03:深淵を踏む

▼▼嘔吐の描写など、若干注意表現あります▼▼

 ふたりが街へ遊びに行ってから、数日後。譲り受けた二輪の《ニヴァリス》の花はすっかり元気をなくし、頭を垂れ自身の終焉を告げている。
 セツカはいつものようにロッカの部屋へ向かい、いつものように扉の電子ノック音を鳴らす。だが、いくら待っても中からの応答はなく。ナツヤもすぐ来るだろうと思いそのまま暫く待っても、誰も来ない。
 そのまま待っていても仕方がない、と彼女は誰かいないかとうろうろすることにした。と、少し離れたところで従者たちが話しているのが聞こえてきたので、尋ねてみようとそちらに向かってみる。
「聞きました? 《ニヴァリス》の花が咲いているのに、降雪量が一向に減らない話」
「おかしいわよね、去年はもう止んでいたはずだけど」
「おかしいといえば、街のほうでは最近、行方不明の子どもが増えているという話もあるわ。全員まだ見付かっていないらしいわよ」
「《執行者》とやらの事件も解決していないのに、物騒ね。何もないと良いのだけど」
 従者たちの会話の内容は、セツカにはほとんど理解することは出来なかった。だが構わず彼女らに近寄り、ねぇねぇ、と問いかける。
「ロッカとナツ兄知らない?」
「セツカ様。ロッカ様なら先ほど、お体が優れないと仰られておりましたので、我々が奥様のもとにお連れ致しました。シュミート先生は、朝から街のほうへお出かけになられております」
「……そっか……わかった、ありがとう」
 収穫はなく、礼を言って従者たちから離れ、セツカはひとり屋敷の庭へと向かう。
 雪深い土地でも逞しく生えている樹木が等間隔に並んでおり、花壇には今は《ニヴァリス》の花が咲いている。小さくはあるが温室も備えており、時には庭師に出くわすこともあるのだが、今は彼女以外誰もいないようだ。花をゆっくり眺めるために置かれている屋根付きのベンチに腰掛け、庭を眺めよう、と足をそちらに向けた。
 ――ドオォン、と地響きのような音が空に響いたのは、その時だった。
「!?」
 セツカはばっ、と音の出所であろう方角に顔を向けた。庭園の東側――いつも両親が『仕事』のために引きこもり、ロッカが『検査』のために連れていかれる場所。大人たちが『研究練』と呼んでいるそれから、黒い煙のようなものが上がっているのが見えた。
「な、なに?」
 見慣れた場所の、見慣れないモノ。それが『火事』ということを知らないながらも恐怖を覚えたセツカは、ふと家のメイドが「ロッカは奥様のもとへお連れした」と言っていたのを思い出す。母がいつもいるのは、研究練。
「お母さま、ロッカ……!」
 恐怖を無理矢理かなぐり捨て、研究棟のほうへと駆け出す。ここから向かうのであれば、庭園を駆け抜けたほうが近い――そう判断し、真っすぐ目的地へと向かう、はずだった。
 背の高い植物が多く植えられている花壇から、ガサガサと大きめな音が聞こえたのだ。庭に動物が迷い込んで来ることも少なくないが、それにしては音が大き過ぎる。今度は一体何だ、となおも続く音に、彼女の警戒が高まる。だが、現れた者の姿に、セツカは目を丸くした。
「え? あの子、お花屋さんの……何でうちに?」
 先日街へ出た時に、花屋の女性の視線の先にいた少年。だが、あの時外で羨ましいほどに快活に笑っていた顔や目元はひどくやつれ、当時の面影は僅かにしか残っていない。何より、その瞳から生気が感じられないのである。そんな彼が、何故自分の屋敷の敷地内にいるのか。不思議に思っていると、彼が何事か口にしているのに気が付いた。
「いたい……助けて……助けてぇ……」
「――え」
「おえ、うえ、うああああぁぁ!」
