後、彼は驚いたように相手を見る。

「当たり?」
「……何故」

主語も抜けたただの問いかけだったが、彼の言いたい事は分かった。

「何となく。前とは違う雰囲気だったから」

別人のようにも感じたしね、と付け加えると、クロスはクーザンを、不機嫌そうな表情そのままで真っ直ぐ見た。
僅かな迷いも見逃さない。
その目は、そう言っていた。

「……貴様、何者だ?」
「名乗る程じゃないよ。トルンで行方不明になった奴を捜して旅してる、只の学生。彼には、トルンでの戦闘で助けて貰った」

嘘は、言ってない。
クーザンはトルン魔導学校に通う生徒であり、あの日ホルセルに助けて貰ったのは事実だ。

「怪しいと思うのは分かります……。でも、良ければ色々教えてくれませんか? 勿論、口外はしないと約束します」

リレスも治療する手を休め、クーザンの言葉を継いで一緒に懇願する。今度はサエリが黙っていた。

暫く何かを考えていたクロスが、再び溜息を吐き何かを口にしかけるが、言葉が発される事はなかった。

「――ぅ……」
「!」

今まで微動だにしなかったホルセルが息を漏らし、目を醒ましたのだ。
街灯の光がが眩しいのか、彼は右手を目の上にやる。
僅かに開けられた瞼の下からは、さっきまでとは違う空色の瞳が見えた。
という事は、戻ったのか。

「大丈夫ですか?」
「……ここは……」
「リカーン居住エリアの何処かだ」
「クロス……って、うわっ!? お前ら、トルンのっ!?」

体を起こしたホルセルが、最初に声をかけてきたのが誰か気付くと、驚いて身を引いた。
瞳を見開かせ、呆然としている。

「人を幽霊を見たみたいに言わないでくれる? 仮じゃないけど助けてあげたのに」
「あ、悪い……って、え? オレがいつ……」
「覚えてないの? アンタは――。いたっ!」
「気にしないで。取り敢えず提案なんだけど、俺達の宿に来ない?」

しれっと言葉を続けるクーザンを、サエリが恨みがましく睨みつける。その手は、自身の背中をさすっていた。
お分かりとは思うが、クーザンが彼女の背中をこっそり叩いたようだ。

そして、同じように彼を睨みつけているクロスが、ホルセルより前に返事をする。

「何の為に?」
「尋問?」
「く、クーザンさんっ!?」
「嘘だよ。ちょっと訊きたいだけ。こんな所で立ち話もなんだし?」

ホルセルには見えないように、クーザンはクロスに微笑んでみせる。
反対に、笑みを見せられた彼は凄く嫌そうな表情を浮かべた。

「……分かった」
「クロス!? 何でこんな奴らの……」
「助けられたのは事実だ。恩は返さなければいけない」

だから、恩って何だよ!と言うホルセルを無視し、クロスはリレスに宿の場所を訊いていた。

それにしても――やはり、さっきまでのホルセルは別人だったようだ。
いや、実際には同一人物なのだが、敢えて言い表すのなら……今の彼からは、おぞましいまでの殺気を全く感じない、とでもいうのか。

そんな事を考えていると、先程クーザンに叩かれたサエリが彼に食ってかかってきた。
やり返すように背中を大袈裟に叩いてくると、クーザンの口の端を思いっきりつねって無理矢理視線を合わせられる。

『アンタ、何するのよ! 痛かったわ!』
『こっひがいひゃいかりゃ、はにゃせ。……気付かなかった? 彼、凄く睨んでたんだけど』
『え?』

背中の痛みと合わせ、つねられた頬をさすりながらクーザンが答えると、サエリが呆気に取られる。
因みに、クーザンはつねられた時「こっちが痛いから、離せ」と言っていた。

『多分、バラしてないんだろうね。彼が二重人格だって。サエリがあのまま口にしてたら、彼、本気で殺しに来たかもしれないよ』
『……』

サエリは、クーザンから告げられた推測に呆気に取られた。
いや、彼女が驚いたのは推測の方ではなく――クーザンの、恐るべき観察力か。

あのクロスという男は、見た目には感情の起伏があまり見られない。自身も洞察力や観察力には多少の自信があったのだが、クロスが自分を睨んでいるとは全く気が付かなかった。

それなのに、このクーザンという少年は気が付いた。僅かな視線の動きと、回りの雰囲気のみで。

「……アンタってさぁ」
「何だ?」

自分がやってのけた事の凄さには気が付いていないのか、本当に呼び掛けられた理由が分からないという表情で此方を向くクーザン。

鈍感なのは、自分に対してだけらしい――サエリはそう結論付けると、溜息を溢す。
同時に腕を胸の前で垂直に持ち上げ、掌を手首から左右に振った。

「や、もう良いわ。後で分かるだろうし」
「何がだ?」
「アンタが、どれだけユキナを厭らしい目で抜け目なく見てるかよ。あの子が蹴りで足を上げる度に見てるんじゃないの?」
「…………一体今までの話で、どうやってそういう結論に行き着いたのか教えて貰いたい所だ」

追求されると面倒なので適当に話をはぐらかすと、クーザンは眉を吊り上げてサエリを睨み付ける。
そこに、

「では、行くぞ。さっさと案内しろ」

ひそひそ話をしていると思っていたクロスが呼び掛け、一行は宿に向かう。

   ■   ■   ■

その様子を、輝く月を背にして観察している影がひとつ。

背が高く、中途半端な長さの髪を風に靡かせて佇んでいる人物のその双眸は、ナイフのように紅く鋭い。
風も決して弱くはないのだが、かなり薄着である。

「……」

やがて、その人物は闇に消えた。
否、人の形は崩れ、闇に――

影の中に消えていった。

   ■   ■   ■

クーザン達が去った路地裏。
あと数分もすれば、匿名で呼んだジャスティフォーカスの構成員が調査をする為に封鎖される。
家の窓から見下ろす住人達も、顔を真っ青にして目を逸らした。

だから、誰も気が付かなかった。

斬り落とされた腕や足が、粉のようになって消えていく光景に。

やがて、その路地裏からは、

死体が消えた。

目を逸らしていた女性に、まだニ、三歳であろう少年が飛び付いた。その手には、一冊の本が抱えられている。

「ねぇままー! 《つきのおひめさま》またよんでー!」
「そうね。分かったわ、いい子だからあっちに先に行けるかしら?」

女性は少年ににっこりと微笑むと、後ろ手にカーテンを閉めて外を見えなくした。
あんなおぞましい光景、間違っても子供には見せたくない。

「うん! まま、はやくぅ」
「はいはい」

女性はソファに腰掛け、少年から本を受け取る。
前に読んでいた場所に付けていた付箋を剥がし、読み始めた。

海の神と大地の神、
愚かな堕ちた咎人の手により、
望まぬ衝突を迎えん。

長い、永い闘いの末両者は相討ちとなりて、
調律を司る巫女と中立の者の前にて

母なる海へと還りけり。
荒れ狂う海の神、
対なる大地を支える神、
互いが未来再び邂逅さすれば
世界は滅びに向かいけり。

その高名たる名――
海の『リヴァイアサン』、
大地の『バハームト』。

中立たる神は、
調律の巫女の死後も
長きに渡り生き続け、
今なお姿を変え
我々の中に混じり、
世界を見渡しているという。

再び世界が混乱に陥り、
本来の姿を失う時、
生まれ落ちる筈の『彼』を
当てもなく捜しながら――。

NEXT…