【一次現代】04

学校では、妙な噂が立っていた。
昨夜一人の学生が、住宅街で大きな音がしたから外に出てみると、殺人鬼がいたと言うのだ。

その話をしていたのは、食堂に並べられたテーブルで同じように昼食を取る上級生達。比較的静かなこの場所で、毎度毎度馬鹿でかい声で喋りまくる事で食堂のおばちゃん達にも厄介がられている。

迅速にあの場所は片付けて貰ったはずだがな、と思いつつ日向は食堂の超人気メニュー、チキン南蛮定食のメインである南蛮を口に頬張る。
付け合わせの漬物や味噌汁の味噌具合もさることながら、このメニューが不動の人気を誇る甘酸っぱいソースは何時食べても絶品だ。

「だから、見たんだって! 漆黒の赤い目をしてた、ありゃぜってー殺人鬼の目だって」
「お前馬鹿か? 何で殺人鬼の目だって分かるんだよ、会った事があるなら分かるけど」
「会った事はないけど、ほらゲームに出てくる殺人鬼って大抵そんな感じじゃん」
「あれはフィクションだろ!!」

あはは、と湧き上がる笑いに緊張感はない。皆それが現実ではなく、話の元の人物の妄想だと思っているのだ。ごく普通の反応である。

「でも、野中君の話が本当なら、殺人事件が起こっててもおかしくないんじゃないかな?」

騒がしいメンバーの中にいたのだろうかと思わせる、落ち着いた声が冗談で終わるはずだった話を混ぜ返す。
日向はちらりと視線をその集まりに向け、ばれない程度に観察し始めた。

声の主は、黒い髪の青年のようだ。男にしては少しばかり長い髪のせいで顔は見えないが、何となく文系のような雰囲気だけは感じられる。
あくまで日向のイメージでは、あの上級生達と一緒にいるような人物ではない気がした。

「(……怪しいな)」

念の為にその人物を脳内にインプットさせておき、味噌汁を口の中のご飯と共に胃に流し込む。
今日も美味かった、と手を合わせ、日向は席を立った。

* * *

走っているのに、歩いている。
目を開けているのに、閉じている。
そんな錯覚を起こしそうな空間に、僕は立っていた。

手には、お父さんから奪い取って来た《光》の短剣が。見ているだけで吸い込まれそうな美しいみどりの波紋を浮かべたそれは、ただ静かにそこにあった。暗い視界の中、それだけが瞳にしっかり映り込む。

「颯」

無音の中、耳に届いた声。
それは、今一番聞きたくない人のもの。

「颯、お前は何故こんなにもーー」

聞きたくない、と手に持っている短剣をかなぐり捨てて耳を塞ぐ。何時だって聞かされて来た、僕にとって狂気とも言える言葉。

だがーー自分の意識だけがそういう行動を取っていたようで、耳の皮膚に触れたのは硬く、冷たい感触だった。

そして、遂に言葉の続きが鼓膜を響かせる。

「ーー無能なんだ?」

ーーガバッ!

勢い良く体を起こした僕は、先ず周囲に声の主を捜した。
威圧的かつ高圧的で、言葉の端々から自分を嫌っているという雰囲気を滲ませる話し方ーー間違いなく、自分の父親だ。

だが何処にもその姿はなく、むしろここが何処なのか、という疑問を抱く。見覚えのない、何処か懐かしさを感じさせる様式の部屋。
襖は開け放されており、そこから見える庭園は雪に覆われている。カコン、と水が溜まった竹筒が音を鳴らした。

ブルリ、と体を震わせる。よく見れば、僕の体は冷や汗を浮かべていた。先程まで見ていた夢が、恐怖を感じるには十分だったのだろうか。

「……お父さん」

無意識に呟いた時、襖の向こうから足音が微かに聞こえた。僕は肩を強張らせ、それが現れるのを待つ。
家の主だろうか。それともーー

「起きたか、茶髪少年」

身構えていた僕の耳に、少し聞き覚えのある声が届いた。
開いた襖の向こうから、燃え上がる様な炎をイメージさせる赤髪と人を食った様な表情が覗く。
あ、と僕は声を上げた。

