御伽噺:08

「――!」
 セクウィが振り向くと、湖の水が流れ行く海から恐ろしい、低い声が轟いた。リツもそれに気が付き、自らの胸の上に手を置いたまま、一角獣に寄り添う。
「呑み込まれた、か」
「そんな……! 何で、《月の力》が濃くなったのよ……!?」
「恐らく――。……いや、それはないだろうな。リツ、海へ行くぞ」
「え、えぇ……」
 脳裏に浮かんだ一つの過程を口にしかけ、セクウィはそれを否定し首を振る。そうでなければ良いという、半ば願望だが――この状況では、多分この予想は当たっているのだろう。
 リツも薄々勘付いているのだろう。その証拠に、さっきから神殿の方をちらちら盗み見ているようだった。
「リツ、飛ぶぞ」
「う……。一角獣じゃだ」
「駄目だ」
 川岸は所々に生い茂っている木々や砂利道で、それらに足を取られてしまい走るスピードが遅くなりがちだ。それなら、飛んだ方が早い。
 逡巡するも、リツはそれが一番良い手だと判断し差し出された手を握る。走りながらセクウィが背中から翼を生やし、上空へ舞い上がった。
「きゃ……!」
「乗った方が良いか」
「い、良い! 鳥の方がどこ掴めばいいのか分かんない!!」
 特に高所恐怖症という訳でもないのだが、人間は慣れない事をする時、得体の知れない恐怖に怯えるものだ。飛ぶ、そもそも宙に浮くというのは、重力に縛られる人間にとって“非日常”なのだから、強がってはいるが内心では下りたくて仕方がない、と思っているのだろう。
 そうこうしているうちに、目的の海へ到着した二人。リツの家は海に近いので、そんなに長距離を飛んだ訳ではない。
 今までも、海に来ることは多々あった。リヴァイアサンの体に溜まった《月の力》を浄化する為にリツが訪れる必要があったし、その時のこの砂浜は感嘆しか漏れない程に美しかった。
 それが、今はどうだ。
 川岸のように海の形に添って植えられていた木は根こそぎ倒れ、壮麗とした砂浜はぼこぼこと穴が開き、見る影もない。いつも太陽の光を反射し輝いていた海も、泥や砂で濁っている。これでは――生物は棲めない。
「酷い……」
「リヴァイアサンは暴れていて、精霊も不在だからだろう。これは……流石にヤバいな」
海の神リヴァイアサン、精霊スィール。広大な海において最も重要な役目を持つ二人が暴走、或いは行方不明なのだ。何とかしたい所だが、決して容易ではないだろう。
 その時――二人が立つ砂浜から、沖よりも向こうの方で水面が爆ぜるのが見えた。
「!」
「何だ?」
 広がった水面の波紋は岸に打ち寄せる波となり、足元を濡らす。暗くなった空の下、うっすらとその犯人がいる事に気が付く。
 水面から生える三つ首の頭と首。海が溢れてしまうのではないか、といつだったか危惧した巨大な胴体は、今は水中に潜っているのだろう。頭はそれぞれが鋭い牙を持ち、我を忘れているかのように荒々しく啼く。合計六個の眼は――全て赤く染まっていた。
「リヴァイアサン!」
 変わり果ててしまった海の神を前に、リツが悲痛な叫びを口にする。元々青かった皮膚も、良くは見えないが黒く変化しているようだ。
 と、リヴァイアサンが突然一つの首を後ろに下げた。己の意志の行動――ではなく、別の力による強制的な動きと見た方が良いか。
 生じた煙から解放された六つの眼が、殺気を向けた先。そこには、
「――あっ!? ヴィエント!?」
「何……!?」
 リツが、視力には自信がないセクウィよりも先に現れた人影の名を呼ぶ。
水面から何十メートルも上空に浮いていたのは、白い髪の盗賊だ。間違いない。右腕を負傷しているらしく、翼のように舞うマフラーには赤い液体が付着し、それを庇うように動いている。
瞬間、海から生えてきたリヴァイアサンの長い尾が彼を捕らえ、岸近くの水中へと叩き落とした。ザパアァ、と派手な音を立て水飛沫が広がるが、直ぐに元の形に戻る。
「ヴィエント!」
 服が濡れるのも厭わず、リツが彼の許へ駆け寄る。水嵩が膝下辺りまでの場所で、彼はふらつきながら起き上がる所だった。彼女に気が付くと、呆れた表情を浮かべる。
「お前ら……遅過ぎんじゃねーのか……」
「そんな酷い怪我でよくも減らず口が叩けるわね! じっとしてて、今魔法を……」
「良い。どうせ直ぐ治る」
「直ぐ治るって……治ってないからそんなにボロボロなんでしょ!?」
「そうだが、要らねぇ」
 表情と口調とは裏腹に、その身に受けたダメージはかなりのものらしく、いつもの余裕淡々とした態度が全くない。
 改めて近くで見れば、額からは血が流れ口の端にそれを吐いた痕、更に負傷していると思われた右腕もだが噛まれたような左足の方が重傷という、満身創痍にも程があると言いたくなる状態。流石のリツも彼の身を案じ治癒を促すが、ヴィエント自身がそれを強く拒んだ。
 彼も一応、セクウィと同じ《神族》であり《神》だ。自己に備わる再生能力はあるが、それが追い付いてないのは見ただけで分かってしまう。
 そんな事よりも、とヴィエントは自分の体を差し置き、セクウィに視線を向ける。
「セクウィ、リヴァイアサンは自分の意思で《月の力》を限界以上に喰った。それが体内で自然に消える前に」
「な……」
「そんな、幾ら神様とは言え許容以上の《月の力》は危険だって、分かってるはずなのに……!」
「あぁ、結果暴走し自ら世界を壊そうとしている。ま、ぶっちゃけると俺は奴と戦えるんなら、どうでも良いがな」
