第2話 賽は投げられた

翌日。

「それでは! 長期休業に入る前に、最後の授業を開始する!!」

高らかに宣言した教師に、生徒達が一気にブーイングをし始める。
「引っ込めー」やら「たりぃから却下ー」等と聞こえてくるが、教師は聞く耳を持たないようだ。
勿論、その中にクーザンとウィンタもいる。いるが、他の生徒のように罵声を吐く事はない。
因みに、教師は先日無駄な演説を行なっていた教師と同じだ。

「名前を呼ばれた奴は、前に来い!」
「……面倒くせー」

ウィンタが、教師に絶対に聞こえないような声で呟いた。同時に、相手に呪いでもかけれるんじゃないかと思う程の鋭さで、教師を睨んでいる。
付け加えれば、ユキナは彼らとは別のクラスなので、ここにはいない。

二人とも、魔導学校の剣術学科の生徒である為に、教師が突然言い出した「冬季休業に向けての組み手」に参加しなければならなかった。

これは既に毎年恒例になっており、面倒な生徒は教師の目を盗んでサボる者もいると言う。実際、周りに集まっている生徒の数は、何時もより少ない。

クーザンとウィンタは、正直に言えば去年も、その前の年もサボっていた。
あまり馴れ合いが得意でないクーザンに、ウィンタがついてくるという形で。

しかし、今年は参加しなければ卒業も危ういと別の教師――こちらは結構生徒に人気がある――に言われてしまった為、不本意だが仕方なくこの場にいるのだ。
成績は心配ない筈のウィンタについては、「クーザンが参加するならオレもー」と軽い気持ちで付いてきている。

「………………はい! じゃあ、次は……」

二人が愚痴っている間に既に最初のペアが終わり、教師が生徒を見回す。
本当に、素人が少しかじった程度の剣術を見ても、大した向上は得られないと思うのだが。
誰もが当たりたくないらしく、視線を虚空に向けていた。

そんな中、教師の視線は端っこで佇んでいたクーザン達を捉える。
昨日の仕返しとでもいうかのように、教師は二人を指名した。

「じゃあ、クーザンとウィンタ、いこうか」
「うげ」

ウィンタが狐につままれたような声を発する。よっぽど嫌らしい。

「……ウィンタ、行くよ」

意外と切り替えが早いクーザンに促され、ウィンタも「くっそ、ヤケクソだ」と呟きながら中央に足を向けた。

この分では、わざと武器から手を離して教師にぶつけるような真似をしでかすかもしれない――クーザンは、密かに溜息を吐く。

学生達の輪の中心に立ち、互いに武器を構え向かい合った。

「全力で戦っても良いが、怪我だけはさせるなよ」
「へいへい、分かりましたっと。クーザン、手加減無しで来いよな」
「分かった」

クーザンは武器の中でも扱い易い片手剣、ウィンタは重量があり攻撃力が高い鎚だ。
小回りが効く分、クーザンが優勢に思える。
一方、武器の重量からくる衝撃は断然鎚の方が有利だ。一撃でも喰らえば、体勢を立て直すには時間が必要だろう。

そんな分析をする傍ら、クーザンは何処にそんな大きさの鎚を何時も持っているのか、幼馴染の謎が気になっていた。何処かに隠しておくには大き過ぎる。
稽古前の油断は集中力を削ぐ事にも繋がるが、そんな事であっさりやられる彼ではない。

教師は剣での組手を要求していたが、ウィンタは「鎚より重たいもん持てません!」と嘘八百を並べ立て、見事に鎚での組手を彼に認めさせていた。鎚より剣の方が、余程軽いと思うのだが。

「それでは……始め!!」

開始のコールが、空に谺する。

教師の声でウィンタが動き、鎚を振るった。

クーザンは一歩後退し、彼の攻撃範囲外から一気に近付く。
袈裟斬りを放つ気だった。

懐に入り込んだクーザンは片手剣を握り締め、右斜め上に向けて袈裟を繰り出す。相手は鎚の柄でそれを受け止めた。

直ぐに体勢を立て直し、クーザンの素早い第一撃を辛うじて避けたウィンタ。

――が、それさえもクーザンの予想通りだった。

「腹ががら空きだよ!!」

楽しそうに言ったクーザンは、がら空きになったウィンタの正面に移動した。

再び懐に入った瞬間、相手の鎚を狙って剣を横に払う。

キィン!

