御伽噺:07

 調査に赴いたカイル達は、道中も暗い空の向こうを目指しながら移動していた。
 周囲は次第に殺伐とした風景になり、風が頬を斬り裂くような勢いで吹き付けてくる。さっきまでちらほら目にしていた草花も、いつの間にか姿を消していた。荒野――寂しい雰囲気を纏う場所だ。
「ちょっと……いや、かなり嫌な予感がしますね。《月の力》も濃いし、ちょっと鳥肌立ってきた」
「鳥肌、と言うより武者震いと言え」
 トキワが辺りを見回し感想を述べると、アストラルのずれた突っ込みが入る。それを受け「そうだね、そっちの方が格好良いか」と場にそぐわない返答をしたのは、緊張を紛らわす為か。
 隕石の墜落以降何人たりとも踏み入らせる事のなかったその一帯は、大小様々な瓦礫により道なき道を生成している。簡単に乗り越えられるものもあれば、馬ではとても通れない大きさのものまであった。中央丘が近い証拠だ。
 道の険しさに比例するように強まる《月の力》は、油断すれば直ぐにでも呑み込まれてしまいそうだ。
「アース! ダメだ、この先は馬じゃ行けそうにもねぇ!」
「そうか……」
 先頭を進んでいたシオンがこちらに引き返し、道の状態を報告する。その間にカイルとトキワも先を一瞥し、どうしたものかと頭を悩ませた。
「――……。総員、ここからは我々のみで進行する。諸君らはここで待機し、何か異変があれば俺達とディアナに知らせを寄越してくれ。――これで良いな?」
「あぁ、彼らも危険に晒す事になるが、仕方ない」
「賢明な判断、って奴だよ」
 従者の指揮を請け負うアストラルが下した苦渋の決断とは、神官のみで中央丘の傍に向かうというものだった。彼らを神殿に帰すという手を考えない訳でもなかったが、それでは帰りの足である馬を守る者がいなくなってしまう。
 そうと決まれば、四人は必要最低限の荷物と武器のみを持って瓦礫の山を踏み越えた。足場は悪いが、人の足なら行けるだろう。

同時刻――湖では、動物達が啼いていた。
 正確には、嘆いているといった方が正しいか。様々な鳴き声が混ざり合い、センスのない音楽家が作ったような耳障りな音楽を奏でている。
 当然、湖のほとりに住んでいるリツの耳にもその不協和音は聞こえていた。不安そうに傍らの一角獣に身を寄せながら、辺りを見回す。
「何て音……。リヴァイアサンに、何かあったのかしら? それとも、何か別の……」
 一角獣へと問いかけてみるが、返ってくるのは人間では何と言っているのか分からないブルル、といった鳴き声だけ。いつもの堂々とした、毅然な態度は見られない。この子も不安なのだ――そう思ったリツは、安心させようと美しい毛並を撫でる。
 その刹那、さっきまで明るかった周囲が突然暗くなった。いや、太陽の光が何かに遮られ、ただでさえ少ない光を更に減少させたのだ。
 空を見上げれば、全長五メートルはありそうな鳥が舞うように飛んでいる。鈍色の――以前ディアナが貰った尾羽と同じ色をした、大鷲。
 リツと一角獣を見付けると、大鷲は地上へ下り立とうと高度を下げる。同時に体を輝かせたと思えば、次の瞬間大地に足を付けたのは人間――セクウィだった。
「リツ、無事か!」
「えぇ、まだ何もないわ。けど、さっきからソーレとヘリオス、スィールが見当たらないの。どこかへ遊びに行ってしまったのかしら……」
「こんな時に……」
 大鷲が人間になったというのにリツは全く動じず、同居している子供達の身を案じた。それを聞いたセクウィは、苛立ちから軽く舌打ちをする。
「リヴァイアサンが、今まで以上に海で暴れている。何か知らないか?」
