御伽噺:02

 初更ともなれば《月の力》が濃くなるせいもあり、外に人影はなくなる。月影見えぬ空の下、どこからか聞こえてくる虫の声――否、魔物の慟哭が、これから訪れる夜を更に不安にさせた。

「で、ディアナ。僕達が駆け付けるまでの間に、一体何があったのですか? つい狩りに熱中してしまい到着が遅れたのは、確かに我ら神官にあるまじき失態であり、それについては後々赦免を乞う所存でありますが――」
「トキワ、聞こえてないよこりゃ」

神殿の月の間には、どこか浮かれたような雰囲気を醸し出すディアナに問いかけるトキワ、狩猟に参加しご機嫌なシオン、そして諦観する金髪碧眼の少年が集まっていた。

結局狩猟の勝者となったのは、己より一回りも二回りも大きいであろう熊を仕留め、担いで帰還したシオンだった。ディアナは鷹一匹のみ、トキワも兎や狐とバリエーションに富んだ収穫であったが、いずれも熊の大きさに敵うはずもない。
彼は鉄甲手の代わりに弓を持って行っていたはずだが、どうやら熊とは素手で闘り合ったらしく至る所に擦傷を負い、泥だらけである。余談だが、捕獲した動物達は神殿の従者の手によって美味しく調理され、食物連鎖の糧と化した後だ。

そして、シオンと勝負をしていたディアナはと言えば、負けたのを気にする所か先程から何かに思いを馳せ、ニコニコと笑っている。意外にも負けず嫌いな所がある普段の彼女からは想像もつかない光景であり、故に他の三人は目を丸くして事の次第を尋ねていた。

「姫、何か面白ぇ事でもあったんじゃねーの
? なぁ、ミシェル」
「いつも以上に機嫌が良いし、ボクもそう思うな。ボクらの声も、耳に入った瞬間抜けてるんじゃないのかな?」

つまらなさそうに(恐らく彼女が負けたのを気にしていないせいだ)言うシオンの言葉に同意を示したのは、トキワではなく金髪の少年――ミシェル。
一応ディアナと同い年なのだが、顔つきや動作にはまだまだ少年特有のあどけなさが残り、身長が低いのも相俟ってどう見ても年下にしか見えない。トキワ達と同様黒を基調とした服を着ている事から、彼が神官であり姫の側近の一人と分かるものの、服を“着ている”というより“着られている”ように感じた。
ただ、腰のベルトから下げているポーチに金槌やペンチといった工具、更には何に使うのか分からないものまで入っている様から、何らかの職人である事は窺い知れる。

「……はぁ。それにしても、あの青年は一体何者なのか……」

自らを当惑させる要因の一つを口にし、頭を抱えるトキワ。だが何の警戒もせず発問したそれは、彼女にとって地雷――ならぬ活性剤だったらしい。

「トキワ! よくぞ、聞いてくれました!」
「……はい?」
「彼は、颯爽と現れたかと思うと一瞬であの賊を制圧し、私を助けてくれたのです! それはもう、素晴らしい勇戦でした! まるで踊っているような剣捌き、そして」
「えぇ、良く分かります。分かりますので、取り敢えず深呼吸をして心を落ち着かせてから、初めからご説明願えませんか?」

――ガキィッ!!

「……え?」

状況に付いていけず刮目するディアナの前に現れた青年は、左手に何の変哲もない平凡な片手剣を携えていた。先の金属音とも言えぬ残響は、跳ね返された三節棍とそれが互いに衝突し合ったもの。
服装は国の住人同様質素なものであるが、総身に泥や砂がこびり付いている。緑がかった白髪は短く切られ、派手な飾り物は一切見当たらなかった。

と、彼が不意に背面を――つまりディアナの方を振り返る。しっかり合ってしまった綺麗な緑色の瞳は、少し細めだが太陽の光を受け宝石のように輝いていた。

(――まるで、“翡翠”みたい……)

「大丈夫ですか?」
「え? ――あ、はい!」

その美しい瞳に見惚れていると、彼がこちらを訝しげに注視しているのに気が付かなかった。思ったよりも低い声に慌てて返答しながら、崩しかけていた体勢を整える。顔中が熱を帯びたように感じるが、無理矢理気のせいだと思い込む事にした。