 三人が一斉に、海上の海の神を見やる。
 リヴァイアサンは苦しげに低い音域で呻き、何かを捜しているのか三つ首をそれぞれ違う方向に向けていた。
 大袈裟に肩を竦め、ヴィエントは怪しく笑う。その飄々とした態度からは危機感を欠片も感じられないが、世界は確かに滅びへと走り始めている。
「そこでだ、セクウィ。お前はそこで大人しく見てろよ。世界の先を見届ける大役はお前に譲る、有難く思えよ」
「馬鹿を言え、暴走したリヴァイアサン相手に一人で戦うというのか!?」
「そうだぜ? その方がスリルあんだろ。それに、いっぺんに神を二体も三体も失ったら、世界はそれこそ崩壊。わざわざお前まで戦って無駄死にする必要はねぇ、――よ!」
「きゃぁあ!?」
 突然ヴィエントがリツに駆け寄り、華奢なその体を突き飛ばした。警戒していなかった彼女はあっさりと体勢を崩し、後ろに倒れそうになる。
 が、その前に彼が彼女を抱えその場を離れた。怪我のせいで走れないのか低空飛行をするその動きは、まるで海の上を滑っているようだ。
 一瞬遅れ、先程までリツが立っていた場所を津波が襲う。大きく抉れた砂浜に、もしそのまま立っていたらあっという間に波に浚われ溺れ死ぬか、波の圧力で押し潰されていたかもしれない。
「…………」
 リツは、その想像に背筋が凍り付く。同時に、乱暴だが助けてくれた事に変わりはないヴィエントに感謝した。
 彼が岸より内陸の方に彼女を下ろしていると、一人飛んで避けていたセクウィもその近くに着地する。津波の原因――リヴァイアサンは、尚も海で暴れていた。
「お前は、自ら死にに行くと?」
「死なねーつもりではあるさ。だが、どう考えたってありゃ全力でなきゃ勝てねーよ。神と神、だぜ?」
「…………」
「じゃ、後は頼んだ。ソイツもな」
「そいつとは何よ!」
 リツの憤慨の声もどこ吹く風、ヴィエントは大地を比較的無事な左足で踏み切り、宙に飛び上がった。マフラーを激しく暴れさせながら、再びリヴァイアサンへと向かっていく。
 それを見送ると、セクウィは海から目を背け反対の方向――陸の方へと歩き出す。踏み付けた砂が、ザクザクと音を立てた。
「セクウィ! どこへ行くの?」
「……奴とリヴァイアサンが相打ちとなり消えれば、例え一瞬だとしても世界の均衡は崩れ、どの道滅ぶ。それを唯一止められるであろう者の所へ、見届けに行くんだ」
「止められる人……?」
 心配そうに呟くリツの言葉に、セクウィは僅かに苦笑を洩らす。
 ヴィエントは、世界の未来を見届けろと言った。それはつまり、どんなに酷い事があったとしても手を出すな、という事だ。
 そして、未来があるなら――誰かが、この世界の危機を救う可能性を持っているのだ。
 その誰かとは、
「……元々、この世界に《月の力》は必要なかった。《月の力》が人間達を化物にし害なすものである以上、封印してしまえば人々が恐れる事はなくなる」
「……あれ。でも、それって……」
「仕方ない。そうするしか、世界が生きられないのなら」
 彼の台詞で何かに気が付いたらしくリツが怪訝な表情を浮かべるが、それが音となる前にセクウィが肩を竦める。
 《月の力》――月が現れる夜は力を増強させる、魔力とは異なるもの。それを封印する、つまりはそれが世界に溶け込む前に戻すという事。
 だが、セクウィ達《神》は《月の力》がないと生きていられない。必然的に、彼らを生命の危機へと陥れる事になる。
「好都合だろう? リヴァイアサンも、世界を壊し過ぎた。ここから追い出した方が、平和に暮らせるかもしれんぞ。俺達がいなくても、時は――世界は生き続ける。……《マグニス》め、こういう事だったのか」
 空を、見上げる。
 さっきよりも陰鬱な影を大地に下ろす空は、世界の危うさを如実に物語っていた。彼がそれを為せるかは本人次第だが、選択を考えられる時間もあと僅か。行くなら、早い方が良いだろう。
「さよならだな、リツ」
「ま……待って!」
 再び歩き出そうとしたセクウィだが、それもリツが呼びかけた言葉に止める。振り返れば、瞳に大粒の涙を貯め、眉尻を吊り上げていた。怒りながら泣くとは、器用だ。
「また会えるわよね! 今は《月の力》を失くしてあなた達が住めなくなっちゃうけど……他にもここに来れる方法なんて、幾らでもあるわ! ――だから、さよならじゃない。ね?」
「……そうだな」
「来るよね? わたし――いえ、わたし達はあなた達が帰ってくるの、待ってるわ。凄く時間がかかっても、ずっと」
「……あぁ、約束する」
 嗚咽に潰されそうになる声を必死に紡ぎながら言う彼女に、セクウィは珍しくも笑いかける。
が、それも直ぐに真剣な表情に戻し、翼を生やした。いつもならそれだけで終わるのだが、充満している《月の力》が彼に力を与え、それ以上の変化を促す。
 空を支配する神であるセクウィ、いやジズは、大鷲に似た姿を持つ。普段は人間に成りすまし力をセーブしているが、《月の力》が簡単に賄える今なら、完全に元に戻るのは容易い。
 雄々しい毛並を持った巨鳥に戻ったジズが、リツも見守る中一度も振り返る事なく、大空へと飛び立っていく。瞳に焼き付いた彼の姿は、未来永劫――生まれ変わっても覚えていようと決めた。
 そして、未だ続くリヴァイアサンと、ヴィエント――バハームトという二体の神の戦いに目を向ける。
 世界の終末と共に、見届ける為に。