「え……まさか、そんな!」
「本当だ。《月の力》が奴の許容量を超えようとしている今も、増加を続けている。このままでは……」
 神々の力を調整し世界の均衡を保つ役目を負う彼女は、セクウィからもたらされた事実に、気が動転しかけた。海の神の異変を気にかけていながら、――こうなるのを予想していながら、最悪の展開を招いてしまったのだから。
 それを伝えた本人もまた、苦々しい表情を崩さない。意思を持つ神という存在、特に《
月の力》の動きに敏感なリヴァイアサンが自我を失い暴れているという事は、それが抱く強大な力の制御が出来ていないという事と繋がる。当然神となると、
「世界が崩壊しても、おかしくない」
「どうしましょう……あ!」
 リツが急に声を上げ、そわそわと落ち着かないのか大声を上げる。セクウィは驚きこそ顔に出さないが、怪訝そうに彼女を見やる。
「大変……! 今日、ディアナがいる神殿にはミシェル君しかいないわ!」
「何?」
 話が見えず益々表情を歪めるセクウィに、リツは昨日神殿に行って話した事を語った。ヴィエントの名が出た瞬間眉を顰めるのはこの際置いて、簡潔に要点だけを伝える。
 話が終われば、彼は眉間に皺を寄せたまま黙考する。恐らく、自分はどこに行くべきだろうかと考えているのだろう。
 ミシェルの実力を信じていない訳ではないが、主力戦闘メンバーではない彼だけでは心許ないのも確かだ。だが、リツは海に繋がるこの湖を離れる訳にはいかない。同じ役目を持つ彼女らだ、まだ見知らぬ敵の目的が分からない以上、リツを一人にするのも危険である。
「ミシェルを、信じるしかないか」
「えぇ……。リヴァイアサンも、完全に呑み込まれた訳じゃないと思うの。……これ以上《月の力》が増えれば、多分終わりだけど」
 リツは、中央丘があるであろう方角を見つめる。今そこでは、カイル達が調査を行っている頃だろう。両手を胸の前で握り締め、祈るように呟く。
「皆……無事でいて……」

 やっとの思いで辿り着いた中央丘は、まだ荒れた土地の方がマシだと思える程に凄惨な状態を呈していた。
 そもそも、中央丘というのはクレーター中央部に見られる凸部の事で、大きな物ほどそれが出来やすいのだという。先程瓦礫で通れなかったのは、そこから外部へ向かう時によく見られる、急激な立ち上がり部分だったらしい。
 元々は森だったのか至る所で焼けた木の幹が並び、中には倒木しているのも目立つ。その全ては中央丘を避けるように、外側にぐにゃりと曲がっている。隕石落下時の衝撃に加え、摩擦熱による発火が原因か。
「うっわー。これは凄いなぁ」
 トキワが呆れるように声を上げ、それらの中心部にあるそれを見上げる。
 月の石――と称していいのか、聳え立つ中央丘の中央には、淡く輝く球状の石がその存在を主張していた。カイル達の背丈程直径があるそれは載っている瓦礫が不安定なものの、奇跡的なバランスでその場に留まり続けている。土台から剥がれ落ちた瓦礫も周囲に散乱し、まるでここが何らかの祭壇のような神聖さを醸し出す。とすれば、祀っているのは月か。
「よし、ここで何か起こっていないか調査を始めよう。あまり散らばらないように――」
「……待て、アース」
 調査を開始しようと口を開いたアストラルの指示が終らないうちに、周囲を見渡していたシオンが発言した。怪訝そうな顔で一同の視線が注がれるのも構わず、彼は一点を注視する。
「――誰だ?」
 誰何は殺伐とした祭壇に向けられ、誰に届く事なく空に消えたと思われたが、直後それは浅慮に過ぎない事を知った。