「おい、兄ちゃん。人の邪魔をしてはいけませんって、親に習わなかったのか?」

二人に半ば無視される形となった山賊の男は、突然現れた青年にあからさまな敵意を向け、再度武器を構える。その仲間達も、今にも襲いかかってきそうな気迫を背負い一歩前に詰め寄ってきた。
青年は一瞬悄然とした雰囲気を纏わせたが、すぐに元の無表情に戻り思案する。威圧など気にも留めぬ鷹揚とした態度で口にしたのは、

「すまない。羊が怯えるから、厄介事なら別の場所でやって欲しい。乱入したのは彼女が危なかったからだが……、少々強引過ぎやしないか?」

個人的な理由とそれに対しての謝罪、そして難詰にも似た言葉。当然、血の気の多い山賊達がそれで大人しくなるはずもなく。

「……あぁ? うるせぇよ。何でも“すまん”で済むと思ったら、」

冷静に――否、どちらかと言えばマイペースに話す青年に業を煮やし、言下に三節棍を振り上げ山賊の男が飛び出す。それを合図だと言わんばかりに、他の者達も一斉に駆け出し包囲を始めた。

「大間違いだぜぇ!!」
「ひっ……!」

山賊の怒号に怯えたディアナは悲鳴を上げかけたが、青年は恬然として不意打ちの攻撃を受け止める。打ち下ろしを防がれた山賊の男はそのまま力の比べ合いに持ち掛けようと更に力を込め、重心を前に移したのが分かった。

しかし青年はそれを良しとせず、受け止めた時の勢いを利用し三節棍を弾き返す。一対多の状況では、一人の敵に構っていればいる程不利に陥りやすい。

そのまま流れるような俊敏さで、斬り込んできた短剣をも退け、その使い手の腹部を蹴り倒した。相手の更に後ろから攻撃を仕掛けようとしていた男を巻き込み行動不能にさせると、迅速に周囲を確認する。

「何……っ!?」

そして三節棍が吹っ飛ぶ勢いに引っ張られた山賊の男の至近へと一目散に駆け抜け、重心を低くし足払いをかける。木の幹のような太さと固さを持つ足首は彼の体重を支え切れず、あっさりと尻餅をついた。
これまでの所要時間、実に二十秒以内である。

チャキッ、と無慈悲にも当てられる、青年の片手剣。切っ先は、山賊の男の頸動脈を容易に斬れる位置にあった。

「どこの誰かは知らないけど、これ以上やるというのなら容赦はしません」
「わ……分かった! 分かったから、命だけは勘弁してくれ!」

先程までの威勢はどこへやら、山賊の男は両手と情けない声を上げながら青年に命乞いをする。仲間の一人――恐らくは彼がリーダーだと思われるが――に刃を突き付け勝敗を誇示する。しかし気性が荒い彼らは、それを無視して襲ってくるのではないか、とディアナは危惧した。だがそれは杞憂だったらしく、男の仲間達は誰一人として武器を構える素振りは見せていない。

相手の態度の変わりように呆れた青年が、幾らか距離の広がった彼女の方を振り返り、尋ねる。

「紐、ないですか?」
「ひ、紐?」
「何か縛れるものだったら、何でも」
「えーと……あ! 確か、矢筒に……」

従者に持たせていた矢筒の脇に縄がかかっていたのを思い出し、彼らの方へ駆け寄る。記憶と違わず、縄はそこにあった。他にも連れていた馬の背に何本かかかっているのを発見し、それも手に取る。
集めた縄を青年に託し、ディアナは彼が山賊共を縛り上げる傍ら、倒れた従者らに治癒を施した。幸い軽傷ではあるものの、意識を取り戻し動けるようになるにはもう暫くかかるだろう。

全員を介抱し終わった頃、パンパン、と手を叩きながら青年がディアナに歩み寄ってきた。周囲に危険がない事を確認し、軽く安堵の息を吐く。

「これで大丈夫ですね。怪我は……」
「いえ、ありません。助けてくれて、ありがとうございます。最後、どうしようかと思いましたから」
「……いえ。私はただ、動物達を脅かす者を止めたかっただけで。幸い火は広がらなかったようなので、安心しているのです」