「何だ……何なんだ、これは!」
 クレーター壁で待機させていた従者の所まで戻ると、やはり中央丘と同じで化物と応戦中だった。片手で数えられる程の数しかいなかったので何とか撃退し、大半は変わらず待機、その三分の一の人数に同行を命じる。その際、連れていたはずのスィールは川に駆け寄ったと思うと忽然と姿を消していて、姿が見えなかった。捜そうかとも思ったが、あの精霊がどこに住んでいたのかを思い出し、そのまま神殿に戻る事にしたのだ。
 逸る気持ちを抑え一度も馬の足を止めなかった結果、行きは五時間かけていた道をたった一時間で走破したカイル。正直こんな短時間で戻って来れるとは思ってもいなかったが――もしかしたら、ディアナの力も働いていたのかもしれない。
そしてその双眸が目にしたのは、朝出発した所と一緒の場所だとは到底思えない光景。
 町中を逃げ惑う住民、倒れたままピクリとも動かない人間、赤い地面――それらを生み出した元凶は、今も住人を殺し《月の力》を喰らっている。別の場所で、別の住人が苦しみ始めたかと思うと、たちまち皮膚を黒くさせ人間を無差別に襲い始めた。
「――っ!」
 咄嗟に得物を抜き、彼らと化物の間に割って入る。振動剣で化物の拳を受け止め弾き返せば、その無駄に大きい体はよろめいて後ろに退く。
 その沈勇とした後ろ姿を見た住人が、驚きに声を上げる。
「神官様!?」
「早く逃げて下さい。ここにいると、巻き込まれます」
 ――逃げる場所が、あれば良いんだが。
 化物の巣窟と化したこの町のどこに、逃げる場所があるのか。あったとしても、非力な住人達がそこまで逃げ切れるのだろうか。
 直ぐにその疑問が脳裏に浮かんだが、強力な化物の攻撃を捌くのに必死だったこともあり、後ろ向きな考えを消し去った。
 手早く化物を斬り捨て安全確認すると、カイルは従者に住人達の避難を指示する。戦力が手薄になるが、戦闘中に化物になられるよりはマシだ。
 彼らと別れ、爪先を神殿に向ける。いつも帰ってくる場所であるそれは、だが今日は異質な雰囲気を纏っていた。
 ――ディアナ、どこだ……!
 外を見たり食事をする時以外は、彼女は大抵月の間にいる。そこを目指し、猛然と駆け始めた。
 ディアナの力に守られた屋内だというのに道中にも化物がさ迷い、従者の死体が散乱している。極力戦闘にならないよう注意して奥を目指すが、どうしても警戒が疎かになってしまう。気を落ち着かせろと自分に戒める。
 途中バルコニーへ続く階段に差し掛かり、カイルは足を止めた。化物の血液とも言える液体は皮膚と同じで黒く、触ったり浴びてしまうと人間には毒となるのだが――気になったのは、それとは別の液体。
 化物のものとは明らかに違う、紅い液体。それが、バルコニーの上から流れてきた跡があるのだ。
 従者の誰かが斬り殺されたのか――そう思いはしたが、カイルはそれ以外の、強いて言えば悪い予感に突き動かされ、階段を駆け上がる。
 そこにいたのは、血溜まりの中にうつ伏せで倒れる少年――ミシェル。
 恐らくは前方から、脇腹を一突き。出血が夥しく、身動き一つしない。傍らに円月輪も転がっているが、対であるはずのそれはひとつしか見当たらなかった。
「ミシェル!? ミシェル、起きろ!!」
 首の動脈は、今にも消えてしまいそうだが弱々しい活動を続けている。あまり揺らさないよう彼の胴体を抱え、名を連呼した。
 その思いが届いたのか、固く閉じられていた瞼が微かに動き、ゆっくりと開かれる。だが、半分だけ現れた蒼い瞳には、生気が宿っていない。
「……かい、る……?」
「大丈夫か、今止血を……」
 自らを呼んだ声にもいつもの覇気はなくか細いものだったが、気に留めずマントを手に取る。止血する為の手頃な布が見当たらないので、引き裂いて用いようと考えたのだ。あくまでも、応急処置に過ぎないが。
 しかし、その手をミシェルが止めた。
「――ィ、アナを……助け……ゲホッ!」
「もう良い、喋るな!」
「……願、ディア……を……」
 血を吐いてもなお何かを言おうとしたミシェルの声は、ほとんど声にならずかすれてしまった。
 そしてカイルの手を止めていた彼の手が、力尽きたようにごとん、と床に落ちる。さっきと同じ場所に指を当て脈を確認するが――止まっていた。
「……ミシェル、ディアナは必ず助ける……だから、ゆっくり眠ってくれ……」
 急速に冷たくなっていくミシェルの体を、比較的血で汚れていない場所に寝かせる。軽く黙祷を捧げると、階段を駆け下り再び月の間に向けて走り出した。
 まだ、彼の最期の願いは達成していない。悲しんでいる時間は、ない。
 カイルは振動剣を抜き、友が眠るバルコニーを振り返らず後にした。