 石が、動いたのだ。
 実際には石は動いておらず、ただ影が動いただけ。そして影は分離し、一つの塊となって彼らの前に現れたのだ。――人間として。
「《神の眼》シオン兄ちゃんがいたんだ……」
「!? 誰かいる!?」
「その声……」
 隕石の陰から現れたのは、ミシェルよりも年齢が下に見える少年。長めの前髪から覗く瞳は不気味に蠢き、その異質な雰囲気からは体内を流れる血液を思い出させた。
 カイルは、声を聞いた瞬間信じられない、と目を剥く。その持ち主は、およそこんな危険な場所にいるはずのない少年のものだったからだ。
「……ソーレ? いや、ヘリオス……」
「ヘリオスだな」
 驚愕と共に発された疑問に、アストラルが返す。そうだ、リツの家に同居し、以前街で理不尽な言葉の暴力を受けていた双子の片割れだ。間違いない。
 そのやり取りが気に食わなかったのか、はたまた兄弟と間違えられて怒っているのか。少年――ヘリオスは不機嫌そうに、眉を顰める。
「……そう、僕はヘリオス」
「なぜ君がここに? 危険だ」
「……誰にも言うなって言われてる。お家にも帰らないよ。もう直ぐだもん、後はこれさえ操れれば」
「何?」
 その刹那。
 ヘリオスから見て右の方に鎮座している隕石が、突然今までの比ではない光量を発し始めた。彼と向かい合っていた四人は、必然的にその光を直視してしまい、暗順応により視界が暗く――いや、明るくなる。
 実際には一瞬だろうが、数十秒、或いは数分と感じた時間を経て目を開けると、中央丘にある石が輝きを放つ前と変わらない光景が映った。だが、さっきとは明らかに違うものがある。
「な、何今の」
「あと四十五パーセント……。ようやく半分かぁ」
「何をした、ヘリオス」
「……ヘリオス、ちょっと聞けや。これはオレの予想だが……お前ら、世界の空気と溶け合う《月の力》を操作或いは暴発させて、全ての人間を化物に変えようとしてないだろうな」
 シオンの推測は、彼らを驚かせるに値する恐ろしいものだった。
 隕石は、恐らく《月の力》を抱擁するのに充分な媒体なのだろう。もしかしたら、本当に月と成分が同一の物なのかもしれない。光が明滅する様子は、カイルの振動剣と近似しているからだ。
 そして《月の力》が一ヵ所に留まれば、より多くの力を集めようと力が働く。人間が化物になるのは、この媒体が人間という器になり力を寄せ集め、やがて抱え切れなくなって放出してしまう為だ。
 偽物の月、そして惹かれ合う力――《月の力》を一ヵ所に集めるには恰好の道具で、それを街中で一気に放出させてしまえば、国の住人は、《祈り》のペンダントの有無に関わらず化物に堕ちる。
 それを聞いたヘリオスは、僅かに目を見開き――そして、図星だったのかシオンを睨み付ける。立っていた瓦礫を伝い中央丘を下りると、彼も四人と離れた位置で隕石を見上げた。隕石は来た時よりも強い明滅を繰り返し、表面が輝いているのが肉眼でも分かるようになっている。
「……兄ちゃんと僕を苦しめる奴なんて、皆死んじゃえば良い。その方が、世界は正しく動いてくれるよ」
「!! ヘリオス、お前……自分が何言ってるか分かってんのか!?」
「分かってるよ。僕達を蔑む奴皆が死ねば、人間という人間はいなくなる。世界崩壊を招くんでしょ。その為に、兄ちゃんと僕は《月の力》を増やしたんだから。――こいつを使って」
「――! スィール……!?」