素直に謝意を述べるディアナだったが、青年のばつの悪そうな表情と返答に動きを止め、笑顔を引きつらせる。

(――どうしよう)

自己防衛と言えど、そんな私事が林で平和に暮らす動物達の住処を燃やして良い理由になるはずがない。嘘を吐くのも苦手と自分で分かっているのだから、ここは包み隠さず言ってしまうべきか。
一考の末、ディアナは事のあらましを青年に話すべく向き直った。

「ごめんなさい、あの火……私です」
「え? 貴女が?」

彼女の告白に目を見開く青年だが、言葉とは裏腹に自若としていた。感情をあまり表に出さない方なのか、と思いつつディアナは先を続ける。

「あの男に襲われそうになって咄嗟に思いついたのがあれで、つい……」
「……あぁ、あれが魔法なのですね。聞いた事はありますが、まさか貴女のような方が使うとは……」

事情を話せば、青年は得心がいったように頷き呟く。そのまま思考し始めた彼に呼びかけようと口を開きかけ、ディアナはまだ彼の名前を聞いていなかったのを思い出す。第一声を何にしようかと狼狽し、勇気を出して尋ねてみる事にした。

「あ、あの……あなたの名前は?」
「え? あ、すみません。まだ言っていませんでしたね。――私はカイル、カイル=エンデュミオン。この山の、もう少し開けた丘陵で羊を育てている、羊飼いです。貴女は、国に住まれているでしょう?」
「はい、私は――」
「姫!」

ディアナが己の事を話そうとした瞬間、駆け付けてきたであろうトキワの呼号する声が聞こえ、固まった。

(何故このタイミングで間違えるのですか、トキワ……!)

「姫?」と怪訝な声を上げた青年――カイルが更に発問しようとしていたが、再び響いたトキワの声に遮られ、機会を逸する。息を切らせ二人の傍まで近寄ってきた彼は、ディアナの無事を確認すると捲し立てるように何があったのかと聞いてきた。

「ディアナ、無事ですか!? 一体何事です、さっき魔法を使われていましたよね!? 腕の立つ従者がいたとはいえ、それで安心していた我ら神官の失策、申し訳ありませ……あれ? この方は?」
「え? 私は、」
「トキワ!」

トキワが懐疑的な質問と視線をカイルに投げかけると同時に、ディアナは彼の名を呼び制止を促す。そして呆然としている相手に向き直り、困ったような笑顔を浮かべた。

「カイル。私の名はディアナ……ディアニカリア=ル=エアグルスです。助けてくれて、本当にありがとうございました。また、会えるのを祈っていますね。……では、失礼します!」
「あ……!」
「こら、姫! どこへ行くんですか!?」

腹を決めたディアナは口早に自分の名と感謝をカイルに伝えると、何も言われぬうちにとその場を駆け出した。トキワが焦るような声を上げたが、知った事ではない。
この大陸で“姫”と呼ばれる“ディアナ”と言えば、ワリスを統べる月の姫――つまり、自分しか思いつかないはずだ。

愕然とするのか、はたまた疑念を抱くのか。少し気にならなくもなかったが、彼の言葉を聞くのが怖くなったディアナは、後ろ髪を引かれながらその場から逃げ出した。

「えぇ……僕は確かに言い間違えましたが、それについては先程謝罪しました。ですが、幾ら居辛くなったとは言え林の中に逃げるのはどうかと思います。シオンが熊を担いでいなかったら、いえそもそもあいつが狩りに参加していなかったら姫……ゴホン、ディアナは今頃あの林で立ち往生していますよ? 方向音痴故、以前神殿内で迷われたのをお忘れですか? そんな事ありませんよね?」
「……はい、いいえ……。ちゃんと反省して、覚えています……。ごめんなさい……」

“はい”は前者の問い、“いいえ”は後者の確認に向けて答えるディアナは、目を据わらせたまま口元に笑みを浮かべるトキワの表情に戦慄し、後ずさる。正直、あの山賊の男よりも怖い。