一方――。
ぱん!
「ちっ……」
中央丘での戦闘はますます激化し、三人は既に体力の限界を迎えていた。対してヘリオスも、幾らか怪我を負っているもののまだまだ余裕とばかりに彼らを見下ろしている。
子供と言えど、相手は《月の力》を抱く忌み嫌われし子。彼もある意味《神族》といえるのだ、ただの人間であるトキワ達は倒す所か――致命傷一つ、負わせられない。
加え、強力になっている化物が倒しても湧き出てくる。戦闘狂と茶化されるシオンでさえ、両手をだらりと下げ乱れた息を整えるのに必死だ。
「――これで全力? お兄ちゃん達、弱いんだね」
「馬鹿言うなってーの! これからだ、これから」
 シオンが言い返すが、トキワはそれが強がりでしかないのを知っていた。状況は、最悪だ。
 自分と彼はまだ大きな怪我はないものの、問題はアストラル。最初にヘリオスから貰ってしまった右腕のダメージは大きく、利き手ではないものの自身の武器――円錐槍を操るには不自由のようだ。
 分かってはいた事だが――正直、勝てそうにない。
「……つまんない。死んじゃえ」
 再び投擲斧を構え、勢い良く投擲される。風を滑り回転しながらそれが向かう先は、やはり手負いのアストラルだ。
 全長二メートルはある円錐槍を片手で振るには、相応の力があっても厳しい。長さと、円錐状になっている先の重さがあるからだ。
 だが、彼は先端を地面に擦りながら突き刺し、それで投擲斧を弾いた。武器同士がぶつかり合った衝撃が傷に響いたのか、軽く眉を顰める。
 投擲斧が戻る一瞬を狙い、トキワの自動拳銃が吠えた。だが素早く後退した彼にはまたも当たらず、舌打ちをして標準変更を行う。
その先で視界に映った違和感に、動きを止めた。岩の影が動いたように見えたのだが、無機物がひとりでに動くなど――。
 それが岩の影ではなく、化物だと気が付いた時には――片膝を付くアストラルに、それが背後から襲いかかっていた。
「アス――!」
「アース!!!」
 トキワが駆け出すより先に、シオンの絶叫がこだまする。
 彼は突進する勢いでアストラルに駆け寄り、突き飛ばす。その時点で逃げ出す時間など存在せず、勢い余って倒れ込んだ彼の腹に化物の手刀が、容赦なく食い込んだ。ぐちゃ、と何かを混ぜるような気持ち悪い音が、鼓膜に焼き付く。
「シオン!?」
「ぐぁっ……!」
 何とか受け身を取ったアストラルの耳にもその音は届き、助け出そうと化物に攻撃を仕掛ける。だが思うように力が乗らない不完全な突きは軽く受け流されてしまい、今度こそ地面に叩きつけられた。
 凄まじい痛みが体中を支配しているであろうシオンは、逆流してきた胃液と血を吐き出しながらも抵抗を試みた。だが、化物の手は止まらない。
「……っは、悪ぃ……。あと、任せ……、」
「シオオォォ――ン!!」
 抵抗空しく、二人が見ている前で彼は力を失くし事切れる。化物に向かって撃ち続けたトキワの叫びは、彼には届かなかった。
「やっと一人、か」
「シオン……すまない……!」
 仲間の死を悼む暇を与えず、ヘリオスと化物が再び攻撃を仕掛けてきた。後退しつつちらりと見てしまったシオンがいた場所は、いつの間に寄ってきたのか多くの化物や魔物が集まり、肉を抉るよりも凄愴な音を立てていた。何をしているのかは、考えたくない。
「……アストラル」
ヘリオスが一旦退いた隙に、トキワがアストラルに近付き声をかけた。その表情には悲しみも悔しさも見当たらず、人形のような無表情が貼り付いていた。
「僕に考えがある。確実に命を落とすけど、あいつを倒せる方法。一人だと命中率は低いけど、アストラルは隙を見て――」
「……いや、俺も付き合うさ。どの道これでは、もう神殿にも戻れん……」
 トキワの台詞に、アストラルは怒りもしなかった。大切な仲間を亡くしたばかりだというのに、自らが死ぬかもしれない決断を下すのは――相当な勇気がいる。
 言葉を遮るように言うと、相手の肩を軽く叩き力なく笑う。この分では、途中置いてきた従者も無事では済まないだろう。
「シオンに助けられた命を散らす事になるが……ディアナと、カイルの敵を残し死ぬ訳にもいかん。お前達と、共に行かせてくれ」
「……分かった」
 一言二言要点を交わし、二人は逆方向に散開。アストラルが、ヘリオスから放たれた投擲斧を先程と同じように弾き、再び腕を襲う激痛に体勢を崩しかけた。慌てて武器をしっかり握り直し、荒れた呼吸を整えながら周囲を見渡す。
 ぱん!と快い音を響かせ撃ったトキワの弾は、アストラルから見て左後ろに向かう。避けられるが、投擲斧を回収しようとしたヘリオスの邪魔にはなったらしい。
 動きを停止させそうになる体に鞭打ち、ありったけの力で円錐槍を持ち上げる。実包を交換したトキワも構えている所を見ると、準備は出来たようだ。
「大人しく、死んで」
「それは、こっちの台詞だ!」
 向かってきたヘリオスに標準を合わせ、引き金に当てていた指に力を込める。
 すると、今まで一発ずつしか発砲されなかった自動拳銃から、突然連続的に小銃弾が発射された。実包によって単発と連発が切り替わるそれは、引き金を引き続ける事で実包の弾がなくなるまで照射し続ける。
 完全に油断していたヘリオスは突如とした銃弾の雨に反応が遅れ、肩や足に喰らう。それでも逃れようと、足を岩陰に向けた。
「逃がさん!」
「――!?」
 直線状に放出される銃弾を避けた直後、ヘリオスは横から飛び出してきたアストラルに捕まる。体格差もありあっさり体の動きを封じられ、彼を睨み付けた。
「天地の狭間に棲みし、激昂の焔を司る帝王――。幾ら神族とは言え、炎に焼かれれば命はないだろう?」
 人体の殆どは、水分で出来ている。人間より遥かに強靭な肉体を持つ神族とはいえ、体の構造自体は人間と大差ない。
 アストラルがトキワの魔法を外さないようにヘリオスを捕らえ、蒸し焼きにする。それが、人間である彼らの最後の手段だった。だが至近距離でそれを撃てば、目標を捕まえるアストラル所か、トキワ自身にも当たる。
「仲間も殺すの?」
「勿論、僕だけ生き残るつもりは毛頭ない。そんな資格もないしね。だから、僕は僕に宿る魔力も《月の力》もこの魔法に注ぎ込む。相討ちになるんだよ」
「一人で死なずに済むのを、精々喜ぶ事だ」
「やだ、離せ……っ!」
「――我の声に従い、現れ出でよ!!!」
 アストラルの拘束から抜け出そうとヘリオスが暴れ出すのと同時、言霊を紡ぎ終えたトキワの自動拳銃が白い染料に突っ込んだように輝き出す。それを中心として展開された光は灼熱を生み出し、周囲にいた化物・魔物を焼き尽くした。
 そしてそれは、もう直ぐ三人の立っている場所に到達する事だろう。あと数十秒で、人間も神も生命活動を維持出来ない環境に変わる。不思議と気分は落ち着いていて、それまでの時間が長く感じた。
 その僅かの時間に、トキワとアストラルは二人の無事を願い、

