第6話 遭遇

カラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ……。

良く晴れた午後の青い空と、雄大な自然が眼前に広がる大地。
降ったばかりの雪が端に寄せられ道に沿っている為に、その線は白く見える。それを、茶色の箱のようなものが通っていた。
馬に荷台を付けたそれは、乾いた音を立てながら進み続ける。
砂には、今まで走ってきた道に轍をかき込んで行きながら。

荷台に入ると、数人の人間が乗るスペースと、馬車は商人の持ち物なのか、売り物である雑貨が所狭しと積まれている。
たまに、重さに負けて物が落ちてくる位だ。
そのお陰もあり、荷台はぎゅうぎゅうと狭く、空気も悪い。

そして、人が掛けるスペースに彼は座っていた。

「……酔った」

クーザンは口を手で押さえ、うなだれる。
顔面蒼白、冷や汗までかいており、相当な乗り物酔いのダメージが来ていると思われる。

「わ、私も……」

向かいに座るリレスも、クーザンと同じような格好をしていた。
台詞からして、馬車の激しい揺れに慣れていない二人は酔ってしまったようだ。
手には、緊急用の袋を握っている。

「だらしないわね、アンタ達」

唯一平気そうな顔をしているサエリが二人を一瞥し、溜息を吐いた。

今、この荷台には三人の他に、行商人を護衛する任に就く用心棒が四人乗っていた。

国と国を渡り歩く行商人を代表とする職業は、必ずと言って良い程用心棒を雇う必要がある。
その理由は、勿論商品を盗賊から守るというのもあるが――大概が、国の外を徘徊する魔物を退ける為だ。

商人は、一部を除いてほとんど戦う力を持たない。
自らの手で商品を守れない以上、それを守るには報酬という代価を払って用心棒を雇うしか方法はないだろう。

話は逸れたが。
狭い上に、冬にも関わらず暑苦しいこの空間では、二人が乗り物酔いをするのも仕方ないかもしれない。

勿論用心棒の方々は酔いへの耐性はついているらしく、時折二人の心配までしてくれている。
正直、クーザンは自分が情けなく思ってしまった。

「今そんなんだったら、これから先が思いやられるわよ」
「分かってますけど……うぅ」
「ゆ……揺れが激しい……」

クーザンは込み上げてくる吐き気に、思わず床に座り込もうとする。

――ドォン……。

「うわっ!?」
「!」

低い音がしたかと思えば、突然地面が揺れだした。馬車ごと揺れているから、地震である。
従者の人間も、唸り出した馬に慌てているようだ。

「一体……」
「坊主共、こっから出るんじゃねーぞぉ!!」

用心棒の男の一人がそう叫び、自身の武器を手に荷台から飛び出していく。他の三人も、最初の男の後に続いた。

残されたクーザン達は、状況判断に全力を尽くす。

「はぁ。やっぱり出たわね」
「出たって……。まさか、魔物?」
「他に、何があるって言うのよ」

この世界には、広大な草原や荒れ地、所により洞窟や森が点在している。
そして、そこには盗賊の他に先程少し話した、凶悪な魔物も存在している。行商人や旅人が持つ食糧を狙い襲うものもいれば、人そのものを狙ってやってくるものもいる。
国などその比ではないので、各国には門に守護装置が設けられているが。

余談だが、荒野や草原にはあまり強力な魔物はいない。
森や砂漠の奥地等、あまり人が立ち入らない場所に彼らは棲んでいるのだ。
強力な魔物は、人を嫌っていながら人を好む――という説明は些か矛盾しているが、人目に付かない場所で生き、まれに人を喰いに現れる。

故に、それらの場所には幾ら用心棒を乗せていたとしても先ず近寄らない。

まぁ、《ジャスティフォーカス》と呼ばれる警察組織や、ギルドに雇われた魔物退治を行うスペシャリスト等は別だが。

そして、今回の場合――腹を空かせていた魔物がそういった場所から下りてきていた所、クーザン達が乗せて貰っていた行商人の車が通り、食料を狙って襲って来た。
そんな所だろう。