あの後無我夢中で駆ける足は何十本という木の幹を追い越し、そろそろ三桁に突入しようかという時に止められた。木の陰から騒ぎを聞きつけ急行していたシオンが現れ、それに気が付かなかったディアナがぶつかったからだ。
強烈な(?)体当たりをまともに喰らいつつ、受け止めてくれた何かを確認しようと顔を上げると、彼女の目に飛び込んできたのは熊に頭を噛まれたシオン。実際には、体の全体を使って運んでいた彼の姿がそう見えてしまっただけだったが、先の事もあり取り乱していたディアナは勘違いして悲鳴を上げた。

そして、再び遁走しようとした所を追いかけてきた従者が押さえ、林で行方不明になるのは免れた、という訳だ。

話の間ずっと黙って聞いていたミシェルはディアナの危機などいざ知らず、話に出てきたカイルという青年について口を開いた。

「ふぅん……トキワやシオン以外にも、まだまだ国の外には強い人がいるんだね」
「アースには敵わねーけど……ま、外の方が危険だしな。自分の身を守れるのは自分だけの世界だ、嫌でも強くなる」
「毎日、生死の瀬戸際に立たされているものだし。と思うと、ここって比較的平和なんだよね」

ミシェルの言葉に肯定したシオンは、大袈裟に肩を竦め付言する。ちなみに、話に出てきた『アース』は主にシオンが使う、もう一人の神官のあだ名だ。
ここにいる人間のうち、ディアナとミシェルは国で何不自由なく生まれ育ってきた。だが、残り三人の神官は国の外――いつ魔物に遭遇し殺されてしまうか分からない極限状態で、生き永らえてきたのだ。

「それに姫の話を聞いてれば、そいつ羊飼いって言うじゃねーか。大人しい代わりに勝手気ままに行動する羊を纏めるのも大変だし、毛皮や肉を狙って襲う敵とは必然的に戦う事になるだろ。“奪う”、“殺す”事が目的だったオレらよりも、“守る”為に戦うそいつが強いのは、分からなくもねーぜ」
「……魔物よりも質が悪い奴が、まともな事を言ってる……!」
「殺すぞ」

羊飼いと言えばのんびりとした職のイメージが強いが、実際にはそういった先入観とは程遠い。シオンが言った通り、知能が低く皆同じようには動いてくれない羊達を、一匹残らず放牧地へ誘導させ囲いの中へ戻すのは、はっきり言って難しい。出没する魔物や賊を撃退する戦闘力も備わっていなければ、到底成し遂げられぬ仕事だ。

という事は、山賊をあっさりと退けたカイルは、かなりの実力者に違いなかった。

「あー、じゃあさ。前に言ってた戦力増強の一環として、仲間にしたら? 条件は楽々クリアしてるでしょ?」
「――! こ、こら、ミシェル!!」
「え? 何、何の話ですか!」
「あーあ……」

予期していなかったらしいミシェルの発言に、トキワが慌てて彼の口を塞ぐ。だが時既に遅く、彼が言ってしまった内容はディアナの耳に入ってしまい、期待を込めた瞳がそちらに向けられる。

「どういう事ですか、教えてください! 主命ですよ!」
「そんな時ばかり権力を誇示しないで下さい! あぁ、絶対にこうなると思ったから言わなかったのに……」
「えへ」

もう誤魔化すのも無駄な努力だと悟ったトキワは、舌を出すミシェルを恨めしそうに見ると溜息を吐き、顔を上げる。

「数日前、アストラルから提案があったのです。最近は魔物、化物を狩るにも今の神官の数じゃ、手が足りません。そこで、各自腕に自信のある者を集めてはどうか、と」
「賛成します! 許可も出しますから、」
「先に言っておきますよ?」

とても億劫そうに口を開くトキワが、ディアナを真っ直ぐ見据え言う。

「姫が幾らその気だったとしても、彼がどう思うかは分かりません。それに、僕らは実際に彼の実力を見てはいないので、今一つ判断に苦しみますし」
「良いんじゃないのか? 実力はそこの戦闘狂にでも手合わせさせるとか、判断材料はたくさんある。信頼出来るかどうかは別として、一考する価値はあるだろう」
「そうですか? まぁ、アストラルがそう言うなら……。……て、え?」
「アストラル!?」
「遅くなったな」

自然に言葉を返しそうになったトキワが、その声の相手が今の今までこの場にいなかった仲間のものだと気が付き、思わず顔を引きつらせ後退した。ディアナとミシェルが、驚きに声を上げる。

