御伽噺:01

 閃く剣尖。

 それは、月が雲に隠れたせいで暗闇に包まれ明かりなど存在しなくなった草原に、一筋の目映い線を描いた。線はある程度の位置で斜め上に折れ曲がり、ジグザグに進み出す。まるで黒いキャンバスに、闇雲に白い絵の具を置いているようだ。
 ぐじゅ、と何かが溢れる嫌な音が周囲に響き渡り、続けざまに、液体が草を打ち付ける音がした。

「……はぁ、はぁ……」

 青年は肩を大きく上下に動かし、片手剣の柄を握り締める。
 彼が対峙していると思われるそれは、闇に紛れて正体が掴めない。低い耳障りな声を上げ、暗闇でも目立つ赤い色に彩られた目を、ぎょろりと彼に向ける。その目が語るのは、憤怒と悲壮。

 そして、彼を再び襲おうと体を動かす気配を発し――だが支えを失ったかのように倒れた。地面と衝突する直前、それは光の粒子となって闇に溶けていく。
 消え去る刹那の慟哭は、満天の星空に吸い込まれていった。

   *   *   *

 未だ、名も無き大陸。
 後に姫の名を取り《エアグルス大陸》となる大地の東側に、《ワリス》というこの国はある。海に近いせいか、時折風に乗った潮の匂いが鼻孔を擽った。

 住人が暮らす国の家々はほとんどが平屋であり、一部の高い建物が少々目立つ。巨石を削り出して造られているので、それが背負う雰囲気は重苦しい。
 窓の役割を果たす四角い穴や出入口は、対称性を重んじる国の特徴的な建築様式らしく左右対称に。国で一番高く立派な建物も、美しいシンメトリーになるよう築かれていた。

「トキワ。毎日とは言えないけど、こんな頻繁に演説させられる私の身にもなって頂けないのかしら?」

 その建物、“神殿”に“月の間”と呼称される部屋――とするには広過ぎるが――がある。そこに据え付けられた玉座に腰掛ける女性は、誰もが目を奪われそうな美しい容姿にも拘らず、不服な表情を顔に貼り付かせていた。

 彼女こそ、大陸に住まう民を治める若き姫君――ディアニカリア=ル=エアグルスであり、この神殿の主ディアナだ。
 長く伸びた桃色の髪は従者に丹念に手入れされているのか、痛みひとつなくサラサラと流れる。女性と少女の中間に見える整った顔立ちは、今は不機嫌さから仏頂面を浮かべ、美女と呼べる容姿を台無しにしていた。
 身に纏うホライズンブルーのドレスの裾は膝下の長さだが、よく見ると後方に行くにつれ長くなり、彼女に尾ひれが生えた錯覚を起こす。雄大な海のどこかに棲む、人魚のようだ。

「姫、そんなに嫌そうな顔をしないで下さい。僕としても、民にどんな顔をすれば良いのか分からなくなってしまいます」

 ディアナがトキワと呼び睨みつける青年が、一国の統治者とは思えぬ彼女の子供っぽい言動に、呆れた顔をした。その右肩には、人間ではない生物を乗せている。

「ディアナ、です」
「……失礼。って、更にそっぽを向かないで下さい。ちょっとド忘れしただけじゃないですか」
「それ、前にも言いましたよね」

 彼女の台詞に「そうでしたか?」ととぼける彼の、愉快そうに笑う金の双眸は、態度とは裏腹に決して隙を見せようとしていない。
 若き姫を十八歳とするなら、彼は二十歳を超えた頃だろうか。
 長身だが筋肉は必要最低限にしか鍛えられておらず、あまり荒事には向いていなさそうな印象を受ける。夜を彷彿とさせる群青の髪は襟足が鎖骨付近まで伸びているが、全体的には短い。