 意識を手放した。

「!」
 カイルは、誰かに呼ばれたような気がして振り向く。だが周囲には神殿を徘徊する魔物や化物しかおらず、首を傾げる。
「……今……」
 しかし、深くは考えずカイルは再び駆け出した。確証のない呼び声など、探しても無駄だ。
 今の位置は、月の間へ向かう為の廊下の途中。ここを突っ切れば突き当りに目的地がある。だが、如何せん敵が多い。神殿の広さも相俟って、普通に歩くより明らかに時間を食っていた。
 ――ディアナは、無事なのだろうか?
 廊下のあちこちに見かける、白い服を身に纏った死体――かつて、己も着ていたそれを目にする度、そう思わざるを得ない。姿が見えないのが、余計不安をかき立ててしまう。

 そして遂に、彼は月の間へと転がり込む。

 いつも討伐やら調査やら、ディアナの下命を受け出発、帰還した際には寄っていた、神殿で一番人が集まる場所。なかなか外に出られない彼女が、従者や神官と心置きなく会話を交わしていた場所――。
 やはりそこも、黒い液体と赤い血が混ざり合ったマーブル模様で床が染められ、天井から落ちてきたのであろう巨石が中央を横たわっている。従者は部屋の至る所に倒れ、今日の朝まで当たり前のように感じていたあの温かさは微塵も残っていなかった。
その中に、ディアナはいない。
ザッ、と床を踏む音が聞こえた。即座に振り向くと、ヘリオスに似た、だが異質なまでの気配と殺気を纏った少年――ソーレが立っていた。
「ソーレっ!!」
 ヘリオスの変わりようを思い出し、カイルは彼に向けて振動剣を構える。それを意に介さず、ソーレはただ笑っていた。
「流石。もうここまで来ちゃったんだね」
「なぜ、こんな事をした! 人間を殺せば、自分を差別する奴らがいなくなるとでも思ったのか!?」
 そう詰問すれば、相手は怒りとも悲しみとも取れる表情を浮かべ、こちらを睨む。
「……そうだよ、悪いかよ。邪魔するお前なんかに分かるもんか、俺らの苦しみなんて。ただ普通に暮らしたいだけなのに、あいつらは忌み嫌われた子供だのなんだの……! 殺してやるよ、俺らを蔑む奴は……全部!!」
 吐き捨てれば、ソーレが波長刀を構え向かってくる。細いながらも予想以上の力をぶつけてくるそれに、カイルは眉を顰めた。振動剣でなければ、折れていたかもしれない――それ程までに、彼の太刀筋は悲憤で増した力を帯びているのだ。
 ちらりと見えた彼の双眸は、相変わらず怒気が孕んでいたものの――無意識なのか、涙を浮かべていた。恐らく、彼自身はそれに気が付いていないだろう。
 この斬戟は、彼らの誰にもぶつけられなかった悲しみ。忌み嫌われた子として生まれてしまった幼い彼らに向けられた、人間の理不尽な行動が、彼を歪めてしまいここまで追い詰めた。ヘリオスも、ただ狂った彼に促され行動しただけだったのだろう。
 振動剣を水平に構え、波長刀を受ける。ぎぃん、と金属同士がぶつかり合う音が響き、二人は距離を取った。
「――オオォォッ!!」
 カイルは息を吐く暇もなく、地面を駆け出し右袈裟、斬り返し、真上からの斬り下ろしを繰り出す。ディアナが「踊るように」と評した三連撃は衝撃波を纏い、空気を斬り裂いた。
 衝撃波がソーレに襲い掛かり、彼の薄い衣服を割く。服で受け止められなかった力は、その下の少し日に焼けた肌を容赦なく抉る。痛覚によって伝えられた痛みに彼は表情を歪め、だが呻き声を上げたりはしなかった。
「死ねよ……っ」
 絞り出すように発された言葉は、やり場のない憤りか。それとも、
「狂え、光という名の暗黒よ! ――死んでしまえ!!」
 光が、闇を従えて向かってきた。囚われれば、暫くは動けなくなり――自分は、あっけなく殺される。
 キィン……と、透き通った音が耳に響く。音源は、自らの持つ振動剣。
「……間違いなんだ、それは……」
 ソーレとヘリオスの苦痛など、蔑まれた事のないカイルには知る由もない。だが、受け入れてくれないから全て殺す――それがどんなに悲しい選択なのか、それだけは痛い程分かった。
 カイルは、《月の力》によって淡い明滅を繰り返す振動剣の柄を握り締める。相手の抱くそれに比べれば、些細な力だ。向かってくる光を打ち砕けるかは、これからの行動にかかっていた。
「来い……!」
 そして、振動剣を横に薙ぐ。