突然ぬけぬけと会話に参加してきたのは、短いワインレッドの髪の男。彼らと同じ黒衣の、橙のラインが目立つものを身に纏い泰然と構えていた鉄紺の瞳からは冷厳なイメージを抱かせる。が、その光は拒絶ではなく慇懃さを湛えていた。
それでいて、誰一人として存在を察知させる事なく現れた技量は、主に任されている暗部の活動で培われた実力。現下の神官メンバーにおいては最高齢の三十代で、確実にリーダーと呼べる人物だ。

「一体、いつの間に……」
「話は最初から聞いていた。近寄ったのは、お前がミシェルを捕まえた辺りだが」
「立ち聞きかよ、アース。相変わらず油断出来ねー野郎だな」
「お前が愚鈍なだけだろう?」
「どっちでも良いから、せめて普通に出て来てくれない? 心臓に悪い」

冷戦に発展しかけたシオンと男の言い合いを、わざとらしく胸を押さえたトキワが表情を歪め遮る。

「尽力しよう。――そんな事より、ディアナ。件の青年についてだが」
「はい?」

ぎゃあぎゃあと喚き始める三人を総無視し、ディアナに声をかけた彼――アストラルは、次の瞬間とんでもない事を言い放った。

「彼が住んでいると思しき地域一帯を熟知している従者に、捜索を依頼する文書を持たせた鳥を放ったが良かったか? 事後報告になったが、ディアナなら了承してくれると思ってな」

翌日、何から何まで行動の早いアストラル(注・褒め言葉である)が依頼した従者から、カイルが住んでいるであろう家を発見したという知らせが入った。一度対話をしようとの彼の意見により神官は往訪の準備を始めたが、一つの問題が発生する。
先日の一件もあり、神官側は用心の為ディアナに神殿に残って欲しいと申し出ていたのだが、彼女が頑としてそれを拒抗したのだ。

あまりの意志の固さに折れた神官は仕方なく同行を許可し、アストラルとトキワが彼女の護衛、及び先導の任に就く事となった。シオンとミシェルは武器の調整の為、今回は留守番である。

先日赴いた雑木林のように、生い茂った木々がない広大な草原は馬でも歩きやすく、優しい風が吹き抜け心地良い。草原の匂いが鼻を擽り、この場所で食事や昼寝をすれば、きっと素晴らしい愉楽の時を味わう事が出来るだろう。今日は、それに相応しい上天気だ。

草原を馬で暫く南下すれば、やがて等間隔に並んだ木材で造られた柵が見えてきた。遠目では分かり辛いが、恐らく人の丈よりは低い。それが何なのかは、三人共すぐに察しがついた。

「羊の囲い、だね」
「あぁ。あれが、そのカイルとやらの家だろうな」

柵の近辺まで来れば、中に二十・三十の羊の群れがいるのが確認出来た。だが、人影は見当たらない。
となれば家の中か、と彼らは向かい側にある人が住んでいそうな小屋を見やる。柵の中を突っ切る訳にはいかないので、外周をぐるりと回って移動。馬を近くにあった柵の柱に繋ぎ止め、トキワが代表して扉を叩いた。中からの反応は、ない。

「? いないみたいですね」
「出掛けているのだろう。少し待とうか」

羊達は柵の中で変わらず鳴いているのだ、すぐに帰ってくるだろう――そう結論付けたらしいアストラルが、比較的乾いた地面の上に腰掛ける。が、それで大人しく待っていられない人間が一人。

「あっ! あちらに丘が見えますよ、行ってみましょう!」
「ちょ、こら! ディアナ!」

好奇心旺盛なディアナは、見通しの良い草原に見つけた、傾斜の緩やかな丘に向かって走り出す。トキワが慌てて彼女を追い掛けるが、逆にアストラルはのんびりとした調子で立ち上がり、「あまり遠くに行くんじゃないからな」と声をかけた。

風を切って進んだ丘の上には、蒼い空と草原、雪が残った山脈が見渡せる絶景と呼ぶに値する偉観と、

「…………」

彼女らが遥々訪ねてきた、当の本人が静かに昼寝をしているのが目に入った。

格好は先日会った時と大差ないが、汚れが更に目立っている気がしなくもない。疲れて知らずのうちに眠ってしまったのだろう、体に何もかけないまま、腕を頭の下で組んで枕代わりにし、午睡を貪っていた。