 ディアナを護る者――神官の一人である彼は、窓から広がる空と国を見つめる。神殿は北方の高台に建っている為、国の全土が一望出来るのだ。

「最近は、民も得体の知れぬあの力に怯えているのです。その怯えを増幅させないよう安心させるのも、貴女の立派な仕事のひとつでありましょう?」
「それは重々分かっています。偉大なる父《
マグニス》の尊き教え、『主は民の為に』」
「ならば、《月の力》が消えるまでという一体いつまで続くのか想像もつかないこの演説も、民の為と割り切って我慢してくれますね
?」
「…………良い性格ね、あなた」
「それほどでも」
「間違っても褒め言葉ではないです。今の」

 今、ディアナが統べる国をはじめ、この大陸は大きな問題を抱えている。

 先のトキワの話にもあったが、ここ最近大気中に漂う謎の力の存在が報告され、彼らはその対応に追われている。微量ならば人体への影響は全くなく、恐れるものではない。しかし、人体の許容量を超える量の力を吸収してしまえば、人間が魔物と――化物となってしまうのだ。
 そうなった人間は初めこそ狂乱的に暴れ回るのみだが、次第に皮膚という皮膚が黒くなり、瞳は血のように真っ赤に染まる。やがて元の形を留めずに肥大し、魔物とさして変わらない程に凶暴化する。最後の段階まで堕ちてしまえばもう救う手段など存在しない、流行病よりも質の悪いもの。

 そんな目に見えぬ脅威を、ディアナ達は仮に《月の力》と呼んでいる。
人間を化物へと変貌させるその力は、月が現われている夜――特に満月の夜には何十倍と膨れ上がり、より危険度を増す事が分かったからだ。

 ディアナは、それらの要因によって民の恐怖へのストレスを爆発させぬよう、定期的に神《マグニス》の言葉を彼らに伝えている。今は、その“演説”の準備の為待機しているのだ。

「ハハ、今だってアストラル達が躍起になって対策を調べています。それがもし見つかれば、少しは民の不安や恐怖も薄まるはず。それまでの辛抱です。――そうですね、何ならこの後、息抜きに狩りでも行きましょう」
「本当!?」

 神殿からあまり外に出られないディアナの楽しみといえば、たまに従者や神官らと赴く狩猟だった。森林に棲むウサギや野鳥といった動物を矢で射止め、獲得した獲物の大きさを彼らと競う。それが、楽しくて面白くて仕方がないのだ。
 その狩猟に行けると聞けば、彼女のさっきまでの不機嫌はどこへやら、生き生きとした年相応の笑みを浮かべ玉座から身を乗り出す勢いで、トキワに詰め寄る。

「ええ、丁度天気もよろしいですし。演説の間に、人を集めておきましょう」
「その言葉、忘れては駄目よ? ――分かりました、今日も張り切って参ります」
「姫様、演説の準備が整いました。私と共にバルコニーへお願いします」

 トキワに念を押すと同時に、失礼します、と従者の女が入口から顔を出した。月の間と廊下を隔てる扉はないので、当然ノックはされていない。
 黒を基調としたトキワの服とは対照に、従者の服は白い。飾りも、彼のものに対してとても質素なものとなっている。
 彼は胸元に右手を当て、ゆっくりとした動作で恭しく頭を垂れた。従者の方に左手を差し向けると、彼女に行くように促す。

「では、行ってらっしゃいませ。ディアナ」
「はい、行って参ります」

 迎えに来た従者の女に連れられ、神殿内のバルコニーへ向かう。
図式では二階と三階の間に造られた踊り場なのだが、天井が人の二、三倍はある為、実質三階と同じかそれ以上の高さだ。演説の際はその場所に立ち、眼下に集まった民衆を見下ろして行う形になる。
 だが、彼女はそんなに大きな声を出す事も、出しているつもりもない。そんな自分の声は、果たして民衆の耳に届いているのだろうか――そう不安に思う。