 次の瞬間、少年が嗚咽を繰り返し、黒々とした吐しゃ物を吐き出しながら悶え苦しみ始める姿を。同じ色の液体が、彼らの目から涙のように溢れ出すのを。びちゃびちゃびちゃ、と下品に響き渡る水音がそのおぞましさを助長させ、僅かながら積もっていた雪を、その中で咲いていた《ニヴァリス》の花を真っ黒に染め上げる。それは形容し難いほどに醜く、子どもが目にするにはあまりにも異質な姿だ。
 ひ、と口から無意識に漏れた小さな悲鳴は、だがその苦しんでいた少年の耳に届いてしまったようで、緩慢な動作でこちらに顔を向けられる。ばっちりと、虚ろになった瞳と視線がぶつかる。流石のセツカもしまった、と自身の失態に気が付いたが、時既に遅し。少年は見付けたと言わんばかりに黒くなった口元を曲げ、こちらへと足を向けるのが見えた。
 逃げなきゃ。警鐘が頭の中で鳴り響いているが、セツカの足はぴくりとも動こうとしない。下卑た笑みを浮かべた少年は、徐々にこちらとの距離を詰めてくる。嘔吐したもので汚れた両腕が、不躾に伸ばされ――。
「さわるな」
 瞬間、横から割り込んで来た第三者によりセツカの視界は阻まれる。その向こうからぐえ、と潰された蛙のような声がし、すぐに唸り声となった。第三者の声は冷たく、機械的な声に聞こえたが、セツカは無意識にその名を呼んでいた。
「ロッカ……?」
 少年と同じく簡素な衣服をまとってはいるが、間違いなく、自らの片割れである。だが顔色が悪く、いつも見せている朗らかな笑顔などどこにも見当たらない。目元にかかる前髪の影が、それをより助長させていた。
 そして、何より――。
「ロッカ……その腕、どうしたの……?」
 闇。何らかの模様が浮かび上がった腕を、黒が飲み込もうとしている。まるで何かに浸食されているような、そんな変異の仕方であった。
 ロッカは一度自身の左腕を見下ろし、そのままこちらに目を向けると、それまでの覇気のない表情を消してへら、と笑みを浮かべる。
「だいじょうぶ、いたくはないから」
 セツカは直感した。これは、何かを包み隠した笑顔だと。頭の回転が自分より優れている片割れが、特定のものを注視するときは熟考しているのだということも知っている。大丈夫な訳が、と口を開きかけた。
「いやだ、いたい、いたいよ……」
「たすけて……」
 だが、そこに襲いかかってきた少年以外の子どもが現れる。いずれもうわ言のように苦痛を訴え、力ない足取りで周囲を彷徨っていた。
「こっち」
「え? ど、どこ行くの!?」
 ロッカはセツカの右手を掴み、どこかへと走り始める。それに合わせて、自身も足を動かし始めた。どこへ向かうと言うのか。自分たちの家であるここ以外に、行くところなどあるのだろうか。必死の問いかけに、彼は足を止めることなく言葉を返してくる。
「あぶなくないところ」
「それはそうだけど、ここはわたしたちの家だよ? ここ以外にそんなところ、どこにあるの?」
「……どこだろうな?」
「ええ?」
「とにかく、ここにいないほうがいい。のみこまれてしまう・・・・・・・・・前に、外に出るんだ」
「ロッカ、やっぱり――」
 やはり何かがおかしい、と相手にかけようとした言葉は、「あ」という声と、その当人が走り出したことで遮られた。見ると、ちょうど自分たちが向かおうとしていた方向から、誰かが向かってくるのが見える。綺麗な緋色の髪と黒縁眼鏡が見えたところで誰なのかすぐに察し、その相手の名を呼んだ。
「ナツ兄! ナツ兄ー!!」
「セツカ? 良かった、無事だったんだね」
 向こうもこちらに気が付き、場にそぐわぬ落ち着き払った口調で応じる。その直後、分厚いジャケットの上からボスンと音を立てつつ、誰かが彼の腰に抱き着くようにしがみついた。おっと、と声を上げつつ勢いを殺すように脚に力を入れて踏ん張ったナツヤは、それが誰なのかと理解すると、目を丸くして見降ろす。
「ロッカ?」
「ええ? ロッカ、どうしちゃったの?」