ディアナはその端正な面持ちをした寝顔を、失礼だと承知の上で近くから見てみようと静かに近寄る。音を立てないよう細心の注意を払ったのだが、気配を感じたか草を踏む音が聞こえたらしく、カイルはうっすらと目を開けてしまった。

彼はディアナと目が合ってもそのまま数回瞬きをし、突然がばぁっ!と体を起こす。驚愕に眠気が吹っ飛んだような彼の目は、今までで一番開いているのではないかと思う。

「あ、貴女は……」
「……先日は、大変お世話になりました」

柔和な笑顔を浮かべ、ディアナはいつもより短めのドレスの裾を摘まむと、大仰に頭を下げた。

カイルに招かれ、ようやく入る事が出来た彼の家は外見通り素朴で、静穏な雰囲気がある。主な使用資材である木材は至る所で外れかかっており、年季を感じさせた。

「――それは、わざわざ……。ここまで大変だったでしょう、国からは結構距離がありますから」
「いーえ? ま、約一名勝手な行動を取るわ忽然といなくなるわで、色々問題のある人物がいたりもしましたが、至って普通でしたよ
? ねぇ、ディアナ?」
「……すみません、と申したはずです」

カイルを含めた四人は、質素なテーブルを挟み対面し、座談していた。座席の関係上アストラルが彼の隣に腰を下ろし、ディアナが残念そうにしているのは言わずとも分かるであろう。

「それにしても、驚きました。先日賊に襲われていた貴女が、大陸に君臨する《月の姫》だったとは……。そして、今日このような辺鄙な場所に私を訪ねて来られるとも、思ってもいませんでした」
「アハハ、その節は助かりました。改めて、礼を言わせて貰います。そして、自己紹介を。僕はトキワ=アエーシュマ、こっちは」
「アストラル=ハルシオン。初にお目にかかる」
「私はディアニカリア。……驚かせてしまって、それと昨日慌ただしくいなくなってしまって、ごめんなさい」
「いえ、気にしていません。――カイル=エンデュミオンです。大したもてなしも出来ませんが……」
「お構いなく」

考えてみれば、一国――いや一大陸を統べる姫が、ただの羊飼いのカビ臭い家で優雅に寛いでいるのは、何とも異様な光景である。当の本人はそんな違和感を気にする事なく、不躾に部屋を見回しているが。

簡単に造られた水場に、一人で住んでいるにしては些か広く感じる寝床。椅子も、二つは来客用とはいえ残り二つもぐらつく事なくしっかり彼らの体を支えている。彼だけで住んでいるとは思いにくい、不思議な家だ。
トキワもそれに気が付いたのか、少し間を置いて問いかける。

「一人……ですか?」

懸念たっぷりなその発問に、カイルは僅かばかり逡巡しつつ開口した。

「……もう一人、一緒に老人が住んでいました。彼は――私が殺しました」
「はい?」
「え?」
「…………」

ディアナとトキワの二人は、カイルの口から出た衝撃的な言葉に一様に声を上げ、喫驚した。アストラルだけが視線を微妙に鋭くさせ、黙ったままだ。

「私は、数年前まで孤児でした。親に捨てられ魔物に殺されかけた所を、とある老人に助けられたのです。彼は羊飼いで、行き場を失くした私を働く事を条件に拾ってくれ、育ててくれました。……でも、数日前に……様子がおかしくなった彼が、私や羊を殺そうと突然襲ってきたのです。それを……私が、この手で」
「それって……」

ディアナは、神官二人を一瞥し呟く。彼らも険しい表情を浮かべ、思案していた。少ない情報だが、思い当たる原因がひとつあるのだ。

「……恐縮だが、その時の話を詳しく聞いても構わないか? 思い出すのが嫌なら、断ってくれても良いのだが」
「……? ええ、分かりました。その日はいつも通り、寝る前に羊の柵の門が閉まっているか、確認の為二人で外に出たのです。そしたら、彼が突然苦しみ始めて――暫くすると、皮膚が黒く染まっていきました。そして、まるで餓えた魔物のように、羊を喰らい尽くそうと暴れ出しました」

話しながら、その惨烈な光景を思い出してしまったのか、カイルが多少顔色を悪くしながら頭を振る。実際に現場にいなかったディアナ達さえ想像すると気分が悪くなるような気がするのだ、直接それを見た彼はその比ではないだろう。

「そして、君に牙を向けた彼を、やむなく殺した……」
「その通りです。恩を仇で返すような形になってしまい、せめて供養だけでもしたかったのですが、彼の体は塵となって消えてしまいました」

トキワとアストラルが目配せをし、沈痛な面持ちでカイルに向き直る。確信を抱き、彼にそれを伝える為に。

「カイル、落ち着いて聞いて下さい。貴方は正しい事をしています。いや、確かに人を殺すのは非人道的なのですが――」
「え?」

そう前置きをし、彼らは《月の力》にまつわる全ての惨事と根元をカイルに話した。国の被害、魔物と同じで違う存在に堕ちた人間達、そしてその末路――。必要と思われる事柄は、余す事なく。
国では大多数の人間に認知されているが、彼はいわば大陸を放浪する遊牧民だ。知らなくとも、何らおかしい事はない。

やがて全てを話し終えると、カイルは未だ悲しげな表情のまま、柔らかい笑みを浮かべた。憑き物が落ちたかのようだ。

「良かった……。正しかったのですね。ありがとうございます、お陰で吹っ切る事が出来そうです」
「それは良かった。きっと、その方も安らかに神の御許へと召されている事でしょう。……そこで、と言ったらなんですが――あとひとつお話が。こちらが、僕らがここに来た目的なのですけど」
「あ」
「……ディアナ、忘れていただろう」

ようやく彼らの目的の話が出来ると言うのに、ディアナは思い出したように声を上げる。そんな彼女に苦笑し、アストラルが話を切り出した。

「それでな、カイル殿。俺達は――主にディアナが君の腕を見込んで、彼女を警護する任に就く神官の一人に迎え入れたいと思っている。彼女の力は強大でな、それに釣られ襲ってくる輩は人間、魔物問わず後を絶たん。……どうだろうか、君にとっても悪い話ではないと思う」
「私を……ですか?」
「他に誰がいる?」

信じられない、と言いたげな表情で己を指差し問うカイルに、アストラルが肩を竦め返答する。
ディアナの近辺警護を担う神官と言えば国のトップに最も近い地位に相当し、一介の羊飼いが強く望んだとしても、到底就く事は出来ないものだ。それが叶うという突如とした勧告に戸惑いを覚えるのも、仕方のない事と言えよう。

「件の怪物――俺達は“化物”と呼んでいるが、奴らを殲滅しディアナを護るには、流石に人手が足りなくてな。猫の手を借りられるものなら、借りたい程だ。そこで、腕の良い者を捜し新たな同志を迎える事にしたんだ」
「…………」
「無論、断ってくれても構わない。力ずくで同志にするつもりもないしな。だが、君が進んで我らと道を共にするなら、君達が守ってきた羊も俺の信頼する羊飼いに託す事を約束しよう。――決めるのは、君だ」

普通なら、千載一遇の好機に考える間もなくイエスと答えている所だ。だがカイルは決断を躊躇っているようで、やがてポツリと口を開いた。

「……私は、只の羊飼いに過ぎません。人の命を、守るなんて……」
「それを言うなら、俺は元山賊だ」
「僕は狩人。山奥に住んでたから、人を守る所か接した事もなかったよ」
「シオンは盗賊、でしたよね」

元々国の住人に、魔物と戦える程の力を持つ人間が満足にいなかったせいでもあるが、冷静に考えるととんでもない人間が集まっているものだ。よくもこんなアクの強いメンバーで内部争いが起きなかったな――と、ディアナは他人事のように感心した。

カタン、と乾いた音を立て、アストラルが腰を上げる。それが合図になり、ディアナとトキワも席を立った。外を見れば、太陽は大分西へ傾いている。今から出発するとして、神殿に到着するのは夕刻辺りか。

最後に、アストラルはカイルへと激励の言葉を投げかけた。

「何、ゆっくり考えると良い。もしこの話を受けてくれるのなら、いつでも国の神殿へ顔を出してくれ。ディアナのお墨付きである君なら、歓迎するよ」