 ディアナは、この大陸に生きる民を治める為に生まれた。いや、彼女だけではない――この世界に存在する総てが、創造神《マグニス》によって生み出されたのだ。
 先導者の存在しない集落は、ただただ滅びへの一途を辿るのみ。それを憂えた神《マグニス》がディアナを生み出し、人々を統治する役目を与えた。

 だが、と彼女は目を伏せる。

(――正直、退屈……)

 狩猟という名目で外に出る時に感じた、あのわくわくする胸の高揚。どんな人に出会えるのか、どんな出来事に遭遇するのか、と期待が膨らむ瞬間というものを、最近は演説のせいで味わえていない。
 トキワに言った通り、演説が――住民の不安を取り除く事が必要でないとは思わない。思わないが、日に日に「つまらない日常」と思う気持ちが大きく、強くなっているのは確かだった。

(皆が怯えているというのに、こんな考えをしているなんて……統治者失格、ね)

 己の思考に苦笑を洩らし、過った後ろ向きな考えを振り払うように首を振る。

 前を見ると、正面に四角い光。
 それを抜ければ、その先には彼女の――いや《神》の心強い言葉を待つ数千、数万といる民衆の前だ。
 そんな崇高な場所に、己の不満など持っては行けない。いつもの、無表情ともいえる表情を顔に貼り付かせると、ディアナは光をくぐった。明かりが乏しい屋内から屋外へ出たせいで濁った視界を取り戻す直前、大きく息を吸う。

「ご機嫌麗しゅう、皆の者。私こそこの大陸を統べりし王、ディアニカリア=ル=エアグルスでございます」

 演説を終えたディアナは、待機していた従者に手伝って貰いつつバルコニーを下りた。こんな所で盛大に転倒し、自分のドレスの裾を踏んでコケました、とは説明し難く、何より恥ずかしい。一度やってしまった事があるだけに、それは慎重に足を運ぶ。

 無事に下り切って内心安堵の息を漏らしていると、どこからかパチパチパチ、と何かを打ち合わせる音がするのに気付く。
 音がしていると思われる方を見やれば、先程別れたばかりのトキワが、軽く手を叩きながら自分を見ていた。音の根源は、彼だったらしい。
 そして、もうひとり。

「久し振りだな、ディアナ」
「セクウィ!」

 トキワと同じ位の長身を持つ彼――セクウィは、ナイフの刃のように鋭い紫の双眸を更に細め、短く応えた。
 地面に触れているのではないかと思わせるディアナよりも長い髪は、色素が薄く真っ白だ。敢えて表現するなら、藤色、だろうか。年が窺えにくい容姿をしているのではっきりは分からないが、二十代半ばには見える。
 彼は動き易さを求めてか着流しに似た軽装を適度に着崩し、帯で締められた腰には計三本の剣を吊るしていた。そのうち一本は、反りがなく細長い刀身。残りの二本はそれとは真逆の、短く太い形をした短剣だと分かる。

 彼からはあまり人を寄せつけぬ気迫が口調からも感じられ、現にディアナの傍にいる従者はセクウィに近付こうとせず、常に一定の距離が保たれている。だが彼女は構わずセクウィに近寄り、彼の手を取った。

「もしかして、セクウィも狩りに来てくれるのですか?」
「いや、ディアナ。彼はたまたま寄っただけだそうで。一応、誘いはしましたが」
「……生憎、同族を狩る趣味はないからな」

 ディアナの期待に満ちた眼差しに危うく頷きかけ、結局彼はそう言って断る。セクウィの返答に何か勘付いたのか、彼女もそれ以上しつこく誘う事はなく、だが残念そうに「そっか……」と呟いた。

「しかし、ディアナ。前にも言ったと思うが、そう頻繁に外へ出ていては、いつどこで殺されてしまうか分からん。お前を失えば、この国だけではない――大陸に住む全ての民が、路頭に迷った挙句滅ぶ事に繋がりかねん。分かっているのか?」
「う……」