「っ!」

クーザンの一撃により、ウィンタの鎚は手から弾き飛ばされてしまった。
離れた位置に落ちた鎚にかかる慣性が切れて止まるのと、クーザンが剣先を彼の首筋に当てるのは、ほぼ同時のタイミングだ。

ウィンタは背筋に冷や汗が流れるのを感じ慌てて両手を上げ、

「ぎっ、ギブギブ!!」

と降参の意を示した。
クーザンは元より続ける気はなかったので、直ぐに剣を離す。

二人の稽古の様子を息を詰めて見守っていた他の生徒から、拍手歓声が沸き上がった。
人の良いウィンタは、呼びかけに応えている。……彼は負けたのだが、そんな事はすっかり忘れたようだ。

後に知る事になるが――筆記はからきしのクーザンは、クラスの中でも飛び抜けて剣の扱いが上手いと評判だった。
恐らくは、他の剣に取り替えてもその実力は発揮される事だろう。
それは、天性の才能と他ならぬ、彼自身の努力の賜物だ。

ウィンタも一応剣は扱えるのだが、敢えて攻撃力が高く素早さが劣る鎚を武器としているので、並大抵の学生では太刀打ち出来ない。
しかも、女子に好かれている彼を傷付けようものなら、暫くはクラスの女子らに無視をされるようになってしまう。たまに、少女魔導師集団によるボコ殴りという悪質な手口でさえある。

よって、二人にだけは当たりたくないと思っていた生徒は沢山いたのだ。主に男子は。
見ていた彼らの数名は、顔を引き吊らせていた。
そして、異口同音に呟く。

「あいつらに当たらなくて良かった……」

「……あら?」

教室棟の三階、真ん中辺りにある教室の窓際から、そんなクーザン達のクラスを見下ろしていた少女が呟く。
そこに、大人しそうな別の少女も現れた。

「……どうしました?」
「ん? ああ、ほら。また何かしてるわよ、あのクラス」
「……組手、でしょうか?」

紫色の髪をポニーテールにした方の少女がそう言えば、赤い髪の少女はコテンと首を傾げる。
彼女の相変わらずな的外れの質問に思わず苦笑し、紫色の髪の少女は再び外に目をやった。

見覚えのある偏屈教師がその場にいる事から、クラスは隣の奴だと直ぐに分かる。
序でに自らの知り合いを捜しながら、彼らに同情の言葉を呟いた。

「全く、最終日までご苦労な事ね」

目尻が下がってはいるが、その笑顔は何処か楽しそうである。

「よし、お前らは大丈夫だな。次行くぞ!!」

拍手が終わりそうなタイミングで、教師が次を促す声を上げる。
その手に持っている紙に赤ペンで印を付けながら、組手をする生徒を選んでいるようだった。と言う事は、紙は生徒の名簿か何かだろう。
今すぐにでも奪い去ってこの組手を終わらせたかったが、それはそれで面倒な事になりそうだったので止めておく。
再び生徒達のブーイングが飛ぶが、教師は相変わらず聞く耳を持たなかった。自分勝手な事でも有名なのだ、この教師は。

結局、稽古が終わったのは、予定より三時間オーバーした頃。

あの後再び二回程組手をしたクーザン達は、既に疲労困憊の状態だった。

  ■   ■   ■

タタタタタ……。

タンッ。

トルンの街の路地裏で、二人の少年が走っていた。
道幅が大通りに比べ極端に狭く、その上通りに木箱やらゴミ箱やらが置かれているせいで通り辛い。

二人の少年は、切羽詰まった表情を浮かべていた。たまに後ろを気にしながら、殆ど全力で、走る走る。
行き先など分からない。ただ、走る。

「アーク、後ろは!?」

少年――黒いトンガリ帽子を被った、マントをはためかせながら走る少年の方だ――が、少年――金髪碧眼の、中性的な顔立ちをした方――に問い掛けた。

追われているようで、二人の衣服には所々埃がこびりついている。
それに構う事が出来ない程、追い詰められていた。

金髪の少年については、既に息を切らしているのか肩で呼吸を行なっている。
止まる訳には行かない、と自分に言い聞かせ、無理矢理走っている状態なのだろう。

「まだ来てるみたい!! レッドン、どうするの!?」
「どうもしない、逃げるだけ!! しっかり付いて来るんだ! 俺達じゃ、敵わない」

レッドン、と呼ばれた少年が叫ぶ。

――が、アークと言う少年の返事はなかった。
代わりに、どさり、と何かが地面に倒れる音が鼓膜に届く。

「アーク!?」

レッドンが呼ぶ。
が、聞こえてきたのは彼が望む声ではなかった。

「逃がしはしないぜ」
「っ!!」

冷たい、抑揚のない声と同時に目の前に現れたのは、白マントを風に靡かせた端正な顔立ちの青年。
突然、空から正面に現れた青年にぶつかりそうになる直前に足を止める。
慣性の法則で前につんのめりそうになったが、足に力を入れて踏ん張った。