――光が、二つに両断され神殿の壁にぶつかり、霧散した。
衝撃波を伴う斬戟は、振り被っていたソーレの波長刀を根元からへし折り、小さな体躯でさえも斬り裂く。浅傷が開き、血が噴き出し始める。
「……っ、」
 カイルも無傷では済まず、魔法の余波を喰らい疲労困憊としている。支えがなければ、今頃立っていたかも危うい。
 ――ドサッ。
 ソーレの身体が、血塗れの床に倒れる。それに混じって聞こえる水音が、出血の多さを物語っていた。多分、今ここは凄惨な光景が広がっているのだろう。
「……死んでしまえ、か。それは出来ない相談だな。私には、まだやらなければならない事がある」
「ははっ……姉上を守るっていう役目? もう必要ないよ、姉上はいないから」
「何……!?」
 まさか間に合わなかったのか、と愕然とするカイルの呟きは、続かなかった。
 跳躍。背後に感じた気配に咄嗟に行った行動は功を奏し、代わりに犠牲となった床が砕け散る。
 砂埃から現れた、黒い巨体の化物。通常よりも一回り大きい気がするそれは、蠢く赤黒い瞳をぎらつかせ、カイルを捉える。
 が、その途端化物は首――というか胴体を左右に振り、前屈みになって頭を押さえるような仕草を見せた。まるで、何かに苦しんでいるような。
 苦し紛れに放ってきた掌底を、水平に翳した振動剣で受け止める。尋常じゃない力に圧倒されるが、カイルも負けじと押し返した。

 ――コ  ロ  シ  テ

「っ!?」
 突然脳裏に浮かんだ思考は、カイルのものではない。高い音域の、もうずっと聞いていないような錯覚に陥りそうな声。直ぐに誰のものか分かったが、周囲に彼女の姿はない。
「……まさか……」
 化物は押し切れないと分かるや、もう片方の拳をカイルに向けて放った。受けていた方のそれを振動剣で流すと、その場を離れる。
 立ち退いた先には、倒れたまま細い息を吐き出すソーレ。彼の胸倉を掴み、怒気を孕んだ声で詰問する。
「ソーレ、貴様……! ディアナに、何をした!?」
「……リヴァイアサンと俺、どっちが先に世界を壊すかって言って、無理矢理《月の力》を解放させた。その反動で、姉上は化物になった――そいつだよ、お前が守るべき人は」
 激昂の声を上げるカイルを振り解き、ソーレは言った。そして、にやりと最初のような笑みを浮かべる。完全に狂ってしまった、少年の容姿に相応しくない笑み。
 その刹那――

 人間の体から、黒い刃が生える。
 正しくは化物の、刃のように変化した腕。《月の力》を纏うそれは、胸倉を掴まれて動けないソーレの心臓を的確に射抜く。
カイルは、彼の体で刃の勢いが削がれたお陰で助かった。

 吐き出される鮮血。
 目の前にいたカイルの服にも飛び散り、紅い斑点が広がる。心臓を突かれたソーレの呼吸は、既に弱々しかった。
「あーぁ……お前がいつまでも俺を捕まえてるから、死んじまうじゃんか……。最低だよな、お前」
「…………」
「覚えてろよ……。この恨み、絶対忘れないからな……」
 カイルの手を振り解き、ソーレは呪詛を吐き捨て立ち上がる。とても軽い傷ではないのに立っていられるのは、やはり神族故か。
 しかし、数歩歩いただけで直ぐにぐらつき――倒れながら、彼の体は光に分解され、消えていった。
 消える瞬間の彼の顔を、カイルは一生忘れられない、と思う。全てに嘆き、苦しみの果てに死という安息を手に入れた、少年の自嘲的な笑みを。
 改めて、暴れ狂う化物に向き直る。ソーレを刺した後は再び苦しみ憂いていたそれは、まるで図ったかのようにカイルに体を向け襲う体勢に入っている。
「……本当に、ディアナなのか……」
 ソーレ自身が認めたものの、カイルは信じられない――信じたくないといった表情で問いかける。変わり果ててしまった彼女は、自分を育ててくれた彼と同じように苦しんでいるのだろう。そう思うだけで、胸が痛む。

『最後に、一つだけ。こんな状態じゃ、誰が化物になってもおかしくないし。――化物になった人間は、知っての通り自我を失って、本能のまま暴れるのみ。助けたいと思うのなら、躊躇わずに斬ってあげて。それが、彼らにとって唯一の救いとなるのよ』

 つい先日――もう何年も前のように感じてしまうが、化物の話をするリツの言葉が脳裏に蘇った。殺す事が、死を与える事が救い。あまりにも残酷な言葉で、同時に助命的な言葉だと思った。
 本当は――彼を殺した時の自分が抱いたような哀傷や後悔は、二度と味わいたくない。それを誰か他人に、味あわせたくもない。
 そう思い至り、彼女らの誘いを受け神官という民衆を護れる立場に就いたと言うのに――これでは、数カ月前の自分と全く変わらないではないか。
 拳を突き出してきた化物のそれを振動剣の腹で受け止め、力の比べ合いを開始する。押されて尻餅を付きかけるが、何とか持ち堪えた。
 弾いた振動剣をそのまま斬り返し、後退する。手中にある剣が、使い慣れているはずなのに妙に重たい。
 それは――誓いを破ろうとしている自分の心に潜む、罪悪感から来るのだろうか。
 苦しむディアナを助けたい。だが、殺したくはないのだ。その躊躇いや迷いは、剣の筋となって顕著に表れる。
化物の、体に不釣り合いな長さの腕を振り回しながら再び向けられた拳を、今度はかわす。
その時、何かが光った。
「……何、」
 何だ、と続けようとした言葉は宙に消え、大きくなる光に視界を支配される。中央丘で見たものとは違う、優しい光。あまりの眩しさに耐え切れなくなった脳は、無意識に右腕で目を覆った。