 ヘリオスが岩陰から引き摺り出したのは、小さな子供。海の波のように透き通る髪を乱雑に掴んで引っ張り、抵抗も厭わず彼らの前に突き付ける。中性的な幼い顔立ちと容姿の――リツを慕い一緒に住んでいる精霊、スィールを。
 後ろ手に両手を縛られているのか、軽く頭を揺さ振るだけで大した抵抗をしていない。あんなに元気そうに笑っていた顔に貼り付いているのは、苦痛と倦怠。目の前の空をさ迷う瞳にも、生き生きとした覇気は感じられなかった。
「勝手に付いてきたから、序でに力を貰っちゃった。隕石は加減を知らないから、もうボロボロだね」
「お前……!」
「落ち着け、カイル。……ヘリオス、それをやればお前らもただでは済まないんじゃないか? 馬鹿な事は止めて、帰るぞ」
 幼い子供をあやすように、アストラルが相手に腕を差し出す。だが、それは彼にしては迂闊な行為だと言えた。
 それを立証すべく、ヘリオスは薙いだ。
 ――ザンッ。
「!?」
「アストラル!!」
 いつの間にか手に持っていたヘリオスの武器、投擲斧が彼の腕を斬り裂く。旋回するそれはセクウィの双剣のように、自ら持ち主の元へと戻っていった。
 トキワが悲鳴にも似た声音で彼の名を呼び、慌てて天使の羽根を持った丸っこい生き物を呼び出している。初めて見た時は驚いたが、その生物は治癒能力を持っていて、応急処置程度なら施せるんだそうだ。カイルも、何度も世話になっていた。
 ヘリオスは乱れた息のまま、叫ぶ。
「そうやって、また僕をどこかに閉じ込めるんでしょう。お前らの、姉さんの狗の話なんて聞きたくない! 今頃、兄ちゃんだって姉さんの所に行ってるよ。人間を完璧に滅ぼす為に!」
「何……!」
 そう言えば、さっきからヘリオスばかり目が行っていたが――兄のソーレの姿は見当たらなかった。彼の言う通りなら、ディアナが危ない。
 他の三人が息を呑む中、カイルだけは方向転換し駆け出していた。従者を待機させている、クレーター壁の方へ。
 しかし、その道は何かに遮られていた。黒い体に血の色の眼を持ち、獣のように低い唸り声を上げる怪物――化物。
「《月の力》をあげるって言ったら、化物は簡単に言う事聞いてくれた。手始めに、お前らが死んじゃえ!」
 慟哭と呪詛が入り混じった叫びを合図に、周囲に潜んでいた化物が集まってくる。その数、優に十体以上。
 襲いかかってきた敵を前に、こんな時でも闘志が高まっているシオンと、治療を終えたトキワが駆け出す。カイルもそれに付いていこうとしたが、アストラルに呼び止められ足を止めた。
「カイル、スィールを連れて、先に神殿に戻れ。ここは、俺達で十分だ」
「え……!?」
「誰かが戻らなければ、ここで全員やられてしまう。ヘリオスの話も、とても詭弁だとは思えない。何より、――ディアナが心配だ」
「だけど、それでは」
「ディアナとミシェル、頼んだぞ」
 驚くべき言葉に戸惑いながらも、カイルは反論しようと詰め寄る。だがそれよりも先に、アストラルは一言言い残すと戦線に飛び込んでいった。
 幾ら三人とは言え、大量の化物とヘリオスが相手で無事で済むとは思えない。下手をすれば、――いや、それでなくとも命を落とす可能性の方が高いのは、容易に想像が付く。
それを分かっていて、敢えてカイルの発言を無視したのだろうか。
 ――ヒュン!
「おっと」
 再び空を駆ける投擲斧はシオンの頭があった場所を斬り裂き、通り過ぎる。しゃがんで避けた彼の遅れ髪が、数本宙に舞った。
 足をバネにして立ち上がると同時に、黒く鈍重な体へ重い一撃をお見舞いする。だが、ダメージは少ないのか少々ふらついただけで倒れるには至らない。そこへ、音速の弾丸。
――バン!