「この辺はあまり出ないって聞いていたんだけど。油断大敵ね」
「「ちゅーちゅー!」」

サエリの説明と同時に、何かの鳴き声が聞こえた。それも、かなりの数だ。
嫌な予感がする。

「……なぁ、今の鳴き声……もしかして」
「ラット、かしら」

サエリは、戸惑いもせずに返す。

ラットは、つまり鼠の一種だ。
なのだが、魔物としてのラットは凶悪かつ凶暴。
その上百単位の群れで行動するので、厄介なことこの上ない。

こそっと荷台の隙間から外を見やると、やはりラットの群れが荷台にある餌を狙って襲っていた。
用心棒の四人も、すばしっこいラットに苦戦しているようだ。

「どうします?」
「どうするもこうするも……加勢するしかないんじゃないかな。あれじゃあ、ここまで来られるのは時間の問題だ」
「ま、準備体操には丁度良いわね」

困ったようなリレスの問いに答え、片手剣を抜く。何時も稽古に使うような練習用のものではない、真剣だ。
サエリも軽く準備運動をしながら、腰に引っ掛けていたクロスボウを手に取る。
それを見たリレスも、何処に持っていたのか背丈よりも長さのある呪杖を取り出した。先端には太陽を象った彫刻が施されており、中心に鮮やかな朱色の宝石が嵌め込まれている。

「行きますか」

サエリの言葉を皮切りに、三人は一斉に荷台から飛び出した。
「ちっ……。ラットめ、どうしてこんなにいやがるんだ!?」

用心棒の男は寄ってきたラットを大剣で真っ二つに斬り、悪態を吐く。

商人から聞いていた話では、「極力魔物の出現情報のないルートを通る」という事だった。
しかし、現実にこんなに大量のラットが自分らを襲っているという事は――何らかの異変があったか、出現情報がなかっただけか。
ひょっとしたらこれも、三年前からの生態系の歪みが原因なのだろうか?

三年前のある日から、大陸での魔物の被害は段違いに多くなっている。
何人もの著名人が口を揃えて言っているのだ、恐らくはその通りだろう。

そう考えていた男は、無意識に『油断』という気の緩みをしてしまった。
ザンっ!!

自分の背後で、何かが斬られる音がした。

「!?」
「後ろから、ラットが襲ってこようとしてました」

慌てて振り向けば、何時の間にか男の背後に少年――クーザンが立っている。
その向こうには、光の粒子になって消えていく魔物の姿。
横に躊躇いのない一閃で仕留めたようだ。見た目からはあまり戦い慣れていないようだったが(その上乗り物酔いをしていたので、旅慣れてもいないと思っていた)、腕に自信はあるように感じる。

「坊主、助けてくれたのか?」
「そうなります。……戻れと言っても、俺は戻りません」

クーザンが片手剣を構え、再び襲ってくるラットに向かった。
男の返事は、元から期待していないらしい。

「……最近の若い者は強いな」

ポツリ、と用心棒の男が呟く。
今は、若者の快活さが羨ましく思えた。

一方。

「リレス、アンタはオッサンらの治療してきて」
「はい!」

初対面の人間にも容赦なくオッサン呼ばわりするサエリと用心棒の男の二人でリレスを守り、彼女自身は負傷した二人の用心棒を治癒するというポジションに就いていた。
治癒魔法を発動している者は、基本的に戦闘には参加出来ない為である。

「……面倒ね」

ち、と小さく舌打ちをし、サエリが呟いた。
敏捷で小さいラットが相手であり、数も少なくない事からすれば、その呟きは彼女に限らず全員が思っていた事だろう。

ラットを斬っても斬っても、数が一向に減らないのだ。
それに元々、ラットは生殖能力が著しく高い魔物。
今周りに見える数は、まだ少ない方である。

「一気に潰したら楽かしら……。クーザン!!」
「な、何だ!?」

クーザンは必死にラットと応戦中。
しかし返事をしてきた所を見ると、まだ余裕はあるらしかった。

「(中々の上玉を、旅のお供にする事が出来たみたいね……)」

くすっ、と一人笑みを溢しながら、サエリは口を開いた。

「そこから動いたら死ぬからね」
「は?」

何の緊張感もなく放たれた言葉に、クーザンは目を丸くする。
誰だって、物騒な事を緊張感もないまま言われたら、ぽかんとするだろう。

それをあっさり無視し、サエリは精神を集中させ詠唱を開始する。俗に《魔法》と云われる、神から授かった力だ。

「――深淵の闇よ、天に登らん炎の柱を! 《デスフレイム》!!」

一息で紡いだ言葉が終わると同時に、サエリの背中から黒い蝙蝠の羽根が現れる。

天使や悪魔が持つ翼は、通常は邪魔にならないように消す事が出来る。
が、魔法の使用時や自分の意思で呼び出した時には、瞬時に背中に具現化されるのだ。

ラットが駆ける地面からは大量の火柱が発生し、避けられないそれは体を貫かれた。
出所の予測出来ない火柱に勿論ラット達は反応が遅れ、一匹、また一匹と鳴き声を上げながら光の粒子に変わっていく。