 次に眼が映した光景は、草原だった。
 先程まで確かに神殿にいたカイルは、懐かしい感覚につい体が反応する。
 草を踏む音が、耳に届いた。自分は動いていないから、これは他人が立てたもの。そう思い至り、音の方に視線を向け――
 絶句した。
「……ディア、ナ……?」
 そう、そこに立っていたのは。
 見間違えるはずのない、自らが命を賭けて守ると誓った主――《月の姫》。彼女はカイルを睨むように目を細め、頬を僅かに膨らませている。何か怒っているのは、一目瞭然だ。
「……ここは精神世界。少なくとも、現実ではないでしょう。――多分、カイルの剣とこれが共鳴し、この空間を作り出したのだと思います」
 そう言って彼女が取り出したのは、普通のものよりも大きめな鳥の羽根。鷲の、尾羽のようだった。カイルには身に覚えがなく、首を傾げる。
「セクウィの羽根です。本当は、あなたに会ったあの日から彼に渡されていたのですが、返しそびれてしまい私が持ったままでした。……彼に、感謝しないといけませんね」
 羽根を大事そうに胸に抱き、それから目の前に掲げる。すると、まるで空気中に溶け込むかのように光の粒子となって、跡形もなく消えていった。
 その様子を見守っていたディアナが顔を上げ、強い意志が宿る桃色の瞳を真っ直ぐカイルに向けた。その怒気に、昔育て親の羊を勝手に連れ出して怒られた時と同じものを感じたカイルは、思わず肩を震わせる。
「……カイル。躊躇わずに、私を殺して下さい。これは、命令です」
「しかしっ! もしかしたら、助けられる方法があるかもしれない……それに、貴女を討つなど――!」
 反射的に否定を口にするが、本当は分かっている。今まで討ってきた化物は――いや、化物になった人間は、誰一人として助けられなかった。幾ら《神》の事はいえ、彼女だけが助かるという理不尽な事があってはならないのだと。何より、ディアナ自身がそれを許さないだろう。
 それでも“助けられる”という希望を捨てたくないのは、諦めたくないのは。
 それをカイルの優しさ故と受け取ったディアナは、微笑んだ。今まで浮かべていた心からの笑顔ではない、哀愁漂う笑顔を。
「本当は、分かっています。こうなってしまえば、あとは世界の終焉を待つのみだと。それでもこうして頼んでいるのは、あなたを信じているからです」
「私、を……?」
「《月の力》を失くす、最後の手段があるのです。それには、私ではない誰かの力が必要でした。力を解放して空っぽになった私の体なら、大部分の《月の力》を引きつけられる。そしてそのまま封印させれば、この世界で《
月の力》に怯える事はなくなるはずです」
「…………」
 呆然とするカイルに駆け寄ってきたディアナは、何と大胆に自分の胸元に顔を押し付け抱き付いてきた。あまりにも突然の行動は、普通の男なら願ってもいない展開だろう。だがここでも経験が乏しいカイルは慌て、どうすれば良いのかと戸惑うばかり。
 彼女はどうにも思っていないのか、そのままの恰好で会話を続けてきた。くぐもって聞き取り辛くはあるが、動く気配がないので諦めてそれに倣う。
「カイル、お願いです。私だって、あなたや皆と共に生きていきたい。……でも、化物になってしまえば、それは叶わぬ夢なのです。それは――死ぬより辛い。だから、私に……死をください。あなたの手で」
「……ディアナ……」
 ふと、彼女の肩が震えているのに気付く。小刻みに上下するそれと共に、嗚咽のような押さえられた声も聞こえた。
 ――泣いてる……?
 そこまで考え、ディアナがなぜ自分に抱き付いてきたのかを察する。泣き顔を、見られたくなかったのだろう。こういう時何と返せば良いのか、とカイルは悩む。
 同時に――彼女の体と、自分のそれが消えかかっているのを見た。彼女越しに見える草花も風に揺られてはいるが、最初よりは幾分勢いがない。
 時間は、あと僅か。
 感覚が薄れていく中、カイルは意を決し彼女の体を抱き締める。今まで大きな存在だった彼女はこんなにも小さいのだと痛感し、改めて失くしたくないと思う。その体に宿る力で、この時間を止められればいいのに。
 だが、彼女も世界も、それを良しとはしないのだろう。
「――分かりました。貴女の意のままに……それが、貴女の願いなら」
 最後まで、躊躇いはあるかもしれない。だが、心の整理はついた気がする。後は、自分の意思次第だ。
 彼の返答に、ディアナはようやく顔を上げた。瞳は涙に濡れていたが、今までに見たどの笑顔よりも美しいそれを浮かべる。
「……その剣で私を貫けば、後は剣とあなたの力が封印してくれるはずです。ごめんなさい――そして、ありがとう。次に会う時は、敬語じゃなくて普通に話して下さいね? もっと、もっとたくさん……いろんな事、お話しましょうね、カイル」
「……はい」
 二人の体は、もう輪郭が分からない位に消えかかっていた。抱き合っているという感覚も、ない。
「次は、必ず……貴女を守ってみせます」
「ふふ、待っていますね。……さようなら」

 そして、二人は草原から消えた。

「――あ……」
 化物と、見慣れた神殿の中。戻ってきたのか、と少し落胆した。
 周囲を包んだ光が放たれる――と思った瞬間のまま時が止まっていたかのように、カイルは目を庇って腕を上げたままだ。グルルル……と獣に似た唸り声を、化物が鳴らす。
 剣の切っ先をそれに向け、目の前に掲げる。
 ディアナは、知らない。自分が彼女を殺せば、カイル自身もただでは済まないのかもしれないのだ、と。もしかしたら、それは不幸中の幸いとでも言うべきだろうか。
 天秤にかけられた選択肢は二つ。
 自分の命。
 彼女の、願い。
「――おおぉぉおっ!!」
 迷いは一瞬。カイルは咆哮と共に駆け出すと、化物に向け一閃した。刃から生じた衝撃波はその体を掠ったらしく、怒ったそれは両手を振り回す。
 素早く後退し回避すれば、背後に回り込むべく走り出した。体の大きいものが相手だ、機動力ではこちらの方が上手である。
 しかし――カイルにはないアドバンテージは、化物も持っている。
「「「ガアァアア!!!」」」
「なっ……!?」
 叫ぶかのような化物の悲鳴を合図に、神殿内に荒れ狂う風が吹き込む。それに乗った石礫が自然の刃となり、白いカイルの皮膚を斬り裂いた。――魔法、だ。
 一頻り暴れた風が止む頃には、全身に切傷や細傷を負い、服のあちこちが破けていた。だが、まだ倒れる訳にはいかない。
 ――ディアナとの約束を果たすまでは、死ねない!
 地を蹴り、再び相手に向かう。吹き飛ばした自分を見失い、化物が捜している隙に背後に滑り込み、何で構成されているのか分からないその黒い体を貫いた。
「「「ガァア……!!」」」
 ズプ、と泥に振動剣を差し込んだような感覚と振動が柄から伝わってきたが、化物は確かに苦しんでいる。カイルは、更にその体の奥へと、《月の力》を帯びたそれを差し込んだ。
 すると――先程光った化物の一部と剣が、淡い輝きを放ち始めた。徐々に強くなっていく光に呼応するように、周囲に感じていた力が濃くなっている。
「《月の力》を……取り込んでいる?」

 異変は、リツやヴィエントがいる海の方でも起こっていた。
 戦いを見守っていた彼女は、風に乗って流れていく《月の力》を目で追いかける。神殿に向かって流れるそれは、息を呑む程美しかった。
「……風……」
 すぅ、と息を吸って酸素を蓄える。そして、世界中に届けるつもりで紡ぎ始める。カイルがあの時聴いた、《月の力》を調律する力を宿す癒しの詩――或いは、化物になってしまった人間達に向けての鎮魂歌を。
 それは海の上にいたヴィエントの耳にも届き、陸を振り向く。だが聞こえてきた低い苦しみの声に、直ぐにリヴァイアサンへと視線を戻した。
 ――オオォォン……。
《月の力》に意識を支配されていた海の神からもそれは溢れ、同じ場所へと向かっていく。しかし、神と呼ばれし存在は人間とは逆に、生きる為に《月の力》が必要だ。
フ、と笑みを浮かべ、ヴィエントは手に持っていた数本の十字短剣を仕舞い込む。代わりに、人に化ける為に使っていた力全てを掌に集め――呟いた。
「俺もお前も、この世界には必要らねぇんだとさ。なら……いっぺん死んでみるのも悪かねぇだろ? どうせ、直ぐに生まれ変わるしな」
体が変化していく中、リヴァイアサンに止めを刺すべく《月の力》を練る。
洗練されたそれが海の神の強靭な体を貫く時は、あと僅か。

大陸中から集まった《月の力》を蓄えた化物の体は、振動剣をその身に刺したまま宙に浮かんでゆく。
「――……っ」
 がく、と跪付いたカイルの顔色は、急速に悪くなっていた。ここまでの連戦で力を使い果たしたのか、はたまた呪いが早くも進行し始めたのか。
 ふと、何かが神殿に侵入する音がし顔を上げる。高い天井――そこから、通常よりも大分大きい鷲が彼を見下していた。
『――それが、お前の選んだ答えか』
「……? その声、」
 音声ではない、脳に直接届いてくる声で話しかけられたにも係わらず、カイルはその声を知っていると思った。大鷲がその問いに直接答える事は、ない。
『いずれ、その《月》は空にあるもう一つのそれとなり、封印された力は人間達の頭上で輝き続ける。世界を救ったのは確かだが、また遠い未来――ここは化物と《月の力》の脅威に晒されるだろうな』
「――え……!?」
『お前は完璧な《神》ではないからな……振動剣に力を貸しただけの簡単な封印方法だから、中途半端になってしまったのだろう』
「…………」
 確かに、世界を救えた。ただそれは、いつまで続くか分からない、偽りの平和だ。何十年、何百年と先――また、世界は危機に陥る事になる。その時、果たしてこの世界の人々は戦えるのだろうか?
 そんな中途半端な救いしかもたらす事が出来なかった自分に腹が立つが、もう終わってしまった事。今どんなに抗おうとも、過去をやり直す事は出来ないのだ。
 二人の目の前で、《月》が上昇を始めた。破壊された天井の亀裂を通り、一部をすり抜け、高い高い空へと浮かんでいく。
『……剣との契約を破れば、どうなるか知っていたのだろう。仕方なかったとはいえ、守るべき主を斬り殺したのは……お前自身の意思だ』
「知って……っう!?」
 身体中に電流が走ったような鋭い痛みに、カイルは無意識に胸部の皮膚を掴む。当然、それで状態が良くなる事はない。
『あの剣は、息子であるお前に《マグニス》が造り出したものだからな。しかし、お前はそれを破った。その報いは、永遠に生き続ける屍となる事だ』
「……私は、ディアナを殺した事を後悔していない。むしろ、これで良かったとさえ思っている。彼女の願いを、叶えられたのだから――」
 あれだけ大地に暗い影を落としていた空は、いつの間にか明るくなっていた。かなりの時間が経っていたのか、山と山の間から朝日が昇り始める。月は、逃げるように逆の地平線へと沈んでいった。
――小さな月を連れて。
『……今お前は死を迎えるが、またいつか生まれ変わって生を歩み、死に、また生きる。ずっと……死ねない』
「構いません」
 近くにあった玉座に歩み寄り、腰かけずに床に座った。背中を預けた石は、なぜか暖かい。
「死を、そして生を受け入れる。例え、苦しみしかない一生だとしても」
『…………』
「だから……また、どこかで会いましょう。セクウィ」
『……会えたらな』
息の荒いカイルは、力を振り絞って微笑む。そんな彼を一瞥し、バサ、と大きな翼を広げると、大鷲――ジズは夜明けの空へと飛び去っていった。
自分以外誰もいなくなった神殿は、本当に静かだ。生きていた人間が、皆死んでしまったように感じる。
だが、世界はまだ死んでなどいない。死ぬのはあくまで自分だけであり、たくさんの生命を生かす大地と時間は、またいつ訪れるか分からない衰滅へと進み出す。
「……さようなら」
 誰に聞かせるつもりもない、だが確かに何かに向けた留別の言葉を呟くと、カイルはゆっくりと目を閉じた。