 この大陸に存在するのは、羽根を持たぬ種族――この世界では、彼らの事を“ノウィング族”と呼んでいる――、天使と悪魔だけではない。
 人々に仇なすもの、俗に“魔物”と呼ばれる、動物が凶暴化したような生物も存在するのだ。ただ、こちらは餌を狙い見境なく襲っては来るものの、冷静に対処すれば怖い相手ではない。
 ちなみに、トキワが今も肩に乗せている丸っこい生物も魔物の一種なのだが、彼らに対しての敵意は一切感じられない。それは、その生物とトキワが契約を交わした事により、互いが助力を約束する関係にあるからだ。

 本題に戻るが、問題は山賊や盗賊といった、同じ人間の場合。
 魔物ならば斬り捨てられるとしても、対人間ではどうしても躊躇いが生じてしまう。中には、ディアナを標的に明確な殺意を持って襲ってくる輩もいるものだから、質が悪い。
 それらから彼女を護る為に、トキワや他の神官が近くに待機しているのを、セクウィも承知しているはずだが――それでも、懸念を拭い去るには不十分なのだろう。
 彼の気遣いは、有難い。だが、ディアナにも譲れない気持ちがあった。

「分かっています。ちゃんと自衛手段も一通り習得していますから、自分の身なら守れる自信はありますよ? それに、私ひとりだけではありませんから。ね、トキワ」
「……そこで僕に振りますか、姫。最初だけで終われば良いのに……」
「ディアナ、です」
「はいはい、ディアナ」

 トキワに同意を求めれば、否定出来ない状況に彼は頭を抱える。狩猟に行こうと言い出したのは他でもない彼なので、例えセクウィに殺されるかもしれぬとも、それを取り止める権限は彼にはない。本当はあるのだろうが、そうした日には主人に口を聞いて貰えない所か、神官職を剥奪される可能性すらあるのだ。

 彼らの他愛ないやり取り(とはいえ、トキワとしては死活問題なのだが)に溜息を吐くセクウィは、仕方がないと諦めたのか首を横に振る。そして、懐に手をやり何かを取り出した。ディアナの好奇の瞳が、それを追う。

 それは、一枚の羽根だった。

 鈍色の鳥の羽根――恐らくは鷲のものと思われる――は、僅かに発光しており温かい不思議な光を放っている。鳥類の、それも王者の名を冠する雄々しい力が宿っているのが感じられた。
 彼はそれをディアナの手中に収めさせると、お守り代わりだと切り出す。

「金目の物を狙っているような盗賊が相手なら、これを渡して逃げろ。鷲の尾羽を渡せば、相手も追ってはこないだろう。もしお前の命を狙う輩でも、そいつらから守ってくれるはずだ」
「? ふぅん……ありがとう、セクウィ」
「礼には及ばん」

 照れ隠しからか明後日の方向に顔を背けた彼に微笑み、ディアナは改めて自らの手の平と同じ位の大きさの羽根を見つめた。
 守ってくれるとセクウィは言うが、こんな小さな羽根に自分を救う力があるとは、到底信じられない。確かに、矢羽根に付けるものとしてなら、鷲の尾羽は最高のものとされているので高価ではあるが。
 しかし、ディアナは何も疑う事なく大きく頷き返し、羽根を握り締める。

「お礼に、ヴィエントを見付けたらすぐに知らせますね。あいつ逃げ足は速いけれど、セクウィの翼なら追い付けるでしょう?」
「……ああ、頼む」

 ディアナの口から出た“ヴィエント”という言葉を聞いた直後、セクウィの瞳に抑え切れない殺気が走る。が、それも瞬きをする一瞬の事で、再び彼を視界に入れた時にはそれまでと変わらない落ち着きを見せていた。
 相変わらずな相手の態度にディアナは息を吐き、開口する。だが、それが言葉になる前にトキワから待ったをかけられ、頬を膨らませながらも大人しくなった。

「ディアナ、そろそろ出発しないと行けなくなってしまいますよ」
「もうそんな時間……? ごめんなさい、セクウィ。もう行きますね」
「……あぁ。楽しんで来い」
「えぇ!」