トキワの自動拳銃が火を噴き、化物へ的確に命中させたのだ。勢いでぐらついていた体は重心を後ろへ移し、体重を支え切れなくなりついに倒れた。
その隙に、シオンが切り開いた隙間を縫ってヘリオスに突撃する。彼の狙いは化物ではなく、スィールだった。
「おらぁっ!」
「っ……!」
 飛びかかって来た彼の拳に瞬時に反応し、ヘリオスは避ける。だが、避けた先にも再び発砲音を連なった銃弾が走り、思わず手元に戻っていた投擲斧を翳す。その際、スィールの髪を掴む手から力が僅かに抜けた。
 それを体勢が戻ったシオンが掴み、過剰なまでに力を込めて放させる。鉄甲手と戦闘狂故の腕力だ、それで放さない方がどうかしている。
「スィール、カイルまで走れ!」
「……!!」
 走れるかどうかが心配だったが、スィールはシオンの檄を受け立ち上がると一目散にカイルの元へと駆けた。瓦礫でこけそうになった所を受け止め、素早く抱きかかえる。
「後任せた、カイル!」
 彼らにもアストラルの話は聞こえていたのだろう、カイルが逃げられるよう化物の壁を崩し退路を築き上げた。それがドミノのように崩れ落ちるよう狙って発砲したトキワを見やると、困ったように笑い大きく頷く。
行け、と。
「……すまない、必ず戻る!」
「期待しないで待ってんぜ、気を付けろ!」
 カイルは覚悟を決め、駆け出した。
 迷いを振り切るようスピードは落とさず、後ろも振り向かない。振り向いてしまえば、自分はここから立ち去れなくなる。そんな気が、した。

 ――変な天気。
 さっきまで晴れていたはずの空は、不穏な空気を纏う暗雲に包まれ今にも泣きだしそうだ。国の家々が重い灰色なのも相俟って、嫌な予感がひしひしと伝わってくる。カイル達がここを出発してから、軽く五時間は経っていた。
 バルコニーからその様子を見ていたディアナは地平線を見ながら、表情を険しくしている。どうにも、何かが起こりそうな空だ。
「ディアナ、こんな所にいたー!」
「ミシェル」
 背後からかけられた己の名にビクリ、と肩を震わせ、振り向く。相手がミシェルと分かるなり安堵の息を吐いた彼女の様子を不審に思ったのか、彼は首を捻り彼女の隣に歩み寄る。
「どうかした?」
「あ、いいえ……。カイル達が心配で。それに、ここは風が気持ち良いし」
「……嘘吐きー」
「え? 嘘って……」
 その言葉に、頬を風船のように膨らませ睨むミシェル。そういう子供っぽい言動をするから実年齢よりも幼く見られるのだ――と突っ込みたくなるが、火に油を注ぎ込む事になりそうなので抑える。
「不安そうにしてたじゃん。絶対カイル達だけじゃないし、他にも何かあるでしょ。ボクはそんなに頼りない?」
「そ、そんな事ないです! ただ余計な事を口にして、ミシェルや他の皆を不安にさせたくないから……、……あ」
「やっぱり! ディアナ、意外と分かりやすいんだから。ボク達神官が何の為にいるのか忘れた? 何か不安があるのなら、直ぐに言う!」
「……ごめんなさい」
 ビシィ!と勢い良く鼻先に突き付けられるミシェルの勢いに怯えつつ、申し訳ないと謝る。だが彼は表情の割にはあまり気にしていないのか、直ぐにいつもの笑顔に戻った。
「分かれば良いよ。で、何?」
「……空が、嫌な感じがするのです。カイル達が出発した時に感じたものと同じなので、落ち着かなくて」
「虫の知らせ? ディアナ、そういうの当たるからなぁ」
「皆、大丈夫だと良いのですが……」
 目を伏せるディアナだが、ミシェルはそんな彼女の顔を覗き込みにやりと笑う。
ああ、この笑い方。
「あれー? ディアナはカイルが一番心配なんじゃないのー?」
「――! ち、違います! 私は、皆を心配して……もう、ミシェル!」
