御伽噺:00

天使と悪魔が共存し、それに羽根を持たぬ種族を交えた人間が暮らす星――《メーアヒェン》。幾多の生命が、互いを干渉し合う関係を築いている世界だ。

全てのものには、起源が存在する。

誰もが視野に入れられる書物から、専門家にしか解らないような建築物。その他の様々な伝達手段により、例え事実を捩じ曲げられながらも後世へと語り継がれていく。
この世界にも、それが存在した。

《メーアヒェン》のとある大陸の起源は、たったひとつの御伽噺。
終わりの不明瞭な物語、それが核となって大陸に存在するたくさんの御伽噺が出来上がっていったのだ。
その御伽噺の名前は、《月の姫》という。

それは大陸に住む人々に親しまれ、今も一人の女性が、我が子に聴かせている。
彼女の膝の上に座る、まだ四歳にも満たないであろう子供。ようやく長くなってきた黒髪の下から、ちらちら覗く翡翠のように美しい瞳は、何かに夢中になって煌々と輝く。
その純朴な瞳が見つめているのは、女性の持つ一冊の本だ。小説というには文字が少なく、しかし絵本というには表現が難しい。
 女性は早く読んでくれ、とせがんでいるように見える我が子の表情に苦笑を洩らしつつ、ゆっくりと開口した。

「《メーアヒェン》。それが世界として“生まれた”のは、もう八百年もの昔。もっと以前の記録は、当然だが全く残っていない――」

 ――約、六百年前。
 世界に存在し始めた人間、それも大陸に住む人々を統治する者が現れた。
 彼の者の名は、《ディアニカリア=ル=エアグルス》。《月の姫》と呼ばれ、また親しい者達には《ディアナ》という愛称で呼ばれていたそうだ。
 数々の物語の中の彼女は、いずれも寡黙で妖艶な女性として描かれている。

 彼女には、反流動的ともいえる不思議な力が宿っていたそうだ。
 それは世界の営みが続く限り流れてゆく“時”を、意のままに操る事が出来る力。特別な動作や儀式は必要ない。ただ彼女が願えば、後は時が動いてくれる。
そんな奇跡とも言える事を為し得た彼女は、大陸の民に《神から生まれし御子》と敬われ、崇められ、そして畏れられていた。

 当然、何者か分からぬ者達から、彼女は命を狙われる事となる。

 しかし狙う者もいれば、護る者もいる。神官として、いつ何時も《月の姫》を守護する盾の役目を負っていた者達――その中でも、彼は特別だった。
 カイル=エンデュミオン。名も無き羊飼いとして生きていた彼は、《月の姫》に出逢った時から――流れるような速さで自らの運命を、破滅に導く事となる。

 《月の姫》の御伽噺を読んだ者が、必ず胸中に抱くであろう情景。
 この物語は、姫を護る役目に生涯を捧げた哀れな青年と、幸薄き大陸の姫の、悲しき叙事詩なのである。