 自分でも見た記憶がない片割れの行動に、さしものセツカも戸惑いを隠せない。ロッカが普段、自分以外の人と接触、あるいは自分からこうして触れに行こうとすることはほとんど見たことがない。比較的関わりが多いナツヤ相手でも、少し距離を置いていると思っていたくらいなのだ。
 しばらくぽかんとしたまましがみつかれていたナツヤの表情が、え、と強張った。直後、恐らくはロッカの肩を掴もうとし、それは失敗に終わる。彼はその手をひょいと避け、まるでコマが抜け落ちたように一瞬で少し離れたところに立っていた。普段の彼からは、想像もつかないような身体能力である。そして目を細めて、少し困ったような笑みを浮かべて言うのだ。
「たのんだよ、《ドウホウ・・・・》」
「ロッカ!? ロッカってば、まっ――」
 そう言い残し、ロッカはそのまま背を向けていずこかへと走り去った。呼びかける自分の声も無視して。すぐに追いかけようと踏み出すが、それはぐい、と後ろから肩を掴まれて叶わない。
「ナツ兄! 何で止めるの、ロッカが行っちゃうよ!」
「……全く、厄介なことになったねぇ」
 セツカを止めたのは、当然ながらナツヤだった。彼は唸るように呟くと、一度眼鏡を整える動作を見せてから、セツカ、と口を開く。その表情は、今まで見たこともないくらいに真剣な表情だった。
「ロッカのことは、諦めるんだ」
「――な、なんでそんなこと言うの!? いくらナツ兄でも、っ」
 許さないと続くはずだった言葉は、外に出ていくことなく飲み込まれる。まるで暖炉で煌々と燃え上っている暖かい炎のような、それでいてどこまでも冷たく、恐ろしいほどにキレイな色の双眸。その奥には底知れない何かが在るような気さえし、獲物だと狙われているのではないかと感じる。この抱いた感覚は、果たして何なのか。
 ナツヤのその双眸が瞬きによって隠れ、その威圧が瞬間的に霧散する。そして周囲を見渡し、少年たちが周囲にいないことを確認したナツヤは、重い息とともに仕方ないか、と吐き出した。
「君の母親は、人為的……人間の力で、同じ人間を精霊に変える技術を研究しているんだ。ロッカは、その実験台にされている」
「……なに、それ?」
 子どもにも分かりやすいように直された言葉の羅列は、ストレートにセツカの理解を促す。それがどういうことなのか、嫌でも分かってしまう。
「セイレイさんは、カミサマの使いなんでしょ!? そんなことしたら、」
「少なくとも、君たちが神様と呼ぶ者の怒りを買うことは確定だろうね」
「何で、そんなことにロッカが!?」
「実験に必要な人体として向いていたのかもしれない。しかも、奥様はロッカを跡継ぎだと思っていない――君と彼を、同じ意思のある人間だと思っていないんだ。恐らく、成功するまでに様々なことをされただろう。君には到底想像もつかないと思うけれどね」
 ナツヤにしては妙にぼかした言葉から、嫌な予感を察知する。いくらセツカでも、素直にどんなこと?と聞くのは躊躇われ、開きかけた口を噤んだ。痛い、苦しいであろうことだけは確かだろう。そこまで考えたところで、はっと先程の子どもの様子を思い出す。
「じ、じゃあ、あの子たちは? あの子たちは、なんでああなっちゃってるの?」
「恐らく、実験が失敗して『精霊の残滓』……精霊自身に拒まれた結果だろうね。そのせいで身体に異常が起こり、異物を吐き出している。あれでは恐らく、元に戻ることすら難しいかな」
「……お父さまとお母さまの研究が誰かを苦しめているなんて、わたしは知らない……」
「そうだろう。何故なら僕の本当の仕事は、君をあの研究室に近付けないこと……ひいては、奥様の研究に近付けさせないことだったからね。君が知らなくて当たり前なんだよ」
 さもありなん、と平然と語るナツヤの言葉に、セツカは茫然と足元に視線を落とした。