 やっぱり、と思いつつ言い返す。さっきの表情は、トキワが自分をからかう時の表情にそっくりだった。ディアナの返答に、ミシェルが明るい笑い声を上げる。それだけで、不安に押し潰されそうになっていた心が安らぐ気がした。
 しかし、その束の間の平穏は崩される。

「じゃあ、追わせてやろうか?」

 ――戦慄。
 どこからか響いた、おぞましい殺気を孕んだ声に背筋が一瞬にして凍り付き、運動神経が動きを止める。
 笑顔を浮かべていたミシェルが顔を強張らせ、突然こちらに向かって走ってくる――と思いきや、そのままディアナに覆い被さるようにして飛び付いてきた。同い年とはいえ、男女の体格の差は歴然。押し倒されるようにして地面に倒れ、瞬間鼓膜にけたたましい音が鳴り響いた。
 音は数十秒間続き、今度は神殿の外壁が崩れる音が耳に届く。一体、何だと言うのか。
 倒れ込んだままのミシェルが体を起こすと同時に、三階へ続く階段から足音がした。
「素晴らしい反射神経だ、流石は姉上が見込んだ神官殿。称賛に値するよ」
「え、ソーレ……?」
 現れたのは、空色の髪に紅い瞳の少年――ソーレ。思いもしなかった人物に、ディアナは目を丸くした。
 だが、その手には波長刀――刃渡り一・五メートル程、揺らめく炎を模した波型の刀身を持つ、彼の愛刀が握られている事に気が付く。それなのに、顔にはいつものような荒んだ怒りではなく、嘲笑を浮かべている。それを認知した瞬間、頭の中で先程の轟音よりも高く、警鐘が鳴り始めた。
 ミシェルも同じ事を感じたのか、すぐに立ち上がると己の武器である円月輪を携え、ディアナと彼の間に立ち塞がる。
「ソーレ、ボクらに……ディアナに向けて魔法を撃つなんて、どういうつもり?」
「見ての通り――殺そうとしたんだよ。姉上を狙えばお前が庇う、そこを討とうとしたんだけど……失敗したか」
 表情は笑顔そのままだが、それとは逆に言っている事は残酷だ。ソーレが纏う殺気に体中から嫌な汗が流れ、動けない。
「ソーレ、なぜ?」
「ソイツや姉上だけじゃない。今頃、ヘリオスが中央丘に行った神官の相手をしている」
「カイル達にも!?」
 嫌な予感が、当たってしまった。そう落胆する暇もなく、ソーレは波長刀の切っ先をミシェルに向けた。
「邪魔なんだよ。俺らの目的に、お前ら神官は。だから、死んでくれ」
 まるで、買い物を頼む時のような気軽さで問うソーレ。ミシェルが円月輪のギミックを作動させて幾枚もの刃をセットし、臨戦態勢を整える。
 と同時に、背後にいるディアナへ叫んだ。
「ディアナ、ここはボクに任せて逃げて! 下なら召使いもいる!」
「は、はい! ミシェル、気を付けて!」
「それはこっちの台詞!」
彼の檄に促され、下へ続く階段を駆け下りる。自分を安心させようと笑っていたミシェルの笑顔は、どこかぎこちなかった。一瞬足が縺れそうになるも、何とか踏み止まり階下を目指す。

だが、逃げ場はなかった。
月の間に向かった彼女の目の前に広がったのは、談笑しながら主の帰りを待つ従者の姿ではなく。
絶望を絵に描いた、惨劇だった。

待機しているはずの従者は、神殿の中だというのに剣や弓を構え逃げ惑う。その数もいつもより少なく、原因はカイル達に付いて行った人数が多いだけではない気がした。周囲には赤黒い液体が飛び散り、美しかった床は見る影もない。
そして、そこで猛威を奮っていたのは、
「化物……!」
 黒い体を存分に暴れさせ、人間も物も見境なく破壊している化物。軽く見渡しただけでも、五体はいるだろう。
 そのうちの一体が彼女の気配に気が付き、《月の力》を奪おうと襲いかかる。唸り声で我に返ったディアナは、反射的に魔力を練り言霊を紡いでいた。
「流れる時の、衝動螺旋。総ての生命を、絶望の風へと導け! ――風よ!」
ディアナが呼び出した竜巻が化物を咥え込み、重い巨体を軽々と宙へ持ち上げる。もがこうにも風が強く、動かしにくそうなその腕では脱出は不可能だろう。
そして、もう直ぐ天井に叩きつけられるのではないかという高さに差し掛かった瞬間、竜巻は消滅した。突然重力が働き始めた身体は地面へと落下し、床が重さと衝撃で砕ける。その瓦礫もダメージになったのだろう――液状の何かを噴き出しながら、黒い粒子となり死んでいった。
 その化物と戦闘していた従者に駆け寄り、治癒を施す。そして、何が起きたのか彼女らに尋ねた。
「申し訳ありません、姫様……。化物の侵入を許してしまい応戦していましたが、私共では手も足も出ず……。挙句に、濃度が増した《月の力》により召使いの数名が、化物になってしまいました」
「そんな! まさか、今のも」
「はい、その一人です……」
 目の前が、真っ暗になる感覚がする。
 《月の力》に苦しみ暴れ、襲ってきたとはいえ、ディアナは知らずのうちに己の為に尽くしてくれていた従者を殺してしまった。化物になった以上殺すしかないが――割り切る事は、出来そうにない。
 ともかく、先ずは生き残った従者の安全を確保するのが先だ――そう即断し、未だ暴れる化物の動向を探ろうと目を向ける。
「無駄だよ、姉上?」
「――!!!」
 耳元で喋られているような声に驚き振り向けば、自分が治癒を施したばかりの従者が苦痛の表情を浮かべ倒れる所だった。目を見開き、何かを言おうとしたのか開かれた口内からは、しかし鮮血が。心臓部から突き出している、波状の刀身――ソーレの仕業だった。
 従者の返り血を浴びた彼はあくまでも笑顔だったが、そこにはもう無邪気さなど欠片も見当たらない。狂っている。
「逃げたって無駄だよ。さぁ、姉上の《月の力》、頂戴?」
「……ミシェルは……!」
「ミシェル? ああ、あの天使ならもう殺してきたよ。完璧な天使なんて、要らない」
 興奮しているソーレがごとり、と床に放ったのは、円状の刃に多数の棘が付いた武器――円月輪。間違いなくミシェルのものであるそれは、本来の白ではなく真っ赤に染まっていた。
 それはつまり、
「そ……んな……」
「あはは、人間って呆気ないよねぇ。こんな簡単に殺られちゃうんだから。――という訳で姉上、いい加減にしてくれないとアイツが怒っちゃうよ? ほら」
 相変わらず不気味な笑顔を顔に張り付けるソーレが、天井を仰ぎ見た。その瞬間、聞き覚えのある啼き声が海から谺した。
文字にするならオオォォン、と表現すればいいのか。その叫びは、聞いた事があった。
――リヴァイアサン……!?
海を司る神、リヴァイアサン。今のは、その啼き声だ。
 ディアナの驚愕を察してか、ソーレは悪戯を思い付いた子供のような表情で口を開く。
「リヴァイアサンが暴れて世界を壊すのと、俺らが住人化物に変えて壊すの。どっちが良い?」
「――!」
 究極的な二択。
 どちらを選んでも、世界の滅びを回避する事は出来ないだろう。世界の命運を決める選択なのだ、そんな事ディアナが決められるはずがない。その迷いが、彼女から冷静さを失わせていた。

『――――。』

――え?
どこからか聞こえた声。それは、自分を生み出した《マグニス》のものでもなく、だからと言って今目の前にいるソーレのものでもない。
得体の知れないその声は、だが混乱していたディアナの気を鎮め、決意させるだけの力を持っていた。
信じろ、と。
「……分かりました。私の力、あげます」
 ――ごめんなさい、皆。
 もう会う事は出来ないであろう彼らに、音にはせず謝罪を口にする。そして、胸の前で両手を祈るように組み――

 力を解放する為に、時間が動く。