 元気良く返答し、ふわふわしたドレスの裾を翻しながらトキワと共に廊下の奥へと姿を消すディアナ。二人を見送り、セクウィも踵を返した。
 本人は気が付いていないようだが、彼女は気分が高揚しているのか、いつもより足取りが軽いように感じる。余程狩猟が楽しみなのか……それとも、楽しみなのはこれから起こるであろう、未知の出来事の方か。
 どちらにせよ、この言いようのない予感が杞憂に終わる事はないのだが――出来る事なら、何も起こらないで欲しいと願う。

「……時が真の意味で止まる事はない、か。その通りだな……」

 誰に聞かせるでもなく呟かれた言葉は、やはり誰の耳に届く事なく闇に掻き消された。

 トキワに先導され、ディアナは神殿の側に建てられている木製の馬小屋へと赴いた。その入口で一旦彼と別れると、従者と馬丁の協力を得て乗馬の準備を始める。

 とはいえ、狩猟に行くのも馬に乗るのもこれが初めて、という訳ではない。その為大して手間取る事もなく、精々動きやすい服装に替え、馬を馬装させる位の準備しか手伝って貰わない。馬丁の乗馬の説明もやんわりと断り、結果全てを終わらせるのに十五分とかからなかった。

 馬の手綱を引き馬小屋の外へと戻ったディアナは、トキワがまた誰かと話しているのを見た。
 相手は樺の樹皮と同じ色をした短髪に、こちらからは包帯に包まれた左目が窺えない青年。服はトキワと同じく黒を基調としているが、所々に入っているラインは白い。動きやすさなら断然青年の方が上の作りであり、しかし邪魔なのか上着は肩にかけている。タンクトップの上からでも、筋骨隆々とした形の良い腹筋と肉体が見て取れる。

「シオン!」
「お、姫。待ってたぜ」

 見慣れた姿を見付け駆け寄ってきたディアナに気が付くと、青年――シオンは彼女を見やり、応えるように右手を挙げる。振り向いてくれた事でようやく見えた右目は、髪よりも少し薄い黄赤色だ。まだまだ鍛える余地がある体躯のせいで同い年のトキワよりも年上に見えているが、彼はれっきとした二十代の青年である。
両手に装着された鉄甲手が、本人が動く度にかちゃり、と乾いた音を立てた。そう言えば、以前彼から鉄甲手だけでも五キロはあると聞いたような気がする。

――余談だが、他人行儀に聞こえる“姫”という呼称を嫌うディアナは彼に名前で呼んでくれと頼んだ事があった。しかし、彼はなかなか改めようとしてくれず、終いには諦めてしまっている。
馬の速さに合わせつつ慌てて歩み寄ってきた彼女の姿に、先程とあまり変わらない格好のトキワが苦笑を洩らし呼び掛ける。

「そんなに焦らなくとも、僕らは貴女を置いて行ったりはしませんよ?」
「分かっています。ただ、」
「トキワ、姫は早く狩りに行きてーんだろ。こんな所でのつまらない道草より、スリル溢れる日常をご所望だ」
「……ディアナ」
「だ、だって……」

 あながち間違ってもいないシオンの言葉に、ディアナはばつが悪そうに俯く。その意気消沈とした表情を見せられては、呆れ果てて溜息しか出てこない。
 トキワは気を取り直すと、これからの行動について話し始めた。

「では、今日はアルカディア近辺の山へ向かいましょうか。急だったので、僕とシオン、数名の従者しか集められませんでしたが、相手に不足はないと思います。――ここまでで異論は?」
「ありません」
「それと、道中賊や魔物に遭遇しないとも限りません。その際はいつものように僕らや従者に任せ、ディアナは安全な場所で待機してください。くれぐれも、戦闘に参加しようとは思わないよう」
「……分かっています」

皆が命を賭け戦っているというのに、自分一人待機するのも気が退ける。一瞬そう思ったのだが、敢えて黙ったまま頷いた。
やろうと思えば、援護として魔法を撃ったり“時”を止めたりして戦えるのだ、ディアナも。

だが、自分は一国の――いや、事実上一大陸の王の地位に君臨する者。無理に戦闘に参加し切傷でも作ろうものなら、護衛として就いているトキワやシオン、従者に民衆の怒りの矛先が向かう事だろう。
彼女の返答に満足げに頷き返し、トキワは左手を自らに充てられた馬の胴に当て、慣れた動作で乗り込む。

シオンはと言えば、既に馬に跨った後。どうやら狩猟を楽しみにしているのはディアナだけではないらしく、出発を今か今かと待っていた。
背後に待機していた馬に、ディアナは危うい手つきで乗り込んだ。見かねた馬丁が手伝い始めるのを横目に、トキワが従者らに号令をかける。

「では、出発する! 万が一にでも不審なものを発見した場合は、すぐに僕かシオンに報告するように!」

 狩猟に赴く従者は、神官二人と比べ平均年齢が高い。よって野太い声が一様に了承の声を叫べば、周囲を通りがかっていた住民の興味を引くには十分過ぎる威力を持っているものだ。
 そして、一行は厳かにアルカディア方面へと向かい始める。

 アルカディアは、国の東側に位置する。
 国はその地から続く山々の高地に比べ低い土地であり、そちらの方へ向かうには山一つ分を越えるのと同等の労力と時間を費やす。
 道中が、整えられた道を必ず使える訳ではない。出来るだけ馬が道を歩きやすく、見通しの良い道を利用する。無論、敵が襲ってきた時に容易にアドバンテージが得られるよう――またそもそもの対策として、襲われにくい状況を作り出す為だ。

 先頭に目が良いシオン(トキワもそれ程悪い訳ではない)、間にディアナを挟み、殿にトキワ。神官と彼女の両脇にもワンテンポ遅れ気味な従者が待機し、その隊列が崩れないよう慎重に歩を進めた。

 出発時よりも太陽が東に傾いた頃、一行は目的地へと辿り着いた。
 木々の枝が大地に覆い被さってはいるが、そんなに暗くはなく燦々とした太陽の光が届いている。葉が鬱蒼と生い茂る森、というより林に近いかもしれない。

 その林の開けた場所で、先頭を進んでいたシオンが手綱を引き、馬を止める。ひょい、と身軽に飛び降り(比喩ではなく、正にそう言う他ない動作だ)、後方で同じように馬の歩みを止めたディアナとトキワの近くに駆け寄った。

「ここらでどうよ?」
「うん、見通しも良いし地面の状態も良好。ウサギや鳥が棲むには恰好の場所だ。さて、これからこの周辺で狩りを行う訳ですが」

 キョロキョロと周りを見渡し地面の状態、木の密集具合、そして安全を確認すると、トキワはディアナを振り返った。

「ディアナ、貴女は決して従者から離れないように。あまりにはしゃぎ過ぎてはぐれでもしたら、見つかるまでの安全が保証出来ません。弓の使用法、及び狩りのルールはご存知ですね?」
「えぇ」
「では、始めましょう。貴女の弓は召使いから受け取ってください。僕らも、全力で狩らせていただきます」
「よーし、燃えてきたぜ! 姫、どっちが勝つか勝負だ!」
「えぇ、是非。私も負けませんわ!」
「……心配だ……」

 従者から装飾の少ない複合弓と、銀色に輝く矢が収められた矢筒を受け取る。念の為弓の弦を弾き、それの張り具合を確認した。勢い良く元の形に戻る所を見れば、丁度良い張り具合なのはすぐに分かる。

 そして、流石に弓を用いるには邪魔なのか鉄甲手を外したシオンに声をかけられ、興奮と期待を込め返答。二人の様子を見ていたトキワが頭を抱えて呟くが、周りにいた従者が苦笑を洩らすだけで、誰も同意の声を上げる事はない。

 取り敢えずの拠点として定めたこの場所に馬を繋ぎに戻るシオンを見送ったディアナは、トキワの様子が気になったのか声をかける。自分が原因だとは、これっぽっちも思っていないし気が付いていないだろう。

「トキワ、どうしました?」
「何でもありません……」
「そうですか?」

木の上で忙しなく首を左右に振り、辺りを警戒する一匹の鷹。
タカ目タカ科に属する野鳥のうち、比較的小さいものを指す通称であり、成鳥は殊更警戒心が強い。近辺で不穏なものを察知されてしまえばすぐに逃げてしまう為、ある程度の距離を取って狙う事を余儀なくされる。それは同時に、獲物を的確に捉える集中力と、純粋な弓の腕が問われる事となる。

ディアナは弓を持ち上げ、矢筒に入っている銀色の矢を番える。動向を見守る従者も、彼女の狙いが目標に定まったのを感じ息を詰めた。

左手と右手の距離を徐々に引き離し、状態を維持。狙いが外れぬよう、何度も鷹を見定め微調整を行う。
自らが狙われているとも知らず、鷹が警戒を解いて羽根を休ませた瞬間。

矢と共に弦を強く引き、その弾性により生じた反発力を殺さないよう手を離せば、矢は勢い良く飛翔する。

 ――シュ!

真っ直ぐに目標へと向かい、見事命中。短く呻いた鷹は力なく地面へと落下し、ガサガサと木の葉が擦れる音が一同の耳に届いた。

「やった!」
「素晴らしい、姫様!」
「フフ、ありがとう」

茂みの陰から姿を現し、両手を握り締めて喜ぶディアナ。従者からの賛辞に微笑み返し、鷹が落下したと思われる地点へ向かう。

果たしてそこには、体を痙攣させながら絶命している鷹が横たわっていた。矢は丁度心臓部を射抜いているらしく、これなら然程苦しまずに済んだだろう。
その傍に腰を下ろし、一同は黙祷を捧げる。いかに弱肉強食の世界とはいえ、生きている動物をむやみやたらに殺して良いとは思っていない。

黙祷が終われば、横にいた従者が鷹に素早く処理を施し、一頭だけ荷物持ちとして連れていた馬に載せた。思い思いに主の弓の腕を褒め称える表情は、喜悦一色としている。
しかし――ディアナだけは、何か胸にもやもやとした違和感があった。以前獲物を仕留めた時のような、あの達成感から来る高揚が、なぜか湧き上がってこないのだ。

「……何でだろう……」
「姫様、次に行かれないのですか?」
「あ、はい! すぐに行きます!」

己を呼ぶ声に慌てて向き直ったディアナがそう返答し、従者に駆け寄ろうと足を踏み出した直後。

「おやおやぁ? 一大陸の姫様が、こんな所で何してんだよ、なぁ?」

耳のすぐ横で発せられたその声は、引き連れていた従者の誰のものでもなかった。
 ねばねばとした粘着質な口調に背筋が凍り付き、距離を取ろうと反射的に体を動かすが、既に自分の腕はその怪漢に掴まれていた。

「……った! 何をするのですか!」
「ハッ、“何をするのですか”じゃねぇよ。こんな所で呑気に狩りとか、随分抜けた姫様だな。捕まえて下さいとでも言ってるもんだろ?」

ディアナの口調を真似て言い返す時も、男の目と口元には不埒な気持ち悪い笑みが浮かんでいた。掴まれた左腕を外そうと必死の抵抗を試みるが、隆々とした筋肉は飾り物ではないらしく、そう簡単には外れない。

その男は、一目見るだけで山賊と分かる風貌をしていた。動きやすいパンツにタンクトップという、見ているこちらが寒くなりそうな出で立ちだが、シオンよりも逞しい肉体が逆に暑苦しさを生む。腰に吊るされた頑丈なホルダーに入っているのは、鎖に繋がれた三本の棒。恐らく、それが彼の武器だろう。

「きゃあぁっ!」
「ぐぅっ……!」
「皆!?」

突然響き渡った、聞き覚えのある悲鳴に振り向けば、ディアナの護衛である従者のほとんどが地に伏していた。代わりに立っていたのは、自分を捕らえる山賊の男と似た格好をした者――見て分かるように、彼の仲間達だろう。やはり、その彼らの目にも不穏なものが蠢いている。
短剣や湾曲刀といった各々の武器を携えた彼らは、ディアナと山賊の男との距離を徐々に縮めてきた。

「ぐふふふ……。さぁて、後はお前さんしかいねぇ。ディアナ姫、ちぃっとばかし愉しい事でもしようや」

衣服に染み込む冷や汗に居心地の悪さを感じながら、ディアナは首に下げている首飾りを服の上から握り締める。男の言いなりになるつもりは、さらさらなかった。

「させません……、守られているからと、私を舐めないで下さい! 尊き聖火の舞演が刻みし、黒き時――炎よ、狂い咲け!」
「……! 魔法持ちか!?」

山賊の男に手を掴まれている以上、自らも炎に巻き込まれる可能性があるのを承知で、ディアナは口早に言霊(呪文ともいう)を唱えた。
呼び出された灼熱の火炎は、その勢いにより相手を牽制し、敵を燃やし尽くさんと燃え盛る。その炎に照らされた人間の影は、まるで時を刻む日時計の針の、長く伸びる影のようになった。

演説以外は滅多に民衆の前に現れない彼女が魔法を使えるとは思っていなかったのだろう、山賊の男はあっさりとディアナの腕を解放し後退する。
大地の根本に存在する神聖なる魔力を用い、言霊でコントロールした超常現象を呼び起こす。それがこの世界、《メーアヒェン》においての魔法というものだ。
――と説明するのは容易いが、いざ使うとなればそう簡単にはいかない。魔力の源泉である翼を持つ天使や悪魔と違い、ノウィング族は素質を先天的に備えている者、かつ労力と時間を代償にしなければ習得もままならないのだ。

誰もが羨むその力を行使したディアナは、しかしそれを発動した直後後悔した。
火の魔法を使ったのは相手を怯ませるだけではなく、近くにいるであろうトキワとシオンに自らの危機を知らせる為でもある。万が一炎を消し潰されたとしても、燻る炎が狼煙の代わりを果たしてくれるだろう。

だが、木は燃えやすい。この林のど真ん中で炎魔法を発動しては、文字通り火を見るよりも明らか。更に、周辺でのんびり暮らす動物達にも被害が及んでしまう。

言霊が完成し、何もない空間から既に火が生成されている今となっては遅い事で、彼女は緊急事態と割り切って魔力を注ぐ。後悔はただの一瞬だったが、それは相手に絶好の好機を与える事となった。

「後ろががら空きだぜ、お姫様よ!」
「! しまっ……」

鎖に連なる三本の棒をホルダーから引き抜き、勢いを利用して一瞬で組み上げる。長くなった三節棍を己の後頭部より向こう側へ振り上げた山賊の男は、彼女に襲い掛かった。
反応に遅れたディアナは、その三節棍からもたらされる衝撃を予想し、目を固く瞑る。

風が、空を切った。

――ガキィッ!!

「……え?」

しかし、聞こえてきた金属音と予想に反した体の無事に、彼女はすぐに目を開く。

目の前に広がるは山賊の男の武器、三節棍のくすんだ茶色ではなく、緑がかった白。木漏れ日を受けたそれはきらきらと輝き、ディアナの視界を独占している。

状況が把握出来ずただ茫然としていると、白――よく見ればさらさらとした白髪だ、という事は人間――が声をかけてきた。

「……大丈夫、ですか」

それが、二人の最初の出逢い。そして――狂った歯車が廻り出す瞬間だった。