 あの冬の街は、母と父の研究や開発によって栄えてきたと教えられ、実際に屋敷の従事者たちも口を揃えて功績を讃えるばかり。セツカはその言葉通り、両親がたくさんの人々を喜ばせる、素晴らしい者なのだと信じて疑わなかった。だが――それは全て偽りなのだと、知ってしまった。まさか両親がその真逆のことをしているとは、そして自分以外の人たちや《セイレイ》が苦しんでいるとは、全く思わなかったのだ。
 ロッカは、何故言ってくれなかったのか。何も知らずに接してくる自分を、どう思っていたのだろうか。
「…………お父さまとお母さまは、わるい人、なの?」
 やっとの思いで口に出した問い、否、それは確認だ。何と答えて欲しかったのかは、問うた本人であっても分からない。ただ求めていた答えは、少なくとも実際に返ってきたそれではないことは間違いなかった。
「うーん、僕は善悪については興味がないから、その問いにははっきりと答えてあげられないな」
「え?」
「それは、受け取り手によって変わってくるものだからね。例えば君にとって奥様の行為が『悪』だったとしても、その技術を研究している間に君たちの教師として雇われている僕からしたら、とてもありがたい存在だ。彼女らが『悪』だと冬の街の者に怒られ中断でもしたら、わざわざ教育に教師を雇う必要なくなるだろう? そうなると、僕は生活に困ってしまう。だから、そうならないようシルバーフィールド家彼女らの秘密は守る。他にも、研究から方法を得て、元気な身体を得た者もいるかもしれない。その者からしたら当然、彼女らは『善』ととれるはず。もしかしたら、《カミサマ》よりも素晴らしい存在だと崇拝すら覚えるかもしれないね。ほら、一概に悪者だとは言えないだろう?」
「……そう、ね?」
 人差し指を立て、授業の時のように淡々と紡がれる語り口に、思わず同意する。もしここに他の大人がいたなら、彼女の素直さを心配してしまうところだろう。ナツヤは目をぐるぐるとさせつつも真剣に納得しようとするセツカを見て、あはは、と声を上げた。
「ただまぁ、彼女らの研究が脅威であることは確かだね」
「きょうい……?」
たちにとって良くはない、ということだね」
 あれ、と違和感を感じた。何かがいつもと違ったような気が、とセツカがその違和感を突き止めようとするが、ナツヤは構わず「さて」と話を続ける。
「セツカ。ここまで聞いて、君は何を思う?」
「何を? って、どういうこと?」
「素直な思いを聞かせて欲しい。ロッカに対して、君の母に対して」
 何故そんなことを聞くのだろう、という疑問を浮かべるには、セツカはまだ幼かった。ええと、と尋ねられたことに答えるべく、首を軽く捻る。素直、素直。自分が今思っていること、それはひとつしかないが……いや、ナツヤになら言っても良いだろうと判断し、意を決して口を開く。
「あいつ、ずっと『へいきだ』『だいじょうぶだ』って笑ってたでしょ? 知ってるの。あの顔のロッカは、ひとりにしちゃいけないの」
 ロッカの考えていることが分からなくなることがある程には、彼という人間は隠しごとが上手い。体調が悪くてもすぐには言わず、自分に付き合っていたりしたこともある。だが、ひとつだけはっきり分かることがある。それは、『ロッカが嘘を吐いていること』。他の大人に普段と変わらない笑顔に見えても、セツカにはそれが何か嘘を吐いていると分かるのだ。
「たとえロッカが人じゃなくなったとしても。ナツ兄が諦めろと言っても……わたしは、あいつをひとりになんてさせたくない。だって、ロッカはわたしの――」
 セツカは、向けられた視線に負けるまいと奮い立たせ、はっきりと答える。何故だか分からないが、この問いと答えは大事なものだと感じたからだ。それならば、自分の素直な主張は隠しておきたくない。
 果たして――答えを聞いたナツヤは、口元に満足そうな笑みを浮かべたのだった。

filed under: