ダラトスクにて

【とある従者Kの一日】

 毎日の業務は、お仕えしている主の身の回りの掃除から始まる。主の寝室から始まり、執務室、廊下、そして最後に従事者が使っている部屋。担当する人間によっては業務が滞る事もあるが、今日はそんなまれにある一日だった。
「先輩ぃ……」
 業務の休憩中、食堂で話しかけてきたのは、同僚の少女。大きくて丸い瞳をうるうると震わせ、途方に暮れた顔をしていた。どうしたの?と問いかけると、「あのですね」と、言い辛そうに答える。
「ジャックさんに、怒られてしまいました……。危ないから下がってろ、って」
 話を聞くと、彼女が廊下に飾られている花瓶の花を変えようとした時に、不注意から花瓶を棚から落下させ、割ってしまったのだそう。業務中に盛大な悲鳴が聞こえたような気がしたのは、それだったのか。
 彼女は当然慌てたであろう。そして、その場にたまたま居合わせたのであろうジャックさん――言ってしまえば、自分たちのリーダーである――が怖い顔で近寄ってきて、先程の一言を言い放ったのだという。ここに来てそう長くない後輩にとっては、その一言と彼の表情がとても怖かった、と目が物語っている。
 けれど、と自分は思う。それは恐らく――。
「おや? どうしたんだい」
 そこに現れたのは、自分よりずっと長くこの場所で従事している、『肝っ玉』という言葉を人間の形にしたような、ふくよかな体つきをした女性。ここの従者をまとめている、大先輩である。何でも先代の頃より仕えているらしいけれど、そういった話を彼女から聞く事はあまりなく、本当かどうかも分からない。
 後輩は先程自分に声をかけた時と同じように口を開き、同じように事の顛末を彼女に語る。と、それを聞いた先輩は、なんだい、と何でもない事のように言った。
「そういうことかい。全く、あの子にも困ったもんだねぇ」
「え? どういう……?」
「いいかい? あの子はねぇ、アンタが怪我をしそうだったから怒ったんだ。花瓶を割ったから怒った訳じゃあないんだよ。大丈夫か、とか聞いて来なかったかい?」
「あ……」
 先輩の言葉に思い当たる節があったようで、後輩は口元を押さえる。
 彼は、誰かが何か大きな失敗をしたところで、そう怒るような人ではない。もちろん命の危険が伴うような事であれば話は別だろうが、そうでなければ、私たち使用人の身の安全を優先する。恐らくは、主人であるリダミニータ様のご意思のままに。あるいは、彼と私たちの種族の差から来る思考、だろうか。
 とはいえ、迫力のある表情で言われたら、誰だって萎縮してしまうのは確か。後輩は何て事ないといったふうに答えた先輩に、あの、と問う。
「メイド長は、ジャックさんが怖くないんですか?」
「アタシがあの子を? 冗談言うんじゃないよ! あの子が怖くて、リニタ様のお世話なんてやってられるかい。それに、アタシにとっちゃあの子はまだまだ子供だからねぇ」
「子供!? ジャックさんが!?」
「そうさぁ? 思い出してごらん、あの子の言動とかを。まるで思春期の子供みたいじゃないか」
 ここにいる人間は誰もが、彼が『人狼族』――人間ではない、《魔物》の一種に数えられる存在なのを知っている。だけれど、誰も彼を迫害するつもりもなく、むしろ頼り甲斐のある同僚として扱っている。それはひとえに、彼自身が人間と関わろうとしてきた努力の賜物であるだろうし、また『この大陸で立っている者全てに平等な慈愛を』と願うリダミニータ様のご尽力の結果なのだろう。
 思春期の子供、と評された事を、彼自身がどう思うかは分からないが、なかなか本質を突いた言葉ではないかと感じた。たまに自分よりも下の少年ではないか、と思わせる言動も見られるのは、間違いないのだから。
「だから大丈夫さ。あの子が本気で怒る時は、アタシらに危険が迫った時。それ以外は、絶対に大丈夫だからねぇ」
「はい!」
 先程まで怖がっていたとは思えない元気の良い返事に、先輩によるカウンセリングが成功した事を悟る。本人のいないところで良かったのだろうか、と思わなくもないが、いたところで先輩に上手く丸め込まれていたであろう。
「リライア、こんなとこにいたのか! お嬢の部屋で書類が雪崩たから手伝いに――あ? なんだよ」
 ふと、丁度良いタイミングで先輩の名を呼ぶ声が響く。声の主は、まさに今自分たちが話題にしていた張本人である。上質なスーツをいっそ清々しいまでに着崩している青年は、向けられた視線から何かを感じ取ったのだろうか。怪訝そうな表情を浮かべながら、問いを口にしてきた。
「アンタもいい加減に、女性の扱い方ってものを覚えるべきだ、って話をしてたんだよ」
「はぁ? 何言ってんだ。サボりなら怒るぞ」
「まだまだ坊主って言ってんだよ! ほら、早く行くよ」
「ってぇ!! 背中叩くなっつの。あ、そうだ」
 先輩を呼びに来たはずのジャックさんが何故か連れていかれるのを見送っていると、何かを思い出したかのように声を出し、後輩に顔を向けてアンタ、と呼びかけた。彼女はひぃ、と叫ばんばかりに体を震わせる。
「さっき落とした花瓶、片付けといたから後で所定の場所に置いといてくれ。厳重に包んだが一応気を付けろ。あと、もし切ってたりしたらすぐにでも医務室。分かったか?」
 そういうところですよ。と思いはしたものの突っ込めずにいると、「0点」と先輩がばっさりと評価を下す。解せぬと言いたげに「何がだよ!?」と言い返されるが、彼女はそれをかわして、今度こそ彼の首根っこを掴み、引き摺って去っていった。

   ■   ■   ■

 王宮の衛兵に挨拶をし、城下町へと出る。備品などは業者が運び入れてくれるのだが、今回は発注が間に合わなかったため、足りないものが出てきてしまったのだ。
 ダラトスクの街は、いつも人出が多い。ホワイトタウンの家々が真っ白なのとは正反対に、温かな暖色でまとめられた家が立ち並ぶ。先人たちがどこかから切り出してきた石を塗装し建築されたと思っているが、真偽の程は分からない。
 目的の店の扉を開け、必要なものをリストアップしたメモを頼りに籠に集めていく。入念に確認し、店主の元へ向かう。いつもありがとうねぇ、と初老の男性の声に、「こちらこそ」と笑顔を返し、その店を後にする。この後の仕事もまだまだ溜まっているのだ、無駄に時間を過ごす必要もないだろう。
「んー? 地図だとこの先に迎賓館があるみたいだけど……」
「お前な……地図は見れるようになっておけとあれ程言ったはずだが」
「なったよ、ピォウドのは。ピォウドより何倍もでけぇじゃん、この国!」
「地図の見方に地域差はないはずだが」
 ふと、聞こえてきた声。見ると、この地方では珍しい白髪の男の子と、長い黒髪の男の子が、大きな紙とにらめっこしながら会話をしていた。年下のようだが、両者とも大きめの灰色の外套を羽織っているため、学生なのかは見当がつかない。この時期は、他所の国の学校から社会見学として来ることも多いのだが、その学生なのかもしれないな、と推測した。
 あの、迎賓館ならこの大通りを道沿いに行って、〇〇という店から左に曲がったところです。そう声をかけると、白髪の子が、空色の綺麗な瞳を真ん丸にして、ぱちくりと瞬きをする。驚いたというより、きょとんとしている、と言ったほうが正しいか。彼が硬直している間に、もう一人の黒髪の男の子が、「すみません、ありがとうございます」と頭を下げ、隣の子を小突いた。
「え。あ、ありがとうございます!」
 いいえ、余計なお世話だったらごめんなさい、と付け加えた言葉にも、白髪の男の子は全然!と元気良く首を横に振って否定してくる。素直な子だな、という印象を抱いた。
「よし、じゃあ行こうぜ。お姉さん、ありがとう!」
「あ、おい! 慌ただしい奴め……。では、失礼致します」
 勢い良く走り出した白髪の男の子に、黒髪の男の子はひとつため息を吐き、こちらに小さく頭を下げてから追いかけるように去っていった。
 結局、彼らが学生だったのかは分からなかったが、まぁ良いか。買い物が入った紙袋をしっかり抱えなおすと、王宮へ向かうために自分も大通りへと足を踏み出すのだった。