――やがて、一匹残らず消え去っていった。

呆気に取られていたクーザンや男達は、綺麗に魔物がいなくなった大地を見やる。
パンパンっ、と両手を叩き合わせ、サエリは具現化させていた黒い羽根を仕舞った。

「こんなもんね」
「……お前、悪魔だったのか」
「そうよ。あら? 言ってなかったかしら」

いけしゃあしゃあと言うサエリにクーザンは溜め息を吐き、

「聞いていない」

とだけ答えた。

そういえば、旅の始めにした自己紹介でも互いの名前を名乗る位しかしていない。
クロスボウを持っていたから、弓手なのは推測していたが――種族までは考えていなかった。

「(ま……関係ないか)」

クーザンはそう割り切って、行商人の待つ車に戻ろうと足を向けた。

しかし、それはサエリにとっては予想外の事だったらしい。
誹謗中傷の限りを覚悟していた彼女は彼の行動に呆気に取られたが、慌てたように問い掛けてきた。

「何で言わなかったのか、訊かないの?」
「何の為に」
「アンタねぇ……。世間的な、悪魔に対する見聞知らないの?」

そういえば、そんな話もあったような。

何故そんな事を訊くのかが分からないと言いたそうな表情で返してきたクーザンに、コイツはホントに鈍感なんじゃないだろうかとサエリは思った。しかも、多分無意識。

今ではそう感じないが、昔は酷いものだった。悪魔と天使の関係もそうだが、何より人間の両者に対する差別が。
悪魔の子供が天使と仲良くするのでさえ、後ろ指を指されたり隠れて中傷されたりしたものだ。

だが、そう言ったサエリの心情とは裏腹に、クーザンは意外そうな表情を浮かべた。

「……あんなの、気にしてるのか?」
「アンタそれ、世界を敵に回しかねない発言よ」
「ふーん……。俺は別に気にしないけど。昔、姉さんの友人にいたから」
「姉の……友人?」
「まぁ、腐れ縁みたいなだけ」

サエリとしては、自分への偏見のなさよりもその『姉の友人』が気になったが、クーザンはそれ以上語ろうとはしなかったので、話は打ち切りになる。

「(……こいつ、もしかして只の剣士じゃなかったりするのかしら。ったく、ユキナも大変な奴を好きになったものね)」

つい先日、半ば喧嘩のような形でいなくなった少女に向け、サエリは同情の念を送った。

会話を横で聞いていたリレスは、こっそり胸を撫で下ろす。内心、サエリが怒鳴り出さないか心配していたのだ。

それから、数時間後。

「いや~坊主、さっきは助かった!! 嬢ちゃん達もありがとな!!」
「いや、俺は別に……」
「私もそんな事は……」
「大人しく誉められておきなさい」

用心棒の男達に礼を言われ、少なからず戸惑っているクーザン達に、行商人は全力で目指していた国に向かってくれた。
お陰で、一行は予定より半日早く目指していた国に着いたのだ。
魔物はあれから遭遇する事はなく、平和な道のりであった。
有難い。

「おじさん、乗せてくれてありがとうございました」
「良いって事よ。旅、気をつけてな。最近は、魔物の噂が絶えないからな」
「魔物の……噂?」
「あぁ。ここ最近、平野に現れる魔物も凶暴化しているって話を良く耳にするんだ。キミらの腕なら何とかなると思うが、用心するに越した事はない」
「……はい」

行商人と別れ、入出国の手続きを済ませる。
漸く管理所を抜けた三人が見た国は、トルンとはまた違った長閑な場所だった。

国の名は、リカーン。

野菜や穀物等の生産率が世界一の、正真正銘の農業国だ。
リカーンブランドの野菜は無農薬でいて、新鮮で旨いと数多の調理人が口を揃えて言っている、と雑誌に書かれていたのを思い出した。

国自体は『農業エリア』と『居住エリア』に別れているが、両者の違いがはっきりしている為に間違えにくい。
簡単に言えば、『都会』と『田舎』だ。

「さて。今日の宿を探しますか」
「じゃあ、俺情報収集してくる」

荷台に揺られている時に話していたのだが、この国ではここ最近『奇妙な神隠し』という事件が起きているそうなのだ。

ジャスティフォーカスでも調査は進められているが、いなくなったのが弱冠12歳の少女としか分かっていないらしい。

そこで、他に何か有力な情報を得られないか国の住人に訊いてみる事にしたのだ。
それに、一方が宿探しでもう一方が情報収集をした方が、時間はかなり縮小出来る。

「それは有り難いけど、気をつけなさいよ。ジャスティフォーカスの、特に捜査を担当する奴らはこれといった制服がなくて、一般人に紛れ込んでいて厄介なんだから」
「分かってるさ」

話し合いの結果、クーザンとリレスが情報収集兼道具の買い出し、サエリが宿屋探しとなった。
彼女曰く、「まぁ色々と作戦考えてるから任せなさい」という事らしい。

「情報収集……ね」
「一体誰に訊けば分かるんでしょう?」
「……」

この広い国の中、奇妙な事件の情報を詳しく知っている人間を探すのは、至難の業だ。
一人ひとりに訊いていくしか、確実に探す方法はない。
何事も地道が肝心だと言い聞かせ、クーザンは道を歩く。

「(先ず……アイツが何処の奴なのか調べなきゃな。それさえ分かれば、後はどうにでも出来る……)」
「あ、クーザンさ」

――どんっ。

考え事をしながら歩いていたクーザンは、不注意で横を歩いていた通行人に、腕が当たってしまった。

慌てて振り向き、頭を下げて謝罪の言葉をかける。

「あ、すみませ……」
「済まな……、!」

ぶつかった通行人は、黒と紫色の混じった長髪の、見た目クーザン達と同じ年位の少年だった。
目付きが若干キツめだが、精悍な顔立ちをしている。

クーザンが一言謝ると、彼も振り向いて謝罪を口にしかけた。
が、一瞬目を見張る。

「……? 何?」
「あ、いや。人違いだ……前はちゃんと見て歩け」

じっと見詰められては、あまりいい気はしない。これが女の子なら、話は別なのだろうが。

横に逸れかけた思考を元に戻し取り敢えず聞いてみると、彼は慌てたように否定し、さっさと人混みに消えていった。

「……?」
「じゃ、行きましょうか。早く買い出しに行かないと」
「あ、ああ」

リレスに促され、クーザンは慌てて彼女についていく。
が、頭はさっきの彼でいっぱいだ。

「(今の人……)」

何処かで、見た事がある気がする。だが、一体何処で、何時?

クーザンは、それから小一時間程同じ内容で唸る事になる。
どうしても、さっきの彼を知っているような予感を拭い去る事が出来なかった。

「……あいつが言っていた奴らに似ている気がしたが……。気のせいか」

クーザンにぶつかった少年は、早足である場所に向かっていた。

それにしても、と思う。

「……あの黒髪の奴……似ていた……」

   ■   ■   ■

その日の、夕刻。

リカーンから遠く離れた、雄大な草原を抱く大地《キボートスヘヴェン》地方。
その地に存在する、一つの国があった。

国の名の意味は、『白き街』。

魔導師達が造ったと言われる、別名『水の楽園』。
国の至る所に川が流れ、一つの移動手段としてボートが格安で動いているのも、ここの特徴だった。
その国の郊外に、ポツンと建物はある。

白い壁の、病院のような造りをしている建物の裏には鬱蒼と生い茂った森があり、あまり人は近寄らない。
普通の人間なら、魔物を警戒するからだ。

建物の屋上にはくつろぎスペースが設けられていて、一人の青年がベンチに座っている。
群青色の中途半端な長さの髪は風に揺られ、同じ色の瞳は手に持っている本に向いている。
青年の横には、数分前に彼の同居人が淹れてくれた紅茶があるが、淹れてから結構経つのか湯気は上がっていない。

と、青年が背を向けているドアが開いた。

やってきたのは、長身の男だ。
燃えるような長い紅髪を束ねた男は、青年がゆっくり座っているベンチに近寄り、声をかける。

「やはりここにいたのか、ユーサ」
「何しに来たの、イオスさん」

本に目を向けたまま返事をする青年――ユーサに苦笑しながら、男――イオスが彼の向かいに座る。
手に持っていた新聞を広げると、口を開いた。

「リカーンでの事件、知ってるか?」
「“農業国で有名なリカーンにて、18日未明謎の神隠し事件が発生した。被害者は12歳の少女であり、ジャスティフォーカスは事件の目撃者を捜している。また、少女の家族も判明していない”」

ユーサが顔も上げずにつらつらと発した言葉の羅列は、イオスの持っていた新聞の、その記事の文章と全く一緒だった。
何時の間に読んだのか。

「……。お見事」
「多分、その子も《パーツ》だね」
「何故、そうだと?」

何とユーサは、ゼルフィルやスウォアが言っていた言葉を平然と口にしたが、イオスは何にも引っかからなかったようだ。

イオスの問いかけにやっと顔を上げたユーサが、はっきりと言う。

「勘」

色々と詳しく理由を述べてくれると期待していたイオスは、的外れな答えに思わずベンチから落ちそうになった。

「………………はっきりしてくれ。そうだとしたら、色々やるべき事があるんだから」
「情報が少なすぎるんだよ。12歳の少女、だけじゃあ……」
「ジャスティフォーカスも、それだけ情報漏洩を危惧しているという事だ」

お手上げですー、と、ふざけたように言うユーサに、イオスは溜息を吐く。確かに、情報不足ではあるが――。
しかしイオスも、只の臨時教授という立場。
そう簡単に、怪しい事件の情報が手に入る筈もなかった。
当てはあるが、その彼も簡単に情報を提供してくれるような性格はしていない。

「分かった。私も次大学に行ったら色々調べてみるか」
「うん、よろしく」

ユーサはそれだけ言うと、また本に目を戻す。

読書を好むイオスは、彼がそこまで夢中になって読むその本が気になった。
お楽しみに水を差すのは気が引けるが、探求心には勝てない。

「……最後に。何を読んでいるんだ?」
「ん」

イオスに見やすいように、ユーサが本を傾けた。
表紙には、丸い満月が浮かんだ夜空をバックにタイトルが書かれている。
この大陸では一番有名である、太古の伝承を元にした御伽噺のタイトルが。

「『月の姫』、か」
「殆ど紛い物だけどね。ある事ない事、色々脚色されてる」

《月の姫》の話は、数々のメディアで言い伝えられている。
元々は大陸に伝わる伝承の一つだったが、近年それに関する重要な文化財が次々と見つかり、現実味が増してきたと学会でも注目されている。
そして、今では『伝承』よりも、『御伽噺』として親しまれていた。

また、現在エアグルス大陸の首都であるダラトスクを統治する王族には、《月の姫》の血が受け継がれていると云われている。

「何処まで読んだんだ?」
「……陸の神が、正気を失った海の神と戦う所。空の神と巫女の会話が何とも胡散臭い」

前言撤回、別に夢中になって読んでいる訳ではなかったらしい。その証拠に、彼の眉間には微妙に皺が寄っていた。

「仕方ないさ……口頭伝承は、文字通り人間の口から口へと移るものだからな。一人ひとりの解釈が違うせいで、ある事ない事が逆になってしまう事もある」
「分かってるよ」
「だから面白いんだよ、人間は」
「……年寄り臭い。あっち行ってよ、僕まで三十路の気分になる」
「ユーサ、泣くぞ」
「ご勝手に」

それで終いだというように、ユーサはイオスに背を向ける。
イオスは小さく苦笑すると、読む必要のなくなった新聞を持って立ち上がり、建物内に戻って行った。

   ■   ■   ■

数時間後、郊外にある格安の宿を見付けたサエリと合流し、二人は今日の収穫を報告した。

収穫と言っても、全くと言って良い程無かったが。

サエリの方は宿を借りる際にかなり値切ったらしく、相場の三分のニ位の金額を請求してきた。
一応、先に払ってしまったらしい。

「お前……どんな手を使ったんだよ」

クーザンはその話を聞き、呆れるというよりは純粋な驚きを顔に浮かべながら財布からその金額を取り出し、彼女に渡す。

宿屋の店主が、そんなに気前が良いとは思っていなかったのだ。
確かに、学生の身であるクーザンには有難い。学生の小遣いなど、悲しいがたかが知れている。

毎度、と返した彼女は、そんなクーザンの疑問にも律儀に答えてくれた。

「え? 勿論あの手この手で。女って武器を使って、『お金あまり持ってないから、格安で出来ないかしら?』って言ったらイチコロだったわよ。リレスには出来ないわね」
「……私だって、出来るかもしれないじゃないですか……」

ぴしっと腰に手を当て、胸を張るサエリ。左手は頭部に当てているので、ちょっとしたモデルのポーズである。
服装も相俟って、目のやり場に困ってしまう。
対してリレスは、着ている服のせいもあるかもしれないが、あまり身体の凹凸がないように感じられる。スレンダーな体型、と言った方が分かりやすいか。

とは言え二人をぱっと見比べたら、確実にそういう誘惑に引っ掛かりそうなのはサエリの方だ。
リレスには悪いが。
引き合いに出された当人は己の身体を見下ろし、若干落ち込むように顔を俯かせた。

「あーはいはい。泣かない泣かない。リレスも出来るわよねー?」
「……何か、凄く馬鹿にされた気が……」
「……。兎に角、今日は休もうか。何か適当に晩飯と道具を買い足してから」

あまり得意ではないが、クーザンはそれ以上リレスが落ち込まないように話を逸らさせた。

夕方になり、太陽は沈み月が現れる。まだ、序章の音楽は、聴こえては来ない。
だが確実に、運命は動き出していた。