目の前には金髪碧眼を持った、レッドン達を追い回す〈敵〉。

だが、

「アー、ク……?」

その彼の顔立ちを見て、レッドンは唖然とした。
無意識に、再び金髪の少年の名前を呟く。

後ろに倒れている、彼の友人と目の前の彼の顔立ちが良く似ている事に少なからず驚いたのだ。

青年は特に反応はしなかったが、レッドンからは彼の瞳が僅かに揺らいだのが見えた。

「……テメェらには……特にお前には個人的な恨みはねぇけど……悪いな」

ドッ。

「っ……!」

「(俺とした事が……っ、気絶、させら……っ)」

腹を、突き刺すような鈍痛が襲う。
青年の顔に驚愕している隙に、彼の携えているレイピアの柄で腹部を殴られた。

そう理解した瞬間、レッドンの意識は深い闇の底へと沈んでいく。

最後に見たのは、白い死神の自嘲の笑みだった。
何故自嘲だと思ったのかは、分からない。

  ■   ■   ■

「っあ~! 疲れた!!」
「ふぅ……明日から学校は休みか」

帰路についた二人は、特に急いでいる訳でもないので、のんびりと歩いていた。

学校の授業は今年も担当教師の子守歌授業で締め括られ、終業式も無事終わった。
冬季休業時の簡単な注意と指導、サークルの活動時の注意等、毎年恒例の行事が終われば、後は自由だ。
学生の天敵とも言える宿題はあるものの、それはこっそり授業中に大半終わらせてしまっている。
事実上、ないに等しい。

家は、寮に住んでいるウィンタの方が近い。
クーザンの母親が営んでいる武器屋も、結構近い方ではあるのだが。
魔導学校の寮は、学校から10分程歩いた先にある。
ウィンタ曰く使い勝手は良いが、無駄にデザインが綺麗で少々居心地が悪いとか何とか。
クーザンも何度か遊びには行っているが、居心地は必ずしも良くなかった気がする。

そうして歩く二人の話題は、昨日と同様長期休業中の事だ。

エアグルス大陸の天候は、季節によって非常に住み辛くなる。
夏は涼しく快適だが、冬になると、毎日雪かきが必要になる程の降雪量になるのだ。たまに雹や霰も降る為、こういった冬季の長期休業は有難い。
とは言え、大抵の少年達は体力作りや抵抗力を鍛える為に、半袖で過ごす者も少なくはない。

「昨日も言ったけど……ウィンタは休み中ずっとアラナンの方にいるのか?」
「ったりめーだ」

鍛冶師を志しているウィンタは、休みになると決まって鍛冶の修行に行ってしまう。

トルシアーナから少し離れた国、アラナンに師匠がいて、住み込みで仕事の手伝いや作業をやっているのだと聞いた。
実際、クーザンも一度だけ訪れた事がある。

一方、クーザンは家を手伝う事になるので、暫くは会えなくなる日々が続くのだ。

「寂しくなるな……」
「何が寂しいもんか、アイツはいるし。……って、昨日と話がそっくりだ」
「あ~……」

ウィンタが誰の事を言っているのかは、直ぐに分かった。
ユキナの事だ。

そういえば、昨日はこの辺りまで話していて彼女が来た。
今日は流石に来ないだろうし、話の続きをするのも良いかもしれない。

「ユキナは多分、家に来ないよ。あっちも家があるし」
「あー……おじさんの手伝いか。薬剤師だったよな?」

ユキナの家は薬剤を取り扱う店で、手伝いをやっているのは知っていた。

尤も薬草採取の時などは、極端な方向音痴である彼女を心配した彼女の両親によって、クーザンが巻き込まれる事も多々あるが。
彼がついて行かなかったらどうなっていたのか、と思うような密林に行く事が多いので、仕方がないし自身も諦めていた。
ただ、彼女も一応寮暮らしだ。なので、長期の休みは実家に帰っている。

「(ここに残るのは、俺だけか……)」

クーザンが何も言わずにいると、ウィンタが怪しい笑みを浮かべて彼を見ていた。
あまりにも怪しかったので、少し後退りながら問い掛ける。

「な、何?」
「お前、ユキナの事好きなんだろ?」
「っ!?」

ウィンタからの思いがけない一言を聞いたクーザンは、顔を真っ赤にして彼を睨んだ。

「なっ……、なぁっ!? 何でそうなるんだっ!?」
「ははは、分かりやすい奴だなぁ」

面白いように狼狽する彼を見たウィンタは、そう感想を言った。

それが却って勘に障ったらしく、クーザンが更にウィンタに食ってかかる。

「か、からかうなっ!」
「からかってなんかないさ。ただ、オレとかとユキナが話してると、お前やたら無口になるからさぁ。それに、昨日はアイツの代わりに金出してやって? 間接的なプレゼントじゃないか」