「昨日助けてくれたお兄さん!」
「おー、昨日ぶりだな。ここは俺ん家だ」
「え、あ……助けられちゃったみたいで、ありがとうございます」
「礼は要らね。代わりに、二三聞きたい事があってよ」

持って来ていたのだろうか、僕が寝ていた布団の隣に座布団をしいて腰を下ろす彼。どうやら、長くなる話らしい。

「オメー、宵口の家の子なのか?」
「ーー!!」

油断していたせいで、モロに反応してしまった。そうでなければまだ誤魔化しようがあったというのに。

それだけで察してしまったのだろう、彼はやっちまったなーと一人ごちながら体の重心を後ろに傾ける。

父親の噂が良くないものばかりなのは、僕も良く知っている。多分、いじめられている主な原因でもあるだろう。

この人もか、と声にならないよう呟く。
今までもいじめから助けてくれた知り合いが、自分の父親の事を知ると手のひらを返したようにいじめられる事があった。もう既に、自分にとってこれは仕方がない事なのだと諦めてしまっている。

だが、彼の口からは僕が予想していなかった言葉が出て来たのだ。

「ま、拾っちまったもんは仕方ねーか。名前は颯か?」
「え、う、うん」
「俺は日向。よろしくな」

今までにない反応のされ方に戸惑いつつ、僕は差し出された手に無意識に自分の右手を動かし、握手に応えていた。

僕は、最後まで疑問に思わなかった。
何故彼が、僕の名前を言い当てられたのかを。

ーーここまで、か。

目が覚めた茶髪少年の顔色は、今だに良くない。こんな状態で根掘り葉掘り聞くのはどうだろうかと一瞬悩み、やめておいた。自分だってそこまで鬼ではない。これが重苦しくない、例えば相手の身の上話程度なら躊躇いもなく聞くのだろうが、この話をすればまた意識をなくす可能性だってなくはないのだ。

「で、家出少年。オメー、これからどうする気よ」
「え?」
「家を出てきたんだろ? 実家には帰れねーし、他にどっか行く当てはあんのか?」
「う……」

颯の反応は、明らかに困っていた。と言う事は当てもないし、下手をしたら金も持ってないだろう。家を出たその勇気は称賛に値するが、先の事を全く考えない馬鹿なのは予想通りらしい。

……まぁ、考えて行動するような人間なら、住宅街という人が密集している場所で人を殺すなど先ずやらないだろうが。

やれやれと肩を竦め、日向は畳から腰を上げ襖を引いた。

「部屋だけなら余ってるから、暫くここにいろ。それで、これからの事を考えろ」
「え……そ、そんな、悪いですよ! 助けて貰った上に世話になるとか」
「世話になるんじゃない、俺が勝手に世話すんのさ。これで万事解決だろ?」

日向の発言に慌てて首を振る颯だが、親切心から言っている訳ではないこちらとしては受けてもらわないと困る。

颯には、《光》の事やら昨日の事を詳しく聞かなければならない。
ただし、何れもそう簡単に話せる内容ではないのだ。特に後者は犯罪を犯している訳だし、前者についてもその家の歴史に関わってくる部分がある為、基本的に口外してはいけないという決まりを押し付けられている可能性がある。
それらを聞き出すには、少しでも恩を売っておくに越した事はない。

ーー要するに、目的を果たす為の親切という事だ。
手段を選んでなんかいられない。陽向[ヒナタ]の事を調べるには、ちっぽけな罪悪感になど構っている場合ではないのだ。

日向がどうあっても譲らないと察したのか、颯は暫く黙った後「ありがとうございます」と頭を下げた。

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