昨日もそうだったしなー、とわざと惚けて言えば、図星を付かれたクーザンは更に全力で否定を始めた。

「そんな事ない! たまたま眠かったとか、腹減ってあまり喋りたくなかっただけだ!! それに昨日のあれは、本当に買いたそうにしてたし……!」

ムキになって反論する事が肯定なのだと理解していないクーザンは、案の定その事に気付かない。
色事には慣れていないのだ。

それに、クーザンの生活習慣をある程度熟知しているウィンタにしてみたら、彼の言い訳はどれも照れ隠しに見えた。

「ま、頑張れよ♪ 長期休業で何か進展あったらちゃんと連絡するんだぞ~! ……あと、くっつくならくっつくでちゃんとしたもの買ってやれよ?」
「ウィンタっ!!」

激怒する彼に止めの一言を言い放ち、ウィンタは近くなった寮に向かう。
寮のドアに隠れてキシシシと含み笑いを浮かべた後、ふと悲しそうな表情を見せた。
クーザンからは見えないし、これから言う事も彼の耳には絶対に届かないだろう。

「からかいたくもなるさ。お前、昔よりも弄り甲斐のある性格になってんだからさ……」

昔はよー、と愚痴を溢しながら、ウィンタは遠くなったクーザンの姿を振り返る。
その表情には、既に悲しみの感情はなくなっていた。

視線に気が付いたのか、クーザンが少し此方を向いてきたので、大きく手を振ってさよならの挨拶をする。

  *  *  *

ウィンタの部屋の二個隣、今は少年二人が借りている部屋には、鍵が掛かっておらずドアが開いていた。
そして、部屋の中が荒らされた状態になっている事は、今は誰も知らない。

  *  *  *

「ただいま」
「あら、おかえり」

クーザンは、自宅兼武器屋の入口を開けた。

からんころん、と可愛らしい音を鳴らしながら開いた扉の向こうには、様々な種類の剣、槍、杖等が綺麗に並べられている。客はいない。

その中心にカウンターがあり、奥には部屋に入る為の階段と廊下があった。
カウンターには、クーザンと良く似た髪色の女性が立っている。入ってきた彼に挨拶を返すと、のほほんと微笑む。
彼女が、クーザンの母親――マリノ=ジェダイドだ。

「学校、今日まで?」
「うん、明日から休み。手伝いするけど、何かやる事ある?」
「そうねぇ……今は良いわ。夜、店を閉めた後にお願いするわね」
「分かった」

母親は頬に手をやりながら考え込むように呟くが、今のところは仕事がないと答えた。それなら好都合、とクーザンは自室に戻る旨を彼女に告げ、奥の階段へ向かう。

階段を昇らず真っ直ぐ進めばトイレ、浴槽と水回りのものが揃っている。二階の同じ位置には、キッチンがあった。
それらを無視し、奥に目をやると勝手口が。鍵はかかっているようだ。

それらを一瞥し、やがてクーザンは階段を一回一回踏み締めながら登る。
そんなに古い家でもない筈だが、体重をかけられた踏み板はギシ、ギシと軋んだ音を立てる。

二階の部屋は、先程のキッチンと自分達の部屋だ。
廊下に近い方から、キッチン、マリノ、空き部屋、クーザン、ゲストルームとなる。

空き部屋のドアには、プレートが一枚かかっている。
可愛らしい字体で彩られたそれは、以前ここに誰かがいたという証明だ。
今では、たまにマリノが入って掃除をする位になっている。
プレートには、

『ザナリアの部屋 勝手に入るな!』

と書かれていた。

それらを通り過ぎて自分の部屋の前に立ち、ドアノブを握って部屋に入る。直ぐ横にあるスイッチに触れれば、一瞬で明るくなった。

殺風景と言えば、そんな感じだ。
机の本棚には学校の教科書が乱雑に並べられ、鉛筆立てが置いてある。
引き出しには、あまり物が入っていない。
椅子に座れば届く位置に、机とは別の本棚があり、そちらには考古学関係の本が並んでいた。
クーザンのものではないが、暇潰しに読むと意外に面白い。

あとは整頓されたベッド、チェストだけだ。
この年頃にもなると様々な趣味やら何やらがありそうなものだが、クーザンはそう訊かれても、修行以外思い付かない。
スポーツはたまにやるものの、道具は同級生が持っている時が大半だから、買う必要もなかった。

肩に掛けていた鞄を外しベッドの上に放ると、そのまま自身も倒れ込むように横になった。ぼふ、とくぐもった音が鳴り、倒れた勢いは柔らかい布団に吸収される。

「……眠い……」

そう呟くと、眠気が気を使ってくれたのか目蓋が落ちてくる。
それに抗う必要もなく、クーザンは眠りに落ちた。

  ■   ■   ■

ちゃぷ……。

「(此処は……?)」

そこは、不思議な空間だった。

足下には、地面から十センチ程の高さの水が広がっており、彼が歩く度に波紋が広がる。

だからと言って、クーザンの足に水が跳ねる事はない。

勿論、彼の水に浸かっている筈の足は濡れてもいないのだ。冷たい、という感覚さえ感じない。
歩いても、わざと乱暴に走っても、水音は聴こえなかった。

無音の、意識だけの世界。

どうやら地面には草が生えているようで、水面に顔を出す植物も目につく。しかし、植物に関してはあまり詳しくないクーザンには、それが何というものなのか分からなかった。

照明はないが、彼の周りだけ何故か明るく照らされていたから良く分かる。草に引っかかって横転する、という事態は免れそうだ。

「(ああ……またあの夢か)」

最近になって見始めた、変な夢。

自分はただただ、音も風もない世界で立っているだけの、寂しい夢。

見始めてもう、三年は経つかもしれない。この夢に何か意味があるのなら、教えて欲しい。
夢の中で、何をするでもなく立ち尽くす。

「(――何も起こらないのなら、起きた方がまだマシだよな……)」

寝ている筈の自分の体を起こす為に、彼は目を閉じた。
或いは、この夢の世界の自分が眠る事で、現実の自分が起きるのかもしれないから。
ゆっくりと、彼の体が透け始め、真っ暗な世界から彼が消えた。

彼が、眠りについた証だ。

微かに体が発光している喪服の青年は、その一部始終をずっと見守っていた。

  ■   ■   ■

――こん、こん、こん。

「クーザン、起きてる?」

何時の間に寝ていたのか、クーザンはうつ伏せのままの体勢で目を醒ました。
ドアからは、不規則なノックが聞こえる。

窓を見やれば、辺りは真っ暗。
この時期になれば夜の訪れが早くなる為、まだ寝てしまってからそう時間は経っていない筈。
実際チェストの上に置いてある目覚まし時計を、月明かりを頼りに確認すれば、まだ八時少し前だった。帰って来てから、二時間も経っていない。

そんな事をぼんやり考えていると、先程のノックの主が、ドアの外から再び声をかけてきた。

「クーザン?」
「……今起きた、ちょっと待って」

声の主は考える迄もない、この家には二人しかいないのだから。
そう思いかけ、クーザンは妙な事に気が付いた。

「(あれ? 店、まだ閉まってないよな)」

そう、マリノが経営する武器屋の閉店時間は、まだまだ先だ。
晩御飯も何時も閉店した後に取るから、彼女が何の用事も無しにこの部屋に来るのは有り得ないのだ。

ならば、何故?

ベッドから降りてドアに近付き、内側に開くと、マリノが外で待っていた。
先程と同じ恰好だが、気温が低くなっていたので肩からストールをかけている。
手には、店にある筈の電話の子機を持っていた。ボタンが点滅しているという事は、保留状態にしているのか。

マリノは、呆れたとでも言うかのように腰に手をあて、溜息を吐いた。

「漸く起きた。ユキちゃんから電話よ? お店の電話にかかってきちゃったから、仕方なくこっちまで持ってきたわ」

手に持っていた子機をクーザンに手渡すと、マリノが軽く肩を竦めながら言う。

「ユキナ?」
「そ。全く、ちゃんとお家の番号教えたげなさい?」
「分かったよ……」

じゃ、私は店に戻るわね、と言い残し、彼女は一階に戻って行った。

「(確かに今日会ってないけどさ、何も電話しなくても……)」

どうせ、大した事ない内容の電話だろう。以前にもこういう事があり、その時によって内容はまちまちだったが、一貫してクーザンには関係のない事だった。

クーザンは子機を一瞥し、点滅しているボタンを押す。
直ぐに繋がり、若干不機嫌な声音で出た。

「変わったぞ、何だよこんな時間に」

そして、彼女の電話してきた内容は、今までとは全く違う事を知る。

「……は?」

   ■   ■   ■

歯車が、狂ったまま動き出した。
曲の前奏までは、まだまだ先だ。

NEXT…